ボルネオ島は面積 725,500km2(日本の約1.9倍),世界で3番目に大きな島である。英語ではボルネオ(Borneo),インドネシア語ではカリマンタン(Kalimantan)の呼称を使うのが一般的である。インドネシア,マレーシア,ブルネイ3ヶ国により領有されており,インドネシアはその75%を領有している。
インドネシア領カリマンタンは西カリマンタン,中央カリマンタン,南カリマンタン,東カリマンタンの4州からなる。バンジャルマシンは南カリマンタンの州都であり,複数の航空会社がジャカルタやスラバヤとの航路をもっている。
町はバリト川の東側に位置し,町の中をバリト川に注ぐ多くの支流が通っているため水上交通が中心となっている。早朝のバリト川では水上マーケットが開かれ,多くの小舟が野菜,果物,雑貨などを売買するために集まってくる。
また,近郊のマルタプラは宝石の町として有名であり,その近くのチェンパカではダイヤモンドの露天掘りが行われている。そこまではベモを3回乗り継いで行けるとのことだが,インドネシア語ができないと難しそうである。
付録:世界の大きな島ベストテン
順位 |
島名 |
面積(万km2) |
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 |
グリーンランド ニューギニア島
ボルネオ島(インドネシア) マダガスカル島
パフィン島(カナダ) スマトラ島(インドネシア)
本州(日本) グレートブリテン島(英国)
ヴィクトリア島(カナダ) エルズミーア島(カナダ) |
217.6 79.0 74.3 58.7 50.7
42.5 22.7 21.9 21.7 19.6 |
ジャカルタ→バンジャルマシン 移動
ジャランジャグサの宿(05:15)→ガンビル駅(05:25)→ジャカルタ空港(06:15)(10:00)→バンジャルマシン空港(11:40)→KM6バスターミナル(12:30)→バンジャルマシン市内(13:00)と移動する。
ジャカルタからバンジャルマシンまでは空路を利用した。この路線は複数の航空会社が運行しているので料金は40.5万Rp(4000円)である。この安さであればとても船を利用する気にはなれない。
ジャラン・ジャグサに出るとタクシーの運転手が目ざとく僕を見つけこちらにやってくる。ガンビル駅まではおよそ2km,ジャカルタのタクシーはメーターを使用しないことが多いので,乗る前に交渉が必要となる。
どこの国でも同じであるが,外国人旅行者の多い地区で待機しているタクシー運転手は地元価格を知らない外国人からあわよくば相場の2-5倍の料金を取れることを期待している。北側の通りまで出てタクシーを探し,交渉により2万ルピアで決着した。
ガンビル駅では出発直前のシャトルバスに乗ることができ,かつ道路も空いていたため空港には06:15に到着してしまった。さすがは一国の首都空港である。設備の整ったきれいな空港である。建物はジャワ風の造りで,金属パイプを組み合わせた柱のせいか木造のようにも見える。
08時にチェックインし待合室に向かう。その前に空港使用料(国内線は3万ルピア)を払わなければならない。インドネシアではチケットに空港使用料は含まれていない。
国内線の乗降はよくタラップが使用される。待合室から外に出てタラップを上って機内に入る場面はやはり絵になる。150人乗りのボーイング機はほぼ満席である。航空産業の自由化により,飛行機はもう庶民の乗り物になっている。離陸も着陸もまったく不安を感じなかった。
バンジャルマシンの空港は市内から26kmほど離れており,タクシシーなら10万ルピアくらいはしそうだ。こんなとき空港の敷地外に公共の乗り物が待機していることもある。案の定,外の道路には何台かのアンコタ(ワゴン車を改造したミニバス)が停まっており,KM6バスターミナルまで行くという。料金は1万ルピアである。
KM6はバンジャルマシンの長距離バスターミナルで,市内から6kmほど離れているのでこのように呼ばれている。KM6からは市内に向かうアンコタ(3000Rp)があり,運転手は目的の宿「ボルネオ・ホームステイ」近くの広場まで行ってくれた。
ボルネオ・ホームステイ
ガイドブックではバンジャルマシンはごく簡単にしか紹介されていない。安宿の候補はボルネオHSしかない。広場から路地を入った奥にあり,夕方になると寂しいところだ。
この路地の突き当たりはバリト川の支流にあたるマルタプラ川があり,河岸の道路は車が通らないので歩きやすい。僕が到着した時,ボルネオHSは施錠されていた。近くの人が建物の中に向かって大きな声で呼ぶと,宿の主人が出てきた。
一階は事務所で部屋は二階に4部屋ある。上に行くにはせまい螺旋階段を上がらなければならない。部屋(5万ルピア)は6畳ほどの広さがあり,シングルベッドが一つ,トイレとマンディー付である。窓はなく廊下との間に防虫網の張られた通気窓がある。当然,廊下の明かりが漏れてくるので,寝るときには灯りを消す必要がある。
東洋のベニス?
