亜細亜の街角
久部良から北海岸を経由して祖納まで歩く
Home 亜細亜の街角 | 沖縄・八重山諸島・与那国島|Oct 2013

滞在4日目の行程

この日は祖納から久部良までバスで移動し,久部良周辺を見学後,ダンヌ浜を回り祖納に戻った。久部良漁港で魚の水揚げが見られなかったのはちょっと残念である。

久部良漁業協同組合

08時のバスに乗って久部良に移動する。ここはテレビドラマ「Dr.コトー診療所」で志木那島漁業協同組合として登場したところである。僕としてはテレビドラマには興味がなく,魚の水揚げ風景を見たくてしばらくここにいたが,時間帯が良くなかったのか漁船は戻ってこなかった。

ミャンマーに売却した中古船が係留されている

与那国漁協の建物から見て正面の岸壁にオレンジ色と白色に塗り分けられた船が停泊している。これは,ミャンマーに売却した港内油槽船ということである。よほど気象条件がよくないとミャンマーまで航行することができないので,もう何ヶ月もこここに係留されているとのことだ。

ナーマ浜

久部良漁港の西側はナーマ浜に続いている。なんとなく漁港の一部のような印象を受けるが海の色を楽しむにはとても良いところだ。水深はそれほどなく,海底は白い砂で覆われているため,エメラルドグリーンの海の色を楽しむことができる。

ナーマ浜から木道を通り,鳥居をくぐって金刀比羅宮に上ることがことができる。ここでは旧暦10月10日(2013年は新暦の11月12日)に航海安全と豊漁を祈願した「金刀比羅祭」が行われる。現在は訪れる人も少なく,木道にはグンバイヒルガオがつるを伸ばし,クサトベラの若葉が手すりを越えて伸びている状態である。

ナーマ浜の海の色

サンゴ礁がなく,海底は白い砂で覆われているためこのような海の色のグラデーションが生まれる。海中に入った光は水分子による吸収が起こる。波長の長い赤い光は水の吸収を受けやすいのでより大きく減衰し,そのような光が海底や浮遊物に反射して海面から出てくるときは赤色少ない(青色の強い)ものとなる。

浅い海底に明るい色の砂や岩があるときは赤色が少し少ない光が海底で反射される。サンゴ礁の砂浜の水深のごく浅い所では海底からの反射により透明に近くなる。少し深いところでは赤色の少ない光の反射が加わりエメラルドグリーンに見え,水深がさらに深くなると海底からの反射は小さくなり,空の青と浮遊物からの反射により青色が強くなる。

西崎灯台は午前中が順光である

少し場所を変えて久部良漁港の入り口のあたりからエメラルドグリーンの海を隔てて西崎を望むことができる。午前中が順光であり,与那国島でもっとも美しいと感じた風景の一つである。

防波堤の先端にある灯台

西崎灯台に再び上り海の景色を眺める

今日は午前中の光なので沖合を流れる黒潮の海の色がきれいに出ている。やはり,与那国島の海の色はこれでなくてはいけない。久部良漁港を出た漁船(もしくはチャーター船)が西崎の岩礁のすぐ先を通り漁場に向かっている。

ところで黒潮のただ中にある与那国島の近くに特定の漁場があるのかという疑問が起きる。漁師や釣り客の狙いは大型の回遊魚であり,そのような魚は特定の場所に集まるわけではない。

そのため,黒潮が流れるフィリピンから沖縄にかけての漁民は「パヤオ」という浮漁礁により回遊魚を集めるしかけを考案した。浮魚礁は海の表層または中層に人工物を配置し,小魚や回遊魚が漂流物に集まる習性を利用したものである。

パヤオはフィリピンの言葉であり,このしかけが世界的に広がったことにより国際語となった。本家のフィリピンでは竹の筏とヤシの葉を使用した簡単なしかけであるが,日本では水深1000mほどの海底に沈めたアンカーから係留索でつながった巨大な浮きのような装置となっている。

沖縄県では平成19-23年度に広域漁場整備基本計画に基づき16の漁場に42基の浮魚礁が設置され,それ以前のものと合わせ70基の浮漁礁が使用されている。

与那国島の周辺にも複数のものがあり,そこでは遊漁船や漁船が主としてトローリングで大型回遊魚を釣っている。パヤオの集魚能力は非常に高く,その分,乱獲につながりやすいので漁業資源管理が必要となる。

