人口30万人,モン州の州都であり,ミャンマー第三の都市である。タンルゥイン川の河口に開けた町はいたって静かで,イギリス植民地時代の町並みを保っている。また,同時に港湾都市でとしてタイとの貿易の窓口となっている。
今回,旅行記の書式を変更するにあたり,地図でこの町を確認した。するとこの町は北から南に向かうのタンルウィン川と東から西に向かうジャイン川が交差するところにあることが分かった。
通常は川は合流すると1本にまとまるが,ここでは河口に近いため直角に交差するような形になっている。僕がモーラミャインの町から眺めていた川の風景において対岸は大きな島となっていることも初めて知った。
モーラミャインは「インドシナ東西回廊」の西端としてときどき話題になる。インドシナ東西回廊とはベトナムのダナン,ラオスのサバナケット,タイのムクダハン,ミャンマーのモーラミャインを結ぶ全長1450km,ほぼ北緯 17度線に沿って結ぶ道路整備プロジェクトである。
アンダマン海と南シナ海の間には細長いマレー半島が突き出しており,東西方向の物流の障害となっている。東西回廊は陸路でその間を結ぼうとするものである。すでにダナンとムクダハンの区間550kmは完成している。
キンプン→モーラミャイン 移動
キンプン(10:00)→チャイトー(10:15)→昼食(10:40)→モーラミャイン(14:00)とバスで移動する。キンプンからモーラミャインまでの直行バスが運行されている。前日に広場の東側にあるチケット売り場に行き,時間を確認しチケットを買う。
ここはかってのFEC(兌換紙幣)の名残でドル払いである。ミャンマーのバス料金は必ずしも距離に比例しない。モーラミャインまでは約150kmなのには5$は高すぎる。FEC時代の外国人料金までも残されているようだ。
今回の旅行では入国時にドルからFECへの強制両替はなくなっており,街中では自由にドルからチャットに両替することができた。このため,僕はFECそのものが廃止されたものと思っていた。ところが,実際にはFECは生き残っていた。
FEC(oreign Exchange Certificate)とはミャンマーだけで通用する外貨兌換券である。正規のルールでは外貨をミャンマーで使用する場合は一旦外貨をFECに交換した上で,公認交換所で政府公認市場レート(1FEC=450チャット,2008年2月現在)により交換する必要がある。
公定レートは悪名高い軍事政権が勝手に設定したもので,実体経済は実勢レート(1ドル=1160チャット)で動いている。投資のように大きな金額が動く時はどちらのレートが適用されるのかは分からないが,2005年時点ではドルをFECに替える旅行者は誰もいなかった。
1995年に旅行した時は入国時に300$を300FECに強制両替させられた。この当時は,国内交通費や宿代はFECで支払うことができたし,FECをほとんど実勢レートでチャットに両替することができた。そのため,300$をミャンマーで使い切る分には損をしたという感じはなかった。
ところが,FECの記事を朝日新聞で目にすることになった。2008年5月2日に大型サイクロンがミャンマー南部を直撃し,国連機関の発表によると240万人が被災し,7万人を超える人々が死亡・行方不明になるという大きな被害が出た。
被害の大きさと国際世論に押され,軍事政権はしぶしぶ国際援助を認めた。しかし,援助が本格化してから問題のFECが実勢レートで不自然に20%ほど急落したと報じられている。ドルとFECの実勢レートの差分が軍事政権の臨時収入になるという仕組みである。国民の命を担保にして金を荒稼ぎしようという政府があるとは,絶望的な気持ちになる。
06時に起床する。荷物をパッキングして外に出るとまだ薄暗いが気持ちの良い朝だ。キンプンは宿がもう少し良ければもう一泊してもよいところだ。モーラミャインまでの道路はおおむね快適である。運転手の横の席だったので前が良く見える。道路の舗装幅はバスの1.5倍ほどしかないので,例によって大型車同士がすれ違うときは片側の車輪をダートに落とさざるを得ない。
道路の周辺はゴム林が多い。プランテーションでも緑が多いと気持ちがよい。タンルウィン川の近代的な橋を渡るとモーラミャインの町である。BSは町からずいぶん離れている。この町の情報は何ももっていなかったので,同じバスのヨーロピアンと一緒にオートリキシャーで宿に向かう。
タンルウィン川沿いにある「Breese GH」はいくつかのレベルの部屋があった。しかし,2階の快適そうな部屋はヨーロピアンに占拠され,1階の狭い部屋に泊まることになった。部屋は3畳,1ベッド,まあまあ清潔である。共同のT/Sはヨーロピアンの宿泊客が多いせいかとても清潔である。3$で朝食付き(本当は3$の部屋には朝食は付かないらしい)なのでぜいたくは言えない。
