チッタゴン丘陵地帯は歴史的に東アジア系の13の少数民族の土地であった。彼らは焼畑をすることから「ジュマ」と呼ばれている。英国統治時代,少数民族の土地権はある程度守られてきたが,独立以後はその権利が大幅に制限され,多くのベンガル人がここに移り住んできた。
自分たちの土地を守るため,少数民族は武装闘争を開始し,長い間内戦状態が続いた。現在,表向きは停戦が実現している。しかし,バングラデシュ政府による入植政策と軍による管理で,ジュマの人々の土地権は制限されている。
軍隊の後押しを受けたベンガル人入植者が,少数民族の村を襲い,虐殺,レイプ,放火を繰り返している。そして,事件が起きるたびにこの地域への外国人の立ち入りは制限される。
1974年に8対2であったジュマの人々とベンガル人の比率は,2005年には5対5にまでなっている。このままでは,独自の文化をもったジュマの人々は消滅させられてしまうだろう。
現在でもチッタゴン丘陵に入るためには原則としてパーミッションが必要である。その中でもバンドルボンは例外的にパーミッション無しで訪れることができる。それでもバンドルボン周辺には至る所に軍の駐屯地や監視所があり,外国人の行動は厳しく制限されている。
ジュマの人々の人権を守るために活動している日本のNGO「Jumma Net」では現地通信員から送られてくるニュースを発信している。それによると,2008年4月20日に新たな襲撃事件が発生している。ベンガル人入植者数百名が,7つの村を襲撃した。地元政府職員とともに訪問した4人のジャーナリストの報告によると,少なくとも500戸の住居が焼き払われたという。
アジア人権センターでは「バングラデシュ陸軍が組織的に先住民族ジュマをその土地から強制退去させ,平野部から来た入植者を意図的に,そして違法な形でその土地に再定住させている」と指摘している。
小さな都市国家を除くと世界一の人口密度をもつバングラデシュでは,土地問題が底流にある民族の共存は非常に難しい状況である。
多数民族であるベンガル人からすると,「ジュマの人々は広い土地でのうのうと暮らしている。その半分くらいは土地のないベンガル人に分け与えるべきではないか」という感情論が生まれてくる。
区分
| 面積
| 人口
| 人口密度
|
バングラデシュ |
14.4万km2 |
1.4億人 |
982人/km2 |
チッタゴン丘陵 |
1.3万km2 |
60万人 |
46人/km2 |
コックスバザール(100km)→バンドルボン 移動
ココックスバザール(09:15)→カルニハット(11:15)(11:25)→軍の監視所(11:50)(12:00)→バンドルボン(12:10)とバスで移動した。昨日の夕方から下痢が始まった。朝までに4回トイレに行く。腹痛や発熱は無いので一過性の下痢のようだ。日本から持参してきた薬を飲んでも効き目は無い。
ふと,ミャンマーのタマーニャ山でもらった丸薬のことを思い出した。袋の中には黒い丸薬が入っており,それを朝方に2粒飲むと下痢は止まってしまった。朝食をとりしばらく様子をみても異常は無い。これで今日は移動することができる。タマーニャ大僧正に手を合わせたい気持ちである。
宿の前にチケット売り場があり,チッタゴン方面のバスが停まってくれる。ここからバス(75タカ)に乗りカルニハットで乗り換えである。バンドルボン方面は便数が多く,次のバス(15タカ)はすぐに見つかった。バスは急カーブとアップダウンの多い山道を走る。
バンドルボンの少し手前で軍の監視所があり,外国人はパスポートチェックを受けなければならない。チッタゴン丘陵に入るパーミッションを持っているかと聞かれた。「持っていない,バンドルボンはパーミッション無しで訪問できるはずだ」と答えると,一時待機の指示があった。僕の荷物はバスから下ろされ,バスは行ってしまった。
担当者は無線でしばらく連絡を取り合い,最終的にもう一枚書類を記帳することでようやく次のバスに乗ることができた。このような軍の監視所は決して弱い立場のジュマの人々を守るためにあるのではなく,彼らを監視し抵抗運動を押さえるためにある。
Hotel Green Hill
バンドルボンの町には僕の泊まった「Hotel Green Hill」を含めホテルは2軒しかない。部屋(100タカ)は6畳,1ベッド,机,T/S付きで清潔である。ただし,大きなゴキブリと何回か遭遇した。ゴキブリには何の罪も無いが,やはり見つけると踏み潰してしまう。宿の1階は新聞社になっており,ときどき夜なべ仕事がうるさいことがある。
町にはジュマ人がやっている食堂とベンガル人がやっている食堂がある。ジュマの食堂には,2003年8月の虐殺・レイプ・誘拐事件の写真が貼られていた。焼かれた遺体が痛々しい。このような事件は過去十数回発生しているという。当然,ベンガル人の食堂にはそのような掲示はない。
