亜細亜の街角補足

チュルク系民族の拡散


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チュルク系民族国家について 東トルキスタンの主要民族であるウイグル族はチュルク系民族である。同国にはほかにもカザフ族、キルギス族、ウズベク族、タタール族、ユグール族などのチュルク系民族が居住している。チュルク系民族とはすなわちトルコ系の民族である。この民族の名称についてだが、日本語においてトルコ共和国という国家の名称については「トルコ」で完全に定着していてぶれることはないのだが、民族名についてはトルコ系、チュルク系、テュルク系などの名称が用いされており、定まっていない。だが国名はトルコ、民族名の系統はチュルクを用いるのが最も一般的であり、当サイトもそれに従うことにする。

ウイグル語はアルタイ語族に属している。言語と民族は必ずしも一致しないと言われているが、文化人類学的に見て言語は民族を区別する最も有用な判定基準となる。アルタイ語族はツングース系、モンゴル系、チュルク系に分けられる。ツングース系で代表的な民族はなんといっても満州族だ。モンゴル系についてはその名称を聞いただけで日本人にはイメージしやすいであろう。チュルク系は要するにトルコ系だと思えばよい。アルタイ語族の特徴は一言で言えば文法構造が日本語に酷似していることだ。実は日本語と韓国語は以前はアルタイ語族に属していると考えられていた。しかしその後の研究が進むに連れ、日本語は系統不明となってしまった。日本語に最も近いと言われている韓国語も系統不明となり、日本語と韓国語の関係も不明である。唯一琉球語のみが日本語と同系統であることが証明されている。そういう意味ではウイグル族は意外にも日本にとって馴染みやすい民族と言えよう。

ところで、日本人の中には、ウイグル族やカザフ族やキルギス族は本来同一民族であり、中国政府がわざと細分化して個々の人口を少なくすることによってナショナリズムを押さえ込んでいると解釈している人が意外に多いが、これは明らかな誤解である。チュルク系という同一の系統に属してはいても、確かにウイグル族やカザフ族やキルギス族は彼ら自身が独自のアイデンティティーを持つ異なる民族であり、それぞれが特有の歴史を持っている。それぞれの言語の相違についてだが、東トルキスタン国内の事情に限って言えばカザフ族やキルギス族などの少数派は多数派のウイグル語をほぼ100%理解するようだが、ウイグル族は他のチュルク系言語は8割ほど理解できると言う。

経度にしてアルタイ山脈からからカスピ海東岸,緯度にしてアルタイ山脈からパミール高原南部に至る広大な地域は中央アジアと呼ばれる。この地域はほとんどが乾燥地帯であり,人間が居住できる地域はさほど広くはない。

中央アジアを人間の居住を基準に大まかに区分すると北部の「草原地帯」と南部の「オアシス地帯」となる。草原には遊牧騎馬民族が,オアシスには定住農耕民族が暮らしている。この二つの地域に住む民族は全く異なる生活様式をもち,全く異なる文化を育んできた。にもかかわらず,二つの地域は相互に隣接しているため,オアシス地域の人々は歴史に記されるほとんどの時代に,草原からの侵略の脅威にさらされてきた。

中央アジアの遊牧騎馬民族の起源は明らかではないが,BC12世紀には羊の飼育と乗用の馬を飼育する遊牧生活が始まったとされている。遊牧民の財産の筆頭にあげられるのは馬である。乗馬という文化をもつようになった遊牧民の活動範囲は飛躍的に増大した。彼らは羊,山羊,牛,ラクダなど群れをつくる偶蹄目の動物を飼育し,それらのエサとなる草を求め夏の居住地と冬の居住地の間をゆっくりと移動する生活を営むようになった。

遊牧民の財産はそのすべてが家畜であり,それらから得られるミルク,肉,毛,皮革で生活をまかなっていた。彼らの主要な食べ物は家畜の乳を加工したヨーグルト,チーズ,バターであり,その肉であった。移動生活のため,遊牧民は固定家屋をもたず,簡単な骨組みの上にフェルトの覆いをかけるタイプの移動住居で暮らしていた。

モンゴルのゲル,中国のパオ,旧ソ連圏ではユルタ(ユルト)と呼ばれる移動住居はほぼ同じような構造であり,広く中央アジアの遊牧民に普及している。遊牧民の衣類は家畜の毛や毛皮を利用しており,衣食住のすべてを家畜から得る生活様式を確立することにより,遊牧民は農耕民とはまったく異なる独自の社会と文化を形成するようになった。

