亜細亜の街角
毛沢東の中国
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近代中国のあけぼの

19世紀の中頃,200年にわたり中国を支配してきた清王朝は欧米列強の砲艦外交と内乱により著しくその国力を弱体化させていた。太平天国あるいは義和団など反清朝的な運動は挫折し,国民は新しい政治体制を求めていた。1905年にいくつかの秘密結社を統合し中国同盟会を結成した孫文は,民族・民権・民生の「三民主義」を掲げて清朝の打倒と共和制の樹立を図ろうとした。

1911年に辛亥革命が起こり,清朝から鎮圧の命を受けた袁世凱が革命軍の支持に回ったため,清朝はあっけなく崩壊した。革命政府は「中華民国」を生み出したが,それは袁世凱などの北方軍閥,孫文を中心とする革命派の妥協によるもので,じきに袁世凱は共和制を廃して帝政を復活させた。これに対して反帝政・共和制擁護の運動が各地で展開され,1916年の袁の死により帝政は廃止された。しかし,その後も中国は軍閥が支配する混迷の時代に向かう。

1919年,第一次大戦が終結し,ベルサイユ条約が結ばれた。しかし,中国におけるドイツの権益は返還されず,日本に引き継がれることになった。これに怒った北京の学生の抗議に端を発し,「五・四運動」と呼ばれる激しい全国規模の反日愛国運動が興った。この中にはロシア革命に影響された社会主義運動も含まれていた。1921年に小さな所帯ながら中国共産党が結成され,国民党と合作を指向した。国民党もしだいにソ連の影響を受けるようになり,1924年に「反帝・反封建」のもとに第一次国共合作が成立した。

しかし,1925年に孫文が死去すると国民党は左右の主導権争いが起こり,軍を背景にした蒋介石が実権を握った。蒋介石は1926年に孫文の遺訓により北伐を開始し,その途中の上海で共産党を徹底的に弾圧,排除した。蒋介石に率いられた国民党軍は1928年に北伐を成し遂げ,蒋介石は南京国民政府主席に就任した。


日本の大陸侵略

1929年の世界大恐慌の前後からヨーロッパではファシズムが,日本では軍部勢力が台頭した。日本は金融恐慌と不況による経済混乱を中国大陸への勢力拡大により乗り切ろうとした。1928年の山東出兵,1931年の満州事変へと侵略を拡大していった。蒋介石政権は反蒋勢力と日本の侵略という内憂外患に悩まされながらもまず内憂の解決を優先した。その中には南部沿岸部で勢力を伸ばしていた共産党も含まれていた。

この農村地域の活動を指導していたのが毛沢東である。都市労働者より農村を重視する彼の革命方式は,地主の土地・財産を没収し農民に分配することにより,彼らを革命勢力に取り組むというもので,その後の毛沢東の基本戦略となった。国民党軍の包囲攻撃は毛沢東のゲリラ戦術により功を奏さなかった。共産党は毛沢東を主席とする中華ソビエト共和国臨時政府を樹立し,独自の紅軍20万人を擁するまでになった。中国は二重権力の時代に入った。

日本は1932年に満州を中国から分離させ満州国として独立させた。さらに河北への侵攻を開始した。それでも蒋介石は第5次共産党討伐に乗り出した。このとき毛沢東はソビエト派との党内抗争に敗れ,指揮権を失っていた。

国民党軍は一歩一歩共産党の支配区域を崩す作戦により,ついに共産党は1934年に根拠地の江西省を放棄し,非戦闘員を含め西に向かって移動を開始した。戦闘と飢え,厳しい行軍により江西省から中国の辺境を半周し,一年後に陝西省延安にたどり着いたとき,出発時の15万人は8000人になっていた。これが有名な長征である。この長征の途中で開かれた政治局拡大会議においてソビエト派は厳しく批判され,その後は毛沢東が指揮をとることになった。


中華人民共和国の誕生

日本の大陸侵略が日中戦争に拡大すると,共産党は内戦の停止と抗日を呼びかけた。中華民族が一致して日本に対抗しようという運動は中国各地に広がった。それでも蒋介石は共産党攻撃を停止せず,「西安事件」によりようやく内戦は停止された。紅軍は「国民革命軍抗日八路軍」と改められたが,その実質は共産党の指揮下にあった。

日本軍は1937年からわずか1年で沿海の主要都市と鉄道線路をほぼ制圧した。あの「南京事件」はこの過程で発生したものである。国民政府は首都を南京から武漢に移し,さらに奥地の重慶に追いやられた。しかし,広範な抵抗により日本軍の勢いは止まり,日中戦争はこう着状態となった。

日中戦争で欧米の厳しい非難と経済制裁を受けた日本は1941年に無謀な太平洋戦争に突入し,1945年に敗戦を迎える。太平洋戦争の間も内戦は再発していた。終戦時に中国では平和的な統一国家を求める要求が高まり,1945年に毛沢東と蒋介石の会談により蒋介石を最高指導者とする統一国家の建設に合意した。

