デリー行きエアランカ航空の出発は午前6時であった。民族間の武力紛争のため,空港に通じる道路の何カ所かで検問が行われている。銃を持った兵士が車内をのぞき込み,書類をチェックする。少しドキドキ気分である。
空港でのチェックも厳しく,バックパックを開けさせられ,中身をチェックされる。ようやく荷物を預け,待合室にいると,フライトは2時間遅れというアナウンスが流れる。デリーに到着したとき,ダッカ行きの乗換時間は1時間半しか残っていない。預けた荷物の回収をエアランカの乗務員にお願いし,トランジットルートをショートカットしてBA(英国航空)にチェックインすることができた。
ダッカ空港から出ると,多くのタクシーやオートリキシャーの運転手が口々に「オレの車で市内に行け」と言いよってくる。実際には英語を話せる人はほとんどおらず交渉に手間取る。
結局,何人かと交渉して200タカで市内まで行ってもらった。この頃は訪問先の情報をほとんど調べていなかったので,このオートリキシャーの料金も相対的に安いということで採用した。おそらく現地料金の2-3倍であろう。
宿は「Hotel Pritom」にする。安宿ではなくちゃんとしたホテルである。受付もしっかりしているし,部屋も清潔である。料金は270タカと部屋のレベルに比してそう高いものではない。2005年にダッカを再訪したときには,より立派なホテルに改装されており,ミニマム25$近い料金を提示された。
部屋の電気システムはちょっと変わっている。部屋の外に部屋全体のメインスイッチが付いている。出がけにこのスイッチを切ると,例えばトイレの電気を消し忘れていてもちゃんと節電できる。
なかなか合理的な仕組みであるが,僕が部屋のトイレで用を足しているときに外のスイッチを切られたことがある。トイレの中は完全な闇になる。これにはあわてた。手探りで手桶を探しなんとか続きを全うした。
ダッカは「リキシャーの都」と呼ばれる
ダッカは「リキシャーの都」と呼ばれるほどリキシャの数が多いところだ。日本での報道によると,30万台が走っているという。近距離を移動するなら,どこにでもいるリキシャーが断然便利である。
農村に居住できなくなった人々がダッカに押し寄せてくる。家族養ったり,仕送りするために彼らは毎日ペダルをこぐ。そのような事情を知っていると,値段交渉時につい押しが足りなくなる。だいたい1kmにつき10タカを支払っていた。地元の相場は2-4タカだという。しかし,その時点で自分が納得して支払っていたので,リキシャワラーに対するささやかなプレゼントだと考えればよい。
ということで,ダッカの町にはどこでもリキシャーがあふれ,ほとんどの人は歩かずにリキシャーを利用する。特に女性はその傾向が強い。人の良さそうなリキシャーをつかまえて,1時間くらい貸切にして適当に回ってもらうのもよい。交渉にもよるが1時間50タカくらいである。
なにはともあれ船着き場を見るべきだ
ロンリープラネットには「もし,ダッカで一つしかすることができないとするなら,ガット(船着場)を見るべきだ」と記されていた。その第一推薦があるので,ショドル・ガットを目指して歩き出す。
途中までは広い通りであるが,オールドダッカに入ると古い家と細い入り組んだ路地に変わる。それでも,人々の生活が見られるので,ここは僕にとっては好みの場所だ。しかし,細い路地を通るリキシャーに引っかけられる危険性がある。適当に路地を歩き南に向かうとちゃんとブリガンガ川に出た。
ショドル・ガットの周辺は荷物を運ぶ人とリキシャーで溢れている。カメラをもった外国人が珍しいのか,なんとなく多くの視線にさらされているような気がしてならない。実際,何人かの人は僕と一緒に移動している。
ガートに入ると目の前には広大な水の広がりがあり,大小百隻以上の船が目に入ってくる。これが,水の国バングラデシュを象徴する光景だよとロンリープラネットは言いたかったのであろう。
ここには大きな船が接岸するような岸壁は見当たらない。代わりに何ヶ所かの浮き桟橋がある。バングラデシュの川の水位は季節により大きく変動するので,固定岸壁では役に立たないのだ。近くの浮き桟橋には大きな船が接岸しており,その外側にも,そのまた外側にも船が連なっている。浮き桟橋が少ないのでこのように連結接岸により,人や荷物を運び出すようだ。
