紀元前1500年頃の中東(西アジア)にはエジプト古王国,アッシリア,バビロニアという大帝国が存在していた。その頃,現在のトルコに相当するアナトリアにヒッタイトというもうひとつの帝国が存在していたことが20世紀の考古学的研究により明らかになった。
帝国の名前は旧約聖書に記されていた Hitti(ヘテ人,ヘト人)をもとにしてヒッタイトと命名された。ヒッタイト帝国(紀元前17世紀-紀元前13世紀)は鉄を最初に実用化し,鉄製の武器と軽戦車を使用して強大な軍事国家となりアナトリアを支配した。
ハットゥシャは1906年にドイツのH・ヴィンクラーがハットゥシャ遺跡を発掘し,これによりヒッタイト帝国の存在が明らかになった。遺跡からは複数の楔形文字の記された2万枚以上の粘土板が発見された。ヴィンクラーの発掘は粗雑で,十分な記録もとられていなかったが,この遺跡には巨大な書庫が備えられていたようだ。
粘土板の中には古代メソポタミアの公用語であるアッカド語で書かれたものもあり,言語学者であったヴィンクラーはそれを解読することができた。その結果,この遺跡は聖書に出てくるヘテ人の古都でハットゥシャと呼ばれていたことが判明した。この遺跡は1986年に世界遺産に登録された。
ハットゥシャから発掘された粘土板にはその当時知られていたアッカド語,シュメール語以外の複数の楔形文字も使用されていた。この解読は困難を極めた。チェコ人のB・フロズニーはこれらの文字の一部解読に成功し,あるものは印欧語に含まれると結論づけた。さらに研究が進むと当時のアナトリアには先住民族のハティ人,複数のコーカサス語族,さらにヒッタイトを含む印欧語族が居住していたことが判明した。
この時代にアナトリアに印欧語族が居住していたという事実は考古学者に衝撃を与えた。ヨーロッパ人の祖先にあたる印欧語族は現在の南ロシア,すなわち黒海からカスピ海の北側から各地に移動していったと考えられていた。その考えによるとヒッタイト人は黒海を渡ってアナトリアにやってきたことになる。しかし,逆にアナトリアが印欧語族のふるさとであり,ここから各地に移動して行ったとも考えられるからである。現在,この2つの学説は決着がついていない。
ヒッタイト人はアンカラの東145kmにあるポアズカレ(ボアズキョイ)村の近郊の丘陵地帯にハットゥシャという都を築いた。古代西アジアの主要帝国は水の豊かな平地を根拠地としてきた。しかし,ハットゥシャ周辺の地域から隔絶した山岳地帯にあり,他の帝国と際立った違いをみせている。彼らがそのようなところに都を築いたのはひたすら防衛のためである。都は自然の地形を利用し,周囲は強固な石壁により囲まれていた。
現在の遺跡は南北2.2km,東西1.3kmの広大な範囲に王宮,神殿,門を備えた城壁跡などが残りされている。ハットゥシャの北東にある,自然石を利用したヤズルカヤ神殿には多くの神々のレリーフが描かれており,ヒッタイト人の高い芸術性を表している。
ヒッタイトは王族を中心とする固い結束と厳しい掟により次第にその支配地域をアナトリア全域に拡大していった。そして,シリア地域の覇権をめぐって紀元前1285年頃にエジプトと戦うことになった。この戦争は「カデシュの戦い」と呼ばれエジプトの記録に残っている。ヒッタイトは軍馬に引かせた3人乗りの軽戦車を駆使してエジプト軍を打ち破った。ラムセス2世は勝利の記録をルクソールなどの神殿に刻んでいるが,実際にはシリアはヒッタイトの支配下に入った。
エジプトの記録にはヒッタイトの王についても記されており,その中では「大王」という尊称が使用されている。それはヒッタイトが地域の覇権勢力であったことを物語っている。この後にエジプトとヒッタイトの間で世界最古の国際条約が結ばれている。
ヒッタイトは青銅器時代にあって最初に鉄を実用化したことで知られる。トルコのカマン・カレホユック遺跡にて鉄滓が発見された。鉄そのものは紀元前18世紀頃,アッシリアが周辺を支配していた時期にあったとされている。鉄の製法はヒッタイトの国家機密となっていた。
巨大な軍事国家であったヒッタイトは紀元前1200年頃,謎の滅亡を遂げる。最近の研究では「カデシュの戦い」のあと王族同士の内紛が発生し,ハットゥシャの都は深刻な食糧難に直面していたことが判明した。おそらく人々は財宝や重要な文物を携え,ハットゥシャを遺棄したものと考えられている。他の民族に利用されないようにするため都の建物には火がつけられた。猛火の中でも粘土板だけは無事に残り,在りし日の帝国の姿を現在に伝えた。