宿のすぐ近くをマルタプラ川が流れている。バリト川の支流といっても川幅は100mほどあり,水量も多い。バンジャヤルマシンの主要部は西側のバリト川本流,南側のマルタプラ川,北側のクイン川に囲まれており,その間は網の目のように運河が走っている。
市街地が川と運河で区切られている姿から「東洋のベニス」とも呼ばれているようだが,川はそれほどきれいではないし,場所によっては運河の水は悪臭を放っている。
僕はベニスに行ったことは無いけれど,どうも「東洋のベニス」の形容はちょっとそぐわない。もちろん,僕はベニスがこの町よりすばらしいと言っているわけではない。ベニスとはだいぶ異質の世界だと言いたいのだ。
ここでは水上交通が盛んである
街は川と運河で区切られているので陸上交通はおのずと制限がある。そのため,ここでは水上交通が盛んであり,川や運河沿いには水上にせり出すように高床式の家が密集している。それぞれの家では小舟をもち,それが街中を移動する足となっている。
もちろん陸上交通のための橋も架けられている。宿の近くでは南西側に鉄橋,北東側にはコンクリートの近代橋があり,河岸の風景と合わせてなかなかいい絵になる。
小舟が街中を移動する足となっている
川や運河の水は決してきれいではない。しかし,その水は人々の生活用水として利用されている。そのようなライフスタイルは水上からではないとなかなか観察できない。
次の日に水上市場を見るためエンジン付の小舟で川から運河へ,そしてバリト川に移動したときそのような場面をいくつも見かけた。人々は水浴び,洗濯,トイレをすべて運河の水でまかなっており,生活雑排水はそのまま運河に流される。
人口が集中していない時代はこの生活様式は快適なものであったことだろう。飲料水や生活に必要な水を確保することは簡単ではない。地域によっては水の確保(水運び)は女性や子どもたちに重労働を強いることになる。そのような労働なしに水を利用できることはとてもありがたいことなのだ。
水浴び,洗濯,トイレを運河の水でまかなっている
おそらく僕がこの運河で水浴びをしたり,歯を磨いたりしたら,かなりの確率で病院行きになるだろう。この町の人々が僕より免疫機能が格段に高いわけではないので,水質汚染による患者は少なくないはずだ。
安全な飲料水の供給と衛生は人間生存のための基礎条件(ベーシック・ヒューマン・ニーズ)であるが,発展途上国ではまだまだ社会インフラが整備されていないところも多い。
これは水上トイレ
ユニセフの2006年報告では次のようになっている。世界中で10億人以上の人々が安全な飲み水を手に入れられず,26億人がトイレなどの適切な衛生施設を持っていない。1年間に生まれるおよそ1億2000万人以上の子どもの半分がトイレ(衛生施設)のない家庭に,5人に1人が安全な飲み水へのアクセスのない家庭に生まれている。
安全ではない飲み水,衛生を保つ十分な水やトイレの欠如・・・,一年間に下痢に関わる病気で命を失う5歳未満の子ども190万人のうち,実に150万人(88%)以上がこの二つの要因により引き起こされている。
「Sungai Baru」の表示があるゲート
近くの鉄橋を渡り東側地区を歩いてみる。「Sungai Baru」の表示があるゲートが目に付く。というのはゲートの上には伝統的な家屋のミニチュアが乗っているからだ。
Sungai は川を意味するので表示の意味はバル川ということになる。しかし,近くには見当たらない。なんとも奇妙なゲートである。そういえば,背後のモスクの形状も相当変わっている。
ここではベチャ(三輪自転車)が残っている
ここでは,ジャカルタではもう見かけなくなったベチャ(三輪自転車)が残っている。客待ちの運転手は座席で昼寝をしたり,トランプに興じている。
「慈聖宮」と書かれた中国寺院もある
「慈聖宮」と書かれた中国寺院もある。インドネシアでは商売上手で経済を牛耳っている中国系住民(華僑)に排斥意識が非常に強い。
1965年のクーデター未遂事件に続く共産党の弾圧においては数十万人の市民が犠牲になったとされており,その中には共産党とは無関係の中国系住民も多数含まれていた。
1998年のジャカルタ暴動では同じように中国系住民に対する根強い反感から,中国系の商店や銀行への略奪や放火,殺人にまで発展した。
中国寺院らしい赤いローソクの集団
東南アジアでは経済の中心プレーヤーとしてますます重要な地歩を占めている華僑も,インドネシアではできる限る表に出ないようにしている。中国系を象徴する漢字の看板などもほとんど見かけることはない。
しかし,中国寺院だけはここでも極彩色の姿を堂々と見せている。中国人はどこに住んでいても中華料理と中国寺院は忘れないものなのだ。それは,きっと彼らのアイデンティティそのものだからであろう。
バンレイシ(釈迦頭)|バンレイシ科・バンレイシ属
