亜細亜の街角
ベトナム戦争
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第一次インドシナ戦争

仏領インドシナ(現在のベトナム,カンボジア,ラオス)の一部であったベトナムでは,第二次世界大戦末期に日本軍の「仏印処理」により,親日傀儡国家であるベトナム帝国が成立した。1945年に日本が連合国に降伏すると,ベトナム独立同盟会(ベトミン)は八月革命により決起し,ベトナム帝国からの権力奪還闘争を展開した。そして,同年9月2日,ホー・チ・ミンがハノイでベトナム民主共和国の建国を宣言した。

旧植民地の再支配を図るフランスは独立を認めず,9月末にはサイゴンの支配権を奪取し,コーチシナ共和国を成立させた。ベトミンはフランスとの交渉による解決を試みたが,フランスはベトナムが統一国家として独立することを拒否した。越仏双方の利害の相違は解決されず,1946年12月にハノイで越仏両軍が衝突したことで第一次インドシナ戦争が勃発した。

ベトナム人民の支持を得るため,フランスは1949年に、旧阮朝皇帝バオ・ダイを首班とするベトナム国を成立させた。同じ年にフランスはラオスとカンボジアを独立させ,ベトナム国の正当性を強調しようとした。しかし,1950年にソ連と中国はベトナム民主共和国を承認し,武器援助を行うようになった。これに対して米国はフランスとインドシナ三国に軍事援助を開始した。インドシナは東西冷戦の代理戦争の場になっていく。

当初はフランス軍が優勢であったが山岳地帯に引きこもって軍隊を組織したベトミンは,フランス軍との戦力差を考慮してゲリラ戦で対抗した。ソ連と中国からの軍事援助もあり戦局は次第にベトミンが優勢となった。フランス軍の最後の拠点ディエン・ビエン・フーが1954年に陥落し,フランス軍は降伏した。

1954年7月に締結されたジュネーヴ休戦協定により,ベトナムは北緯17度線で南北に分割され,北ベトナムをベトナム民主共和国が,南ベトナムをベトナム国が統治することになった。同時に恒久的な分割を避けるため,1956年に再統一の為の全国選挙を実施することも決められた。ベトナムの共産化が東南アジア全域の共産化につながるという「ドミノ理論」の恐怖から,ベトナムから撤退したフランスに代わり米国が南ベトナムを軍事・経済の両面から支援するようになった。


ベトナム戦争と周辺国への波及

北ベトナムの指導者ホー・チ・ミンにとっては南北の再統一は悲願であった。北ベトナムに密かに送り込まれたオルガナイザーにより1960年には南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成され,本格的な反政府軍事行動が開始された。当時の南ベトナム大統領のゴ・ディン・ジエムの圧制が不人気であったこともあり,解放戦線は農村部に急速に勢力を拡大していった。1963年に米国は本格的な軍事介入に乗り出す。

北ベトナムは南へ正規軍と軍需物資を輸送するため,ラオス,カンボジアの国境地帯を通る通称ホーチミン・ルートを急ピッチで建設した。このルートの一部はラオス,カンボジア国内を経由していたため,ベトナム戦争の激化とともに両国も戦争に巻き込まれていく。ラオスでは右派,中間派,左派が王国政府と共産主義勢力のパテト・ラオ