しかし,双方とも勢力の拡大をめざしており多くの事項で対立が深まり,1946年には全面戦争に突入した。内戦当初,国民党軍は共産党軍の4倍の兵力を有していたが,毛沢東は持久戦,遊撃戦を展開し国民党軍は消耗していく。

その一方で,農村では地主から土地を解放し多くの農民を味方に引き入れた。国民党政府の腐敗も相まって戦況は急速に共産党の側に傾いていった。1949年に北京は無血開城され,国民党政府は台湾に脱出した。1949年10月,毛沢東は天安門の壇上から中華人民共和国の成立を高らかに宣言した。


大躍進の失敗

新政権は共産党を中核に誕生したとはいえ,決して社会主義国家あるいは共産主義国家を標榜するものではなかった。毛沢東自身も1950年には「社会主義改革は新しい民主主義の諸改革を経て実現される」と述べている。共産党全体の認識も新しい民主主義段階は相当長い期間にわたるというものであった。米国との関係も必ずしも対立軸をもつものではなかった。しかし,1950年の朝鮮戦争,米国の台湾政権支援により,新中国は社会主義陣営の一員として東西冷戦構造に組み込まれていく。

さらに1953年にスターリンが死去し,1956年にフルシチョフがスターリン批判を行った。そのような国際情勢の下で毛沢東は中国独自の社会主義を模索していくことになる。ソ連の援助を受け第一次5ヵ年計画がスタートし,重工業化の推進およびその資金を農業部門から捻出するため農業の管理・統制が始まった。

中国独自の合作社化を毛沢東は強引に推進した。1955年から1956年にかけて,まず自然村を単位とする初級合作社が組織され,次に行政単位に基づく高級合作社が組織された。中国の農家はほとんど合作社に組み込まれ,集団所有,集団労働化が進められた。合作社化により農産物の強制供出も始まり,農民の生活水準は期待されたほど向上せず,農民の生産意欲は低下した。当然,そのような事態に対して中央でも省レベルでも合作社化抑制の動きも広まる。

1956年に開かれた中国共産党全国大会では,ソ連におけるフルシチョフの個人崇拝批判を受け,党規約から「毛沢東思想」という表現が削除され,集団指導体制の確立が強調された。これに対して毛沢東は大衆運動を引き起こすことにより,自らの政治路線,リーターシップの強化に乗り出した。 1956年には「百花開放・百家争鳴」により共産党に対する党外からの積極的な批判を歓迎すると表明した。毛沢東は「いかなる幹部であろうと,いかなる政府であろうと,その欠点や誤りについては批判を受けるべきである」と述べている。

彼の発言の狙いは明らかに「反右派闘争」の展開であった。権力・路線闘争を階級闘争に置き換え,無知で扱いやすい大衆を動員して政敵を葬り去るのが毛沢東の常套手段であった。1957年までに全国で49万人の人々が右派のレッテルを貼られ社会的に抹殺された。

1958年の共産党全国大会において急進的な社会主義をめざす「社会主義建設の総路線」が採択された。これがいわゆる「大躍進」の始まりである。大躍進とは国家のあるべき姿を提示することなく,ひたすら農業と鉄鋼の増産を実現しようとしたものである。1957年にロシア革命40周年式典において毛沢東は「中国は15年以内にイギリスに追いつく」と宣言した。

毛沢東は農業合作社をさらに飛躍的に発展させるために,合作社と従来の権力機構である人民政府を一体化・大型化して人民公社の組織化を推進した。人民公社は農業・工業・商業・文化・教育・軍事を一体化した中国独自の社会体制で,集団生産・集団生活によりそれぞれの地域で自力更生・自給自足を目指すものであった。1958年の約3ヶ月の間に,全農家の99%が27,000もの人民公社に組織化された。

鉄鋼生産を1年で倍増するため全国の60万ヶ所で小型の土法高炉が造られ,農民たち1億人が動員された。確かに生産は倍増されたものの,貧弱な製造技術のため総量の約30%は粗悪で使い物にならなかった。異常な鉄鋼増産のための動員により農業生産は低下し,食糧生産は目標の3-3.5億トンを大幅に下回る2億トンにとどまった。

にもかかわらず,右派闘争以来,こうした急進路線への批判はまったく困難な状況になっていた。下級幹部は上級幹部の非難をかわすため,誇張した虚偽の報告を行い,数字は上に行くにしたがって膨れ上がり,毛沢東のもとには非現実的な報告が届けられていた。

食糧生産は1959年で1.7億トン,1960年には1.4億トンにまで落ち込んだ。また,鉄鋼生産に大量の木炭を使用したことにより森林が伐採され,大きな自然災害が重なったこともあり1500-4000万人の人々が餓死したとされる。1962年の共産党中央拡大工作会議(7000人大会)において毛沢東は自己批判を余儀なくされ,指導権は経済の立て直しを求めた劉少奇・ケ小平に移った。