灯台の脇を船が出ていく

魚協の建物に戻るとシイラはすでに解体されていた

西崎から戻ってくるとすでに3体のシイラは解体され骨だけになっていた。シイラ(Coryphaena hippurus,スズキ目・シイラ科)はマンビキ(宮城・九州)あるいはマンビカー(沖縄)とも呼ばれ,全世界の暖かい海に分布する表層性の大型肉食魚である。

大きなものは体長2m,体重40kg近くに達し,釣りの対象魚としても人気は高い。しかし,日本では評価は低く,魚肉練り製品の原料に使われることが多い。僕が西崎から戻って来たときはすでに解体されており,骨と内臓以外はぶつ切りになっていた。

久部良バリ

久部良中学校の横の道を北に向かって歩いて行くと久部良バリがある。途中から琉球石灰岩がむき出しになった小道となり,人通りもない寂しいところになる。

久部良バリの手前には夕日が見える丘があり,そのあたりは日本でもっとも遅い夕日が見られる場所として紹介されている。そこは,西崎から見たとき灯台のある防波堤の向こうにある,わずかに海に突き出した地形のところである。

久部良バリの「バリ」とは八重山の方言で(岩などの)割れ目を意味している。この辺りには断層が走っており,浸食のため岩の間にすき間ができている。与那国島には人頭税の時代の悲惨な言い伝えがいくつか残されており,久部良バリについては次のように記されている。この碑文は久部良中学校から少し行ったところにある。

クブラバリ一帯は周辺が美しい芝生に覆われ,クブラフリシの長く続く海岸は風光明媚な景勝地である。クブラバリはクブラフリシの一部であり,全長15m,幅約3.5mもあるかなり長い断層である。

クブラバリについては悲しい伝説がある。琉球王府はこれまでの貢納制度を改め,15歳以上の全ての男女に賦課することにした。世に言う過酷な人頭税制度であるが,その影響は与那国島にまで及び,村ではここクブラバリで残酷なことが行われたという。

人口制限のため,村々の妊婦を集めて,この岩の割れ目を飛ばせたのである。妊婦たちは必死の思いで飛んだが,その多くは転落死したり,流産したと語り伝えられている。

与那国町教育委員会


実際に岩の側に立ってみるとと向こう側は岩の斜面になっており,ても飛び越せるような気はしない。走り幅跳びで3.5mを飛ぶのとわけがちがうのである。久部良バリの近くにはここで亡くなった妊婦や流産させられた子どもたちを供養するためなのか,小さなお地蔵さんがある。

ここの岩場は階段状になっている

久部良バリの近くの海岸線は海食崖となっており,岩場の下は絶えず波が打ち寄せて砕け散っている。波の浸食力は大きい。それに加えて,与那国島の基盤岩である第三期堆積岩層は2000-1500万年前に形成された(地質時代的には)若いものであり,固結力が弱く浸食されやすい性質をもっている。

与那国島の周囲の断崖は6000年前以降に海水面が現在と同じ水準になってから浸食されてものである。多くの場合,汀線近くの傾斜地が浸食され崖構造となったものである。海食は水中でも起こり,水深10-20mのところに平らな海食台を形成する。海食台の外縁と海食崖の上部を結んだ面がおおよそ6000年前の傾斜地形ということができる。

与那国島のようにゆっくりと隆起した島では海食→隆起→海食→隆起のサイクルが繰り返され,複数の海食崖と海食台がセットされた地形となる。そのような地形を海岸段丘という。

久部良バリ近くの海岸では写真のように階段状の琉球石灰岩の地形が見られる。一方,周辺の基盤岩にはそのような顕著な痕跡は見られないので,にわか地質学者となった旅人は頭を悩ましている。