中央アジアで遊牧社会が確立した頃,その多くはイラン系の民族であった。BC6-BC5世紀にギリシャ世界の東端から中央アジアの草原地帯に強大な勢力をもった「スキタイ」もイラン系民族の一部である。この時代,パミールの東側を含め南部のオアシス地帯で定住農耕生活を営んでいたのもイラン系の民族であり,中央アジアのほぼ全域はイラン系の民族が活躍していた。

BC3世紀になるとそのような勢力範囲に変動が生じた。モンゴル高原に中国人が「匈奴」と呼んだ強力な遊牧民国家が生まれ,中央アジアにも影響を及ぼすようになった。「匈奴」はアルタイ系の言語を話す民族集団であり,それ以降はイラン系民族に代わりアルタイ語系の民族が中央アジアの草原を支配するようになる。

匈奴が東西に分裂して弱体化したあと,AD2世紀にモンゴル高原を支配したのは鮮卑族であった。彼らが3世紀に中国に南下したあと,モンゴル高原には「高車(チュルク系)」と「柔然部(モンゴル系)」が起こり,5世紀には柔然部がモンゴル高原を統一し,高車は西に移動し中央アジアに遊牧民国家を建設した。こうして西にチュルク系,東にモンゴル系の勢力が対峙するようになった。

6世紀の半ばになると中央アジアの草原地帯にはチュルク系の民族が広く分布するようになり,その中からチュルク系の「突厥」が勃興して,柔然部を滅ぼしアジアの草原地帯を統合した。6世紀の後半にはこの国家は東西に分裂し,モンゴル高原は東突厥が,中央アジアは西突厥が支配するようになった。しかし,両者とも唐王朝の軍事行動により弱体化した。

8世紀に入るとチュルク系のウイグル族がアジアの草原地帯の覇者となった。しかし,それも9世紀には弱体化し,草原は11世紀までいくつかの小さな遊牧民族国家に分れる抗争時代が続く。弱体化したウイグル族は故地となっていたバイカル湖南部から大規模な移動を始め,トルファン盆地やタリム盆地(タクラマカン砂漠周辺)東北部のオアシスを支配するようになった。

彼らはすみやかにオアシスで農耕定住生活をするようになり,天山ウイグル王国を建国した。タリム盆地の西部にはやはりチュルク系のカルルク族が移動し,カシュガルを本拠地として農耕定住生活を開始してカラ・ハーン朝を興した。こうして9世紀末にはパミール東部の中央アジアオアシス地帯は急速にチュルク化していった。

この場合,チュルク化とは地域の人間が入れ替わったということではなく,地域の主要言語がイラン系のものから支配勢力のチュルク系に変わったということである。おそらく,先住民であるイラン系民族と混血しながら現在に続くウイグル人が形成されたことであろう。

一方,パミール以西のオアシスでは7世紀の後半にはアラブ人が進出し,草原地帯を支配するチュルク系遊牧民族が南部のオアシスに進出するのは難しい状況にあった。さらに,9世紀に入るとアッバース朝の宗主権下でオアシス地域に「サーマーン朝」が興り,遊牧民族の軍事的進出をはばむようになった。

しかし,10世紀に入りカラ・ハーン朝に滅ぼされると,チュルク系民族は大挙して南下を始めた。その主要勢力はシル・ダリアの西岸に居住していた「セルジュク族」がある。セルジュク族はパミール以西のオアシスに進出し,その後も主力はイランから小アジアに移動して行った。しかし,その一部はオアシス地域に定住するようになり,この地域も急速にチュルク化していった。

それでも,従来のペルシャ語を使用し続ける集団も存在し,14世紀に完了したこの地域のチュルク化とはチュルク語が多数を占めるという状況であった。13世紀にこの地域をモンゴル帝国が支配するようになっても,その状況は変わらず,モンゴル人もチュルク化されていった。14世紀にこの地域で生まれたティムールもモンゴル人の末裔にもかかわらず,チュルク語を話したという。

こうして,中央アジアではパミール高原の東西に渡りチュルク系の民族が主要民族となった。そのため,中央アジアの主要部はトルキスタンと呼ばれるようになり,パミールを境として東トルキスタン,西トルキスタンとも呼ばれている。この地域名称は現在の国境線とはまったく関係が無いが,言語的なつながりは保たれている。

草原地帯はチュルク系の遊牧民族が支配 中央アジアの草原地帯は■

民族とは■

チュルク系民族はシベリアからボスポラス海峡に至るまでユーラシア大陸の東西に幅広く分布している。旧ソ連崩壊によって独立した中央アジア5カ国のうち、カザフスタン、キルギスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンの4カ国はチュルク系である。名前が似ているので誤解されやすいがタジキスタンの主要民族であるタジク族はイラン系の民族であり、チュルク系とは全く異なる系統である。これら5カ国が独立した際には、東トルキスタン国内の諸民族も大いに勇気付けられたようだが、残念ながらあれから15年以上が経過しても東トルキスタン共和国独立のチャンスはまだ訪れていない。また、独立後のこれら5カ国は概ね中国に対して友好的である。

