クルド人は中東のトルコ,イラン,イラク,シリア,アルメニアにまたがる地域に居住する印欧語族系の民族である。人口は推定2000-3000万人,アラブ,ペルシャ,トルコに次ぎ中東で4番目の人口をもつ民族である。クルド人は独自の言語をもち,彼らの居住する地域をクルディスタンを呼んでいるが,その地域は上記の国家により分断されており,独自の国家をもたない世界最大の民族となっている。
紀元前からアナトリア東部からメソポタミア平原北部,サグロス山脈北西部は西アジアの大帝国の辺境となってきたため,時代により支配勢力とその支配地域はめまぐるしく変動してきた。それは,この地域に居住しているクルド人の意志とは無関係なできごとであった。
支配勢力の力関係によって,その支配地域が変動するという時代は19世紀の終わりまで続いた。民族,国家という概念が確立するのは20世紀になってからのことである。20世紀の初頭,クルディスタンの大部分はオスマン帝国に,一部がペルシャに属していた。
第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国はその支配地域を大幅に失うことになる。空白地域は戦勝国の英国とフランスが民族の意志とは関係なく線引きし,南クルディスタンはイラクに編入された。北クルディスタンは1923年に成立したトルコ共和国の一部となった。これ以後クルド人はそれぞれの政府に対して独立あるいは自治を求めて戦うことになる。
トルコ国内には東部を中心に約1500万人のクルド人が居住しており,これはトルコ人口の約25%に相当する。しかし,トルコ政府は,1923年の共和国建国以降一貫して「クルド人」という民族の存在を否定している。
トルコ語教育に代表されるようにクルド人はトルコ政府の同化政策の下で,民族としてのアイデンティティを認めらていない。クルド人の権利を主張する政党は非合法とされ,「分離主義者」の烙印を押された活動家は激しく弾圧されてきた。
1984年にオジャラン議長が率いる「クルディスタン労働者党(PKK)」が,トルコ政府に対して武装闘争を開始する。15年に渡る武力衝突の中でトルコ軍により4000もの村落が破壊され,国内外へ避難したクルド人は300万人以上にのぼる。1999年2月,オジャラン議長が逮捕されたことにより,両者の武力衝突はひとまず収束している。
イラクでは自治を求めるクルド人勢力はサダム・フセイン大統領により長らく迫害を受けてきた。特にイラン・イラク戦争が始まるとクルド人勢力は反フセインの立場からイランとの結びつきを強めていった。フセイン政権はその報復としてアンファール作戦を展開し,1988年ハラブジャという都市でイラクは毒ガスを使用した。この攻撃により市民数千人が死亡したと言われており,フセイン政権は国際的な非難を受けることになる。
湾岸戦争(1980-81年)の終戦直後には,南部シーア派住民と北部クルド人が反フセイン暴動を起こしたが,米英が不介入の立場をとったためフセイン大統領は残った軍事力でこれらを制圧し,多数の市民が殺害された。クルド地域に対する迫害は非常に厳しく,1988年の毒ガス使用の恐怖もあり,数十万人の人々が難民となりイラク北部の山中をさまようことになる。
2003年のイラク戦争によってフセイン政権が崩壊すると,クルド地域は自治権が認められ自治政府が設立された。2006年以降,中央および南イラクはほとんど内戦状態に陥っているが,北イラクは比較的平穏な状態が続いている。