この果物の正式名称はバンレイシ(蕃茘枝)のようだ。和名では表面の凹凸から釈迦頭と呼ばれることが多い。原産地は熱帯アメリカもしくは西インド諸島とされている。バンレイシ属にはチェリモヤやサワーソップなどの美味な果物が多い。嗜好の差なのか原産地の熱帯アメリカではチュリモヤ,東南アジアでは釈迦頭が主として栽培されている。
英語名がシュガーアップルとなっているように,内部は軟らかくねっとりと甘い果肉と豆くらいの大きさの黒い種が複数入っている。マンゴスチンと並んで最も美味な熱帯果物とされているが,十分に熟さないとそのクリームのような果肉を味わうことはできない。市場で買うときは今日食べれるものということで選んでもらうとよい。
おもしろい形状のマスジット・ラヤ(ラヤ・モスク)
マルタプラ川と運河に囲まれた一画に「マスジット・ラヤ(ラヤ・モスク)」がある。このモスクは一風変わった形状をしている。モスク本体の建物の上には丸いお皿を伏せたような屋根が乗せられているし,四角形のミナレットの上にも同じようなお皿が乗っている。この構造のモスクは初めて見た。
古い大きな太鼓が据えられているのも同じだ
礼拝堂の周りは柱と壁に囲まれた回廊になっている。これはジャカルタの国立モスクと同じ構造である。古い大きな太鼓が据えられているのも同じだ。
礼拝堂の床はきれいに磨かれた大理石が敷かれている。内部では地元の小中学生が先生に連れられて礼拝の学習に来ていた。通常,子どもたちは親から礼拝の作法を学ぶものであるが,ここでは教育の一環としているようだ。
地元の小学生が礼拝の学習に来ていた
イスラムにおいては男女が一緒に礼拝することはない。そのため,礼拝堂の一画を仕切って,女性は見えないところで礼拝する。子どもたちの場合はそれほど厳密に考えなくても良いのか,前方に男子,後方に女子が並び,間はロープで仕切ってあるだけだ。
男子は制服のままであるが,女子は制服の上から礼拝用の白いズボンと上着を着用し,スカーフを被っている。もっともこのスカーフはゴムが入っており,あごの下で左右の広がりを止めることができるようになっているので,顔以外の部分はすっぽり覆うことができる。
彼女たちは喜んで写真に納まってくれた
中には膝に届くような長いものを着用している子どももおり,スカーフというよりはヘジャブといった方が正確である。インドネシアやマレーシアで見た限りでは,女子の礼拝時の服装はほとんどこのパターンであった。
まあ,表現は悪いがテルテル坊主のようにも見える。インドネシアではスカーフを付けている女生徒の写真はなかなか撮りづらい(カメラを向けると逃げられてしまう)ものであるが,このモスクの中では彼女達は喜んで写真に納まってくれた。
わずかな時間を利用して彼女たちの写真を撮る
礼拝学習が終わると女生徒は礼拝服を脱いで,普通のスカーフ姿に戻る。先生に引率されて学校に戻るまでのわずかな時間を利用して彼女たちの写真を撮る。
父兄が子どもたちを送り迎えする
子どもたちの戻っていく方向に歩いていくと学校があった。すでに下校時間になっており,門の前には数人の父兄がいるだけである。インドネシアに限らず,アジアの多くの地域では父兄が子どもたちを送り迎えしている風景を見かける。それらの地域の治安が良くないかというとそうではない。子どもたちの送り迎えは親の義務あるいは習慣のようになっているようだ。
空手の練習
マスジット・ラヤの近くにある学校の中庭で子どもたちが空手の練習をしていた。インドネシアは空手が盛んであり,インドネシア空手連盟の登録者数は200万人ほどだという。
指導者が後ろで見守る中,子どもたちは気合とともに左右の拳を二回ずつ繰り出し,最後に前蹴りを出していた。このような練習においても女子はスカーフをしている。
メインストリート沿いにKFCがある
この街にはメインストリート沿いにKFCがあった。インドネシアのファストフードは屋台やローカル食堂の2-3倍はするのでめったに利用することはなかった。夕方の18時頃,KFCの前の通りを歩いていたら雨が降り出し,しかたがなく中に入ることになった。
サンドイッチとコーラのセットを注文した
フライドチキンはけっこう高いし,おやつにゆで卵と飲み物をいただいていたので,サンドイッチとコーラのセットを注文した。これが1.9万ルピアといい値段だ。室内は明るく清潔で気持ちが良いが,なんといっても寒い。冷房嫌いの僕にとっては30分くらいが滞在限界である。雨が小降りになったところで宿に戻る。
クイン水上市場に向かう
バンジャルマシンの最大の見所はバリト川の少し上流にあるクイン水上市場である。早朝,暗いうちから小舟が集まり魚や野菜などの取引が行われる。一人で小舟を雇って市場を見に行く費用は10万ルピア,この中には宿の主人のコミッションも含まれているので,船頭の取り分は8-9万ルピアであろう。。
