亜細亜の街角
■ブッダ縁の古都は停電と断水であった
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ヴァイシャリ(バイシャリ)  (地域地図を開く)

ヴァイシャリはパトナからガンガーを渡り,北に55kmのところにある。ブッダの時代,ここはリッチャヴィ国の首都であり,ブッダも何度かこの土地を訪れて説法をしている。左の地図ではメーカーから102号線を北東に向かい,川を渡って色のついていない道と交差するあたりにヴァイシャリの村がある。地図をもう一段階拡大するとヴァイシャリが出てくる。

80歳になったブッダは最後の遊行のためアーナンダおよび少数の者と一緒にラージャグリハの竹林精舎を出る。目的地はすでに廃墟となっている故郷の「カピラヴァストゥ」とされており,行程はラージャグリハ→パータリ(現パトナ)→ヴェサリー(現ヴァイシャリ)→クシナガールとされている。当然,行く先々でブッダは説法をしている。

パータリでガンジス川を渡るとそこはヴァッジ国となる。ヴァイシャリーはヴァッジ(リッチャヴィ)国の首都でありブッダも何回か訪れたところである。現在はビハール州の州都パトナから北に55kmのところにある小さな村である。

ここで一行は高級遊女の「アンパバリー」が所有するマンゴー林に入る。「アンパバリー」はブッダが自分の園林におられると聞き,乗り物を連ねてブッダのところにやって来る。

乗り物から降りた彼女はブッダに礼拝して座に着く。ブッダの説法に喜んだ彼女は「尊いお方,明日の朝,私の邸で僧たちとご一緒に食事をなさって下さい」と口にする。ブッダは沈黙により同意を示す。

彼女が去った後にこの国の貴公子たちが乗り物を連ねて園林を訪ね,途中で「アンパバリー」に出会う。彼女から朝食の招待の話を聞いた貴公子たちはブッダに同じ提案をする。しかし,ブッダは先に約束した「アンパバリー」の招待を優先させる。

「アンパバリー」は夜を徹して朝食を準備し,翌朝,ブッダの一行は彼女のこころ尽くしの朝食をいただくことになる。この逸話は貴賤を問わず約束の順序を守るブッダの姿勢を表している。

仏滅後に8つに分けられた仏舎利の一つはブッダ縁のこの地に祀られ仏塔に納められた。この仏塔の跡地は「レリック・ストゥーパ」として紹介されているが,「relic」は遺物,骨董品を意味する一般的な言葉である。日本語ではストゥーパはもともと「仏舎利塔」なので,「relic」を含む概念である。

そこから4kmほど北では仏滅後,第二回の結集が行われており,それを記念してアショーカ王の石柱が立てられている。石柱の最上部には一頭の獅子像が置かれており,この獅子はとなりの大きなストゥーパを見る構図となっている。

現在のヴァイシャリはビハール州の小さな村に過ぎない。周辺にはブッダ縁の遺跡や日本山妙法寺の平和のストゥーパがある。


パトナ→ヴァイシャリ 移動

パトナ(09:15)→ハジプール(10:00)(10:30)→分岐点(11:30)→ヴァイシャリ(12:00)と75kmを3台のバス(35Rp)を乗り継いで移動する。パトナ駅の南口に出てミタプールBSを目指していると,リキシャーが寄ってきて25とか15と言う。

どうしようかと思っていたら近くにハジプール行きのミニバス(15Rp)がいたのでそれに乗る。しかし,駅周辺は大変な混雑で,そこを抜けるのに15分もかかった。バスはガンガーの橋を渡る。乾期の今は川幅300m程度になっている。しかし,橋は対岸方向に10kmほど伸びていた。雨期のガンガーはそのくらいの広い土地を冠水させるようだ。

ハジプールでバスを降りると客引きがうるさい。ヴァイシャリに行きたいと言うと近くのバスを紹介してくれた。このバス(10Rp)はヴァイシャリの近くを通るもので,田舎の分岐点で乗り換えになった。

近くの屋台でチャーイを飲み終えた頃,次のバスがやってきた。ヴァイシャリに行くことを確認して乗り込もうとすると入口付近はひどい混雑で,荷物を下ろすスペースもない。さらに子ども2人を連れた母親,老女が乗ってきた。

Tourist Rest House

ひどい目にあいながらようやくヴァイシャリに到着した。目の前に「Tourist Rest House」があり,左手の管理棟でチェックインする。部屋(75Rp)はL字型の建物の角部屋で6畳,1ベッド,蚊帳,机,T/S付き,清潔である。水と電気があればかなり居心地のよいところだ。