文化大革命の厄災

劉少奇・ケ小平は政治・思想問題を棚上げにして,経済調整政策を進めた。労働請負制,農家の生産請負制,農産物買い上げ価格の大幅引き上げなどの政策により,1963年から農業,工業とも生産は回復していった。劉少奇・ケ小平の党内の威信が高まるにつれて,毛沢東のそれは相対的に低下していった。

共産党中央の正式機関は両氏の強い影響力下におかれるようになった。そのような状態を毛沢東が快く思うはずもなかった。彼は「赤い皇帝」の座を取り戻すために「文化大革命」を提唱する。そして毛沢東の切り札はやはり無知な大衆の動員であった。

1966年に「学術会や教育界はブルジョア知識分子に実権を握られている」と党中央宣伝部を激しく非難した。北京大学に掲示された反革命批判の壁新聞が契機となり文化大革命がはじまった。

文化大革命の担い手は紅衛兵と呼ばれる地方の若者たちであった。100万人もの紅衛兵が天安門広場に集まり,赤い小さな毛沢東語録を打ち振り,「毛沢東への忠誠」を叫ぶ異様な光景は「ワイルド・スワン」にも作者本人の体験として記述されている。

毛沢東は天安門広場におもむき,彼らを煽動し「四旧打破」,「造反有理」のスローガンを打ち出した。毛沢東が目指したものは自分に従わない共産党の解体と再構築だったのかもしれない。中国革命の同志がどのような仕打ちを受けようと,ぼう大な人民が塗炭の苦しみを受けようとそれは彼にとっては大した問題ではなかったようだ。

彼が希求したのは継続的な階級闘争だけだったのかもしれない。同時に紅衛兵,さらに多くの労働者や農民が文化大革命に参加したのは「当時の中国社会の中に重層的な差別構造があり,それに対する不満エネルギーが充満していたから」と分析する向きもある。

文化大革命では紅衛兵による知識人,共産党の古参幹部への大規模な迫害,紅衛兵同士の武力対決,文化財の大量破壊が行われ,社会秩序は根底から揺さぶられた。この無意味な革命で殺害された犠牲者は数100万人を下らないとされている。人々は誰しも「反革命」のレッテルを貼られるのではと恐怖と猜疑心を強め,唯一の安全を「毛沢東への忠誠」に求めた。

毛沢東は社会を大混乱に陥れた文化大革命を収拾する青写真をもっておらず,1969年の共産党全国大会(文革勝利の大会)においても,新しい国家像は少しも見えてこない。1973年に実権派ナンバー2のケ小平が復帰し,ガンで病床にあった周恩来に代わり国務院の実務を取り仕切るようになっても,党中央で権力をもつ「四人組」との対立は強まった。1976年に周恩来が死去するとケ小平は再び失脚する。


毛沢東の死(1893-1976年)

1976年に毛沢東が死去すると,中央における権力闘争は激化した。毛沢東の存命中に党副主席に抜擢された比較的無名の華国峰は周恩来系の官僚グループや葉剣英らの軍長老グループと反四人組連合を組み,先手を打ち四人組を逮捕した。このニュースが流れると巷は歓喜で溢れたという。毛沢東の理念の後継者たちは一夜にして罪人となった。

毛沢東の後を継いだ華国峰の時代は長くは続かなかった。彼の権力基盤は強固なものではなく,毛沢東の「あなたがやれば私は安心だ」という遺言が権力委譲の唯一の根拠である。

そのため,毛沢東の決定は全て変えてはならない,毛沢東の下した指示には全て従うという「二つの全て」という方針を提起せざるを得なかった。また,人民にとっても党幹部にとってもやっかいな遺産である「階級闘争」,「継続革命」,「文革の成果」を表に出さなければならなかった。

その一方で1973-1975年にかけてケ小平が手がけた経済の再建を彼自身が行わなければならなかった。しかし,革命の継続と経済の再建は毛沢東と劉少奇・ケ小平が対立したように水と油の関係にあるのは明らかであった。これが華国峰体制のジレンマである。さらに,四人組の逮捕により文革で追放された多くの党幹部の名誉回復と党務復帰が実現した。

この機を逃さずケ小平は華国峰体制への支持と自己の誤り認め反省している書簡を華国峰に送った。党中央はこの書簡を配布し党への復帰を認める決定を行った。彼は一気に党におけるナンバー3の地位に戻った。ケ小平の本当の狙いは華国峰の追い落としであった。文革の評価についてはひとまず棚上げにし,華国峰の失政をじっと待つことになる。

華国峰の経済運営が行き詰まり,批判の矢面に立たされるとケ小平は「真理基準論争」と「反右派闘争,文革で失脚した多くの幹部の名誉回復」により毛沢東体制の見直しに着手した。民心と党の趨勢が自分に傾くのを見極め,1978年の共産党中央委員会において「脱文革路線」を決定付けた。

ここで大衆を動員する階級闘争は終焉し,経済建設を柱とする歴史的転換が実現した。ケ小平は政治闘争を惹起させること無く,華国峰人脈を徐々に削り,最後に本人を権力の座から降ろし,党主席は胡耀邦,軍事委員会主席にケ小平が就任した。1982年,中国は新しい時代を迎えることになった。