亜細亜の街角
インダス文明
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インダス文明

紀元前7000年頃,インダス平原の西方に位置するバローチスターン丘陵の麓で麦の栽培が始まった。南アジア最初の農耕村落と考えられるメヘルガルでは石製鎌が出土しており,これが最初の麦作農耕の証拠となっている。この時代,まだ金属器はなく石製の鎌で麦を刈り,小さな石皿で麦をすりつぶしていた。同時に人々は羊・山羊・牛を飼うようになり文明への長い道のりが始まった。

やがて彩文土器やアクセサリー,人や動物の土偶が盛んにつくられるようになる。モヘンジョダロ遺跡の下層の発掘によりこの地域では,従来考えられていたより1500年も古い紀元前4000年頃には都市が構築されたことが明らかになった。

紀元前2600年から紀元前1800年の間,インダス川,およびインダス川と並行して流れていたと考えられるガッカル・ハークラー川(現在は存在しない)の周辺に大小の都市が建設された。

地域としてはインダス川下流域,パキスタン・パンジャブ州,インド・グジャラート州にまたがっている。この川沿いの文明を総称してインダス文明という。西のメソポタミア文明圏とも水上あるいは陸路で交易が行われており,そのことはメソポタミアの文献にも記されている。

インダス文明全体で1500箇所を越える村落遺跡とともに,10箇所ほどの都市遺跡がこれまでに発見されている。考古学上は,ハラッパー文化と呼ばれ,パキスタン,パンジャブ州のハラッパーを標式遺跡としている。主要な都市遺跡は次の通りである。

(1) ハラッパー・・・・・・パキスタン・パンジャブ地方
(2) カーリバンガン・・・パキスタン・パンジャブ地方
(3) モヘンジョダロ・・・パキスタン南部シンド地方
(4) ドーラビーラ・・・・・インド北西部グジャラート州
(5) ロータル・・・・・・・・インド北西部グジャラート州

都市の規模はメソポタミアのものよりも小さく,モヘンジョ=ダロとハラッパーがメソポタミアの小都市にようやく匹敵する規模であった。都市の建築材はパンジャブやシンド地域では焼成レンガが使用され,グジャラート地方では石灰岩がよく使用されている。

これらの都市は綿密な計画に基づいて整然と区画されており,大沐浴場など公共建築物が置かれた政治的・宗教的な中心である「城塞」と一般 の家屋が密集する「市街地」とに分かれ,そのいずれもが壁で囲まれている。その一方で他の古代文明につきものの巨大な権力者の存在をうかがわせる建築物はない。


インダス文明の担い手

インダス文明の担い手は現在は南インドを中心に居住しているドラヴィダ人であろうと推定されている。遺跡からは印章に刻まれているごくわずかの文字が発見されているが,表意文字であるのか表音文字であるのかすら分かっていない。

インダス文明がなぜ滅亡したか,あるいは人々がなぜこの地域を放棄したかについてもまだはっきり分かっていない。有力な学説は次の通り。

(1) インダス川の河口付近の土地が隆起し洪水が頻発し,同時に塩害が発生するようになった。
(2) インダス川の河道が変化し水上交通に頼っていた都市機能がマヒした。
(3) 人間の活動により周辺が砂漠化し農業の不適地となり住民が移住した。

インダス文明が衰退,あるいは滅亡した紀元前1300年頃に印欧語族のアーリア人がインドに侵入し,北部を支配したため,先住民族のドラビダ人はデカン高原,あるいは南インドに移動していった。現在でもインド南部はドラビダ系の文化が色濃く残っている。