亜細亜の街角
ポルポトの狂気
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自国民を虐殺した指導者

第二次世界大戦の後にいくつかの国で数十万人の規模で人々が虐殺あるいは迫害・餓死等で死亡したケースがある。スターリン時代のソ連,毛沢東時代の中国,ポルポト時代のカンボジア,ハビャリマナ死亡後のルワンダなどである。ミロシェビッチ時代の旧ユーゴスラビア,現在のスーダン・ダルフール地方では規模は少し小さいものの民族浄化の虐殺が行われたり行われている。この中で毛沢東時代に発生した大躍進の失敗による1000万人規模の餓死者とポルポトによる虐殺は類似点が多い。

大躍進が実施されたのは1959年から1961年,ポルポトがカンボジアを支配したのは1975年から1978年と10数年の開きはあるものの,どちらも「集団生産・集団生活によりそれぞれの地域で自力更生・自給自足を目指す」ものであった。両者には「農民の大量動員と集団力にもっぱら依拠した大増産政策」という共通の側面をもつ。もっとも,ポルポトの場合には積極的に粛清という形で反革命勢力(ポルポトが気に入らない人々)を大量に殺害した。


カンボジアの独立

第一次インドシナ戦争を有利に展開するためフランスは1949年にベトナム国を成立させ,続いてラオスとカンボジアを独立させた。カンボジアはノロドム・シアヌーク国王が統治する立憲君主国となった。シアヌークは国内の右派と左派勢力の危うい均衡の上にかりそめの平和を維持していた。シアヌークが必要に応じて左派の重用と弾圧を繰り返し,対外的にも米国,ソ連,中国とバランス外交を保ち「赤いプリンスの綱渡り外交」と揶揄されることあった。

1954年にインドシナ戦争はフランスの敗戦で終結し,同年に締結されたジュネーヴ休戦協定によりベトナムは南と北に分断された。民族の統一を目指す北ベトナムの指導者ホー・チ・ミンはすぐに南の解放を目指した。北ベトナムに密かに送り込まれたオルガナイザーにより1960年には南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成され,反政府軍事行動が開始された。これに対して米国は東南アジアの共産化を防止するという大義名分により南ベトナム政府に対する軍事支援を強め,1963年に米国は本格的な軍事介入に乗り出した。

カンボジア領内には北ベトナムから南への補給ルートであるホーチミン・ルートが通っており,大規模補給基地も存在していた。この時点でもカンボジアはベトナム戦争に対しては中立を保っていた。しかし,1965年2月に米国が北ベトナムの空爆に踏み切ると,シアヌークは対米断交に踏み切り,カンボジアはベトコンの拠点となった。米国はベトナム戦争遂行のためカンボジアに親米的な政権を樹立する必要に迫られた。

1970年3月にシアヌークが外遊中に下院が召集され,シアヌークは国家元首の地位を追われた。将軍ロン・ノルは非常時権力を与えられて首相となりクメール共和国の樹立を宣言した。ロン・ノルは即座に米軍のカンボジア侵攻を許可した。これはベトナム戦争の一部ではあったものの国民の支持は低下していった。シアヌークは毛沢東主義に心酔したポル・ポトらの指揮する共産主義勢力「クメール・ルージュ」と手を組みんだ。シアヌークは反ロン・ロル連合の指導者の形でカンボジアに帰国し,内戦が始まった。

1972年1月,アメリカはロン・ノル政権支援のために南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアへ侵攻させ,カンボジア内戦に直接介入した。ラオスでも同様の構図となりベトナム戦争はインドシナ全域に拡大していった。中国の支援を受けたクメール・ルージュは勢力を拡大していき,1973年に米軍がベトナムから撤退するとインドシナ3国の形勢は一気に共産勢力に傾いた。1975年にサイゴンが陥落しベトナム戦争が終結した。続いてクメール・ルージュがプノンペンに入り,カンボジア内戦も終結した。


ポル・ポトの恐怖支配

1950年代,秘密警察から逃れるため身を潜めていた共産勢力の幹部は,シアヌークが国家元首から追放されると彼と手を結び,ロン・ノル政権を打倒した。しかし,権力を手中にしたクメール・ルージュにとってシアヌークの利用価値はなくなり,お飾りの名誉元首の地位を与えられほぼ軟禁状態にあった。プノンペンに入ったクメール・ルージュがまず手がけたのは都市住民の農村への移動であった。内戦終結時にプノンペンは難民で膨れ上がり200万人の人々がいたとされている。全ての人々はクメール・ルージュの銃口に脅され強制的に退去させられた。プノンペンは1日でゴーストタウンになり,残ったのは退去を拒んだ市民の死体だけだったという。他の都市でも同じように市民は行き先も定かで無いまま追放された。