出発時間は06時である。しかし,インドネシア国内の時差を調整するのを忘れていた。僕の時計は東部ジャカルタ時間のままになっており,中央部バリ時間のバンジャヤルマシンは1時間進んでいるのだ。そのため,04:30に階下の戸をたたく音で起こされてしまった。
下に降りると船頭がおり,ようやく時差に気が付き,あわてて身支度をして彼と一緒に川に行く。護岸から足を伸ばして直接小舟に乗り移る。舟の大きさは幅1.5m,長さは6mほどであり,もちろんエンジンは付いている。
軽いエンジン音を響かせて舟はマルタプラ川の上流に向かう。川の両岸には街路灯があり,けっこう明るい。空はまだ暗く,中空には大きな赤い星が見える。川風が冷たく感じるので長袖のトレーナーを着込む。15分ほどで川から幅10mほどの運河に入る。両岸には水上集落が密集しており,人々はそろそろ起き出す時間のようだ。水辺で水浴びをしたり,歯を磨く人の姿が見える。しかし,この暗さでは写真にならない。
06:30にバリト川の本流に出る。幅は1kmほどもある大河だ。上流のアララク島と下流のクンパン島に挟まれる水域の東側にクイン水上市場がある。船頭は製材所(もしくは合板工場)の貯木場のあたりに舟を停めた。川はほぼ北から南に向かって流れ,東側にはアララク島の南端が,西側には製材所が並んでいる。
商品はバナナ,キャッサバ,ココナッツ・・・
この製材所の従業員や中島の住民が主要な客となり,その川辺に水上市場ができたようにも見える。というのはここにやってくる小舟はほとんどが食料品や日用雑貨などの商品を積み込んでおり,買出し用の舟は見かけなかったからだ。
もちろん,舟同士の取引もさかんに行われている。水上市場が開かれる時間帯は06時から1時間ほどと短く,07時を過ぎると小舟の数はずいぶん少なくなってしまう。
短い一丁魯を使って器用に小舟を操っているのはほとんどがおばさんたちである。彼女たちの商品はバナナ,キャッサバ,ココナッツ,葉物野菜,果物など近郊でとれるものばかりだ。
水上市場の時間帯は06時から1時間ほどである
それにしても暗い,曇り空という気象条件もあるが,日本の夏の感覚では05時くらいの暗さだ。オートモードにしていると確実にフラッシュを使用することになるのでプログラム・モードで感度をISO400,フラッシュを禁止にして写真を撮る。
インドネシアの木材産業
川岸の製材所の原木は直径1m近いものから,40cmほどのヤシの木までさまざまである。多くのものはバリト川の上流から運ばれてきたものであろう。スハルト政権の時代には木材産業は利権そのものであった。
スハルト一族は間接的ではあるもの木材会社への出資を通して700万haもの森林を支配していた。木材王と呼ばれていた「ボブ・ハッサン」は300万ha,「プラヨゴ・パンゲスツ」はインドネシア最大の木材伐採会社であるバリト・パシフィック・グループを通じて350万haもの森林を支配していた。
1985年の丸太(原木)の全面輸出禁止後は合板産業を支配下に置くようになり,バリト・パシフィック・グループは世界最大の合板輸出企業となっている。現在では合法的な木材に頼っていてはとても生産が維持できないので,大多数の合板会社は違法伐採された木材に依存しているのは明らかである。
「サイエンス誌2004年2月号」に掲載されたエール大学のカラン準教授による報告では,ボルネオ島では合法的な伐採用に確保されていた熱帯雨林のうち95%がすでに伐採されてしまっており,国立公園として保護されているはずの森林でも約60%が違法に伐採されているという。
このような違法伐採は政府や州政府も黙認している。また,軍が関与しているという指摘もある。悲しいことに現在のような状況では総論として「熱帯雨林を守れ」とインドネシア政府に働きかけてもむだであろう。国土開発の基本的権利はその国の政府にあるのだ。
「地球の肺,地球上でもっとも豊かな生態系」などと形容されている熱帯雨林を守るためには,現在残されている程度のよい地域だけを確実に保存する政策をインドネシア政府に働きかけるしかなさそうだ。
残念ながら熱帯雨林や絶滅危惧種の保護に関してはインドネシアは法治国家とは言い難い。法律はあっても,中央政府,州政府は違法行為を取り締まろうともしない。それどころか,違法行為を後押しして利益の分け前にあずかっているとも指摘されている。
多くの貧しい人々が木材産業で働き,生計を立てている。違法伐採の抑制はこのような人々の生計を破壊することになる。過度に肥大化した木材産業を縮小させるための政策の中に,木材産業に代わる雇用対策も必要なのだ。
インドネシアに対する最大のODA供与国として,日本国政府も環境保護や貧困の撲滅を援助の基本理念とすべきである。年々拡大する途上国の貧富の格差を助長するようなODAを21世紀に持ち越すべきではない。
板敷きの道の先端にはトイレ小屋がある
