アルプス・ヒマラヤ造山運動
アルプス・ヒマラヤ造山運動とは中生代後期から新生代前期(1億5000万年-1500万年前)にかけて活発に活動し形成されたと考えられている新期造山帯という。この時期にアフリカ大陸,インド亜大陸,アラビア楯状地がユーラシア大陸に引き寄せられ衝突している。1億5000万年前といえば超大陸がパンゲアが分裂を始めた時期であり,アフリカの大半およびインドは南半球にあった。
1億年前には大西洋が開き始め,アフリカ大陸は北上していく。インド亜大陸はアフリカ大陸から分かれ,オーストラリア大陸と共に半時計方向に回転しながら北上を始める。5000万年前にはアフリカ大陸はユーラシア大陸に近接し地中海が形成される。この時期,ウラル山脈に相当する地域でヨーロッパとアジアは分断されており,中央アジアの大部分は地中海や北極海につながる浅い海であった。インド亜大陸はアジア大陸に接近し大衝突が始まろうとしている。
1500万年前にはアフリカ大陸,アラビア楯状地がユーラシア大陸に衝突した結果,ヨーロッパアルプス,アナトリア高地,カフカス山脈,エルブルズ山脈,ザグロス山脈が形成された。インド亜大陸とユーラシア大陸の衝突によりヒンドゥークシ山脈,カラコルム山脈,ヒマラヤ山脈,コンロン山脈,チベット高原,横断残脈が形成された。ヨーロッパ大陸はアジア大陸と合体しウラル山脈が形成される。
バルカン半島,アナトリア高地,イラン高原が隆起したことにより現在のアラル海あたりから黒海にかけての地域は広大な内海のようになった。さらにカフカス山脈の隆起によりカスピ海以東の地域は黒海から切り離され,完全な内海となった。5000万年後にはアフリカ大陸,アラビア楯状地とユーラシア大陸は完全に合体し巨大大陸が形成される。
<1400万年前の大陸配置図,画像は■より引用した>
カフカス(コーカサス)山脈
黒海とカスピ海を分断するように東西に連なるカフカス山脈はヨーロッパ世界とアジア世界の分水嶺ともなっている。英語読みでは「コーカサス」ともいう。ロシアでは北側の大カフカス山脈と南側の小カフカス山脈に区分している。ギリシャ神話ではカフカスは世界を支える柱のうちの一つとして考えられており,ゼウスが人類に火を与えた罪によりプロメテウスを鎖で繋いだ場所でもある。
大カフカス山脈の北側は北カフカス地方と呼ばれロシア連邦領,南はザカフカス地方(トランス・カフカス)と呼ばれ,グルジアとアゼルバイジャンの領土である。山脈の西側にはヨーロッパ最高峰エルブルス山(5642m)やカズベク山(5033m)などの高峰が集まる。帝政ロシア時代には大カフカス山脈を南北に貫くグルジア軍用道路が建設された。 小カフカース山脈はアルメニア北部を通る山脈でカピジク山(3,904m)が最高峰。ただし,やや南にあるアラガツ山(4,090m)やアララト山(5,165m)も小カフカースに含めることがある。
<大カフカス山脈と小カフカス山脈>
北カフカスと南カフカス
カフカース(カフカス,ロシア語)は,黒海とカスピ海に挟まれたカフカース山脈と,それを取り囲む低地からなる面積約44万km2の地域である。英語名 Caucasus にもとづきコーカサスと呼ばれることも多い。ロシア語のカフカース,英語のコーカサスともギリシア語のカウカソスに由来しているが,カウカソスは古代スキタイ語のクロウカシス(白い雪)から来ているという説が有力である。古代から大カフカス山脈は北の草原地帯と南のペルシャ世界を分ける障壁であった。
大カフカス山脈を境界として北側は北カフカース,南側は南カフカースと呼ばれている。南カフカスはヨーロッパ世界からは大カフカス山脈の向こう側という意味でザカフカスあるいはトランスカフカスと呼ばれることもある。北カフカースはロシア連邦領の北カフカース連邦管区に属す諸共和国となっており,南カフカスは旧ソ連から独立した3共和国(アゼルバイジャン,グルジア,アルメニア)からなる。
大カフカス山脈の山あいには様々な言語,文化,宗教をもった民族集団が複雑に入り組んで暮らしており,地球上でもっとも民族的に多様な地域であると言われる。「カフカース諸語系」を母語とするカフカースの主要な民族だけでも,チェチェン人,イングーシ人,アヴァール人,レズギン人,カバルダ人,チェルケス人,アディゲ人,アブハズ人,グルジア人などがあげられる。
この他に「インド・ヨーロッパ語族系」ではアルメニア人(アルメニア語派),オセット人(イラン語派),ロシア人(スラヴ語派),「テュルク諸語系」ではアゼルバイジャン人,クムイク人,ノガイ人,カラチャイ人,バルカル人がおり,まさしく言語の森,民族のるつぼである。
