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地理・気候

インドの最北部は複雑な宗教圏,文化圏を形成している。この地域は大きく3つの地域に分けることができる。地域の中央部を北西から南東にかけてヒマラヤ山脈が走っており,その北側はラダック地域と呼ばれチベット文化圏となっている。ヒマラヤ山脈と平行してその北側流れるインダス川の上流部はヒマラヤ山脈とカラコルム山脈を分断している。インダス川の南がヒマラヤ,北がカラコルムということになる。

一方,ヒマラヤ山脈の西側,スリナガルからジャムーにかけてはカシミールと呼ばれており,イスラム教徒の多い地域である。ジャムーの南側は他のインド地域と同じようにヒンドゥー教徒がメジャーとなる。行政的にはカシミールとラダックが合わさってジャム・カシミール州となっている。 地域の気候はヒマラヤ山脈を境に大きく異なる。ラダックの中心地レーの標高は3500m,モンスーンがヒマラヤ山脈にさえぎられるため年間降水量は約80mmと年間を通してほとんど雨は降らない高地砂漠気候である。冬は6-7ヶ月と長く,気温は氷点下20度以下にまで冷え込む。

それに対してスリナガルは標高1700m,モンスーンの影響を受けるものの雨量はそれほど多くはない。ラダックから下ってくると緑の豊かな谷間の風景に驚かされる。冬場の気温は氷点下近くにまで下がるものの,デリーが酷暑となる5月でも平均最高気温が25℃という涼しさのためインドの避暑地となっている。

地域交通

スリナガル,ダラムサラ,マナリの区間はバスが運行されており移動には苦労しない。マナリとラダックの間はヒマラヤ山脈を越えるため4000mあるいは5000mの峠をいくつか越えなければならない。最高地点はタングラングラ峠の5360mである

。政府系のバスと民営のジープが運行されており,バスの場合は4000mのキャンプ地に一泊することになる。ジープは深夜(早朝)にマナリを出てその日の夕方にレーに到着する。レーからスリナガルまでは日に1-2本のバスが出ており,途中で一泊することになる。どちらのルートも雪の季節は閉鎖され,ラダックは空路を除き陸の孤島となる。

カシミール紛争

ヒマラヤ山脈の西端に広がるカシミール盆地は,乾燥した南の平原部や東のラダックに比べると別天地のように美しい。1947年にインドが独立するとき,宗教の違いによりインドとパキスタンが分離することになった。多くの藩王国はどちらに帰属するか選択を迫られた。カシミール藩上国は,地理的には印パの境界にあり,住民の8割はイスラム教徒なので,パキスタンヘの帰属が順当であった。

しかし,藩王がヒンドゥー教徒であっため,独立を目指した。これに対し,パキスタンは1947年10月,事実上の武力介入に乗り出す。藩王はインドの支援を求め,インドヘの帰属文書に署名した。これを法的根拠に,インドはカシミールに軍隊を派遣し,印パ両軍が全面衝突することになった。これがいわゆる第1次印パ戦争である。この戦争は1949年1月,国連決議で停戦が実現し,カシミールを分断する停戦ラインが引かれる。停戦ラインは第3次印パ戦争(1971年)後,やや修正されて現在の実効支配線になっている。

インド側カシミールでは,イスラム教徒が多数派で,心情的にはパキスタンに近い。ジャム・カシミール州政府の腐敗,経済の停滞により,1980年代からインドからの分離独立を目指す武装闘争が始まった。極度の治安悪化に伴い,唯一の産業であった観光は壊滅的打撃を受けている。

多民族国家のインドは,国内各地に分離主義の火種を抱えており,カシミールで妥協すれば他の地域の分離主義を勢いづかせると懸念している。一方,パキスタンはイスラム教徒の国として建国した歴史があり,カシミール地方の放棄は国家の根幹にかかわる問題と認識している。核兵器をもった両国が,停戦ラインを挟んでにらみ合う構図は,地域の大きな不安定要因になっている。

ラダックの近代化と弊害( JULAY LADAKH より引用)

高地で作物が育つ時期は約4ヶ月間と極めて短いにも関わらず人糞と家畜の糞尿を肥料にし,氷河から溶け出した水を畑に引くことで,1年間に必要な小麦や大麦の生産を可能にしただけでなく,塩,茶,宝石などの交易をするほどの余剰を生み出す生産力を維持してきた。

そして,ラダックの環境に適した大麦の作り方,家畜の育て方,有益な植物の見分け方といった,様々な知識と技術を子供たちが親戚や近隣の人々から学ぶことによって,この営みは絶えることなく継承されていきた。ラダックの環境に調和した様々な知恵は,この厳しい生活環境条件で生き残ることを可能にしただけではなく,豊かな文化を築いてきた。伝統的なラダックの生活様式では,飢餓,犯罪,環境破壊,民族紛争はほとんどなかったと言われている。

ここ最近の20年間で旅行者や西洋の開発によって急速に近代化の波がラダックに押し寄せている。ラダックの首都レーではテレビやラジオ,洋服といった商品が出回り物質的に豊かになった。しかしその反面,伝統的な文化は徐々に破壊され,今までに存在しなかった日本で起きているような社会問題や環境問題を生み出していル。

ヒマラヤを越えてやってくる補助金をかけられた農作物はラダックで生産されたものより安いため,農業は非経済的なものとされて人々は農業をやめ,賃金労働を求めて農村を離れる傾向にある。これは,首都レーの人口の集中を誘発し,市場経済に依存した生活を人々にもたす。

自給自足から離れた人々の食料や物資は夏の間トラックやバスによってレーまで運ばれ,空気の薄いラダックでは大気汚染が問題となっている。さらに,外部の物資には自然負荷のかかるものが多く含まれていることから,ラダックでは水質汚染やごみ問題が深刻化している。

また,開発によってもたらされた学校では,ラダックで生きるための知恵ではなく都市での消費生活に適応する知識や技術を教えていくため,子供の価値観が変わりつつある。ラダックではまだ伝統文化を色濃く残しており,自然との結びつきは強く,コミュニティの絆は固いといえるが,グローバル化によって年々このような問題が起きている。