水上市場の方は後回しにして,大きな丸太に舟を横付けしてもらい陸に上がることにした。ここに居住しているのは製材所で働く人々とその家族であろう。板敷きの道が川まで続いており,先端にはトイレ小屋がある。
ここでも川の水で洗濯をし,食器を洗い,体を洗う人々が見られる。製材所の周辺には丸太から板材を切り出した残材が大量に積まれており,炊事のためか何ヶ所からか煙が上がっている。
ここの女性たちはサロン(筒状の布)を胸の前でしばるのではなく,前後の端を肩口のあたりでしばっている。この方法だとサロンがずれることはない。
サロンはアジアの熱帯地域で幅広く使用されている
大きな布の両端を縫い合わせただけのサロンは安価であり,洗濯も簡単である。使い方も下半身だけを覆う,胸から下を覆うなど用途に合わせて変えることができる。一枚の布をそのまま使用するケースを含め,サロンはアラビアから東南アジアまでの暑い地域で簡易着・正装着として広く使用されている。腰布の呼び名は次のように地域により異なる。
地域・国 |
腰布の呼び名 |
アラビア半島 インド北部 スリランカ
バングラデシュ ミャンマー インドシナ半島
インドネシア
|
フータン,ミザール ルンギ,ドーティ,ロンジー
サロン(筒状),ロンジー(一枚布)
ロンジー ロンジー ロンジー,パートゥン
サロン(筒状),カイン(一枚布)
|
コーヒーとパンで軽い朝食をとることができる
僕の乗った小舟は水上市場の茶店舟に横付けされた。ここではコーヒーとパンで軽い朝食をとることができる。起きてからまだ何も口にしていないのでこれはありがたい。
船頭は下流のクンパン島に向けて移動を開始した
市場の小舟の数が減ってきた頃,船頭は下流のクンパン島に向けて移動を開始した。この島は猿の島として観光船もよく立ち寄るらしい。
近くで見るとニホンザルに似た猿が何匹か木の上に見える。この猿はかなり人なれしており,平気で頭に飛び移ってくるという。ちらっと見学して「もういいよ」と船頭に告げる。
明るくなって水上集落の細部が分かるようになった
運河に入る手前の水上集落の上に牡牛の絵の入った赤い旗が何本も立っていた。これはインドネシアの政党「闘争民主党」のシンボルである。7月の上旬に大統領選挙があるので,このような旗や横断幕はよく見かけた。
運河に入ると来る時は暗くてよく分からなかった水上集落の細部が分かるようになった。水上集落から戻ってきたと思われる小舟もいる。水上集落は住居だけではなく,立派なモスクまでもある。水の色は濃い茶色,ところどころに木造の橋が架かっており,その上にも政党の旗が取り付けられている。
生活用水は川の水に頼っている
人々が生活するためには水は不可欠である。現在のインドネシアの水道普及率は都市部で90%,農村部では70%程度である。水道の無い地域では水場から生活水や飲用水を運ばなければならず,それは女性や子どもたちの仕事になっている。
カリマンタン島では水の便と交通の便のため人々は川沿いで暮らしてきた。川は飲用水や生活用水をまかなってくれるし,トイレもそのまま水洗となる。人口密度が低いときはそのような暮らしも成立していたが,人口が増えるとそのような暮らしは川の汚染を招き,少なくとも飲用水は別の水源に頼らざるを得なくなっている。
20年ぶりのテニス
宿の近くの鉄橋の手前にテニスクラブがある。金網で囲まれた敷地の中にコートが二面あり,地元の人が試合をしている。赤道直下のボルネオでは朝夕は涼しいものの,直射日光は強烈である。女性は長袖を着て,スカーフの上から帽子を被っている。
クラブハウスに入ると外国人は珍しいので歓迎された。彼らに誘われるままに混合ダブルスの試合に参加し,10年ぶりのテニスをすることになった。ラケットは僕が使っていたものに比べてずいぶん大きいが軽い。これだと年をとってからでも十分,テニスを楽しむことができる。久しぶりの運動にもかかわらずけっこう動くことはできた。ともかく汗がひどい,持参の水を前部飲んでしまったので宿に戻り,水を浴びてベッドに横になったら午睡になってしまった。
露店の果物屋,切り身に唐辛子ペーストをまぶす
これは露天の果物屋である。東南アジアや南アジアではパパイヤパイナップル,スイカといった大きな果物を小さくカットしたものが屋台で売られている。僕も氷を使用していないことを確認してからいただくことになる。ところがこの屋台では果物の切り身に砕いたピーナッツの入った唐辛子ペーストをつけている。さすがにこの恐ろしい食べ物には手が出なかった。いったいどんな味になるのか想像できない。
小学校にて
インドネシアの都市部の小学校は塀で囲われており,正門以外からは入れないようになっている。現在の日本では理由も無く人々を殺傷する事件が頻発しており,学校も児童の安全対策が必要になっている。学校の門扉,フェンス,非常通報装置等の整備が進められ,部外者が簡単には中に入れないようになっている。