手前の岩場の向こうが夕日のポイントかな

手前の岩場の向こう側がおそらく夕日のビューポイントなのだろう。こうして少し離れた海岸線を見ると,海食崖もいろんな形態があることが分かる。

夕日の時間帯は素晴らしいだろうね

このあたりから見る夕日の時間帯は条件が良ければ素晴らしいものになりそうだ。今日は適度に雲があるので条件は良さそうである。

基盤岩の上にサンゴ礁が発達した構造が分かる

与那国島は基盤岩が海面近くまで隆起した約150万年前に大規模なサンゴ礁が発達し,それが島の大半を覆っている琉球石灰岩となった。この海岸では基盤岩を覆う琉球石灰岩の様子が良く観察できる。

この部分のサンゴ石灰岩は多孔質となっている

漁港の岸壁に張り付いているのは非食用のカキである

久部良バリから再び久部良漁港に戻ってきた。漁港の回りを歩いているときに,岸壁や浮桟橋にたくさんの貝が付着していることに気が付いた。漁協の方にたずねると,カキの仲間であるが食べられないという答えであった。

日本最西端の郵便局

久部良集落にある施設はほとんど「日本最西端の・・」という形容詞を付けることができる。これは日本最西端の郵便局であり,漁協は日本最西端の漁協であり,近くのバス停は日本最西端のバス停となる。このように書いていくときりがない。

見納めの西崎

これは久部良港の防波堤のとこから撮った写真である。見事な海の色彩と下から見上げる西崎の質感に写真の枚数が増える。時刻は11時30分頃であり,もう少し日ざしがあると見納めの一枚にふさわしいものになるのに…。

陽光に恵まれると海の色はもっと良くなるだろう

防波堤の灯台には近づくことはできない

防波堤の灯台のところまで行こうとしたけれど,この消波ブロックを乗り越えていくわけにはいかない。

久部良集落には伝統的な家屋が残されている

南組爬龍舟保管庫

久部良港を囲むように集落があり,その南側を歩いてみた。ちょうと昼時であり昼食を食べられるところを探したが見つからず,一周道路に面した商店でパンを買うことになった。集落を歩いているときに「南組爬龍舟保管庫」があった。

与那国島では伝統的な季節行事・祭事が残されている。それは家庭円満,子孫繁栄,無病息災,五穀豊穣,航海安全,海上平穏,大漁祈願などを祈るものであり,社会の変化とともに形態は変わっても祈りの内容は昔と変わるものではない。

その中で旧暦5月4日に行われるドゥガヌヒ(海神祭)は久部良漁民にとって最大の祭りであり,海上平穏,豊漁の祈願を行う。この祭りでは久部良の北・中・南の3組対抗のクリ舟によるウガンハーリー(御願ハーリー),転覆ハーリーの競漕が行われ,他にも島内の集落全体の競漕なども行われる。(与那国町役場の公式ウェブサイトより引用)

この行事に使用するための爬竜舟(ハーリー)はこのようにして保管されているようだ。建物の外にも一艘が置かれており,舳には南の文字が入れられている。

ハーリー(爬竜舟競漕)は明代に中国から伝来したとされており,沖縄各地の伝統行事となっている。長崎のペーロンなども同じ時期に中国から伝来している。「爬」は爪でひっかくことを意味しており,竜の装飾のある舟を櫂で水面をひっかくようにして走らすことから名付けられた。沖縄の夏の一大イベントであり,最近ではその影響なのか日本各地で開催されるようになっている。

龍舟競争発祥の地は中国とされており,「龍舟競渡」の名前で知られている。その名の通り龍頭の飾りを付けた細身のロングボートの両側に多数の漕ぎ手を配した競争のスタイルとなっており,漢民族だけではなく川沿いに生活する少数民族の行事としても盛んに行われている。

インドシナ半島でも多くの国で同様のスタイルの龍舟競争が行われており,大きな広がりをもっている文化である。与那国島のとなりの台湾でも大々的に行われており,ロングボートに混じってサバニのような比較的短い装飾船も使用されている。

龍舟から離れ,人が手に持った櫂でロングボートを早く走らせるロングボート・レースにまで話を広げると,インドのケーララ州には英語圏ではつとに有名な「スネークボート・レース」があるし,太平洋の島々でも同様の舟漕ぎ競争がある。肉体の力だけでいかに早く舟を走らせるかという競技は漕ぎ手と観衆の双方を熱狂させる不思議な魅力をもっている。

