メーサリン(07:00)→メーホンソン(11:00)と国境沿いの道を路線バスで移動した。がらがらのバスは定刻通りに出発する。国道に出て少し行くと小さな村が点在している。近くの山は一面煙に覆われている
。焼き畑ではなく森の下草や枯れ葉を燃やしているようだ。火線はゆっくりと下草を舐めながら時々大きな炎をあげて進んでいく。樹木の下50cm位までは黒くなるが大きな支障はないようだ。
途中でたくさんの中学生が通学のため乗り込み,約80%の乗車率となる。道はアップダウンを繰り返す。バスは登りはあえぎながら,下りは猛スピードで山道を行く。気温は上がらずトレーナを着込んでちょうどよい温度で,快適な移動である。
秘境と呼ばれていた町
7年ぶりにメーホンソンを訪れた。当時は秘境(僕はあまりこの言葉が好きではない。我々にとってアクセス困難な辺境でも,住んでいる人にとっては普通の場所なのだ)と呼ばれていたメーホンソンも観光化が急速に進行している。バス停からジョン・カム湖方面に歩き出す。湖の周辺の建物は7年前とずいぶん変わっており,なかなか記憶とつながらない。
ジョン・カム湖の向こうにはワット・ジョンカムが見える。急速に変貌する観光地化の中で,このお寺だけは昔のたたずまいを残しており少しほっとする。それにしても空がけむり,写真の写りは悪い。
ジョン・カムゲストハウス
ジョン・カムゲストハウスはまだ残っていた。当時のヨーロッパ人経営者は故郷に帰ってしまい,現在はタイ人が経営しているとのことであった。2階の部屋は4畳半の板張り,マットレスが2枚置かれているだけだ。壁は竹の皮を編んだものでちょっと風情がある。トイレとシャワーは共同で1階にある。この部屋代は当時と同じ80Bと聞いて少なからず驚く。
チェックインのためスタッフの詰め所に行くと巾の広いビーフンを使って焼きそばを作っている。例によって欲しそうな顔をしていたら1皿いただくことができた。お礼として水ヨーヨーを2個作り子どもたちにあげる。ヨーヨーの遊び方は実地で教えてあげたが,小さな子どもたちはまだちゃんとつくことができず振り回している。それでも気に入ったらしくずっと手放さないでいる。
少数民族のおみやげ出張販売
湖の周辺や市内ではリス,メオなど少数民族の女性たちがサイフや小物入れなどの民芸品を直に販売している場所をいくつか見みかけた。彼女たちは毎日自分たちの村から出張販売に来ているようだ。色鮮やかな民族衣装を着用しており,とてもよい写真になる。彼女たちの民芸品は民族衣装の色柄をそのままにしたカラフルなものが多い。
池の周りににあるリスの少女が店番をしている民芸品の露店を訪れる。ちょっと商品を見せてもらう。少し大きめの物入れが気に入り,値段交渉をして購入する。これで写真が撮れるとカメラを向けたら店が異なるらしく,「私たちのところからも買ってよ」と言われた。
早朝の市場にて
朝食のため市場に出かける。北側の道路ではお坊さんが朝の托鉢に回っている。人々は炊き立てのごはんやビニール袋に入ったおかずを僧侶の持つ鉢の中に入れる。僧侶はその人のためお経を唱える。上座部仏教においては僧侶に多くの厳しい戒律が課せられている。
その一つとして僧侶が食事の支度をすることは禁じられている。僧侶は早朝に裸足で托鉢に回り,在家の人々は食事を差し上げて徳を積む。上座部仏教固有の美しい光景であり,仏教への信仰が篤いタイではどこの町でも見られる。
朝食は小さなまんとう2個と具の少ない中国がゆにする。ここのおかゆは黙っているといろいろなものを入れられ,おかゆ本来のおいしさが味わえない。トッピングは1品でストップを出し,市場のにぎわいを観察しながらいただく。
メオ(モン)族の村を訪問する
ジョン・カムGHの主催するツアーで少数民族の村を訪問することにする。車は古いジムニーで昨日スタッフが塗装を済ませたばかりだ。乗客は自分と気の弱そうなドイツ人男性の2人である。
