武帝の時代に対匈奴作戦が始まった
紀元前202年に劉邦は項羽を破り漢王朝の高祖となる。しかし,その後の40年ほどは呂氏一族の専横や准南王の謀反,呉楚七国の乱などが重なり王朝の基盤は危ういものであった。一方,中国大陸の北方では秦に一度敗れ分裂状態にあった匈奴が冒頓単于のもとで一つにまとまり巨大な遊牧民族国家を作り上げた。匈奴はしばしば漢の領内で略奪を図り,漢王朝は公主(皇帝の娘)を嫁がせたり,毎年莫大な物品を貢納して和親政策とらざるを得なかった。しかし,武帝の時代になると政治は安定し国庫は豊かになり,匈奴に対する軍事作戦が展開された。
さて,匈奴の捕虜から「匈奴は月氏を打ち破り王の頭蓋骨を酒盃にしている。北方に逃れた大月氏は今も匈奴を怨んでいる」との情報を得た武帝は,匈奴の挟撃作戦を狙って月氏に使者を送ろうとした。この使者に選ばれたのが張騫であった。当時,郎(宮中の侍衛)という低い身分の役人であった張騫は恩賞に与ろうと100名余の従者を連れて危険かつ困難な任務に赴いた。
匈奴に捕獲され10年の拘留生活を送る
しかし,その任務は匈奴の知るところとなり,出発そうそうにあえなく全員捕らえられてしまった。張騫は匈奴のもとで10年間も拘留生活を送り,その間に匈奴の女性を妻として子どもをもうけている。その間も漢の節(身分を証明する印)を手放さず,ひたすら脱出の機会を待ち続けた。そしてついに妻子と何人かの従者とともに脱走し,天山南路から天山山脈を越えフェルガナ盆地あたりにあった大宛国を経由して大月氏のもとにたどり着いた。
ところが,匈奴に敗れ西に移動した月氏は大宛国の南にある大夏(バクトリア)の地を征服し,安定した暮らしに慣れてしまい,匈奴に対する報復の念はすでに無くなっていた。結局,明確な回答を得られないまま張騫はパミールを越え,西域南道(タクラマカン砂漠の南側)を通って帰国することにしたが,再び匈奴に捕らえられてしまう。およそ1年ほど拘留され,匈奴に内乱に乗じて再び脱出し長安に戻った。出発時100余人いた従者のうちともに帰国できたのはたったの1人だったと伝えられている。
軍事同盟は達成できなかったが西域の情報がもたらされた
月氏との同盟という本来の目的を達成できないまま帰国した張騫であるが,漢民族の支配の及ばない西域の国々と地理,民族,物産などに関する詳しい報告を行なうことができた。武帝はその功績により太中大夫(宮中会議への参加資格をもつ顧問官)にとりたてた。その後,張騫は校尉(部隊長)に任命され,武将衛青について出征した。西域の地理・風俗に通じていた張騫のおかげで軍は水・飼葉の欠乏に悩まされることなく大きな戦果をおさめることができた。
張騫は武帝に大宛の東北約20里のところにある烏孫と盟約を結ぶことを提言した。それにより,匈奴の右翼を削ぐとともに,烏孫の西方にある国々も入貢してくるに違いないという考えからであった。武帝はこれに同意し張騫を使者の役を任命した。張騫は黄金と絹織物を携え,300人の部下とぼう大な牛と羊を引き連れ烏孫に向かった。このときは匈奴が弱体化していたこともあり,大きな障害はなかった。しかし,年老いた烏孫王からははっきりした返事を得られぬまま,烏孫からの答礼の使者と良馬数10頭を伴って帰国の途についた。長年の労苦がたたったせいか,帰国後1年ほどで余りで死去している。
漢と西域の間の人や物資の往来は盛んになる
張騫の死後1年余り経過した後,彼が帰途に大宛,康居,月氏などの周辺諸国に派遣していた副使たちがそれぞれ答礼の使者を連れて帰国した。各国の使者はそれぞれの国に帰り,漢の大きさと人口の多さ,物資の豊かさについて王に報告したため,各国の王は漢との通交を望んだ。こうして,漢と西域の間の人や物資の往来は盛んになり,シルクロードが始まった。それ以降,ユーラシア大陸の東西を結ぶ交易路はばく大な通商税をもたらすようになり,時代の支配者により保護されるようになった。交易路を行きかったのは絹や玉のような商品だけでない。そこは,仏教やキリスト教が伝わり,東西の文化が交流し融合した道でもある。