中国の「龍舟競渡」は端午節の行事となっており,「端午節龍舟競渡」と呼ばれる場合もある。この文化が直接伝来した沖縄ではハーリーは決まって旧暦5月4日(ユッカヌヒー)に行われる。本家の中国で端午節と「龍舟競渡」が結び付いた理由はネット上を探してもよく分からない。

楚の官僚・詩人であった屈原が川に身を投げたことが端午節と龍舟競渡双方の由来であるという説もあるが,そもそも端午節と屈原の身投げとの関係自体がはっきりしない。

サフランモドキ

サフランモドキ(Zephyranthes grandiflora,ヒガンバナ科・タマスダレ属)の原産地は中米から西インド諸島にかけての地域である。日本には江戸時代の終わり頃に渡来し,サフランと呼ばれていた。明治に入り誤りと判明し,サフランモドキとされた。

タマスダレ属(Zephyranthes)の植物は北米南部から西インド諸島,南米にかけての地域に30-40種が知られている。比較的,温暖な地域を好み,土中に鱗茎を形成する多年草である。

日本には園芸種として渡来しており,タマスダレ(白花),サフランモドキ(桃色の大輪花),ゼフィランサス・ロゼア(桃色の小輪花),ゼフィランサス・シトリナ(黄花)などが見られる。暖かい沖縄はタマスダレ属の適地であり,波照間島では道路わきをタマスダレとサフランモドキが飾っていたし,与那国島ではサフランモドキが草地の一画で小さな群落を作っている。

久部良公民館には「老人と海」のタイル画がある

久部良公民館には「老人と海」のタイル画がある。といってもヘミングウェイの作品をモチーフにしたものではない。82歳になる与那国島の老漁師・糸数繁さん(享年83才)が黒潮の海でひとりでサバニを操り,巨大なカジキを釣り上げるドキュメタリー映画であり,与那国の独特な文化も映像化されている。

与那国島はヘミングウェイの「老人と海」の舞台となったキューバとほぼ同緯度にあり,同じように海流の洗う島であることから映画の企画が生まれた。映画の完成後に糸数さんは遊びにきた撮影スタッフに「自分の釣った魚を食べさせる」と言って海に出て,不帰の人となった。この公民館の中には彼の使っていたサバニが展示されている。

海とつながっている水路には小魚が群れている

久部良ミトゥ

久部良集落の東側にある湿地帯である。久部良集落から空港方向に歩き出すとすぐに池のような水面が現れる。「ミトゥ」は与那国の言葉で湿地を意味しているので久部良湿地ということになる。

琉球石灰岩が島を覆っている八重山では湿地は珍しい。貴重な水生植物が生育し,多くの動物の繁殖地となっていることから,1979年に与那国町の天然記念物に指定された。島の一周道路の下はすぐ池となっており,北側から回り込まないとアクセスできない。

与那国空港を目指して歩き出す

久部良集落から空港までは4.5km,空港から祖納集落までは2.5mkの道のりであり,今日も道草をしながらのんびり歩くことにしよう。

順光の久部良岳がきれいに見える

時刻は12時30分頃であり,順光の久部良岳(198m)がきれいに見える。山裾の平地は牧場となっており,その右側に久部良ミトゥがある。

丸太の防風柵に守られているのはアダンであった

久部良集落とダンヌ浜の中間点あたりで海岸に出る未舗装の道があった。その先には丸太を組み合わせた防風柵ある。八重山ではこのスタイルの防風柵をときどき見かけた。防風柵の内側にはアダンの小さな株がある。アダンが防風林になることはあっても,防風柵で守られているとはちょっと意味が分からなかった。

防風柵の先は岩場の海岸となっている

その先はガレキの処分場のようになっており,風光明媚という風景ではない。しかし,ガレキを背にして眺める海岸の風景はなかなかのものであり,荒々しい岩場に砕け散る波を飽きずに眺めていた。

少し先にダンヌ浜の岬が見える

この岬のような地形から最初は馬鼻崎かと思ったが,その手前にあるダンヌ浜から突き出した地形であろう。二段の段丘の上部は台地状の地形となっており,そこには北牧場が広がっている。

