カンボジアのクメール王朝の最大版図はインドシナ半島の大半を占めていた。そのためタイ東北部やラオス南部にもクメール遺跡が点在している。タイ東北部の入口の町コラートから北に60kmほど離れたピマーイの町にも立派な寺院遺跡公園がある。この寺院は1080年ごろの建立とされており,アンコ−ルワットより60年ほど早い。
この遺跡公園を,あるいは近在のクメール遺跡を訪問するツアーの拠点として,ピマーイを訪れる旅行者は少なくない。そのため町一番のピマーイ・ホテルの他にも何軒かのGHがある。
バンコク→ピマーイ 移動
カオサンで一泊して翌日,カオサン(11:30)→モーチット(12:30)(13:20)→コラート(17:00)→ピマーイ(19:20)と移動する。カオサンですることはただ一つ,中国ビザの取得である。ビザの取得には3泊4日かかるのでその間にタイ東北部のクメール遺跡を見ることにする。
当日の朝,宿の下の旅行会社はまだ営業をしていなかったので,近くのホテルの旅行会社に中国ビザを依頼する。3ヶ月ビザを依頼したが,やはり1ヶ月ビザしか取れないと言われそれでいいよと答える。
料金の1400Bを支払い,写真は後で届けることにする。しかし,チェックアウト時にすっかりそのことを忘れ,そのままNo.3の市バスに乗ってしまった。途中で気が付き,No.30のバスでカオサンに戻り,写真を手渡して再出発である。
この事件のためモーチット(北バスターミナル)に到着したのは12:30を過ぎていた。ピマーイ行きの直通バスは無いので,コラート(ナコン・ラチャシーマ)経由で行くことにする。
しかし1階のチケット売り場にはコラートの表示がない。窓口で聞いて3階でチケットを買い,下に降りてバスに乗る。バスはバンコク周辺で客を集め,その後は高速道路を快調に飛ばしていく。
17:00にコラートの大きなバスターミナルに到着する。ピマーイ行きのバスの発車時間までは少し間があるのでちょっと早い夕食をいただく。バスはタイではもう珍しい2+3の一列5人掛けである。それでも周辺国やインド圏のものとは比べ物にならないほど乗り心地はよい。
オールド・ピマーイGH
バスは7時過ぎにピマーイに到着した。ピマーイの宿情報はまったく持っていないなかったのでバイク・タクシーに安宿に連れて行ってもらう。オールド・ピマーイGHは大きな民家を改造したもので1階は宿の家族が住み,2階が客室になっている。家の中は土足禁止なので清潔だ。僕の部屋は8畳,2ベッド,T/Sは共同で130B(約350円)である。
部屋の鍵は南京錠になっており,僕はシャワーのときに鍵を部屋の中に忘れて事件になってしまった。困ったことにスペアキーは無く,錠を取り外すこともできない状態である。結局,宿の人が用意してくれた大きなワイヤカッターで錠前を切断することになった。南京錠代として100Bを請求されたので,僕のスペアの南京錠を使用してもらうことにした。
この部屋は西日が入り,夜になってもまだ熱気が残っている。寝るときは扇風機をかけ,夜中には扇風機を止め,タオルケットを被ることになる。タイも一応冬ということになる。
お葬式の祭壇
06:30頃朝食をかねて外に出る。路地を抜けるとそこがピマーイのメインストリートである。左に立派な遺跡が,右に崩れかけた石積みが見える。まず石積みを見ることにする。
石積みはクメール時代のものでこの町を囲っていた壁の一部のようだ。軟らかい砂岩を使用しているためかなり風化が進んでいる。小さな植物がそこかしこに根を張って懸命に生きようとしている。
石積みの外は公園のような広場になっており,内側には立派なタイ寺院がある。中に入ってみると別棟にお葬式の祭壇がしつらえてある。
お葬式で僧侶に出された食事
僧侶たちが並んでいるので写真を撮らせていただく。反対側ではおばさんたちが食事をしており,仏像に手を合わせていると食事に誘われた。
ごはんと野菜の煮物,ひき肉の炒め物,はるさめのスープをおいしくいただく。蒸したカーニャオ(もち米)と甘いトッピングの食べ物もおいしい。皆さんにお礼を言い,そこで遊んでいた2人の子どもに水ヨーヨーを作ってあげる。
ピマーイ遺跡
遺跡はピマーイ市内のほぼ中心に位置しており,東西655m,南北1033mの長方形をしている。遺跡は赤砂岩の外壁で囲まれており,その東西南北にはゴプラ(gopura,ヒンドゥー教寺院の山門)が配置されている。
中央にはアンコールワットと類似の祠堂がそびえており,その周囲を回廊(gallery)が囲んでいる。残念ながら回廊の屋根はほとんど崩落しており,わずかに残った部分から往時の造形を推測するしかない。
一般的にクメール遺跡は真東を向いているが,ピマーイ遺跡の正面は南南西である。アンコールの時代にはここから225km離れたアンコールワットまで古代の道路が通じており,遺跡はその道路に正面を向けていたと考えられている。