モーラミャインはタンルウィン川の河口に開けた町だ。宿は川沿いにあり,2階のテラスからは川がよく見える。このテラスは食堂にもなっているので,いつも一番乗りでテラスに出て,朝食(トースト,オムレツ,バナナ,コーヒー)をいただきながら川の風景を楽しんだ。
チュエゴッティ
キンプンからモーラミャインに移動するとき,昼食時に立ち寄ったドライブインで大きな柑橘類が売られていた。グレープフルーツの1.5倍はありそうな大きさだ。迷っていると,おばさんに売りつけられた。暑さ1cmほどの厚い皮をナイフで切り取り,半分に切ったものが150チャットである。白い果肉は水分が多く,適度な甘みがありとてもおいしい。暑い季節にはもってこいの果物である。
現地ではチュエゴッティと呼ばれ,モーラミャイン周辺が産地だそうだ。日本でいうとブンタンに相当する果物である。その昔,フィリピンでトライして悪い印象を持ったので今まで目もくれなかったが,おばさんのおかげで,僕のトロピカル・フルーツのレパートリーがまた一つ増えた。
注)他の地域でも食べてみると,グレープフルーツと同様に果肉は白系統のものと赤系統のものがある。
タンルウィン川の風景
モーラミャインのみどころのひとつはタンルウィン川である。チベットに源をもち,雲南,ミャンマーを流れ下ってきたアジアの大河の終点がここである。ここではタンルウィン川が南北に流れているので,その東に位置するモーラミャインではきれいな夕陽を見ることができる。
川幅はゆうに1kmはある。対岸は大きな島になっており,その向こうはアンダマン海である。汽水域のため漁がさかんで,朝から夜まで小舟が川面を行きかう。川沿いにはいくつかの船着場がある。
いずれも鉄製の浮き桟橋と鉄製の連絡橋をつないだものである。川の水位は季節より変動するので接続部分は上下に動くようになっている。船着場は人の動きが多いのでそれに当て込んで,可動橋の両側には物売りのおばさんが並んでいる。
街の北側には両岸を結ぶ近代的な橋ができたので,大きな船はその下を航行できない。そのため南側には海と結ぶ定期船が運航しており,タンルウィン川の上流部に船で行こうとすれば橋の北側の船着場まで行かなければならない。
川を行き交う小舟や漁師の小舟もよく桟橋を利用している。桟橋から離れようとしている小舟にカメラを向けると子どもと父親が手を振ってくれる。ぼくもありがとうの気持ちを込めて手を振り返す。ささやかな国際交流である。
モーラミャインの街を歩く
タンルウィン川の東側には立派な道路があり,宿はその通りに面している。川側には歩道もあり,車道との間には手入れの行き届いた並木になっている。午前中はこの並木が歩道に木陰を提供してくれるが,本当に欲しい午後の時間帯には車道側が木陰になる。
川沿い道路と平行して東側に街のメインストリートがある。家屋はほとんどが2階建てあるいは3階建てで,背の高いビルは見当たらない。子どもたちは気軽に写真に応じてくれる。どの子も顔にタナカでおもしろい図柄を描かれている。それらは彼女たちの母親の作品である。中には母親が手を抜いて顔全体になすり付けたような子もいる。日焼け止めの効果があるのか,肩から腕まで塗られている子どももいる。
街中の庶民の足はサイカーである。自転車の横に客用の座席を付けたもので,サイドカーがなまってサイカーになった。外国人の場合,料金は1kmで200-300チャット(25-35円)である。地元の人々はたぶんその半額くらいが相場であろう。
ここは小さな町なのでサイカーのお世話になる機会はほとんどなかった。パアンに移動するとき橋の北側の船着場まで行ってもらった。およそ2kmで400Kyである。
名前の分からない寺院
近くに名前の分からない寺院がある。周囲はきれいにペイントされた塀で囲まれており,入口には巨大な菩提樹が枝を伸ばしている。写真を整理していて大きなパゴダを横向きで写した写真がほとんど無いことに気が付いた。思うに寺院の敷地の中からでは巨大なパゴダの全体を入れることができないのだ。内部の仏像は一様に白い肌で髪と僧衣は金色に塗られている。
すばらしい夕陽にめぐりあう
夕陽の風景は見事なものだ。ほとんど雲が無いにもかかわらず,西の空と水面が赤や黄色に染め上げられている。この時間にも漁をする小舟が行き交い風景にとてもよいアクセントを添えている。
最初はにじんだような黄色い光球であった太陽は,次第に光を弱め対岸の山の端にかかる頃はきれいな黄色の球体に変わっている。太陽がすっかり見えなくなっても川岸のベンチに坐り,素晴らしい光のショーの余韻に浸る。
夕食中の子どもたち
夕方から川沿いに食べ物の屋台が出る。日が沈んでから散歩がてら夕食に出かける。日中の暑さはどこかに行き,半そででちょうどよい温度だ。一軒の家の前で子どもたちがごはんを食べている。カメラを構えると大はしゃぎである。みんながこの子たちのようだと写真は楽なんだけど…。
二つの学校
モーラミャインの表通りは立派な建物が多く,街並みはきれいだ。しかし,きれいなだけでさして面白くない。これに対して,裏通りを歩いていると人々の生活が見られる。