車は国道から急な山道に入る。周囲の山は何回か焼き畑が入っているらしく大きな木は見あたらない。高度が1000mを越えたあたりに戸数数十戸のメオ族の集落があった。家は高床式ではなく,板壁,木の葉葺きもしくはトタン屋根である。乾期の今は焼き畑作業のためか,この集落では男性の姿はほとんど見あたらない。
女性たちの伝統衣装
女性たちの伝統衣装はズボンか巻スカートと上着の組み合わせである。上着の丈は腰より少し上までの短いもので,黒をベースに襟や腕の部分にはメオ族らしくないあざやかな色の刺繍が施されている。また背中にはH型の独特の模様が付いている。
彼女たちは民族伝統の刺繍の技術を使い,観光客用の小物入れ作りに精を出している。少女たちは母親の作業を見ながら伝統の技を習得していく。子供たちの服装は一部を除きほとんどタイ化されている。写真を撮ったお礼にキャンディーやフーセンをあげると本当にうれしそうに受け取ってくれる。
小学校を発見
集落から少し離れた丘の上には小学校がある。ちょうど昼食時で,調理室では大きな鍋から野菜のスープを容器に入れて一人ひとりに配られている。子供たちの服装は半数が民族衣装である。村の未就学児童はほとんどTシャツ姿だったのと対照的である。親たちは学校に行くときは子供たちにきれいな民族衣装を着せようとしているのかもしれない。
籾摺り用の足踏み唐臼
次に白カレン族の村を訪問。服装はタイ化しており,お年寄り以外はつまらない。一軒の家に唐臼があったので試しに踏ませてもらった。
唐臼は籾摺りのための道具である。日本では機械により籾をロール面の間で擦り,籾殻を擦り落としている(コンバインは別の方法で籾殻を除去している)。この方法の原型は江戸時代にあり,そのため日本では「籾摺り」という言葉が一般的である。
しかし,中国南部,東南アジアでは唐臼,あるいは杵つきにより籾殻をはがしている。杵つきによる籾殻の除去は重労働だ。家族一食分のコメを作るのに1時間はかかる作業となる。それに対して唐臼は足の力を利用して,シーソーのように杵を持ち上げ,落下させて籾に衝撃を与え,籾殻をはがすことができる。腕の力に頼る杵つき型より楽な作業となる。
お葬式の家
湖の裏手の道を歩いてみる。すぐに田園風景となる。家の中からお経が聞こえてくるので覗いてみるとお葬式のようだ。家の前には白いシートで日よけが作られ,20人くらいの人たちが手を合わせている。僕も最後尾で参列してみた。日本のように棺や遺影のようなものは見当たらない。僧侶は家の中におり,ここからは見えない。
隣の家では精進料理ならぬ豚肉料理が準備されている。お経が終わるとテーブルが広げられ,料理が出される。豚肉と野菜の汁物,ミンチ肉の炒め物であり,少し早い昼食をいただく。
山焼きの理由
それにしても乾期なのに太陽がほとんど見えない。周辺でさかんに行われている山焼きの煙が原因のようだ。その様子を見るため,煙が立ち上っている東の山に向かった。焼き畑が終わり1-2年目くらいの小さな木が育ち始めた土地を横切り,枯れ葉が積もって滑りやすい岩場の斜面を登る。
山焼きは無制限に燃やしているわけではない。数人の若者がリーダーの指示により枯れ葉をどけて延焼範囲をコントロールしている。火は風下からつけられ,決められた範囲が火につつまれる。
枯れ草と枯れ葉はほとんどきれいに白い灰になり,生きている立木は下の50cmが黒くなるだけで影響は無さそうである。火はときには枯れ草を大きな炎でつつみ,音をたてて燃え上がるが山火事になることはない。
乾燥した山に火を付ければ普通は山火事になる。それを防ぐためには燃えるものの量が山火事を起こすには至らないようにきちんとコントロールする必要がある。そのため,彼らは定期的に山焼きを行うのではという自分なりの結論に達した。