歴史的背景
ナゴルノ・カラバフ紛争とは1988年にアゼルバイジャン領内のナゴルノ・カラバフ自治州(紛争発生時,住民の75%はアルメニア人であった)のアルメニアへの帰属変更を巡って開始された紛争である。結果としてナゴルノ・カラバフおよび周辺地域をアルメニア人勢力が支配することになり,アゼルバイジャンは国土の20%を占領されるとともに,100万人の難民が発生したといわれる。現在この地域は「ナゴルノ・カラバフ共和国」として国家の体裁をとっているが,アルメニア以外に承認した国はない。当事者のアゼルバイジャンと歴史的にアルメニア人と対立していたトルコが経済封鎖を行っている。
なぜ,アゼルバイジャンの国土内に飛び地のようにアルメニア人が多数を占める地域があるのか,なぜ「民族境界区分」を目指した旧ソ連の国境政策においてナゴルノ・カラバフがアゼルバイジャンに組み入れられたのか考えてみる必要がある。
南カフカスは歴史的に東のチュルク系国家と南のペルシャの綱引きが続いていた地域である。19世紀に帝政ロシアがこの地域に進出して,状況は一変した。1829年,露土戦争後のアドリアノーブル条約で南コーカサス(現在のアルメニア,アゼルバイジャン,グルジア)がトルコからロシアへ割譲された。キリスト教国のグルジアやアルメニアはイスラム教のオスマン帝国より,帝政ロシアの方が宗主国としては好ましかったのでこの結果を歓迎した。
1895-96年および1915-22年にオスマン帝国領内で行われたアルメニア人大虐殺に象徴されるように,オスマン帝国領内に居住し弾圧や迫害を受けていたアルメニア人は大挙してロシア支配下の地域に移住するようになった。ナゴルノ・カラバフ地域にも多数のアルメニア人が移住し地域の主要民族となった。
その一方で,アルメニア人にとってはオスマン帝国を形成する現在のトルコ人と同じチュルク系の言語を話し,文化的にも近いアゼルバイジャン人(ソ連の成立まではタタール人と言われていた)はほとんど同一の民族に写った。オスマン帝国への復讐は同じロシア支配下にあるアゼルバイジャン人に向けられることになった。1905年にはアルメニア・タタール戦争が起きている。このとき,アゼルバイジャン側に数千人の死者が出て反アルメニア感情が高まった。
ロシア革命の翌年の1918年にはアルメニア人勢力とアゼルバイジャン人勢力の武力衝突が発生し,無差別虐殺によりアゼルバイジャン全土で女性,子供を含む5万人が犠牲になったといわれている。また,アルメニア本国で多くのアゼルバイジャン人が殺害されたり追放されたりした。アゼルバイジャン側は1988年にこの3月31日を「ジェノサイド記念日」とした。
1920年にアゼルバイジャンでソビエト政権が成立しコーカサスの国境画定はモスクワに委ねられたが,「民族境界区分」にもかかわらず,ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャン領に組み込まれた。そのときから,アルメニアはナゴルノ・カラバフの奪還を目指していくことになる。
ナゴルノ・カラバフがアルメニアから切り離された背景には二つのことが考えられる。一つはソ連と新生トルコとの関係,もう一つはスターリンの民族分断政策である。第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国はセーブル条約により旧オスマン帝国領土の全面分割が決められた。現在のトルコ共和国の国土の大半を失いかねない事態に直面していた。この中には東アナトリア地域にアルメニア人国家を樹立する内容も含まれていた。
この国難を救済したのがトルコ共和国建国の父と呼ばれる「ケマル・パシャ・アタチュルク」であった。彼は国土の保全を求めるトルコ勢力の指導者になり,アンカラにトルコ大国民議会を組織して抵抗政府を結成した。ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍に勝利し,翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。これにより連合国はセーヴル条約の履行を諦め,新しい講和条約の交渉を通告した。
一方のソビエト・ロシアはソビエト政権の樹立に反対する連合国(英仏米伊や日本)の軍事介入(シベリア出兵など)と戦っている最中であった。また,アルメニアの強硬な独立運動にも手を焼いていたので,トルコの関係を重視し,トルコの新政権を世界に先駆けて承認するとともに,1921年にモスクワ条約を結び、ソ連はトルコ領内のアルメニア人地区の独立や旧ロシア領内のアルメニアとの一体化を認めないかわりに,トルコはグルジアが黒海の重要港であるバトゥミを併合することを認めた。こうして,ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンの一部にされた。
<ナゴルノカラバフ紛争地図,地図の赤い部分のうち右半分がナゴルノカラバフ地域>
武力衝突
ゴルバチョフの提唱したペレストロイカを好機とみたアルメニア人勢力は,1988年にナゴルノ・カラバフ自治州人民代議員会議においてアゼルバイジャンからの離脱とアルメニアへの帰属に関する決議を採択した。これに対抗してアゼルバイジャンがナゴルノ・カラバフ自治州を廃止し共和国の直轄統治とすることを決定した。 1989年アルメニア最高会議においてナゴルノ・カラバフ自治州のアルメニア併合に関する決議を採択する。同年中にアルメニアから17万人のアゼルバイジャン人が,アゼルバイジャンから35万人のアルメニア人が追放される。
1991年にソ連が崩壊し,各共和国が独立すると状況は国家間の紛争に様変わりする。ナゴルノ・カラバフ自治州が独立を宣言する。これはアルメニア政府が一方的な併合は他国への侵略という国際的な非難を受けることになると判断し,とりあえずナゴルノ・カラバフの独立戦争という体裁を整えるためである。アゼルバイジャン政府はただちにナゴルノ・カラバフを経済封鎖する。周辺をアゼルバイジャンに囲まれ陸の孤島のようになったナゴルノ・カラバフのとる道は武力による解決であった。1992年に武力衝突が始まり,アルメニア側はアルメニアとナゴルノカラバフの間にあったアゼルバイジャン領を占領した。
戦闘はロシアの支援を受けたアルメニアに有利に展開した。1994年にフランスとロシアの仲介で停戦は実現したが,双方に3万5000人の死者が出ている。占領地域,あるいは双方の本国から追放され難民は100万人といわれている。停戦から十数年が経過してもナゴルノ・カラバフを承認した国家はアルメニアだけに留まっており,紛争状態も独立宣言も凍結された状態になっている。その間,アゼルバイジャンとトルコによる経済封鎖はアルメニア経済に大きな打撃を与えた。