桟橋の無いところには小舟が岸に乗り上げるように並んでいる。ともかく大変な数の小舟が岸を埋めている。バングラデシュは本当に水の国である。時には国土の半分が水に浸かることもあるが,その泥水は肥沃な土という恵みを運んできてくれる。
水の上にも人々の生活がある
水は茶色くにごり,ちょっと足をつける気にもならない。しかし,船で生活している人たちにとっては貴重な水となっており,ひもを付けたバケツやカンで水をくみ,水浴びをしていている。
観光客を乗せてあたりを周遊する小舟が近づき,乗れというような仕草をする。船頭と値段を交渉し30分30タカでまとまった。船頭は長い竹竿で川底を押し,小舟はのんびりと動き出す。
お気に入りの場所を指示すると船頭はちゃんとそちら行ってくれる。ときどきすれちがう小舟の乗客と挨拶を交わしたり,遠距離用の客船の従業員の洗濯を眺めたり,対岸のガートで水浴びしている人々を近くで見学したりすると,45分が経過していた。
再び値段交渉になる。船頭は2倍の60タカを要求したが,1時間は乗っていないので50タカにした。これはリキシャーを1時間貸しきったときと同じ金額である。インドに比べるとほとんど交渉のうちに入らない。観光客が少ないのでリキシャーも小舟も地元価格からそれほど逸脱した値段は要求しない。
人々はゆったりと生きている
地元の人と一緒に渡し舟(2タカ)で対岸に渡ってみた。ここでは規模の小さな藍染めのと縫製の工房を見学した。藍染めはドラム缶の中に布を入れ,棒でかき回すという簡単なものであった。
染め上がると洗濯物のようにロープに干していた。縫製の過程では端切れが出る。毎日のことなので累積すると大変な量になる。船着き場の周辺は,捨てられたゴミで溢れている。
茶色くにごった川の水は家庭用の生活水にもなっている。ガートでは女性たちが洗濯をしているし,女の子は金属製の壺を腰骨で支えながら運んでいる。水運びは重労働である。重さ10kgもありそうな水の壺を10才くらいの女の子が一生懸命運んでいる。日に何回,家と川を往復するのであろうか。
何やらお祭りらしい
サダルガートの少し北側にはヒンドゥー教徒が集まっている「ヒンドゥー・ストリート」がある。この界隈はダッカの普通の商店街とちょっと雰囲気が異なる。路地を行くときれいなサリーを着た女性たちが歩いていく。女性たちはとある家の中庭に入り,何やらお供え物を作り始めた。
僕は子どもたちに案内されて中庭に面した家の屋根に上げてもらった。ここからはイベントの様子がよく見える。20個ほどの素焼きの壺を一列に並べ,片側に花を飾る。
花の外側には,きれいに盛りつけされたお供え物のお皿が並べられる。お供え物の材料はごはん,バナナ,ココナッツ,スイカなど多彩だ。近所の女性が一皿ずつ持ち寄るので供物の皿数はすいぶん多くなる。
しばらくすると着飾ったサリー姿の女性たちが集まってきた。女性たちは素焼きの壺の前に並び,壺の中にお香を入れる。お香の煙の中で女性たちは祈る。暗くなると手に手に灯明を持って祈る。はなやかな中にも厳粛な空気があたりを支配している。
このイベントは女性専用のもののようだ。中庭の外側には柵が設けられており,男性は柵の外からこの様子を眺めていた。僕は子どもたちと一緒だったので堂々と近くから写真を撮らせてもらった。
スプリング・フェスティバル
博物館の帰りに顔にペイントした若者のグループに出会った。「何かイベントがあるのですか」と訊ねると,近くの学校を教えてくれた。なるほど,黄色もしくはオレンジ系のサリーの女性たちが中に入っていく。
敷地の一画に舞台がありそこではさきほどのサリーと同系色の衣装の子どもたちが踊っている。観客席もオレンジ色に染まっている。ここでは,「春」のイメージカラーは黄色もしくはオレンジのようだ。
親切なバングラ人はショナルガオンまでつき合ってくれる
ショナルガオン行きのバスを探していたら,この土地では珍しいビジネススーツ姿の若い男性が話しかけてきた。事情を説明すると,バスターミナルまで連れて行ってくれて,ソナガオン行きのバスを教えてくれた。