当然,カフカスの国々を統治するにあたり民族問題は避けて通れない。ここでは「一民族一国家」の原則はまったく通じない。好むと好まざるとにかかわらず,複数の民族が重畳する一つの国家を構成しなければならない。それができない場合は,極小の国家を形成するか少数民族の追放,浄化,抹消などの悲劇が生じる。
1991年のソ連崩壊により,南カフカスは3つの国家として独立できたが,北カフカスの共和国はロシア連邦の一部として据え置かれた。当然,北カフカスで独立を目指す紛争が発生する。その一方で南カフカスの3国では地域,自治州の独立や帰属を巡る紛争が発生するのも当然のことである。
<カフカス地域紛争地図>
チェチェン独立紛争(紛争番号4)
コーカサス地域は16世紀から帝政ロシアの支配下に置かれ,ソビエト連邦の時代にも名目だけの共和国,実際には植民地として扱われてきた。その中でもチェチェンは独立志向が強く,第二次対戦のさなかの1944年にチェチェン人,イングーシ人は強制的にてカザフスタンへ移住させられた。このとき移住させられた50万人ほどのチェチェン人のうち故国に戻ることができたのは半分ほどしかいなかっといわれている。
1991年のソ連邦崩壊を機にソ連邦を構成していたすべての共和国が独立を宣言した。北コーカサスのチェチェン共和国でも独立の機運が高まり,同年11月,ジョハル・ドゥダーエフ退役空軍少将を中心とするチェチェン民族会議が独立を宣言した。しかし,ロシア連邦の維持,コーカサス地域の安定,カスピ海からの石油パイプラインの確保というロシアの事情のため,エリツィン大統領の命令により「憲法秩序の回復」のためにロシア軍が投入され,1994年に「第一次チェチェン紛争」が起こった。これは部分的な紛争ではなくチェチェンを完全に屈服させるための破壊戦争であり,人口の約1割に相当する8-10万人が犠牲になった。
一方,圧倒的な軍事力にもかかわらず,ロシア軍の損失も大きかった。徴兵された若い兵士たちが,ゲリラ戦の訓練もされずにチェチェンに送り込まれ,大きな犠牲が出た。息子たちを何の大義も無い戦争で失った母親たちの悲しみは大きく,当時のメディアが戦争に批判的だったためにロシア国内の厭戦気分が高まった。
1996年にいったん戦争は終わった。このとき結ばれた「ハサブユルト和平合意」ではチェチェンの独立問題は5年後の2001年にふたたび検討されるはずだった。しかし,チェチェン野戦軍のダゲスタン侵攻,モスクワのアパート爆破事件により1999年にロシア軍は再びチェチェンに侵攻し,「第ニ次チェチェン紛争」が始まった。このときの首相としてロシア軍を指揮したのはプーチンであり,緒戦の勝利にエリツィンは大統領代行をプーチンを指名し辞任した。ここから,ロシアは長いプーチン支配時代が始まる。チェチェンではゲリラ戦と,ロシア軍および親ロシア派に対する爆弾攻撃が,これに対抗するロシア軍の「掃討作戦」などが続き,泥沼化している。
前回以上に無差別かつ大規模な,チェチェンの民間人への攻撃が続いており,隣国のイングーシ共和国に難民として25万人のチェチェン人が逃れ現在も5万人が難民生活を続けている。1994年以来,10年間に渡る戦争での死者は20万人以上になり,その多くは民間人である。チェチェンの首都グロズヌイは無差別爆撃よってほとんど廃墟となっており,ロシア軍による「掃討作戦」はチェチェン市民への攻撃,村落の破壊,人権抑圧に結びついている。
追い詰められたチェチェンの武装勢力はロシア国内で多くのハイジャックや占拠事件などのテロ活動を行い,ロシア社会も混乱する。米国のブッシュ政権が「テロとの戦い」を最重要施策に掲げると,プーチン政権もチェチェン紛争を「抑圧されている少数民族の独立戦争」から「分離主義のテロリスト」に置き換え,国際的なテロとの戦いの時流に乗るとともに,ロシア連邦の安全を口実に中央集権化も進められている。
北オセチア・イングーシ共和国間の領土紛争
第二次対戦のさなかの1944年にスターリンの命令により,チェチェン人,イングーシ人は強制的にてカザフスタンへ移住させられた。理由はドイツと協力関係があるという疑惑であった。イングーシ人が住んでいた土地の一部(プリゴロドヌイ地域)は北オセチア領に編入された。1950年代後半にチェチェンおよびイングーシ自治共和国が復権したとき,北オセチアに割譲された地域は原状復帰されなかった。イングーシ共和国はこの地域の国境線確定は未解決とし,1980年代から北オセチア共和国との間で係争地域となっている。