バンドルボンの町
チッタゴン丘陵は豊かな土地である。市場には生鮮食品があふれている。野菜も豊富だし質も高い。立派なトマトは500gで3タカ(5円)という安さだ。またスイカは2切れで4タカである。それに対してオレンジは500gで40タカもする。
市場の裏手はションコ川になっており,人の頭にかつがれて,あるいはカゴに入れられて,毎日たくさんの生鮮食品が陸揚げされる。市場から南の通りには商店街になっており,少数民族とベンガル人が混在している。
ションコ川の風景
町の半分を囲むようにションコ川が蛇行して流れている。ランガマティに行く橋の向こうは外国人通行禁止であった。橋の向こうに軍の駐屯地があり,その手前で止められ,戻るように指示を受けた。なんとも制約の多い地域である。これがチッタゴン丘陵の現実である。
乾期のションコ川はさすがに水量が少ない。雑排水のせいで藻が多いけれど,水質はそれほどひどくない。周辺の人々はここで洗濯をしたり体を洗う。暑い日中,ここは子どもたちのかっこうの遊び場になる。カメラを向けると水中で大はしゃぎである。水しぶきがかかりそうなのであまり近寄らないでね。
仏教徒の多い地区
街の一画に仏教徒の多い地区がある。ここを歩くと人々の顔つきがなんとなく懐かしいものになる。青年が細身の竹を2つに割り,内側に切れ目を入れ,さらに節をとり除いている。こうすると竹は板のように平に開くことができる。この竹の板を編むことにより家の床や壁の材料にすることができる。
小さな丘の上には高さ10mほどの金色のパゴダがある。イスラム教徒のいやがらせがあるのか,パゴダの周囲には柵が設けられている。自分たちの土地でありながら,マイノリティになるということはどういう気持ちであろうか。インド,中国,インドネシア...アジアの人口大国では少数民族のアイデンティティの喪失が大きな社会問題になっている。
多数民族との同化と文化の喪失,日本ではアイヌや沖縄の人々以外は経験したことが無いので,このような感情は非常に分かりづらいであろう。しかし,実際にある程度の知識を持ってその土地を回ってみると彼らの気持ちがよく分かることがある。チッタゴン丘陵はそんなところだ。
金色のパゴダがある丘の下には非ベンガル人の人々の集落がある。丘から下りると水の壺を抱えた3人の中学生くらいの女の子に出合った。顔立ちは東アジア系のそれである。
彼女たちと一緒に歩いていくと丘から見えた集落に入っていく。この集落も竹の家である。太い竹で高床の部分を支え,壁と床は竹の板を縦横で編んだものを使用している。
仏教寺院を訪問する
広い敷地の仏教寺院がある。周囲は高い塀に囲まれており中は覗けない。門はカギがかかっていないので中に入る。中庭には僧服を着た子どもたちが数十人おり,なんとクリケットに興じている。
写真を撮ろうとすると逃げるので,いいものが撮れない。寺院の内部に入ってみると仏像が一体だけ置かれている。この仏像と丘の上の寺院が地域の人々のこころの支えなのだ。
学校帰りの小学生
寺院から少し歩くとベンガル人の多い地区になる。といっても民族的に分離しているわけではない。例えば4人の子どもの集合写真をとると1人は非ベンガル人というように,少なくとも子どもの世界は混在型である。
夕食の時間帯に停電となりランプの灯りで商売する
バンドルボンに限らずバングラデシュでは停電が多く,懐中電灯は必需品である。トイレに入っているときなどに停電になると,ちょっとまずいことになる。
停電慣れしている人々はあわてず騒がずのんびりしている。街の一角に露店が集まっており,停電になると石油ランプが活躍する。暗い街の中にともる明かりは幻想的な光景を演出する。残念ながらその光景はフラッシュ無しでは写真にならない。
メグラまで歩くつもりがまず寄り道となる
昨夜は下の階の新聞社が徹夜で仕事をしていたらしい。未明まで人の声がうるさかった。朝になると隣の木に群がる小鳥の声がやかましい。7時に下に下りるとホテルのフロントも入口もしっかりロックされている。フロントの格子戸を遠慮がちにたたいても起きる気配はない。あきらめてイスに坐っていると宿の主人が下りてきて入口の格子戸を開けてくれた。
今日は町から3kmほど離れたメグラという観光地まで歩いてみるつもりだ。町外れにバススタンドがあり,そこから先は十分にスキーのできそうな傾斜の坂道になっている。
斜面のところどころに民家が見える。小高い丘には緑がほとんど見えず,茶色の盛り上がりになっている。そこには細い木は生えているもののほとんど葉を落としている。