クメール・ルージュがどのような国づくりを目指したのかはほとんど分かっていない。そのモデルとなったのは毛沢東が強引に進めた人民公社であったされている。どちらも「集団生産・集団生活によりそれぞれの地域で自力更生・自給自足を目指す」ものであった。ポルポトは徹底した自給自足の農業国家を目指したのであろう。そのためには貨幣経済,近代技術,文化知識は不要なものとされた。そして,そのようなものを担っていた知識人は新しい国づくりの障害物とされ積極的に除去された。また,集団生活における極めて小さな落ち度も除去の十分な理由となった。

黒ずくめの服を着てオンカーと呼ばれたクメール・ルージュの地区幹部は地域の集団を完全に支配し,家族における親子関係は断ち切られ,子どもたちのグループはクメール・ルージュが必要とするような人格改造教育が施されたという。クメール・ルージュにとっては彼らこそが次のリーダーになるべきと考えていた。

クメール・ルージュはすべての人民を農作業に動員し,人力のみで灌漑設備を整備し水田を拡大した。しかし,地域に合わせた伝統的な農業技術は無視され,画一的な農業政策のため収穫は少しも伸びず,人民は飢えに苦しむことになる。激しい労働と無きに等しい医療のため多くの人々が命を失っていった。その間,クメール・ルージュの軍隊はベトナム国境を繰り返し侵犯し,多くのベトナム人が虐殺された。その中にはカンボジアから逃げ出してきた人々も含まれていた。


ベトナムのカンボジア侵攻

1978年,クメール・ルージュがカンボジアを支配する前に,路線の対立によりベトナムに逃れていたヘン・サムリンはベトナム正規軍の後押しでカンボジアに侵攻した。クメール・ルージュ軍はあっけなく敗走しポル・ポトはタイ国境へ逃れた。1979年にヘン・サムリン政権が誕生しても国際社会はこれを承認せず,カンボジア国内ではいわゆる「三派連合」と政府軍との間で戦闘は続いた。

クメール・ルージュがカンボジアを支配する過程および3年間の支配時にどれだけの人々が犠牲になったかについては正確な数字を算出するのは困難であるが,およそ100-200万人というのが定説となっている。当時のカンボジアの人口は650万人と見積もられているので,ポルポトの虐殺がどれほどひどいものであるかは想像できる。しかし,平和な国に住んでいる私たちは3年間の生活がどれほど悲惨で恐怖に満ちたものであるかは想像だにできない。映画「キリングフィールド」の中ではその恐怖の生活の一部が見られる。

1979年2月には中国軍がカンボジア侵攻の報復としてベトナムを攻撃した(中越戦争)。しかし,米国との戦争を戦い抜いてきたきたベトナムの反撃にあい,1月ほどで戦争は終結した。カンボジア国内では1982年に巻き返しを図る反ベトナム3派は北京で会談を開き,反ベトナム3派の連合政府・民主カンボジアが成立した。カンボジアは完全に二分され,その後しばらく国際社会は民主カンボジアを正統政府としていた。


20年ぶりの平和

カンボジアにおけるベトナム軍の長期の駐留は国際社会の非難を受けることになるが,ベトナム軍は1985年に民主カンボジアの拠点を攻略、3月にはシアヌーク国王派の拠点を制圧し,民主カンボジア政府はほぼ壊滅した。1988年にベトナム軍は撤収し,カンボジアは国際社会の主導により和平プロセスに入る。1990年東京で「カンボジア和平東京会議」を開催され,1991年にパリで「カンボジア和平パリ国際会議」が開催され,国内4派による最終合意文章の調印が行われ,20年に及ぶカンボジア内戦は終結した。

1992年に国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC 明石康事務総長)が平和維持活動を始めた。1993年に国連の監視下で総選挙が行なわれ,制憲議会が新憲法を発布した。新憲法では立憲君主制を採択し,シアヌークが国王に再即位した。1998年4月には辺境のポル・ポト派支配地域でポル・ポトが死んだことが明らかとなり,ポルポト派は消滅した。ようやくカンボジアは安定への道を歩み始める。