1992年6月,ロシア大統領令によりイングーシ共和国の領土の一部が北オセチア共和国に及んだため,北オセチアが反発し,1992年10月に北オセチア共和国とイングーシ共和国の間で武力衝突が発生した。比較的短時間で停戦となったこの紛争では多くの血が流され,ロシア軍に介入で停戦は実現したが,両国の緊張関係は続いている。
ナゴルノ・カラバフ紛争(紛争番号5)
アゼルバイジャンとアルメニアはお互いに自国民族が多数を占める本土とつながっていない飛地をもっている。ナヒチェヴァン自治共和国はアルメニアとイランに挟まれたアゼルバイジャン人が多数を占める地域であり,ナゴルノ・カラバフ共和国はほとんどがアルメニア人の地域である。国際的にはどちらもアゼルバイジャン領であるが軍事衝突を経てナゴルノ・カラバフおよび周辺地域はアルメニア人勢力の支配下にある。
アゼルバイジャンは国土の20%を占領されるとともに,100万人の難民が発生したといわれる。現在この地域は「ナゴルノ・カラバフ共和国」として国家の体裁をとっているが,アルメニア以外に承認した国はない。当事者のアゼルバイジャンと歴史的にアルメニア人と対立していたトルコが経済封鎖を行っている。現在,紛争は凍結状態にあり,1994年の停戦から十数年が経過しても解決の道筋は見えない。
グルジアの抱える二つの紛争
グルジアは独立直後から南西部アチャラ(紛争番号3),北西部アブハジア(紛争番号1)の2自治共和国と北部の南オセチア自治州(紛争番号2)の民族紛争を抱えている。アチャラ自治共和国の問題は民族紛争ではなく黒海の良港バトゥミの税収を背景とした経済問題のため,平和裏に解決している。
しかし,アブハジアと南オセチアはロシアに後押しされており,実質的にグルジア政府の統治下にはない。1980年代末からグルジアではグルジア民族主義が盛んになる。それは,グルジアの独立を目指すものであったが,非グルジア民族は自治権に対する危機感をつのらせた。
アブハジア紛争
1991年のグルジア独立,新憲法の制定により,自治共和国の地位を危うくすると感じたイスラム系住民の多いアブハジアは1992年に主権を宣言しロシアへの帰属を要求した。ロシアの支援を受けたアブハジア軍とグルジア軍との間で激しい戦闘が続いたが,国連の仲介で1994年に停戦が実現したが,アブハジアは事実上の主権を獲得した。アブハジアからは20万人弱のグルジア人が国内難民となった。現在でも6万人の難民がホテルや病院,保養所,学校などの施設に一時的に身を寄せている。
アブハジア紛争を複雑化している要因の一つに「コドリ渓谷」問題がある。グルジア側と接しているコドリ渓谷には少数民族のスワン人が居住しており,1992年にアブハジア紛争は発生すると独自部隊を結成し,グルジアにもアブハジアにも属さず独自支配を続けてきた。しかし,グルジア側は独自部隊がの不法行為を理由に2006年に警察部隊を投入して支配を取り戻した。これに対してロシアはアブハジアは1994年の停戦協定に違反するとして非難している。この地域からの撤退が欧米によるアブハジア紛争の調停工作に対する大きな支障となっている。
南オセチア紛争
南オセチア共和国(自称)はロシア連邦内の北オセチア共和国への編入を求めている。南オセチアは面積は3,900平方km,人口10万人,土地の90%近くは1000m以上の山地となっている。ロシア革命後グルジアに編入されたが民族的にも文化的にも国境を接する北オセチア共和国(ロシア連邦内の共和国)に近い。ソ連時代を通じてグルジア化政策がとられ,グルジア語の教育が強制された。
1989年,南オセチアでの公用語をグルジア語とすることが決定されると,南オセチア自治州人民代議員会議は,南オセチア自治州を自治共和国にすることを要請したが,グルジア最高会議はこの要請を拒否した。1990年グルジア最高会議は共産政権時代に採択された全法律の無効化を決定した。これは南オセチアの自治権の無効化を意味した。これに対して,南オセチア自治州人民代議員会議は,主権宣言,共和国への昇格等を決定した。
1991年グルジア政府は南オセチアに警官隊と民兵を投入し,オセチア人に対する大規模な弾圧を始めた。オセチア人は自警団を結成して武装闘争を開始した。しかし,グルジアからの経済的な締め付け,グルジア人武装勢力からの攻撃は止まず,1992年5月に住民投票の結果を受けて南オセチア共和国は独立を宣言した。
6月にはロシア,グルジア,南北オセチア4者による紛争調停の原則に関する協定が署名され,平和維持軍が導入された。1993年11月,南オセチアの最高会議は憲法を採択し,国際的な承認のないまま完全な独立国の体裁を整えている。住民は多くはロシアの市民権をもち,ロシア通貨のルーブルを使用し,行政機関の歳入の2/3はロシアが支援している。