岩場と波の風景はずっと見ていて飽きない

オオバイヌビワ

西表島3(上原),西表島5(大原)に続いて3回目のオオバイヌビワ(Ficus septica,クワ科)である。大きなつやのある葉が目立つので写真になる機会が多い。

アダンの並木道とは珍しい

一周道路からダンヌ浜に出る道の両側はアダンの並木となっていた。アダンは幹から多数の支持根を出し,横に張り出した枝からも支持根を伸ばすのでまるでスクラムを組んだような高密度の群落を形成する。そのため,このように並木道の植栽となっていることは珍しい。それでも,横枝を切り取ってしまうとこのように直立した樹形になる。

これは北海道の風物詩でしょう

アダンの並木道の東側は広い牧草地となっている。ここが北牧場である。今年何回目かの刈取りが終わり,牧草ロールができていた。この光景は北海道の風物詩である。それを沖縄で見るのは北海道育ちの僕としてはちょっと違和感がある。

牧草ロールは適度に乾燥させ,ラッピングして発酵させ牧草サイレージとする。かっての北海道では発酵用にサイロという施設をもっていたが,現在ではサイロが不要のためこのスタイルのサイレージロールが主流となっている。

発酵は嫌気性環境下で進行するので,ラッピング時には気密性が重要となる。上手に発酵した牧草は乳酸や酢酸などの有機酸が豊富に含まれ,ウシなどの家畜の良好な飼料となる。

横枝を切られるとアダンはこんな姿になる

希望の碑

琉歌とその意味が併記されている。この歌碑がどうしてここにあるかは分からない。

ナチヌ ウブキ カンギイヤ ヨー
バァ イヤトウ タギンガイ ニシー
フユヌ ドウシキ カタガヤ ヨー
バァ アブタヌ クルンナガ ニシー

夏の たい木の 日陰は
私の 父親と おなじ の ようだ
冬の ススキの 風除けは
私の 母親の ふところ の ようだ

長命草にやってきたアオヒメハナムグリ

ハナムグリ(コガネムシ科)はコガネムシの仲間で金属光沢をもつ美しいものも多い。アオヒメハナムグリは本土に生息するアオハナムグリ(Gametis forticula forticula)の八重山・宮古亜種であり「オキナワコアオハナムグリ」とも呼ばれる。ひとくくりに八重山・宮古亜種としたが,細かく分類すると宮古,石垣,与那国亜種に区分される。

コガネムシに限らず甲虫の中には玉虫のように美しい金属光沢をもったものが多い。このような金属光沢は構造色により生み出される。甲虫の表面には金属色の色素はあるわけではなく,光の波長あるいはそれ以下の微細構造により光が干渉するため色づいて見える。それはCDやシャボン玉が虹色に見えるのと同じ現象である。金属光沢の甲虫はきらきら光るうえに見る角度により色が変わる。天敵の鳥類はそのようなものが嫌いなので,天敵から身を守る防御のために進化したと考えられる。

家屋も無いのに福木の林があった

道路の横の斜面はすべてサンゴ石灰岩である

空港が近くなると道路は斜面を削って造成される区間がずっと続くことになり,基盤岩の上を覆う琉球石灰の広がりと厚みを観察することができる。

道路からは滑走路は見えない

道路と空港施設との間には削られていない斜面が残されており,見ることはできない。風向きを調べる吹き流しの上部だけが顔を出しており,そのあたりに空港があることが分かる。

こんなところにもウリミバエ対策の容器がある

与那国島におけるウリミバエ侵入防止対策については与那国島1に詳しく記しておいた。

牧場を覗こうとしたら猛犬に吠えられた

道路わきに牧場があり,牛舎を覗こうとしたら建物の陰から出てきて猛犬に吠えられた。首輪のロープが長いため,不用意に近づくと危ないところであった。建物の反対側には「猛犬注意」の看板があり,これは両側に設置してもらいたいものだ。

与那国中学校開校の地

与那国中学校の開校については1982年に発刊された「戦後八重山教育の歩み(同編集委員会編)」に次のように記されている。

本土の戦後教育改革(1947年・六三三制実施)におくれて,戦後沖縄では,1948年から1949年にかけ新しい学制の施行が行われた。宮古民政府では1948年,1年おくれて八重民政府は,八重山教育基本法・同学校教育基本法を制定した。1949年4月,与那国でも正式に六三三制が実施され,各小学校が再出発するとともに,「与那国島における唯一の最高学府」として与那国中学校が開校したのである。