インドネシアではハード面ではきちんと整備されており,登下校時には親がつきそうケースが一般的である。僕はちょっと遠慮しながら開いている正門から入り,子どもたちの写真を撮らせてもらう。先生や保護者に出会うと軽く会釈をするだけで黙認してくれる。
彩りの果物屋
ちょうど休み時間で,子どもたちは構内にある売店(露店)で飲食をすることができる。ちょっと小腹がすいていたのでサテ・アヤム(焼き鳥)をいただく。インドネシアの焼き鳥はタレなしで焼き,ピーナッツ・ソースをかけるスタイルである。ブロイラーではなくその辺りを走り回っている鳥を使っているのでなかなかおいしい。
甘いピ-ナッツ・ソースをたくさんかけると,鳥自体のおいしさが味わえないので,量を加減する必要がある。インドネシアではサテを注文すると付け合わせとして味の無いういろうのようなものが出てくる。本体は筒状になっており,それを適当に切って出してくれる。おそらく米粉を使ったものだと推測するが,英語がほとんど通じないので確認する術は無い。
インドネシア式の寺子屋のようなものである
街中のモスクではときどきコーラン(クルアーン)を学ぶ子どもたちの姿を見かけた。インドネシア式の寺子屋のようなものである。コーランはアラビア語で詠唱する慣わしがあり,例えば聖書のように各国の言語で翻訳されることはない。子どもたちはここで(意味は別として)アラビア語の読み方を学んでいるのだ。
アラビア文字はアラビア語だけではなく,ペルシア語,ダリー語,クルド語,パシュトーン語,ウルドゥー語,パンジャブ語,ウイグル語など世界中のイスラム教を受け入れた民族の言語を記述するのに使用されている。イスラム教の広まりとともにインドネシア語はアラビア文字で表記されていたが,オランダによる植民地支配によって1900年代初めからラテン文字表記が定着している。
3-4歳の女の子は退屈していた
このためコーランを読める人はごく少数に過ぎない。アラビア文字の衰退に危機感をつのらせたイスラムの指導者により,このようなアラビア文字寺子屋が運営されているのであろう。
このような寺子屋はインドネシアの各地で見かけた。アラビア文字は28文字から構成されているが,右から左へ,手書きの英文のように文字をつなげて表記するため非常に分かりづらい。
子どもたちは学習の程度に合わせて,一文字,単語,文章の発音を学んでいる。多くの寺子屋では子どもたちはムスリムらしい服装をしている。薄緑色の三点セット(ヘジャブ,上着,ズボン)を身につけた女子はとても絵になり,写真についても特に制限がないのでとてもありがたい。
女子は礼拝用の服を重ね着する
寺子屋の近くのモスクでは子どもたちの礼拝を見ることができた。イスラムでは礼拝の前に身を清めるために手足を洗い,口をすすがなければならない。そのため,モスクにはトイレや水利施設が付属している。
寺子屋と同じ薄緑色の服装の子どもたちが手足を洗っているので一緒に中に入れてもらう。前列が男子,後列が女子と分離はされているものの一緒に礼拝を行っている。
男子は薄緑色の服装のままであるが,多くの女子はその上に礼拝用の二点セット(体全体を覆うワンピースと腰まであるヘジャブ)を着用している。色については特に制限は無く,色付きの刺繍なども許されている。かわいらしい姿はインドネシアで特に写真に残しておきたい素材である。
子どもたちの礼拝風景
通常,このような集団礼拝にはタイミングを合わせるため,イマーム(イスラムの指導者)が次の動作に移るときに「アラー・アクバル」と声を発する。ここでは,子どもたちの代表がその役を担っていた。
礼拝が終わると子どもたちはモスクの管理人がもつ袋の中にザカート(喜捨)として1000Rp程度のお金を入れていた。子どもたちはこうやってイスラムの礼拝作法を学んでいくのだ。
ピンポン玉大のウミガメの卵が売られていた
夕食のため宿の南側の地区にある屋台街まで歩いてみた。小さな商店街があり,夕方になるともうほとんどの店は閉まっている。その前に露店がたくさん出ており,ピンポン玉くらいの大きさのウミガメの卵が売られていた。
日本では考えられないことであるが,ここでは堂々と商売をしている。ウミガメの卵に触れたのは初めてなのでその感触を確認しておく。カメの卵はニワトリの卵のように殻が固くない。少し指先に力を入れるとブニョとつぶれ,それ以上の力がかかると元に戻らないようだ。
ウミガメの種の多くは個体数が減少しており,べっ甲の材料となるタイマイや最大のオサガメは絶滅危惧種に指定されているはずだ。それにもかかわらず,ここでは堂々と売られているのはどういうことだろう。
帰国後にネットで調べてみるとインドネシアでもウミガメの個体や卵を採取することは法律で禁止されているという。しかし,卵の採取は一部の地域住民の主要な収入源となっており,人々の生活や地域の経済を支えている。(出典:エバー・ラスティング・ネイチャー)
