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イスラム教の大預言者ムハンマド(570年頃-632年)が天に召されてから,彼の後継者は教主(カリフ)と呼ばれムスリム共同体(ウンマ)の最高指導者とされた。この正統カリフ時代は長くは続かず,656年に若手不満分子が第3代カリフのウスマーンを暗殺し,第4代カリフとしてムハンマドの従兄弟でありムハンマドの娘ファティーマと結婚したアリーを選んだ。

しかし,それはムスリム (イスラム教徒)共同体の総意でカリフを選ぶというそれまでの伝統に反していたため,ムスリム社会はアリーを正統なカリフとして認めるかどうかで二分された。簡単に区分するとアリー支持派は後のシーア派であり,アリー不支持派は後のスンニー派という図式となる。

661年にアリーが暗殺され,ウマイヤ家のムアーウィヤがカリフとなって「ウマイヤ朝」を開くと,これに対抗するアリー支持派はアリーとその子孫のみがイマームとしてムスリム共同体の指導者となる権利を持つと主張するシーア・アリー(アリーの党派)としてまとまっていく。

680年に次のカリフ候補としてアリー支持派が招聘したアリーの息子フサイン一家が途中でウマイヤ朝軍に包囲され虐殺された(戦闘で死んだという説もある)。これが「カルバラーの悲劇」であり,現在はイラクにあるカルバラーはシーア派最大の聖地となっている。この虐殺が引き金となりアリー支持派は独自の共同体を形成するようになる。

シーア派では「カルバラーの悲劇」を殉教と見なして,毎年ムハッラム月の最初の10日間にその死を悼む殉教祭 (アーシューラー) が行われる。元来はムハンマドが定めた断食潔斎の日(ユダヤ教の贖罪の日に相当する)であったが,フサインの殉教日と重なったためシーア派ではアーシュラー哀悼祭となった。

人々は黒い喪服に身を包み,鎖の束で自らの胸や背を打ち付け,声を合わせながら行進する。これは「カルバラーの悲劇」で惨殺されたフサイン一家の痛みを味わうためであり,シーア派ムスリムとしての連帯を促すものでもある。

シーアはアラビア語で「党派」を意味する一般名詞であるが,いつしかシーアだけで「アリーの派」を意味するようになった。こうしてムスリム社会はスンニー派(スンナ派,慣行の意)とシーア派に分かれることになった。