「天国への棚田」残せるか
フィリピン・イフガオ州 楽園(2)2006年06月13日
「作物は毎日手をかけてやんないとだめになる」。フィリピン・ルソン島中部のイフガオ州バナウエ。104歳になるグミ・バハタンさんは毎日,自宅前の菜園に向かう。傾斜地の棚田には行けなくなったが,今も農作業はやめられない。「天国への階段」と呼ばれ,世界遺産に登録された棚田の絶景は,そんな人たちが守ってきた。 グミさんは物心ついた時から親を手伝い,ひたすら棚田で米を作った。おなかに子供がいる時もほとんど休まず,100歳近くまで田んぼに通った。「怠けると,かえって身体に悪い」。子供たちにそう話した。
けれど,14人の子供のうち農家になったのは3人。「棚田だけでは,現金収入がない」と,息子のチェスターさん(58)は言う。町の議員をしながら,棚田と果樹園で農業を続けた。棚田はイフガオ州や隣接するベンゲット州などの標高700メートルから1500メートルの山肌に広がる。このうちイフガオ州の棚田群が95年に世界遺産となった。人と自然との共存が織りなす風景に,観光客も増えた。
しかし,村の若者が農業を継がなくなった。棚田で伝統的に作ってきた米は,市場に出回るものとは別種。人件費のわりに,利益はほとんどないとの調査もある。普通の米を植え付けたが,高地の棚田ではうまくいかなかったという。 田には雑草が生え,石積みやどろで固めた堤は崩れ落ちた。潅漑(かんがい)設備が壊れてもなおす人がいない。先人の知恵や技術が途絶えてゆく。01年には存続が危ぶまれる,と「危機遺産」に登録されてしまった。
「棚田は世界遺産の中でも最も保存が難しい」と,州のグレン・プルデンシアノ副知事は言う。「建造物なら近づく人を制限して保存できる。でも,棚田は人を遠ざけたら残せない」。米を作り続けなければ崩れていくが,収益のない作業を農家に強制はできない。保全と生活をどう両立させるか,答えは見えない。
山の保水力が伐採で劣化
バナウエのバタッド村にある棚田を歩いた。前のめりに転びそうな急傾斜を行くと,森の奥からチェーンソーで木を切る音が響いていた。木彫りの名手でもあるイフガオ族は,共有林を集落で管理してきた。山は棚田に流す水をためおく機能も併せ持つ。しかし伐採で木が減り,山の保水力が失われている。
キアンガンに住むロペス・ナウヤックさん(70)はこれを嘆き97年,たった1人で植林を始めた。生業の木彫りをやめ,自分の棚田の補修も後回し。山で種子を集め,自宅の一画で苗木に育て山に植えている。「イフガオには,切ったら植えるという伝統があった」。ナウヤックさんは言う。それが消えたのは,政府が伝来の森を国有林と宣言してきたからだ。「切っても政府に取り上げられる。だから切りっぱなしになった」 。90年代,共有林はイフガオ族の集落の所有に戻された。しかし,森は元に戻らなかった。
ナウヤックさんの運動は次第に輪を広げた。00年からは日本のNPO「IKGS」が協力,国際協力機構(JICA)の支援で植林や生活向上の事業を続けている。ナウヤックさんは,より高度な技術と,大規模な植林をするための施設が必要だと訴える。「急がなければ。今も森は失われ続けている」
個人尊重を受け継ぐ伝統
「イフガオには『自由』に当たる言葉がない」。イフガオ族のシルバノ・マヒウオ・フィリピン大教授が言う。「自由が当たり前だったからです」。個人の意思を尊重する伝統こそが棚田を守ってきたと言う。「棚田は奴隷が強制労働で造ったものではない。先祖が自らの意思で造り上げたからこそ受け継がれてきた」
祭祀(さいし)をつかさどる「ムンバキ」の家に生まれた。農作業の折々,村人の誕生,死亡。イフガオには50種以上のバキ(儀式)がある。マヒウオさんは長男としてムンバキを継ぐはずだった。「それでも私が学校へ行きたいと言うと,家族は許してくれた」。8歳の時には,別のムンバキ家の娘といいなずけにさせられた。両家が集まる日,家出して抵抗したら,祖母が言った。「孫は結納を嫌がっている。やめましょう」。祖父も父も,相手方も異存なく破談になった。「男も女も,大人も子供も同じように尊重しなくてはならないことを祖母が教えてくれた」