また,日本人観光客でにぎわうバリ島では年間5000-30,000匹のアオウミガメが捕獲されており,宗教的儀式の供物や観光客相手の料理や土産物になっているという。
熱帯雨林と同様に「環境保護」だけを声高に叫ぶのはたやすいことだが,地元住民の理解を得ながら解決策を見出すことは簡単ではない。自然を保護することが自分たちの利益につながるような政策がとられない限り,いくら法律を制定しても実効は上がらないだろう。
少し横道に入ったところにKM6がある
水上マーケット・ツアーのため早起きしたので,翌日は07時まで寝てしまった。寝るときは暑いが夜半から気温は下がるので,それに合わせて着る物を調整しないと体を冷やしてしまう。今朝はちょっとのどが痛い。前回旅行のように悪化しないように用心しなければならない。
宿の近くの広場の屋台はまだこの時間にはやっていない。アンコタ(乗合自動車)でKM6(バスターミナル)に行き,翌日のチケットを手配することにする。
市内と空港を結ぶ幹線道路沿いにモスクがあり,そこから少し横道に入ったところにKM6がある。横道の左側が長距離用の大型バス,右側には近距離用のワゴンが並んでいる。
朝食はバナナの葉に包まれたごはんと野菜炒め
とりあえず,まず朝食をいただくことにする。バスターミナルだけあって屋台はこの時間でもちゃんと営業している。バナナの葉に包まれたごはんと野菜炒めの組み合わせで7000Rpは妥当なところだ。
長距離のところで「サマリンダ」と告げるとチケット・オフィスに連れていかれた。エコノミーが13万ルピア,A/Cが17万ルピアとなっている。冷房は好きではないので,迷わず翌日15時のチケットを買う。13万ルピアは5年前の2倍以上である。
通りに面した家の子ども
せっかく郊外に来たので周辺を歩いてみることにする。土地の低いところは水が出ており,高床式の家は水に浸かっていないもののアクセスは困難である。
コンクリートの道の先から子どもたちの声がするのでたずねてみる。そこは小学校であった。休み時間なのか子どもたちは敷地外の屋台で買い食いをしている。
写真をいやがるそぶりはまったくない
女子の制服は白の長袖とくるぶしまでの長さの緑のスカートで,全員が白いヘジャブを着けている。写真をいやがるそぶりはまったくない。男子と一緒にすると混乱してフレームが作れないので,男女別の写真にする。
神妙な顔で授業を受けている子どもたち
KM6に戻る途中にもう一つの学校を見つけた。ここの制服は白とエンジ色の組み合わせ出る。この学校も外で遊んでいる生徒がいる反面,授業中のクラスもあった。
おかげで,Vサインの子どもたちと,神妙な顔で授業を受けている子どもたちの写真を撮ることができた。学校には堂々と入っていく僕でも授業中の教室には先生の許可がないとさすがに入らない。ここでは先生に手招きされてこの一枚となった。
市内を流れるバリト川の支流の風景
バンジャルマシンの南西部,バリト川に面したところに水上集落があるとガイドブックに記載されていたので歩いていくことにする。道は分からないがとにかく西に向かっていくとバリト川にでるとふんで歩き出す。しかし,宿を出て3分で寄り道をしてしまった。
宿の前の路地は1分ほど歩くとマルタプラ川のコンクリート堤防に出る。クイン水上市場に行ったときはここから足を伸ばして小舟に乗り移った。現在でも川は交通路となっており,近くの橋のところには上流に向かうスピードボート乗り場もある。この護岸の上で10才くらいの女の子が洗濯をしている。彼女の写真を撮っていると近くの家からお呼びがかかった。
子どもたちの写真は僕の大事な記念品だ
クツを脱いで階段を登るとテラスがある。小さな子どもが三人いるのでヨーヨーを作ってあげる。三人分を作ってから,「あの子はどうしよう」と洗濯の女の子を指差すと,母親が声をかけてくれたので集合写真を撮ることができた。
日本製の水ヨーヨーはどこの国でもとても人気が高い。回転式のものはこの国にもあるので,ヨーヨーという言葉はちゃんと通じる。ヨーヨーをもって嬉しそうな顔をしている子どもたちの写真は僕の大事な記念品だ。
ここではベチャはまだ庶民の足となっている
ジャカルタでは営業禁止となってしまったベチャ(三輪自転車)はここでは現役で活躍している。町をのんびり見学するにはよい乗り物であるが,どこを回ってもらったらよいのか分からないので利用することはなかった。
ボルネオは石炭の産地でもある
ボルネオ島は石炭の産地である。東部の大河マハカム川を定期船で移動していた時はずいぶんたくさんの石炭を運ぶ台船と積み込みのためのコンベヤー・システムを見かけた。これらの石炭は主として国内の火力発電用に使用される。