カザフスタン共和国は中央アジア5か国中最大の面積を誇り、ウズベキスタンと中央アジアの盟主の座を争っている。1997年に首都をアルマトゥイからロシアに近いアスタナに移転した。独立以来ヌルスルタン・アビシェビチ・ナザルバエフが一貫して大統領の座に居座り、2002年には終身大統領の地位にいる。ウズベキスタンは中央アジア最大の人口2000万人以上を誇る。サマルカンドやタシケントなどのシルクロードの古都を抱え、観光資源も豊富である。現在ではチュルク系民族が主流だが、歴史的にペルシャ人の影響も強く、特にサマルカンドは今日でもウズベク語とタジク語のバイリンガルが主流であると言う。キルギスはアカエフ大統領のリーダーシップが諸外国からも高く評価され、国家建設に邁進していたが、その後は独裁政治に対する国民の不満が高まり、2005年に政変によって退陣した。トルクメニスタンは永世中立国と宣言し、国連からも認められている。独立以来ニヤゾフ大統領に対する個人崇拝は想像を絶するものがあり、世界中でも北朝鮮に次ぐものがあるだろう。だが2006年12月21日に死亡。ベルディムハメドフが大統領代行を務め、2007年2月14日に正式に第2代大統領に就任した。

旧ソ連崩壊によって誕生した国家としてはもうひとつ、アゼルバイジャン共和国も忘れてはならない。地理的にトルコに近く、ナゴルノ・カラバフ戦争でアルメニアに敗れてからはトルコとの結びつきをますます強めている。独立当初はアゼルバイジャン語はロシア式のキリル文字を使用していたが、90年代後半にトルコと同じアルファベットを使用するようになった。

そして全てのチュルク系民族にとって特別な存在なのがトルコ共和国である。オスマントルコ大帝国の最盛期には地中海周辺の大半を勢力に治めていたが、近代に入りロシアとの戦争に連戦連敗を続け、第一次世界大戦の敗北によって帝国は解体、近代的なトルコ共和国となって政教分離政策を進め、今日に至っている。トルコはボスポラス海峡によって2分され、面積の97%に相当する東側がアジア、残りの3%がヨーロッパに属している。ただしトルコ共和国自身はヨーロッパであると主張し、オリンピックやワールドカップの予選は概ねヨーロッパ諸国と予選を戦い、NATOにも加盟し、現在ではEUへの加盟も模索している。

国際社会から独立国家とは認められていないが、キプロス共和国の北部には北キプロス・トルコ共和国がある。1974年にトルコ系住民の保護を名目としてキプロスに侵攻し、北部を占領。国際社会から激しい非難を浴びたが、翌年にはキプロス連邦トルコ人共和国を建国。その後もキプロス共和国との統合交渉が難航し、1983年には北キプロス・トルコ共和国が正式に独立宣言をした。この国を正式に独立国家と認めているのはトルコ共和国のみである。トルコのEU加盟交渉が難航しているのもキプロス問題が尾を引いていることが大きい。なお、私はチュルク系民族が多数を占めるという意味で北キプロス・トルコ共和国を紹介したのであり、政治的に北キプロス問題について意見を言うつもりはない。

ロシア連邦内にはチュルク系の民族国家が数多く存在する。タタールスタン共和国、バシコルトスタン共和国、チュヴァシ共和国、ハカス共和国、アルタイ共和国、トゥヴァ共和国、サハ共和国である。また中央アジアウズベキスタン共和国の中にはカラカルパクスタン共和国がある。これらはソ連時代はソビエト社会主義共和国連邦内の共和国内の自治共和国であり、ソ連崩壊によって自治共和国から共和国に格上げされたものの、完全独立には至っていない。例えばタタールスタンの場合、かつてはロシア共和国内のタタール自治ソビエト社会主義共和国であったのが、ソ連崩壊後には、ロシア連邦内のタタールスタン共和国となった。

またタジキスタン共和国、アフガニスタン・イスラム国、イラン・イスラム共和国、ウクライナ共和国、モルドバ共和国などにも少数民族として居住している。 このようにチュルク系民族とは非常に広大な地域に広がっており、総人口は1億人を優に上回る。東トルキスタンは、現在の中華人民共和国の枠組みで見ると西の辺境に位置しているが、チュルク系民族の分布からすればサハ共和国と共に最も東に位置する国家であり、国名に東がつけられるのもうなづける


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