長屋のような建物が並ぶ界隈で子どもたちに出あった。大きな袋を肩から下げている。子どもたちは小さな家に入ろうとする,どうやら塾のようだ。ミャンマーではなぜか塾がたくさんある。たいてい女の先生が一人で教えている小さなものだ。学校の授業だけでは十分な学力が得られないのだろうか。
ミャンマーでは学校の敷地内に入れる場合と入れない場合があった。モーラミャインの小学校は後者である。朝の入門時にも入口で先生が見張っており,ちょっと入って写真という雰囲気ではない。
門のすぐそばに売店がある。学用品以外にも豊富な食べ物が用意されている。子どもたちは授業の前に飲食が許されているようだ。それにもかかわらず,ゴミ捨ての習慣が出来ているのか校庭はとてもきれいだ。
托鉢の帰りであろうか,絵になるね
近くの丘の上にチャイタンラン・パゴダがある。パゴダに向かう道は大きな木の並木になっており感じが良い。木もれ日の中を僧侶が歩いてくる図はとてもいい絵になる。
チャイタンラン・パゴダ
丘の上までは屋根付きの長い階段を登らなければならない。ここはもう履物禁止である,小石が散らばっておりちょっとつらい。丘の上にはパゴダを中心に寺院が配置されている。今まで見た中央パゴダはあまりにも巨大であったたため,近くからはフレームに収めるのに苦労してきたが,ここのものは写真をとるにはちょうど良い大きさである。
丘の上からの眺望
最上部は360度のビューポイントになっており町を一望できる。
菩提樹の若葉
パゴダの敷地内には大きなボダイジュの木があり,若葉が出てきている。最初赤みがかっていた若葉は,薄い黄色,さらに薄い緑を経て緑色に変わる。2500年前,苦行を放棄し,瞑想を修行の中心においた釈迦は,アシュヴァッタ樹の下で大いなる悟りを開いた。
悟り(Bodhi)とは目覚めること,あるいは知ることを意味する。ブッダ(Buddaha)とは目覚めた人を意味する。Bodhiは中国語に音訳され我々が知る「菩提」になる。
この故事にちなんでアシュヴァッタ樹は「菩提樹」と呼ばれるようになる。しかし,中国シナノキが先に菩提樹としてもたらされたため,日本では本家の菩提樹はインドボダイジュという名前で区別される。
マハムニ・パゴダ
同じ丘の上にはマハムニ・パゴダがある。渡り廊下を歩くときは裸足にならなければならないので,横の道を歩いてマハムニに向かう。ビルマ式の寺院屋根の上に金色のピラミッドのような六重の塔があり,その上にパゴダの上部にある相輪が乗っている。ピラミッド部分をパゴダの本体に見立てているようである。
建物の扉はすばらしい細工の彫り物で飾られている。その中には本物よりは一回り小さなマンダレーのマハムニ仏のレプリカが置かれている。周囲の壁にはマハムニ仏に関する伝説が描かれている。
定期船の乗客
モーラミャインにはたくさんの船着場があり,ミャンマー各地に向かう大きな船が出入りしている。ちょうど大きな船が接岸していたので近くの船着場に見に行く。甲板は1層でその上に屋根がかけられている。内部はすごい混みようだ。みんな大きな荷物を抱え,甲板にそのまま坐っている。ほとんど歩くのも困難な状態である。
乗船口近くで食べ物を売るおばさんは大忙しだ。僕にも食べろと勧めてくれた。しかし,食材がなんだか分からないので辞退した。奥の方に子どもがいたので皆さんに失礼しながらそちらに行き,一枚とる。
その子の親と一緒に画像を見ていると,次々と撮影希望者が連れてこられる。希望する子どもたちを一枚づつ撮っていくと,乗客とも仲良くなり若い女性の写真も撮ることができた。
制服姿の中学生,これからみんなで登校するところである
竹筒に入ったヤシ酒
ヤシ酒はオウギヤシから採取される。オウギヤシは花茎に花をつけ,自然状態では鈴なりの実をつける。この実は食用にすることができる。この木の大きな花房を切ると甘い樹液が染み出してくるので容器に受け,毎朝回収する。翌日のため花房を少し切り取る。
樹液は自然に発酵し,回収された時点でヤシ酒になる。アルコール度数はビールの半分程度であり,ちょっと酸っぱいけれどさわやかな味で暑気払いにはもってこいの飲み物だ。
朝取りのものを午前中に飲むのが良い。夕方になると酸味が増し,翌日になるともうやめた方が良い。賞味期限1日のヤシ酒はその日のうちに,できれば午前中に売り切るのが望ましい。地元価格は分からないが,ここでは二人の客が朝から飲んでいた。
乾燥させ砕いたビンロウの実をキンマの葉でくるむ
乾燥させ砕いたビンロウの実を石灰を塗ったキンマの葉でくるんだ嗜好品は台湾から東南アジアにかけて広く普及していた。ビンロウの実はある種のアルカロイドを含み軽い興奮作用があるとされている。
これを口の中で噛んでいると唾液が真っ赤に染まり,それを飲み込むと胃を炒める原因になるのでペッと吐き出す。これがとても汚いので多くの国では規制されるようになってきた。