亜細亜の街角
タージ・マハルのアーグラー
Home 亜細亜の街角 | Agra / India / Feb 2000

アーグラー  (地域地図を開く)

デリーから南東に204km,ヤムナー川西岸の古都はタージ・マハルがある町として多くの観光客をひきつけている。1526年から100年にわたり,この町はムガール帝国の首都として,帝国の全盛期を見てきた。インド独立後は,工業が盛んになり,人口118万人の大都市となった。それに伴い,大気汚染,水質汚濁が深刻な社会問題になっている。

タージ・マハルの南門

タージ・マハルはインド観光のハイライトの一つだ。旧市街の西の外れ,ヤムナー川沿いに建てられた白亜の霊廟は,ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハンが,最愛の妻ムスターズ・マハルのために建てたものである。

タージ・マハル廟

赤砂岩の堂々とした南門をくぐると,そこには広大な正方形の四分庭園があり,その奥に1辺が約100m,高さが7mの方形の大基壇があり,四隅には高さ67mの細身のミナレットが配されている。基壇の中央には57mの方形の廟本体が置かれ,その上に少し縦長のドーム屋根をいただいている。本体の四隅には柱で支えられた傘のようなチャトリが配置されている。

高さ67mの建造物はすべて白大理石で造られ,その完全な対象性の美しさと,偉容,気品の高さにより,世界中の人々から絶賛されることになった。タージ・マハルにはそれまでの廟建築にない新しさがあった。デリーのフユマーン廟に代表されるように,従来の廟は四分庭園の中央に建てられていたが,タージ・マハルは四分庭園の向こう側に,何もない空間のなかに廟を置いた。

この配置が正門からの距離感を与え,中央の泉水と合わせタージ・マハルを際立たせている。シャー・ジャハン帝はこの廟の建設に世界各地から貴石を取り寄せ,職人を集め,22年の歳月と天文学的な費用をかけて1653年に完成した。

彼はムムターズの廟の完成後に,ヤムナー川の対岸にこれと同じ形の自身の廟を黒大理石で建設することを計画していたといわれる。しかしその頃には国庫は底をついていた。彼は息子のアウラングゼーブ帝により幽閉され,その棺はタージ・マハル廟の地下にある王妃の棺の隣にそっと置かれることになった。

皇帝が亡くなり帝国が崩壊した後も,美しい建築物は人々の心をとらえて離さない。しかし有害な大気が表面を飾る白大理石を蝕んでいる。僕は彼女にあまり近づかないことをお勧めする。

近くに寄れば否応無しに,酸性のガスで黄色に変色した肌を見ることになる。四分庭園の手前あたりから,あるいは敷地の外から,そのまれなる造形をこころに刻んでおきたい。

今はもう無くなってしまったが,2000年当時は,金曜日にタジ・マハールの入場料が無料になる制度があった。当然,この日は多くの旅行者も,そしてインド人の観光客もタージ・マハルを訪れる。

生徒の一団が先生の話すタージのいわれを聞いている。おめかしをして見学に来た子どもたちもいる。民族の宝も彼らにとっては,白くきれいなおうちと写っていることだろう。何時の間にか日が傾いてきた。基壇の端から見る西日を浴びたヤムナー河の流れが美しい。

観光客は多い

西日を浴びたヤムナー河

アーグラー城

アーグラー付近でヤムナー川は鋭角の弧を描いている。アルファベットの「U」の字の下あたりに大きな公園があり,その右にタージ・マハル,左側にアーグラー城がある。

アクバル大帝により1565年に築かれたこの巨大な城は,ムガール帝国の権力の象徴である。赤砂岩をふんだんに使用した城はデリーの「ラール・キラー」と同じ赤い城であった。

しかし,1707年第6代皇帝アウラングゼ−ブが死去すると帝国は急速に弱体化した。それまで帝国と戦ってきたインド中西部のマラ−タ王国は逆に侵攻を始め,2度にわたってアーグラ城を占拠,略奪した。

さらに,1857年セポイがイギリスに対して大反乱を起こしたとき,アーグラは戦場と化し,多くの建造物が失われた。帝国の栄枯盛衰を自ら体験した「赤い城」は,1983年ユネスコ世界遺産に登録された。

濠を渡り,アマール・シン門から見上げるばかりの城壁をくぐると,内部には宮殿やモスクが立ち並んでいる。この城も広い。あまりにも広すぎて印象が散漫になる。

インドオオミツバチの巣

宮殿のテラスから外を眺めていると周辺にやけに蜂が多いことに気付く。身を乗り出して覗いてみると大きな蜂の巣がある。たぶんインドオオミツバチのものであろう。日本のミツバチの2倍もあり,その分巣も大きい。その巣もハチが群がり,本体が見えないほどだ。

インド圏には野生のミツバチの巣を取り,蜂蜜を集めるハニー・ハンターという人々がいる。なるほど,ここならばハンターに狙われることもないだろう。

庶民の街

タジ・マハールの南側には庶民の街がある。細い路地の両側に小さな商店や民家が並んでいる。建物の軒先で営業する2ルピーのチャイ屋,大きな鍋でミルクを煮詰める少年,昔ながらの生活がそこにあった。子どもたちは迷路に入ってきた旅行者を笑顔で迎え,すてきな被写体になってくれる。

結婚式

夕食後,ゲストハウスの周辺を散歩する。小さな路地の向こうに天幕が見える。中に入ると結婚式のようだが花嫁はいない。新郎の回りでは人々がお祝いの言葉を述べている。

1階のフロアは混雑しているため,階段の踊り場から撮らせていただく。少年たちが回りに集まり邪魔をする。そのうち参列者は新郎とともに外に出た。着飾った若い女性たちが現れる。このシャッターチャンスは逃せない。

インドの結婚式にはよく白馬が登場する。花婿は親族と一緒に花嫁の実家に出向く。そのとき白馬に乗るのが一般的だ。今日の主役の実家はお金持ちのようだ。天幕の外には白馬,馬車,楽隊,電飾を担ぐ人々が待機している。しばらくして花婿側の参列者が出てくる。

楽隊が音楽を奏で,通りで踊りが始まる。ヨーロピアンの観光客が一緒に踊り,けっこう受けていた。電飾付きの行列に先導され,馬車と参列者は花嫁の家に向かう。

観光客も一緒に踊る

結婚式のざわめきは終わり,人々は三々五々に家路に向かう。天幕の前でその少女は人を待っているようだった。カメラを出して撮影の許可を求めると笑顔で撮らせてくれた。アーリア人の血を引くのか,ムガールの末裔なのか,ヨーロッパ系にも中央アジア系の顔立ちにも見える。あらためてインドは多民族国家であることを知らされる。

通学の風景

北インドの冬は昼間なら半袖で過ごせるが、朝夕は上着が欲しくなる。子どもたちが学校から戻ってくる。日本人には半袖でちょうどよい温度であるが,インドの子どもたちにとっては今は冬なセーターとスカートの色の組み合わせがよくできている。

手に持っているのはインド特産のお弁当箱だ。2段か3段重ねにして,ごはん,カレーを別々に入れることができる優れものだ。


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