ピマーイ遺跡は遺跡を大きく囲む公園の中にあり,南側にチケット売り場と入口がある。入口の周囲には土産物屋が並びちょっとした観光名所であることを示している。
チケット売り場で40Bのチケットを買い求め,そのとき係員に「昼食のため外に出て再度このチケットで入れるか」と聞くとOKが出たので水だけを持って中に入る。
遺跡への入り口には十字形のテラスをもつナーガ・ブリッジが配されている。この橋の「ナーガ(naga)」は7つの頭を持ち上げた蛇の神像である。ナーガ・ブリッジとは不浄な世界から天国へと続く道を表現したもので,現世と神聖な遺跡とを繋ぐ橋ということになる。
ナーガ・ブリッジを渡ると外壁の南門ゴプラがあり,ここが遺跡の入口になる。南門を通り抜けると渡り廊下(Passage Way)が中央祠堂を囲む回廊(gallery)の南門に向かって伸びている。
内側の回廊は一部だけ屋根が残っている
この内側の南門も赤砂岩で作られ,入口と窓は白砂岩で作られている。明るい色の赤砂岩は最近の修復作業により作られたもので,オリジナルの砂岩は風化により黒く変色している。
内壁の内側には2つの塔と中央祠堂がある。2つの塔は赤砂岩でできているが,中央祠堂は白砂岩でできている。周辺の建造物に比して祠堂の状態は良すぎるので,かなり修復の手が入っていると推測できる。
中央祠堂の主室と小室
中央祠堂は中央の主室,その南にある小室,そしてそのふたつをつなぐ小廊下からなっている。主室にはナーガに守られている仏像が置かれており,この寺院がヒンドゥーの形式をとりながら仏教のものであることが分かる。
ジャヤーヴァルマン7世像のレプリカ
ジャヤーヴァルマン7世像のレプリカ,オリジナルはピマーイ国立博物館に収蔵されている。
サインガム公園
ピマーイのもう一つの見どころはサインガム公園の榕樹(バニヨン,日本では沖縄に自生しておりガジュマルと呼ばれている)の林である。
町の中心部からはけっこう距離があり,まだ慣れていない暑さの中をのんびり歩くことにする。池の向こうにこんもりとした森があると思ったら,それが目的の公園であった。
榕樹は亜熱帯から熱帯に自生する常緑高木で,多数の気根を枝から垂らす。気根は地面に着くと支持根となり,たがいにからみ合って巨大な幹のように見える。
サインガム公園の中には多数の榕樹があり,それぞれ四方に枝を伸ばし,からみ合い,支持根を持っているので,異様な光景が見られる。公園全体が多数の柱をもった緑の大屋根で覆われいるような錯覚を覚える。
四方に幹を伸ばす大きな樹木はそのまま信仰の対象になるのか,たくさんの色とりどりの供え物が取り付けられている。タイは仏教国であるが,例えば大きな木には精霊が宿るというように一種の精霊(ピー)信仰も盛んである。
土産物屋で見つけたなごみの造形
この公園には多くの訪問者があり,人々はテーブルとイスの置かれた場所で食事をしたり,おしゃべりを楽しむことができる。公園の前にはお土産屋が並び,中には石の質感をもった中国風の人形もあり,ちょっといい感じである。
サインガム公園からの帰りに寺院があり,壁の無い建物でタイ古式マーサージをしている。値段を聞くと1時間100Bと格安である。カーテンの陰で薄手のゆったりとしたパンツに着替え,マットの上に横になる。
天井のファンから心地よい風が送られてくる。タイ古式マッサージは筋肉を揉みほぐすというより関節に力を加えて身体機能を向上させるものだ。力のある女性にあたるとけっこう痛い思いをするが,終わると体が軽くなったような気がする。ちょっと体が疲れているようなときはお勧めである。
メル・ブラマタ−ト遺跡
町の中心部に小さな丘があり,その上に半分崩れかけたレンガの建造物がある。18世紀,アユタヤ朝の時代に建造されたストゥーパで,地元では「メル・ブラマタ−ト」と呼ばれていると説明文に書かれている。
夕方の屋台で母親の手伝いをする
この丘の北側は公園になっており,夕方からたくさんの屋台が出る。今日の夕食はバーミーナム(タイ風ラーメン)と豚の串焼き2本で40B(140円)である。この他にも出来合いのおかずを並べた屋台もあり,安くておいしい食事には苦労しない。また,床屋もカットだけなら40Bと住みやすい国だ。
托鉢風景
早朝の道路では僧侶が托鉢に回っている。人々は炊き立てのごはんやビニール袋に入ったおかずを僧侶の持つ鉢の中に入れる。僧侶はその人のためお経を唱える。
上座部仏教においては僧侶に多くの厳しい戒律が課せられている。その一つとして僧侶が食事の支度をすることは禁じられている。僧侶は早朝に裸足で托鉢に回り,在家の人々は食事を差し上げて徳を積む。上座部仏教固有の美しい光景であり,仏教への信仰が篤いタイではどこの町でも見られる。