道路のずっと下の沢から水を運んでいる女性たちがいる。日に1度の仕事ではない。大変な重労働だ。一緒に子どもたちがいたので写真を撮り,彼女が運んできた大事な水でヨーヨーを作ってあげる。
どこから見ていたのか近所の子どもたちが集まってくる。人数が多いので彼らにはフーセンでガマンしてもらうしかない。小さな集落が見えたのでメグラ行きはちょっと置いておいて,斜面の道を左に曲がる。
山の上の学校
山の小学校に行く子どもたちが歩いている。集落の家は茅葺そして竹を編んだ壁が主流である。なんとなく東南アジアの少数民族のふんいきが漂っている。開いたままの戸口からは子どもたちがのぞいている。戸口のところまで出てきてもらって写真を撮る。
山の道を子どもたちが通る。スカーフを被っているのでベンガル人の子どもである。少し行くと立派な学校がある。山の小学校では教室に先生がいなかったので,騒ぎにならないように「シーツ」と声を制しながら,何枚か教室の中で写真を撮る。
ここでは少数民族とベンガル人の子どもたちが一緒に勉強をしている。大人の社会でもこうありたいものだ。隣人と仲良くすることは,いがみ合うことよりもずっと自然で簡単だと思うのだが。
ジャックフルーツを1個買う人はいないと思うが・・・
やっとメグラに到着する
やっとたどりついたメグラは池とつり橋があるだけの施設であった。周囲は山に囲まれており,この国では珍しい風景なのかもしれない。貸し切りバスで観光客がやってくる。しかし,乾期のため緑も少なく15分もいれば十分なところだ。
禁断の橋
午後は禁断の橋(ランガマティに行く橋であるが外国人は立ち入り禁止のようだ)からションコ川を眺めてみる。川の中には竹の筏が組まれている。竹を一列に並べ,次の列は半分くらいを重ねている。岸辺にはこれから筏に組み込む竹が積まれている。
さて,この竹筏はどこに運ばれていくのであろうか。筏の後ろには10隻ほどの家船が係留されている。こんなところにも水上の民がいるようだ。川の左側には木の枝などを水に入れ竹を刺して固定した人口の漁礁のようなしかけが並んでいる。
ユニセフがこの地域で活動している
市場から南に向かって通りを歩いてみる。ユニセフの車が停まっており,その横にはダウリ(花嫁の父親が支払う持参金制度)が社会や新しいカップルにどのような弊害を持つかを図解している。
高額なダウリ(花嫁の持参金)に反対する啓蒙ポスター
その隣のポスターにはそのような習慣は止めようと主張する若い男女が描かれている。インド圏では普遍的に行われているダウリの習慣ではあるが,イスラムの国でも問題となっているのは初めて知った。
幼児を抱いた母親の写真のような絵が目に付いた
絵画屋がありちょっと覗いてみる。幼児を抱いた母親の写真のような絵が目に付いた。全体がモノクロの絵でありながら,額のティカだけは赤く,絵にアクセントを与えている。自分の体ほどもある大きな袋を頭に乗せて運ぶ少年がいる。
川沿いにはずらりと家が並んでいる
このあたりで商店は途切れたので,横の道に入ってみる。川沿いにはずらりと家が並び,表には竹を編んだ板が塀のように立ててある。
午後のションコ川
斜面を下りて再びションコ川に出る。昼下がりの川は洗濯の時間帯であった。あちこちで女性や子どもたちが半分水浴びを楽しみながら洗濯をしている。
橋から遠い方のエリアでは長い巻きスカートを胸のところで留めた非ベンガル人の女性たちが足を水に浸しながら洗濯をしている。その先にはサリー姿のベンガル人の女性が洗い物や洗濯をしている。
特に川の縄張りがあるわけではなく,単に自分の家から近いところで水仕事をしているようだ。数十羽のあひるや合鴨が水辺をうろついており,水辺はにぎやかだ。
乾期の今は川から土手の斜面までは50mほどの裸地が広がっており,竹で作った物干し竿には色とりどりの衣類がかけてある。小さな子どもたちはその周囲を走り回っている。
川の中央で洗濯をする
橋の近くでは非ベンガル人の子どもたちが洗濯をしている。川の中に平たい石を置き,その上で洗濯石鹸を使っている。川の中央にも子どもたちの一団が固まっている。
こちらも平たい石を使い,水に浸かりながらお洗濯である。小さな子どもが洗濯物の運搬係で岸と行き来している。彼女の仲介でこの一団の写真を撮ることができた。
砕いたレンガを運ぶ
日傘の下で男たちがレンガを砕いている。砕いたレンガをふるいにかけて細かいかけらを取り除く。平底のカゴに入れ頭に乗せて運ぶ。それはバングラデシュではおなじみの光景である。
家造りの現場ではくい打ちが行われていた
家造りの現場ではくい打ちが行われていた。男たちがロープを引くとおもりが持ち上がる。手を離すと勢いよくおもりが杭を打つ。次に持ち上げるまでの間がシャッターチャンスである。