政府系のレストハウスだけあって設備はとても良いがメンテナンスはインド的に悪い。宿のスタッフが「機械の故障でもう3日もこの村には電気が来ていない」と教えてくれた。

電気が無いと給水タンクに水が上げられないので水道もダメだ。裏の手押しポンプで水を汲み,水浴びと洗濯をする。洗濯物は芝生の上に広げて乾かす。

この村には夕方以降に食事のできるところはなさそうだ。幸いレストハウスの管理人に頼むと食事は出してくれる。夕食はロティとベジタブル・カリーで25Rpと適正値段であった。政府系の宿だけあった食器は立派なものであった。

このレストハウスにはほとんど宿泊客がおらず夜になるとちょっと寂しい。おまけに明かりはローソクである。部屋の隅は薄暗いのでついつい気味の悪いことを思い出してしまう。

幹線道路をアショーカ王石柱の方に歩き出す

電気と水が無いので,これでは1泊しか出来そうもない。夕食の手配をお願いして,さっそくアショカ王の石柱を見に行く。石柱は村の幹線道路を北に3kmほど行ったところにある。

道路の両側は畑か水田になっている。どちらも乾燥しており,弱々しい緑があるだけだ。ところどころにサトウヤシの木が立っている。周辺の農家は土もしくはレンガ壁,瓦屋根が多い。暑気の厳しい午後,人々は日陰で午睡を楽しんでいる。働いている人たちは,日陰が作業場になっている。

水牛に青草を食べさせる

インドこぶ牛は小屋で寝そべっている

近くの子どもたちが集まってくる

乾季の畑は砂地のようになっている

畑で目立つのはオオギヤシだけである

アショカ王の石柱

乾いた畑の向こうにフェンスで囲まれた石柱が見える。畑を横切ってそちらに向かう。土は乾いてひび割れている。湿度の多い日本では考えられない乾燥状態である。

石柱の周りはフェンスで囲われ,公園になっている。インドお得意の遺跡の公園化である。入口にチケットカウンターがあり,インド人5Rp,外国人100Rpとなっている。円に換算するとたかだか270円であるが,料金格差は本当に不愉快だ。中に入らずフェンスの外からの写真でがまんする。

紀元前317年ごろ,インドで初めての統一王朝マウリヤ朝が成立した。マウリヤ王朝の最大版図は現在のアフガニスタンからインド亜大陸の大半に及んでいた。マウリヤ王朝の3代目の王がアショカ王である。

彼が現在のオリッサ州にあったカリンガ国を征服したとき,数十万人もの人々が虐殺されるという悲劇が起こった。アショカ王は深くこころを痛め,仏教に帰依し,法(ダルマ)による統治を心がけたとされる。

彼はアショカ・ピラーズといわれる石柱を支配地域の各所に建て,そこにブッダの教え「法(ダルマ)」を刻んで,仏法による統治を知らしめようとした。

石柱はおよそ高さ10mあり,柱頭には見事なライオンの像が刻まれている。この像はインド美術史上の傑作であり,インドの国章となっており,一世代前のインド紙幣にも描かれていた。また,ブッダの生誕地であるルンピニからも石柱が発見され,ルンピニの場所を特定する決め手になった。

ライチの果樹園で撮影料を要求される

道路とアショーカ王の石柱の間は畑と果樹園になっている。ちょうどライチーが色づいている。なるほどライチーはこのように実がなるもなのか,市場で枝ごと売られているわけが分かった。

などと考えながら写真を撮っていると男性と子どもが現れる。彼らは写真の撮影料を払えと言っているようだ。それはないでしょう,果樹園は通らず別の道で帰ることにする。

日影で麦の茎をたたく

小さな坊やは母親に背中を押されて写真に加わった

一番目の寺子屋

はいはい,お安いご用です

この巨大なカゴは何のためであろうか

オオギヤシのクローズアップ

小さな寺子屋

アショカ王の石柱からの帰り道に,普通の民家の庭先で子どもたちが地面に坐って勉強をしていた。先生を含めて英語が通じなかったので,ここがどのような施設なのかは確認できなかった。この道路の西側をしばらく行くと小学校があるので,ここは補修を受け持つ寺子屋のようなものなのかもしれない。

