亜細亜の街角補足

フンザ


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憎しみにかすむ桃源郷 パキスタン・フンザ 楽園(6)2006年07月11日 ポプラの新緑がそわそわと風に揺れる。岩山とその背景にある標高7000メートル級の峰々。抜けるような青空に残雪が映える。パキスタン北方地域のフンザにさわやかな夏が巡ってきた。「ハセガワを知っているかい」。高台から雄大な景観に見とれていると、日光浴をしていたサナ・カーンさん(62)が気さくに話しかけてきた。

渓谷の背後にそびえるウルタル2峰(標高7388メートル)で、登山家の長谷川恒男さんが雪崩に巻き込まれて命を絶ったのは91年10月。村には故人の遺志で学校が建てられ、約600人の子どもが学んでいる。春はサクラとアンズの花が咲き誇り、南に開けた渓谷は白とピンクに彩られる。「桃源郷」と呼ばれる美しさは、日本をはじめ世界中の人々を魅了する。しかし、その観光が振るわない。現地の観光業者によると、毎年2万人近くが訪れていたが、ここ数年は1万人を下回っている。

ホテルのロビーには一人の客も見えず、テレビの音だけが響いていた。予約率は昨年の半分以下だという。「村人の気風は穏やかだし、自然の姿を世界の人に見てほしい。でも、こうも事件が続くとね……」。フロント係の男性はいまいましそうに言った。2月、イスラム教預言者ムハンマドの風刺漫画に抗議するデモが全土に広がり、死者が出た。南部カラチでは4月、約60人が死亡する爆弾テロがあった。血なまぐさい事件が起きるたびに、観光客はパキスタンを敬遠する。

■玄関口で激しい宗派抗争

フンザから約50キロ離れた北方地域の中心都市ギルギットでも04〜05年、イスラム教スンニ派とシーア派の激しい抗争があった。「不信心者を殺せ!」。民家の壁に落書きが踊る。興奮した住民は相手宗派の商店を襲った。それが報復を呼び、憎しみの連鎖が拡大した。原因は地域で採用された学校の教科書に、スンニ派の礼拝方法を解説する写真が載ったこと。それが、ギルギットで多数派のシーア派住民の感情を刺激した。

05年1月にはシーア派の指導者が銃撃され、政府は外出禁止令を出した。同6月に抗争が終結するまで、住民と治安部隊をあわせて100人近い犠牲者が出たという。スンニ派指導者アタウラ氏(36)は振り返る。「最初はシーア派の指導者と話し合い、穏便に解決しようとしていた。だが、途中から過激な連中が対立をあおりだし、統制が利かなくなってしまった」 。抗争の背景には、北方地域が置かれた政治状況もあるようだ。

パキスタンとインドは47年に英国領から分離独立したが、この地域の帰属は正式に確定していない。パキスタン政府は北方地域を直轄下に置く。約100万人といわれる住民には、国会議員を選ぶ選挙権が与えられていない。「民主化を求める人々の不満が一気に爆発した」と、地元紙の編集者は解説する。スンニ、シーア両派は今年、ムハンマドの生誕行事を初めて合同で開くなど、和解の機運も生まれてはいる。しかし、ギルギットの主要道路には武装した兵士や警官が立ち、抗争の再発を警戒している。「秘境」フンザに観光客が戻るかどうか。その玄関口にあたるギルギットの治安状態が、大きな鍵を握っている。

■岩絵の町はダムに沈む

強烈な日差しが容赦なく照りつけるインダス川の河原に、高さ10メートルほどの岩があった。表面には高さ1〜2メートルの仏塔の絵が三つ彫られている。岩の裏側には、太陽を題材にした様々なデザインの輪や動物、狩りをする人の姿の絵もある。北方地域の南部に位置するチラス。パキスタンと中国を結ぶカラコルム・ハイウエー沿いに、先史時代から10世紀ごろにかけて彫られたとされる岩絵が1万2000点ほど残っている。シルクロードを往来した仏教徒や隊商が残したものと伝えられる。北方地域にイスラム教が伝来したのは、8世紀以降のことだ。

ヒマラヤ、カラコルム、ヒンドゥークシ。三つの山脈は北方地域の南部でつながる。各国の登山隊が休息に使うチラスの町が、数年後にはダム湖の底に沈む。 政府は4月、チラスの下流40キロの地点で大型ダムの建設に取りかかった。高さ281メートル、長さ990メートルの堤でインダスの流れをせき止め、発電や潅漑(かんがい)に利用する。チラスを中心に2850世帯、約2万4000人が移転を余儀なくされる。

岩絵も沈む。だが保護を求める声はほとんど聞かれない。「補償金は、移転先は……。自分のことで頭がいっぱい。岩絵のことまで気が回らないよ」。ホテル支配人のファザル・ハリムさん(36)は打ち明ける。政府は現地に専門家を派遣し、水没地点にある岩絵の調査を進めている。「人類の遺産を放置するわけにはいかない。移転できるものはなるべく運び出し、保存する方針だ」と担当者は話す。ダムの建設地では重機の設置や測量作業が始まっていた。完成は16年の予定だ。(北川学)


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