亜細亜の街角補足

パターン死の行進


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■バターン死の行進

太平洋戦争が開始直後に日本軍のフィリピン侵攻が開始された。1941年12月8日、日本軍攻撃機はクラークおよびイバの飛行場を奇襲し,地上に待機中のアメリカ空軍の大半を撃破した。制空権を確保した日本軍は二手に分かれ、12月22日リンガエン湾、12月24日ラモン湾に上陸し南と北からマニラ市に向って進撃を開始した。

米軍マッカサー司令官は優勢な日本軍を相手にマニラ市を守り切れないと判断し,マニラ市の無防備都市宣言を行い,マニラ湾の西側に突き出たバターン半島とその沖合いのコレヒドール島の要塞に撤退した。バターン半島における戦闘はこう着状態が続き,補給を絶たれた米比軍は3ヶ月後の4月9日に降伏した。この結果,約8万人(米兵12,000人、フィリピン兵64,000人)が捕虜となった。彼らは食糧が欠乏し栄養失調であったのに加え、マラリアなどの熱帯病により衰弱していた人も多数含まれていた。

日本軍はこのような状態の捕虜を100kmほど離れたオードンネル収容所に移送しなければならなかった。しかし,移送のためのトラックなどがほとんど無いため,結果的に病気や栄養失調の捕虜を自力で歩かせることになった。捕虜たちは北方のサンフェルナンドへ約60kmの道を4日間かけて炎天下を歩かされ,そこから収容所まで貨車で運ばれた。

東京裁判に先立ち行われた、マニラ軍事法廷での戦争犯罪裁判の「起訴事実」によると、この行進中、米人1,200人およびフィリピン人16,000人の捕虜が、死亡または行方不明とされている。また東京裁判ではその後の収容所生活でも多くの捕虜が死亡していると指摘されている。戦後東京裁判の証人台に立った生存者は行進中日本軍による水・食糧、あるいは薬の支給はほとんどなかったと証言している。食糧はフィリピン人が彼らに投げ与えてくれたものか、畑から勝手に取ったサトウキビなどで、水は道路の両側の溝や井戸のものを飲んだ。そのような水を飲んだ多くの者が赤痢にかかったという。

この「バターン死の行進」の起点となるマリベレスから海岸沿いの当時の道路には1kmごとの記念碑が建てられている。また,激戦地となったサマサット山には記念館があり、更にその上に高さ90mの巨大な十字架の塔が建てられている。


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