キリスト教の東西分裂
1世紀から3世紀にかけて,キリスト教はローマ帝国内に急速に広まった。その結果,ローマ,コンスタンチノープル,アンティオキア,エルサレム,アレキサンドリアの各地に中心的な教会が並立することになった。原始キリスト教は,教義の解釈,典礼の規範において統一した見解がないままローマ帝国が支配していた地中海世界一帯に広まってしまい,これがその後の分裂を生む原因となった。
ローマ帝国でキリスト教が公認されたのは「313年のミラノ勅令」による。それまでの間,キリスト教はローマ世界の各地に根付いていた。当然,上記の主要5教会の間には大小の差異があったと考えられる。ともあれ,ローマ帝国では皇帝教皇主義,つまりローマ皇帝が教皇を兼ねるという制度があったため,各地の教会の差異は大きく表面化することはなかった。
しかし,395年ローマ帝国が分裂し皇帝が東西に並立するようになると,西のローマ教会と東のコンスタンティノープル教会が互いに首座権を争そうようになった。そのため,教義の解釈,典礼規範などが議論されるようになり,東西の教会はその後の数百年間かけて独自の道を歩むことになった。こうしてイエス・キリストと12使徒という一つの種から出芽したキリスト教は,二本の大きな幹に分かれて成長することになった。
ロシア正教の歴史
スラブ系民族の国家にキリスト教が広まっていくのは,おおよそ9世紀のことである。この時期,東西教会はまだ公式には分裂していないが,実質的には分裂状態にあり,西のローマ・カトリック(ローマ教会)と東のギリシャ正教(コンスタンチノープル教会)がそれぞれの帝国内で首座の位置を占めていた。ギリシャ正教においてはその後,国家の単位で首座教会が生まれるようになり,それらを総称して東方正教会と呼ばれるようになる。
地中海世界を席巻したキリスト教はその北側に位置するゲルマン人,スラブ人の地域にも広まっていく。地理的な関係もあり,西のゲルマン人地域はローマ・カトリックに,東のスラブ人地域はギリシャ正教が広まっていくことになる。こして,ヨーロッパにおけるキリスト教は,西のローマン・カトリックと東の東方正教会というように地理的に区分されるようになる。
ロシア正教は東方正教会の一つとして発展していった。988年にキエフを中心にロシアの国家的統一を成し遂げたウラジーミル1世(978-1015)は,コンスタンチノープルに使節を派遣し,東方正教会の典礼の美しさにひかれ,東方キリスト教(ギリシア正教)を国教とした。当時のロシアは雷神ペルーン,太陽神ダージボーグなど土着の神を敬う多神教であった。このような民衆をキリスト教に改宗させることは,キエフの支配者の権力を権威づけることに有効であったという政治的な事情によるところが大きいとされている。
しかし,■世紀にビザンツ帝国がオスマン帝国に滅ばされると,ロシアを統一したモスクワ公国において,「モスクワは第三のローマである」として,モスクワを東方正教会の中心地と位置づけるようになり,ロシア正教の独立性と教会の権威は高まった。
ロシア正教の二つのシンボル
ロシア正教には特異なシンボルが二つある。一つは独特の形状をした教会の塔屋根である。一般的に「ねぎ坊主」と呼ばれている形は火焔を表し,教会内での聖霊の活躍を象徴しているとされている。当初は一つの塔屋根があるだけの素朴なものであったが,しだいにその数を増やしていき,17世紀には主イエス・キリストをあらわす大きな塔屋根を中心に,福音書を記した四使徒ルカ,マタイ,マルコ,ヨハネを象徴する4つの塔屋根がそれを囲むようになった。
塔屋根の上部に取り付けられている十字架もちょっと変わっている。ロシア正教では「ロシア十字架」といい,普通の十字架の横棒の上と下に短い横棒が付加されており,「八端の十字架」と呼ばれている。上の横棒は,キリストがゴルゴタの丘で磔刑に処されたとき,額に打ちつけられた「われはユダヤの王」と記した板を,下の横棒は足台をあらわしている。もっとも,この「八端の十字架」は,17世紀の宗教改革により禁止され,普通のラテン十字架に改められた。
教会内部の構造
教会に入ると正面に「イコノスタス(聖障)」と呼ばれる壁が目に入る。イコノスタスとはイコン(聖人画)の描かれた壁で,至聖所と礼拝堂を分けている。至聖所は聖職者だけが入ることのできる場所で,そこには祭壇が設けられている。一般の人々は,イコノスタスの扉が開かれたときだけ,礼拝堂から至聖所を見ることができる。
イコノスタスには四福音書を記したマタイ,マルコ,ルカ,ヨハネおよび聖母マリアや他の聖人のイコンが飾られている。もっともイコンはイコノスタスだけではなく,会堂の壁面や柱などにも飾られており,カトリックの教会堂とはかなり趣の異なる空間となっている。
イコンは平板にテンペラ絵具でイエス・キリストや聖母マリア,聖者たちの像を描いたものである。気温や湿度の変化によって変質することの少ない菩提樹,あるいは松や樅の板が使用されることが多い。ローマ教会に対する歴史的な偶像崇拝批判からロシア正教会においては,カトリックの教会のように十字架上のキリスト像や聖母マリアの立像のような立体的なものは掲げられることはない。そのため,イコンは必ず平面像でなくてはならない。
もっともイコンは単なる板に描かれた聖人画ではなく,地上と天国の間の窓とされている。敬虔な信者たちはイコンを通して,神の国をのぞくことができると考えたからである。信仰心の篤いロシア人は,革命前はどこの家でも,部屋の入り口からみて正面の隅を「クラースヌイ・ウーゴル(美しい隅)」と呼び,そこにイコンを飾り,灯明をともして熱心に祈ったものだった。そのため,イコンは,下半分が煤けて黒くなったものが少なくない。
ロシア正教の礼拝堂においては礼拝者用のイスは用意されていない。礼拝の間,信者たちはイコノスタスに向かって立ち続けることになる。聖職者は礼拝の間に何回か開かれる。これは,信仰の深いものに対して,天国が開かれることを象徴的に表しているとされている。