南カリマンタン,東カリマンタンの電力設備の多くはジーゼル発電機によるものである。ジーゼル発電機は小規模かつ分散型の発電システムに向いている。しかし,地域の電力需要の増大,原油価格の上昇により大規模な石炭火力発電所の整備が進められている。
南カリマンタンではバンジャルマシンから120kmほど南東ののアサムアサム川の河口近くに最大出力は13万kwの石炭火力発電所ができており,地域電力のベースロードをまかなっている。
子どもたちが礼拝の指導を受けていた
その後は肝心な水上集落はおろかバリト川に出る道も見つからず内陸の道を歩いて帰ることになった。まあ,子どもたちや珍しい植物の写真を撮ったりしてそれなりに楽しむことはできたけれど。
近代的なビルの中に子どもたちが入って行く。二階はモスクになっており,子どもたちが礼拝の指導を受けていた。女子はくるぶしまでの長いスカートと腰あるいは膝まであるヘジャブを着けており,とても絵になる。
久しぶりの市場に写真の枚数が増える
マルタブラ川沿いに北に歩いてみる。マスジット・ラヤ近くの橋を過ぎると,その先はきれいに整備された川岸道路となる。少しレトロ風の街路灯も並んでおり,水上マーケット・ツアーのとき見かけたのはこのあたりのようだ。
さらに行くとマスジット・ラヤを半円形に囲む運河にかかる橋があり,それを渡ると大きな市場があった。約2m幅の道の両側に食料品を扱う半露店の店が並び,頭の上は露天に続く雨避けのシートで覆われている。
といってもさほど大きくないシートをロープで張っているだけの簡単なものなので,ちょっとした雨になれば境目から雨漏りは必須である。ここは買い物客と荷物を運ぶ人でごった返しており,その間を自転車や荷車が通る。その度に人々は店の中に避難しなければならない。
このような状況なので写真は難しかった。それでもおもしろそうな食料品をたくさん撮ることができた。真っ赤なコメのメンは何かで着色しており紅ショウガの色である。
太さから赤いスパゲティのイメージだ。普通の白いコメのメンもある。こちらは短く切れているのでトコロテンのように穴から押出して作ったようだ。
ニワトリは丸ごとが販売単位である。もちろん首,足は切り取られている。肉を食べるためにはこれを解体して調理しなければならない。
小さな巻貝が大量に売られている。殻高は25mm程度で円錐形である。僕はこの種の巻貝を見るとどうしてもカタヤマガイ(ミヤイリガイ)を連想してしてしまう。もちろんここで売られているものとは大きさも色も異なるが,どうもこの種の巻貝には負のイメージがつきまとう。
それはずいぶん以前に読んだ白土三平の忍法秘話に起因している。この中に「スガル」が収録されている。抜け忍である彼女は追っ手に追い詰められとある沼に誘い込む。
そこには小さな巻貝ががたくさん生息しており,彼女を殺害した追っ手もある種の病気にかかり次々と死亡したり忍者としてはやっていけない体になってしまう。
この病気は「日本住血吸虫」により引き起こされるもので,中間宿主のカタヤマガイから遊出した幼虫が哺乳類の皮膚から侵入して感染する。最終的には重篤な肝臓障害が起こる。
日本ではカタヤマガイの除去にほぼ成功しており,この30年間は新たな患者は出ていない。しかし,中国や東南アジアではまだ流行地が残っている。
小さく切られた豆腐もある。こちらのものは日本でいう「木綿豆腐」であり,日本のものに比べると密度が高い。おそらく昔ながらの製法で作られたものであろう。
枯れたヤシの葉で編んだ小さな容器に入れられているものはごはんであった。通気性が良いのでごはんが傷みづらいのであろう。近くにはバナナの葉にくるまれて蒸された小さなちまきのようなものがあった。試食してみると小魚と何かを混ぜあわあせたもので,味は悪くない。
ヒモで結わえられたカニは上海ガニとそっくりである。魚類は容器の下に氷を敷いて鮮度を保とうとしている。この暑い気候では大変なことだ。60cmはある見事なタイのような魚を見ていると,売り手のおばさんはその魚を手に持って写真を撮りなさいと催促する。
焼き魚も売られている。これはとても食べたかったが,いかんせん食べる場所がない。働いているのはほとんが女性であり,久しぶりの市場だったこともありずいぶんたくさん写真を撮ってしまった。
未就学児の礼拝風景
市場の近くにはモスクがありその一部が幼稚園になっていた。入り口には母親たちが待機しているので,中を覗いてみると子どもたちは礼拝の作法を学習しているところであった。
中にいた先生から入ってきてもいいよと言われ,中に入ってかわいい礼拝風景を撮らせてもらう。女子は白いズボン,白い上着に白いヘジャブ姿である。子どもたちは帰りがけに僕の手をとり,自分の額や頬に押し当てるしぐさをする。これは目上の人を敬う礼儀作法の一つだ。
モスクではちょうど礼拝の時間であった。一階は女性たちが使用し,男性のスペースは二階の半分である。ここでは礼拝に訪れるのは女性の方が多いということなのだろうか。