この碑の意味するものは1949年にこの地に与那国中学校が開校したということなのであろう。現在の与那国中学校は祖納集落にあり,平成24年度の生徒数は37名である。与那国島には高校は無いので,中学を卒業すると全員が一度は島を出ることになる。

自衛隊配置を巡って島は揺れている

オウシマダニ清浄化事業完了記念碑

オウシマダニは世界中の熱帯から亜熱帯地域に分布しており,日本国内では八重山地域が最後の生息地とされていた。吸血により牛の法定伝染病であるバベシア病を伝搬するため,汚染地域の牛は薬浴証明がなければ移動が認められていなかった。

沖縄県の駆除事業は1951年から始まり,1971年からは国の補助を受けて撲滅事業に乗り出し,1998年に最後に残った石垣島でも撲滅が達成された。これを受けて沖縄県は1999年にオウシマダニが撲滅されたと発表し,牛の移動を制限した県告示を削除した。

こうして,本土復帰以来,27年間続いていた牛の移動制限は解除された。ここにある「オウシマダニ清浄化事業完了記念碑」は1999年の宣言に合わせて建立されたものであろう。

記念碑のすぐ近くには牧場がある

オウシマダニ清浄化事業完了記念碑のすぐ近くには牧場があり,もう薬浴は不要になったのでストレス・フリーの環境でのんびり草を食むことができる。

巨大なガジュマル

ガジュマルは不思議な形態をもつ植物である。鳥のふんと一緒に樹木の枝や崖などに排泄されても,根は地表に向けて急速に伸びていく。地表に達すると養分を吸い上げ急速に成長する。根は太くなって幹のようになり,幹は上方に伸びるとともに横枝を出す。

横枝からは気根と呼ばれるたくさんの細い根を出し,地表に向かって伸びていく。気根が地表に達すると幹のように太くなり,しだいに複数の幹が樹木を支えるという奇妙な樹形となる。写真の木は1本の木か複数に分かれているかは確認しなかったが,1本の木であっても不思議はない。

インドのコルカタ植物園にある世界最大のバニヨン樹(ベンガルボダイジュ)は(人為的な手入れのため)親木(すでに無くなっている)を中心にほぼ円形の広がりをもち,面積は1.5haを占めている。

上から見るサトウキビ畑

成長したサトウキビは高さが2m以上になるので上から見下ろす機会はそう多くは無い。うまいことに石垣の下がサトウキビ畑になっていたので上から見下ろすことができた。しかし,今日は風がないのでサトウキビのざわざわという葉ずれの音は聞こえないし,野分のように風が葉鞘をかきわけていく光景も見られなかった。風のある日ならば名曲「さとうきび畑」の詩の情景がそのままに伝わってくる。

ティンダハナタが近くなる

ナンヨウスギの仲間

与那国駐在所の近くで見かけた。ナンヨウスギの仲間であることは分かっても種は特定できない。ナンヨウスギの仲間はナンヨウスギ科(Araucariaceae),ナンヨウスギ属(Araucaria)に属しており,いくつかの種が含まれている。写真の樹形に近いのはシマナンヨウスギ(Araucaria heterophylla)であるが細かく観察しなかったので確信はない。

ナンタ浜と祖納港

あれこれ道草を重ねながら15時過ぎにナンタ浜に到着した。かっては風光明媚とされたナンタ浜は護岸工事のためずいぶん変わってしまったという島の人の話がネットにあった。

フェンスの向こうに大きな亀の像がある

港の一部はフェンスで仕切られており,そこを歩いていると大きな亀の像がこちらを見ている。これはいったい何だろう?

