亜細亜の街角
沈黙の春
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1962年に出版された環境問題の啓発書

環境問題の啓発書として名高いこの本はレイチェル・カーソン(1907年-1964年)という女性により執筆され,1962年に出版された。カーソンは大学院で動物学を専攻し,米国漁業局につとめるようになった。勤務のかたわらに海洋生物に関するエッセイを執筆するようになり,45歳のとき文筆活動に専念するため職を辞した。

彼女のベストセラーとなった作品は「われらをめぐる海」,「海辺」は海洋を舞台にしたしたものであった。その彼女が殺虫剤や除草剤が自然界のあらゆる場所に散布されている現状に対して強い警告を発するようになった本書を執筆したのは1958年にオルガ・ハキンズという知人の女性から届いた手紙がきっかけであるとまえがきに次のように記している。

「彼女が大切にしている小さな自然の世界から,生命という生命が姿を消してしまった」と悲しい言葉を書きつづってきた。カーソン女史は以前に長いこと調べかけてそのままにしておいた仕事をまたやり始めようと強く思ったのは,その手紙を見たときだった。どうしてもこの本を書かなければならないと思った」

彼女は科学的事実を綿密に収集し蓄積するため,米国をはじめ各国の政府機関,試験所,大学,研究所につとめている人たちに協力を求めた。まえがきに書かれている多くの専門家が彼女に協力を惜しまなかった。「沈黙の春」はもとよりカーソン女史の文筆力に負うところは大きいが,当時の一流の科学者や専門家が陰から支えた環境問題の啓発書ということができる。

本書の英文タイトルは「Sirent Spring」であった。そのまま翻訳すれば「沈黙の春」になるにもかかわらず,日本語の初版は「生と死の妙薬」というミステリーのようなタイトルがつけられていた。このタイトルからは化学薬品のもつ便利さと自然破壊という二面性をそれなりに理解できる。しかし,本書のもつ警告の全貌を端的に現す「沈黙の春」のほうがはるかに分かりやすく,かつインパクトがある。


明日のための寓話(文庫本より引用)

アメリカの奥深く分け入ったところに,ある町があった。生命あるものはみな,自然と一つだった。町のまわりには,豊かな田畑が碁盤の目のようにひろがり,穀物畑の続くその先は丘がもりあがり,斜面には果樹がしげっていた。春がくると,緑の野原のかなたに,白い花のかすみがたなびき,秋になれば,カシやカエデやカバが燃えるような紅葉のあやを織りなし,松の緑に映えて目に痛い。丘の森からはキツネの吠え声がきこえ,シカが野原のもやのなかから見えつかくれつ音も無く駆け抜けた。(中略)

漿果を求めて,たくさんの鳥がやってきた。いろんな鳥が,数え切れないほどくるので有名だった。春と秋,渡り鳥が洪水のように,あとからあとへと押し寄せては飛び去るころになると遠路もいとわず鳥見に大勢の人たちがやってくる。(中略)むかし,むかし,はじめて人間がここに分け入って家を建て,井戸を掘り,家畜小屋を建てたそのときから,自然はこうした姿を見せてきたのだ。

ところが,あるときどういう呪いをうけたのか,暗い影があたりにしのびよってきた。いままで見たこともきいたこともないことが起こりだした。若鶏はわけのわからぬ病気になリ,牛も羊も病気になって死んだ。(中略)

自然は沈黙した。うすき気味悪い。鳥たちはどこに行ってしまったのか。みんな不思議に思い,不吉な予感におびえた。裏庭の餌箱は,からっぽだった。ああ鳥がいた,と思っても,死にかけていた。ぶるぶる体をふるわせ,飛ぶこともできなかった。春がきたが,沈黙の春だった。コマドリ,スグロマネシツグミ,ハト,カケス,ミソサザイの鳴き声で春の夜は明ける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが,いまはもの音一つしない。野原,森,沼地…みなだまりこくっている。(中略)

ひさしの樋の中や屋根裏のすき間から,白い細かい粒がのぞいていた。何週間かまえのことだった。この白い粒が,雪のように,屋根や庭や野原や小川に降りそそいだ。病める世界−−新しい生命の誕生をつげる声ももはやきかれない。でも,魔法にかけられたのでも,敵におそわれたわけではない。すべては,人間がみずからまねいた禍いだった。


化学物質の無原則な散布に異議を唱える

上記の「明日のための寓話」は作者の作り話であるが,それは決して誇張ではない。米国の多くの地域でこのような恐ろしい禍いが襲いかかってきている。その禍いとはほかでもない,私たち人類が無節制にあらゆる場所に散布する殺虫剤,除草剤と呼ばれる化学薬品だとカーソンは指摘している。この魔法のように便利な化学薬品にカーソンは本書で異議を唱えたのである。

