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第二の人生は南の島で(2006年07月18日)

マレーシア・コタキナバル市街地からはずれた高級マンションの一室。伊藤順子さん(48)が電子オルガンで奏でるヒット曲「花」に、窓際のソファに座った母せつ子さん(82)が聴き入った。「荷物をまとめるのに1カ月、届くのに2カ月。3カ月ぶりに弾いたら手足が自分のものじゃないみたい」

順子さんは約27年営んだ音楽教室をたたみ、5月半ば、仙台から2人でマレーシアのサバ州コタキナバルに引っ越してきた。マレーシア政府が推進する「マイ・セカンド・ホーム・プログラム」に、せつ子さん名義で申請しているところだ。主に中高年を対象に、定期預金など一定の条件を満たせば10年有効のビザ(査証)が取れる。04年までに英国、中国、インドネシアなどの約3400人が取得している。

独身の順子さんは10年ぐらい前から、いずれは南の島で暮らそうと考えていた。昨年10月、マレー半島西部のペナン島とコタキナバルを下見した。さわやかな風が吹くコタキナバルが気に入ったという。両親とともに12月、再度下見した。パーキンソン病を患うせつ子さんは「暖かいと体調がいい。それに長い間がんばって働いてきた娘がどうしても、というのだから」と同行を決めた。父(85)は「日本男児がなんで海外に住まなきゃならないんだ」と言って仙台に残った。

仙台の自宅では、せつ子さんは、はって室内を移動することもあった。今は室内では一人で歩けるが、外出には車いすを使う。「車いすのせいか、地元の皆さんはとても親切よ。段差のある所では、年かさの人が若い人に移動を手伝うよう促してくれる」。マンションはベッドルーム三つと居間、台所がついて月額約4万5000円。預金金利や65歳からもらえる年金を慎重に計算した。窓からは住宅街の向こうに熱帯の緑が望める。「日本が嫌になったというわけではない。でも正直、戻る気はありません」と順子さんは話す。

長期滞在 増える日本人

熱帯雨林のエコツアーやダイビングの拠点になるサバ州は、「日本人が定年後を過ごしたい地域としてハワイに次ぐほどの人気がある」とも言われる。「セカンド・ホーム」を利用してビザを得た日本人は、在コタキナバル日本総領事館が把握しているだけで8人。3カ月滞在が可能な観光ビザで出入国を繰り返している人を含めれば、推定で20人以上がコタキナバルで長期滞在している。

市内のリゾートホテルには長期滞在用の住宅の下見に来る日本の中高齢者が確実に増えているという。「1年前は月1、2組だったのが、今では4、5組はいる」と担当者。市中心部では高級マンションの建築ラッシュが起きている。

高校の社会科教諭だった景守豊さん(65)と、大学で樹木の研究をしていた紀子さん(65)夫妻は昨年4月、観光ビザで大阪からコタキナバルに来た。一時帰国や近隣の国への旅行をはさみ、滞在は1年を過ぎた。「働いている間は慢性的に睡眠不足だった。今は精神的なアカを取っている感じでしょうか」と紀子さん。ともに英語の日常会話ができるが、大学院時代、1年間マレーシアで暮らした豊さんは片言のマレー語も話す。

「それもマレーシアを選んだ理由の一つでした。地元の言葉が話せればすぐに友達ができる。年をとって外国に住むなら、若い時から言葉を学び、外国を経験する必要があると思う」と豊さんは言う。現実には「長期滞在者の3分の2は言葉に問題がある」(総領事館)。賃貸契約を巡るトラブルや、テレビの受信契約など日常の問題が総領事館に持ち込まれるという。

受け入れ課題「覚悟必要」

突然の不幸もある。今年2月、内陸部の町で自転車に乗っていた60代の日本人男性が転倒し、大腿(だいたい)骨を骨折した。救急車で数時間かけてコタキナバルの病院に搬送したが、手当てが遅れて亡くなったという。マレー半島西部に住んでいる男性が、コタキナバルを旅行中に持病を急に悪化させ死亡した例もある。

現地に日本からの高齢者を受け入れる仕組みや機関があるわけではない。地元民にも日本人高齢者が増えているという意識はない。「娯楽の場の提供や病院の仲介をするような組織を、移住者たち自身が金を出し合ってつくる必要がある」。「セカンド・ホーム」の受け入れ窓口であるサバ州観光局のハンフリー・ギニボンさんは話す。

サバに20年以上住む、50代の日本人の書店経営者は「物価が安いという理由だけで来ると失敗する。きれいな景色もすぐに飽きる。暮らすなら自分で何でもできることが大前提だ。万一、暴動などがあれば外国人が最初にやられる、ぐらいの覚悟を」とくぎを刺す。(小倉いづみ)

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