「ありがとうございます,後はだいじょうぶです」とお礼を言うと,「私も今日はひまなんですよ」と言いながら彼も一緒にバスに乗り込んできた。
バスは大きな橋を渡り,田園地帯を走り,1時間足らずで目的地に到着した。彼は入り口まで案内してくれ,「私はここで待っているから見学してきて下さい」と言う。ショナルガオンは緑の美しい公園で,平日にもかかわらず,たくさんの人々が訪れていた。なぜか女子学生が多い。
少女は金槌をふるいレンガを砕いていた
ショドル・ガットから東に向かうエンジン付きの小舟に乗ってみる。舟は川を横切り,ガートから小さく見えていた立派なコンクリート橋の近くに接岸したので,ここで下ろしてもらう。
橋の下は日陰になっており大勢の女性や子どもたちがレンガを砕いている。国の大部分が三角州からなるバングラデシュでは北部の一部を除き「石」があまりない。あるのは川が運んできた泥だけである。
そのため,バングラデシュでは土を焼いてレンガを作り,それを砕いてジャリの代わりに使用している。その過酷な作業は,ほとんど女性や子どもたちの手作業で行われている。
バングラデシュでは子どもたちが縫製工場で働くことが多かった。できあがった商品のかなりの割合は欧米に輸出されていたので,欧米のNGOがバングラデシュの商品は児童労働により生産されたものだとして不買運動を展開した。そのため,工場では子どもたちを解雇することになった。
細々と稼いでいた職をうばわれたため,子どもたちはより劣悪な労働に追いやられることになった。欧米のNGOが児童労働を「悪」としたのは基本的に正しい。ユニセフのいうように子どもたちは,「あらゆる種類の虐待や搾取などから守られ,教育を受け,休んだり遊んだりできる」権利がある。
しかし,途上国では経済的理由により。このような条件が満たされない場合がある。そのようなときにどう対応すべきかということを,バングラデシュの状況は物語っている。
インドなどでは強制的な児童労働で多くの子どもたちが奴隷的な状態で働いている。一口に児童労働といってもその形態には大きな差異があることを認識する必要がある。
橋のさらに東側の地域では石をカナヅチで砕いていた。この作業はレンガ砕き以上に危険だ。沿えた手を打つこともあるだろうし,破片がより勢いよく飛び散る。このような作業を女の子が担わなければならないとは暗澹とした気持ちになる。
それでも彼女たちは自分が不幸だとは思っていないであろう。つらい作業も家族や集落の人が一緒だし,歩合ではあるが隷属的な労働ではない。近くの家では女性が生のスパイスをすりつぶし,食事の準備をしていた。
ショドル・ガット対岸の地域
ショドル・ガットからみて対岸の地域ではどこにいっても子どもたちに囲まれた。きっと外国人がやカメラが珍しいのだろう。彼らはかわいい被写体になる反面,移動する僕の後をぞろぞろついてくるのでやっかいものでもある。
学校で歓迎される
彼らの一部はノートや本を抱えており,どうやら学校からの帰りのようだ。早速,子どもたちが来る方向に歩き出す。学校は簡単に見つかった。一辺が100mもありそうなぜいたくなグランドがある。校舎の前に行くと,校庭で遊んでいる数10人の子どもたちが一斉に集まってくる。
写真を撮ろうとするとみんな前に出てきて収拾がつかない。学校関係者が出てきて,教室に案内してくれた。1クラスの人数は80人近い。長い机を窮屈そうに8人の生徒が並んで使用している。
肩で運ぶ,頭で運ぶ
バングラデシュでは多くの仕事は人手で行われている。しかもその多くは屋外作業のため,旅行者でも人々の生活を見ることができる。とくに川の周囲はすばらしいポイントが多い。
船着き場では多くの船が係留され,川岸との間には板が渡してある。あらゆる種類の荷物が船に積み込まれ,目的地で下ろされる。そのすべての作業は人手が頼りだ。
小さなものはカゴに入れ,頭に乗せて運搬する。この作業には女性も加わっている。セメント袋のような大物は男性の仕事で,肩に担いで運搬する。強い日射し,重い荷物,悪い足場,ここでの労働も過酷だ。
日本の3K職場よりもずっと厳しい環境で人々は働く。恒常的に労働力が有り余っているこの国では,働いて賃金がもらえるだけでも幸せとしなければならないのだろうか...。