レバノンとシリアは隣同士の国である。しかし,レバノンにはシリア大使館は無いし,シリアにはレバノン大使館は無い。そもそも二国間の正式な国交が無いと言う。このためベイルートに空路で入り,シリアに移動しようとするとシリアビザを取るところが無いという事態になる。これはどうしてであろうか。そこには中東現代史の出来事が影響している。
第一次世界大戦で枢軸国側についたオスマン帝国(この時代にはトルコという国名は無い)は,その支配地域の大半を失うことになる。その中には現在のシリア,レバノン,パレスチナ,イスラエル,ヨルダン,イラクの東アラブ地域が含まれていた。
対戦のさなかに英国は戦争を有利に運ぶため3つの約束手形を発行する。フランスとの間には戦後処理として「東アラブ地域は英仏両国で分割統治する秘密協定」を結んだ。メッカの大守,名門ハシム家のフセインに対しは「オスマントルコに対するアラブ反乱の見返りに東アラブ地域およびアラビア半島にアラブ王国建設を支持する」ことを約束した。さらに1917年英国外相バルフォアはユダヤ人の有力者ロスチャイルドに対して「イギリス政府はパレスチナでのユダヤ人のナショナルホームを設立を支持し努力する」ことを確約する書簡(バルフォア宣言)を出した。
同じ地域に3つの約束手形を出したので戦後処理が混乱するのは当たり前である。結果としてシリアとレバノン地域はフランスの委任統治,パレスチナ,ヨルダン,イラクは英国の委任統治となった。さすがに厚顔な英国でも直接統治とはいえず形だけは国連の委任統治ということにした。
ハシム家のフセインをなだめるため英国はヨルダンとイラクに彼の次男と三男を国王として据えることにした。フセインの大アラブ王国の野望はまったく反故にされることになった。さらに,フセインはサウド家(現サウジアラビア王家)との争いに敗れ,アラビア半島から退去することになる。
シリアとレバノンを勢力下に置いたフランスはすぐにシリアからレバノンを分離して独立させた。レバノンにはキリスト教のマロン派が支配勢力となっているため統治が容易なためである。しかし,この処置はシリア人のプライドをひどく傷つけた。
シリア人にとってはシリア,レバノン,パレスチナは「大シリア」として一つの地域であるべきなのだ。シリアが独立し政権が変わっても「大シリア主義」がシリアの国策となっており,シリアはキリスト教徒,イスラム教徒に関係なくレバノンの支配勢力の力を減じる方向で干渉を続けた。シリアの学校の教科書には、レバノンは大きなシリアの一部として描かれているという。
2005年にはラフィーク・ハリーリー前首相が爆弾テロにより暗殺され,これにシリアの関与がとりざたされてレバノンとシリアとの関係は冷却化した。事件に関連してシリア寄りの政治家,軍人の大物5人が逮捕され,シリア軍はレバノンから撤退した。シリアの干渉はこれを機に減少するはずであるが,代わりにレバノン南部はイスラム教シーア派の武装勢力ヒズボラに支配するところとなり,レバノンの苦難は続いている。
シリアも米国にテロ支援国家の烙印を押され,国際的にも孤立してきた。2008年8月のニュースで,「シリアとレバノンが国交を樹立」という記事が載っていた。現在の大統領であるアサド・ジュニアは国際的な感覚の持ち主とされているので,シリアの国際社会への復帰を志向しているのかもしれない。これで,両国の大使館が置かれるようになるかもしれない。