ムンバキは弟が継いだ。伝統を受け継がないことに責任は感じる。でも個人を尊ぶイフガオの魂が失われるなら,形ばかりの棚田や祭祀を残しても意味はない,と思う。この風景を100年間見つめてきたグミさんに,棚田の一番美しい時を聞いた。「作業を始める朝と,実りの時」。楽園の風景には,いつも人の姿がある。(木村文)
1990年代の終わりから急速に変貌した
フィリピン独特の小型乗り合い自動車「ジプニー」が山肌に刻まれた砂利道をノロノロと走る。バナウェから北東へ15キロ。約1時間かかってバンガアン村にたどり着く。若い村長,サミュエル・アビッグさん(36)は棚田の様子が急速に変わり始めた10年ほど前のことを話し出した。
「その年は長い間,雨が降らなかった。山から流れる水路も枯れた」棚田はひび割れた。人々は祈った。雨を願った。雨期に入ると,雨雲はやって来た。しかし,今度はとめどなく降り続いた。棚田のひび割れに雨が染み込み,棚田を支える石垣が崩れた。極端な乾期の少雨と雨期の豪雨。世界はエルニーニョ現象による異常気象に見舞われていた。
異常気象の後は,人の指ほどの太さがあるミミズが棚田に大発生した。平地なら土地を耕し,養分を与えてくれる農民の味方だが,巨大ミミズは石垣を壊した。数十年前に食用に導入した貝が大発生し,田の土台を突き崩し始めた。森林伐採で山の保水力も限界に来ていた。一斉に棚田の崩壊が始まった。
「何もかもが一度に起きた」アビッグさんは悪夢の日々を振り返った。 インバンガド・マリーンさん(73)は道路から山越えの道を徒歩で約2時間かかってたどりつくバタッド村に生まれた。最奥の村からバナウェ町の中心部に出て結婚した。子供はなかった。夫が死去するとバンガアン村の親せきを頼って移り住んだ。
イフガオ族は盛大な葬儀を営む。遺体は近親者の住む家すべてを回る。遠くの土地で亡くなった時も遺体は故郷に戻り,葬儀が終わると遺骨は家の軒下で保管される。マリーンさんが1人で住む高床式の家を訪ねた。亡くなった夫の遺骨の場所をたずねると「バナウェの墓地に葬った」と言う。家族が遺骨を家で保管する習慣がバンガアンから消えて久しい。昨年,バンガアン村で一軒の家が山崩れに押しつぶされ,1人暮らしの60歳の女性が死亡した。家族が近くの町に出稼ぎに行っている間の悲劇だった。
イフガオ州政府広報部門に勤務し,長年,棚田の保存運動にかかわってきたジェネリン・ナンリハンさん(35)は「世界遺産に登録され,この地に保存のための予算や支援が入った。人々は,初めてお金を持つ喜びを知った」と語る。お金を稼ぐには,棚田にしがみつくより町に出稼ぎに行く方が楽だ。そう考えた人々は,崩壊する棚田を放り出して町に出た。
村から町の中心部に向かう朝一番のジプニーには屋根の上にも人があふれる。若者が町で過ごす昼の間,村には老人と子供が取り残される。「昔は棚田が壊れても,家族や村人が力を合わせて修復した。しかし,今,家族も近所もバラバラになった」。ジェネリンさんの目には,村人や家族が力を合わせて守ってきた棚田のすべてが崩れ落ち,荒涼とした光景だけが残る,10年か20年後のイフガオの山々の姿が映っているようだ。
世界遺産の「ライステラス」が広がるイフガオ州の人口は,11万1368人(80年5月)▽14万7281人(90年5月)▽14万9598人(95年9月)▽16万1623人(00年5月)と年々増加傾向にある。しかし,地元紙の報道によると一家の平均年収は,ルソン島北部の中心都市バギオ市の16万3085ペソ(約32万6000円)と比べるとイフガオ州では5万7481ペソ(約11万5000円)と大きな格差がある。