水さえあれば乾季にも野菜は作れる

暑い昼下がりに重い荷物を乗せて運ぶ

水牛に畔の草を食べさせる

家畜の食事風景

ビハール州の農村風景

宿から東側に向かう道があり,両側に集落がある。ビハール州はインドでもっとも貧しい地域である。住民の6割は1日1米ドル以下での貧しい生活を送っている。貧しい生活をさらに悲惨なものにしているのは「カースト制」である。ビハール州ではことのほかカースト制が厳格に守られている。最下層のハりジャン(アウトカースト層)の人々は,いわれなき差別を受け続けている。

ビハール州は気候も過酷だ。雨期にはひどい洪水が多く,すべてが洗い流されてしまうこともある。乾期は猛暑に襲われ大勢の人々が死ぬという。確かに村の生産性は低そうだ。乾期の今は家畜に青草を与えるのも大変である。乾燥させた麦の茎を水に浸して飼料にしている。家畜のフンは燃料となるので農家の庭先に積んである。

ほとんどの農家の庭先には竹で編んだ直径2m,高さ2.5mほどの大きなカゴが置かれている。その上にはヨシで作った円錐形の屋根が乗せられている。これは乾燥させた麦の茎など入れておくためのものらしい。ビハール式のサイロである。冬期ならぬ乾期の飼料を準備するために必要なものだ。

ある家ではカゴの上に乗せる屋根を作っていた。竹で骨組みを作り,よしを被せ,ロープで固定して出来上がりだ。これを大カゴの上に乗せるときは,大人6人がかりで持ち上げる。

村で写真を撮ると子どもたちがすぐに集まってくる。じゃまだからついてこないでくれと頼んでもダメだ。彼らは写真のフレームの中に入り込み,積極的に邪魔をしてくれる。家の裏手で牛が鋤を引いている。乾期の大地は水分を失い,鋤で掘り返された土はカラカラに乾いている。

17時を回りそろそろ写真が難しくなってきた

イチジクの仲間であろう

夕食用のコメを搗く

家畜飼料の裁断機

孔子と少女

普段の飼料は乾いた麦の茎である

青い服の少女

18時が過ぎてようやく最後の一枚になる

平和のストゥーパ

翌日は午前中に宿の西側の地域を回る。前の道路を左に少し行くと左側に仏教式のゲートがある。その道を真っ直ぐ行くと大きな池(小さな湖)がある。左には白いストゥーパ,右には博物館,レリック・ストゥーパがある。

白いストゥーパは「World Peace Stupa」となっている。日本山妙法寺はブッダゆかりの地に多くのストゥーパを建てている。ストゥーパは立地場所により形状が異なっている。ここのものはアショーカ王のライオン石柱にちなんで,上り口にライオン像が飾られている。僕が訪れたとき事務所は閉まっており,ストゥーパには近づけない。

小学校を訪問する

白いストゥーパから池を1/3周したところに小学校がある。時刻は07:30,まだ授業は始まっていなかった。女の子は縄跳びに興じている。動きの止まったところで写真を撮る。

早朝で曇り空のためシャッタースピードが遅い。集合写真は誰かが動いてうまくいかない。男の子がこちらに気が付いたらそれでお終いだ。集合写真は記念にはなるもののいい写真にはならない。授業が始まる,一部の生徒は外のたたきに坐って授業を受けている。

街路樹を根こそぎ掘り出す

レリック・ストゥーパ

入滅後,ブッダの遺体は荼毘にふされた。多くの国や有力者が彼の遺骨をめぐって争った。遺骨の一部を手に入れた者はそれを納める建造物を造った。半円形のドームに方形の飾り屋根を乗せたものである。これがストゥーパ(和名は仏舎利塔)の始まりである。

レリック・ストゥーパは盛り土のストゥーパで,実際にブッダの遺骨を納めた容器が発見された。現在は周囲をフェンスで囲い手入れの行き届いた公園になっている。管理人はただで入れてくれたが,帰るときバクシーシの要求があった。

雑草を根ごと集める子どもたち

帰り道に池の横を通った。そこでは子どもたちが池の土手に生えている雑草を根っこごととっている。緑の少ないこの季節には雑草といえども家畜の大切な飼料になるのだ。しかも,土地を持たない農民の子どもたちは,このような場所で草を集めなければならないようだ。

鋤をかついでいるのでこれから荒起こしであろう

みごとなオオギヤシが並んでいる

道路の補修には見えない

ねえ,あたしたちも撮って

ヴァイシャリ周辺の道路案内

荒起こしの風景

前足をしばっているのでこれから乳搾りかな


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