亜細亜の街角補足 |
苦海浄土 |
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久しぶりに石牟礼道子氏の「苦海浄土」を読んでみた。副題は「わが水俣病」となっており,水俣病発生の土地で生きる作者が,患者の目線で悲惨な実態を啓発した名著と評価している。この本は1960年頃の水俣の風景の描写から始まっている。 「年に一度か二度,台風でもやって来ぬかぎり,波立つこともない小さな入り江を囲んで,湯堂部落がある。湯堂湾は,こそばゆいまぶたのさざ波の上に,小さな舟や鰯籠などを浮かべていた。子どもたちは真っ裸で,舟から舟へ飛び移ったり,海の中にどぼんと落ち込んでみたりして,遊ぶのだ。夏は,そんな子どもたちのあげる声が。蜜柑畑や,夾竹桃や,ぐるぐるの瘤をもった大きな櫨(はぜ)の木,石垣の間をのぼって,家々からきこえてくるのである。」 湯堂は八代海(不知火海)に面している。そこは九州本土と天草島に挟まれた細長い内海のような海であり,そこに流れ込んだ汚染物質は容易に外海に流れ出さない構造になっている。海岸地帯を縫うように「肥薩オレンジ鉄道」が走っている。1960年頃は鹿児島本線であったので,九州新幹線の登場により第3セクターの鉄道になったのであろう。湯堂には駅はなく最寄り駅は「ふくろ駅」であり,南下するとすぐ鹿児島県となる。逆に北上すると次の駅が「みなまた」になる。 明治41年,当時の水俣村に日本窒素肥料株式会社が設立された。この綜合化学会社は昭和初期に新興財閥となった日窒コンツェルンの中心企業であった。日窒コンツェルンの主要工場は朝鮮半島にあり,第二次世界大戦後は財閥が解体され,水俣工場は新日本窒素肥料株式会社(1965年にチッソ株式会社へと改称)となる。 チッソ水俣工場では1932年からアセト・アルデヒド生産を行っており,その触媒として水銀を使用していた。水銀を含む工場廃液は未処理のまま八代海に排出されていた。触媒として使用されていた物質は無機水銀であったが,反応の過程で一定割合のメチル水銀(有機水銀)が生じていたことは故意か過失か,まったく見過ごされていた。工場から排出されたメチル水銀の総量は0.6-6トンと推定されている。 八代海に排出されたメチル水銀は広範囲の環境を汚染し,地域の魚介類に蓄積されることになる。沿岸の漁民は職業柄,魚介類を食べることが多く,メチル水銀中毒になる。これが水俣病である。有機水銀が人体に対して重篤な中毒症状を引き起こすことは1940年の英国で報告されている。このときは,農薬工場において従業員がアルキル水銀中毒になったものである。運動失調,構音障害,求心性視野狭窄が主要な臨床症状とされたため,これはハンター・ラッセル症候群と呼ばれている。 水俣病を最初に発見したのは新日窒肥料工場附属病院長の細川博士である。細川氏は1954年にこれまで知られていない症状の患者を診察している。続いて1955年にも同様の患者を発見している。1956年に4名の患者が日窒病院を訪れたとき,衛生学的な対応を立てるため「原因不明の中枢神経疾患」として保健所に連絡をとった。 1956年から患者の発生した地区の調査を開始され,たくさんの在宅患者が発見された。すでに死亡した17人を含めると,患者数は54名に達した。患者たちの共通の症状は次のような悲惨なものであった。 (1) 初めに手足がしびれ,物が握れなくなったり,歩行が困難になる (2) モノが言いづらくなる,言おうとすれば一言ずつ,長く引っぱる甘えるような言い方になる (3) 舌がしびれ,味が分からなくなり,呑み込めない (4) 目が見えなくなる,耳が聞こえなくなる (5) 手足がふるえ,全身痙攣を起こし大の男ニ,三人がかりでも取り押さえられないほどである 症状が固定化したかに見え,死をまぬがれた人々も,さまざまな身体的障害や精神障害を残すことが明らかになった。 1957年に組織された熊本大学医学部を中心とする文部省水俣病綜合研究班は,1959年に中間発表として「水俣病の原因物質は水俣湾でとれる魚介類に含まれるある種の有機水銀が有力である」と発表した。有機水銀の排出原は未処理の工場廃水を排出していた新日窒肥料工場であることは明白であったが,研究班からはそこまで踏み込んだ報告はなかった。 この発表により水俣市内の鮮魚小売組合は「水俣の漁民がとった魚はぜったいに売らない」という声明を出し,漁民たちの生活は破綻に瀕することになる。病人を抱え,生活の手段を失った漁民たちは代表を選出して新日窒工場に対して補償要求を出したが,工場側は「工場で使用しているのは無機水銀で有機水銀とは関係ない」として漁民も患者も無視し続けた。また,日本化学工業会はあげて有機水銀説を攻撃した。さらに,企業城下町となっていた水俣市の市民の反応も冷たかった。患者とその家族は二重,三重の苦しみの中でその後10年近くを過ごさなければならなかった。 チッソ工場の反応器の中で無機水銀がメチル水銀に変換されることが実験的に証明されたのは1967年のことであり,政府が水俣病の原因物質はチッソ工場から排出されたメチル水銀であると発表したのは1968年である。最初の患者が報告されてからすでに13年が経過していた。その間に水俣一円では多くの患者が発生しており,さらに新潟県では阿賀野川流域において新潟水俣病が発生している。もとより排出原のチッソ工場に第一義の責任はあるわけであるが,熊本県と政府の怠慢が患者の数と苦しみを拡大したのは明らかであり,厳しく糾弾されるべきである。 二つの水俣病で認定された患者数は約3,000人(死者含む)である。認定は国が定めた基準に基づき,国からの委託を受けた熊本県・鹿児島県および新潟県が行なっている。しかし,この水俣病認定基準が医学的ではなく政治的で不十分であるとの批判があり,この認定から外れた住民(未認定被害者)の救済が今日まで続く補償・救済の主要な問題となっている。水俣病関西訴訟においては最高裁で「水俣病の認定基準は一定の条件があれば感覚障害だけで水俣病と認められる」という判断が下されており,行政と司法の判定基準が異なるという異常事態になっている。 |
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