カーソンは1940年代から使用されるようになった砒素やリン,水銀を含む化学物質,塩素を含む有機化学物質が便利さの裏に隠しもつ恐ろしい性質を的確に指摘している。

(1) 殺虫剤や除草剤は程度の差はあれすべての動物に毒性を示す
(2) 自然界ではなかなか分解されるいつまでも残留する
(3) 食物連鎖を通じてすべての動物の体内に入り込み蓄積される
(4) 生体内で濃縮され上位捕食者ほど蓄積量が大きくなる
(5) ある種の化学物質は遺伝子を傷つけ突然変異を引き起こす

もちろんカーソンが指摘した1950年代の化学物質は,現在の世界で使用されているものよりははるかに毒性が強く,ほとんどのものは(少なくとも先進国では1970年代に)使用禁止となっている。しかし,それでも残留性の高い当時の化学物質は風や水により世界のあらゆる場所に拡散し,北極圏に暮らすイヌイットのようにそのような化学物質をまったく使用したこともない人々の体内に蓄積されている。

特にやっかいな物質は,例えば有名な「DDT」のように塩素をもった有機化合物である。人類が作り出した最強の毒物の一つとされている「ダイオキシン」もこのグループに含まれている。また,日本でもカネミ油症を引き起こした「PCB(ポリ塩化ビフェニール)」のように農薬とは無縁の絶縁油として使用された物質も同じような性質をもっている。

このような毒性の強い化学物質がほとんど生態系に与える影響を調査・研究されることなく自然界に散布あるいは廃棄されていたということは驚くべきことである。現在でも新たに製造される化学物質は年に数万種にもおよび,それらが人類や自然界にどのような影響を与えるかも分からないままに使用されている。その意味ではこの50年間,人類はほとんど過去の教訓を生かすことなく,化学物質の恩恵だけを追求してきた。

「沈黙の春」が出版されたとき,化学工業界から出された多くの不当な中傷はどれほどのものであったかは想像に難くない。本来,学問の中立性が要求される科学者と称される人々がこの本を批判した。しかし,同時に彼女の考え方を指示する多くの科学者もおり,そのような人々の熱意とデータの蓄積が米国の政治を徐々に動かした。

カーソンは議会で証言する機会に恵まれ,化学物質のもつ負の側面を議員たちに話した。「沈黙の春」が出版されてから10年後の1972年に米国でDDTの使用が禁止された。世論を動かすのにはそれほどの時間が必要であった。同様にいくつもの化学物質も使用禁止になった。それでも,海洋を含め環境中に拡散した化学物質は,食物連鎖と生体濃縮を繰り返し,人類や野生生物を脅かし続けている。


自然と人間の関わり

「沈黙の春」は特定の昆虫や雑草を絶滅させるために大量の化学物質を散布する方法が単なる自然破壊に過ぎず,例えば天敵の導入により対称生物の絶滅ではなく抑制を図るというもっと賢い方法があると教えている。それは自然と人間の関係についてどうあるべきかを諭している。

特定の生物だけに選択的に働く毒性をもつなどという人工化学物質はそう簡単には製造できるものではない。種により毒性に対する耐性の強弱はあるものの,毒物はやはり毒物である。特定の生物を駆除するため,そのような物質を広範囲に散布するということは,その地域の生態系を破壊する行為に他ならない。地域の生態系を汚染した化学物質は水と食料を通して人体にも侵入し,重篤な被害を与えることになる。

しかも,昆虫のように個体の世代交代が早い生物はじきに化学物質に対する耐性を身に付けてしまう。害虫駆除のための殺虫剤と細菌を死滅させる抗生物質は20世紀の科学の偉大な成果である。もう細菌の感染や虫たちにおびえることのない科学の時代がやってくるとされていたが,自然は人類の予想をはるかに上回るほどしたたかであった。

毒物が大量に使用されると,一つの種の中でそれに耐性をもつ個体がかならず現れる。そのような個体は人類の使用する毒物に死滅せず,一つの種の中で主要な集団を形成するようになる。こうなると人類が使用する毒物は一過性の効果しか生み出さないことになる。殺虫剤や抗生物質はすばらしい効果をもつが,濫用することによりその奇跡の効果が速やかに失われるということをしっかり理解しなければならない。

また,「沈黙の春」は自然と人間の関わり合いはある特定の動植物を根絶やしにするような過激なものであってはいけないと諭している。自然界では多くの動植物が相互に依存しながら生態系を形作っている。人間にとって都合の悪いある植物や昆虫を化学物質の散布により(広域の散布自体が環境破壊であり)絶滅させると,その動植物に依存して生態系を形成していた生物もまたその地域では生きていけなくなる。また,その結果,人間にとって思いがけない新たな不都合が生じることも珍しくはない。

人類は美しい自然を愛でながら,その一方で化学物質の散布しより平気で大規模な自然破壊を繰り返している。大きな力を手にした人類は,それを使用することにより自分たちのよって立つ自然,しいては人間自身がどのような影響を受けるのか,細心の注意をもって事前に検討しなければならない。