祖納港の海の色は薄いエメラルドグリーン

きれいなビーチになっている

祖納漁港の海の色は薄いエメラルドグリーンであり,見る角度によってはきれいなビーチのイメージができる。

護岸から水中を眺める

ナンタ浜から続く海岸線はコンクリートの防波堤のある小さな島を水路で分断しており,そこには短い橋がかけられている。水路はその先も続き海につながるところには消波ブロックが並べられている。滞在2日目は強風のためにここには大きな波が押し寄せてきて波しぶきがひどかったけれど,今日はリーフエッジのところに白波が立っているだけだ。

強風の中で見たときはどうしてこんなところに消波ブロックが置かれているのか不思議だったが,今日,周辺を歩いてそのわけが分かった。サンゴ礁と消波ブロックに守らられ,その内側はエメラルドグリーンの水をたたえるプールのようになっている。

二日前は波しぶきがひどかったけれど…

滞在2日目は波が荒くて消波ブロック近くの海岸にはとても近寄れなかったが,今日は琉球石灰岩の岩場となっている海岸を歩くことができた。目に付いたのはL字形の防波堤がある岩礁のような島の北側には何重にも消波ブロックが積み上げられていることである。

海岸線から少し沖合にあるリーフエッジの白波は直線となり消波ブロックのあたりで交差している。消波ブロックはその先にも伸びているので,L字の防波堤も分厚い消波ブロックにより守られているようだ。海岸はずっと岩場となっており,浦野墓地群の先まで続いている。

クサトベラは小さな花を咲かせている

クサトベラ(Scaevola taccada)はクサトベラ科・クサトベラ属の常緑低木である。太平洋からインド洋にかけての熱帯・亜熱帯の海岸に分布しており,日本では南西諸島と小笠原諸島に生育している。葉は茎の先に集まって互生し,革質である。茎の下部は木質化するが,柔らかいのでクサトベラの名前がついた。海岸近くに群生しており,若葉の色はとても鮮やかである。

海岸への漂着物

世界でももっとも力強い海流の一つである黒潮に洗われている与那国島の海岸にはいろいろなものが漂着する。出自がそれなりに分かるのはペットボトルである。多くのものはラベルがはがれてしまっているが,中国語やハングルもたくさん混じっている。また,発泡スチロールの小さな塊も多い。

広い北太平洋も周辺国から流出するプラスチックごみによりひどく汚染されており,海の生態系に深刻な影響を与えている。国連は2004年の段階で毎年100万羽以上の海鳥と10万匹にのぼる哺乳動物やウミガメがプラスチックなどをエサと間違えて食べたために死んでいると報告している。

北太平洋の真ん中の広範な海域でサンプルを採取すると,藻類1kgに対し,6kgプラスチックが見つかるという。プラスチックの大半は生分解されないため,除去しないかぎり何百年でも海中にとどまり,紫外線や物理的な摩擦によりどんどん小さく砕けていく。プラスチック粒子はDDT,PCBといった有毒物質を引き寄せる性質があり,その表面濃度は海水の100万倍にもなるという。

さらに小さくなった微粒子は海中のいたるところに存在し,海洋の食物連鎖の要となるプランクトンの体内にさえ存在するという。ということは海洋生物全体がプラスチック微粒子を体内に取り込むことになり,最終的には食物連鎖の頂点に立つ人類も汚染することになる。

生体内に取り込まれたプラスチック微粒子がどのような影響を与えるかはほとんど研究されていないにもかかわらず,一部の歯磨き粉には研磨剤としてプラスチック微粒子が使用されているという。

母なる海は人類の愚かな活動により大きな危機に瀕しているが,科学者の警告に耳を傾ける人はごくごく少ない。興味のある方は「プラスチック,海洋汚染」あるいは「海の怪物プラスチック」などで検索していただきたい。

この広場でかってはイベントが行われたという

祖納集落|福木の防風林も見られる

滞在4日目にして初めて祖納集落をゆっくり回ってみた。すでに,3つの島を回っているので目新しいものは見かけなかった。例外は巨大な凱旋門と塀に囲まれた個人の墓地である。内部にはピラミッド型の墓があり,ほとんど邸宅のような造りである。個人的にはこのような珍しい人工物を見るより,目に見える形となっている伝統的な文化や習俗の方に興味がある。

見事な琉球石灰岩の石垣

祖納集落内で琉球石灰岩の自然石を使用した見事な石垣を見つけた。自然石は形が不ぞろいのためうまく納まるピースを探し出し,それを組み合わせていく手間ひまのかかる作業が必要である。できあがった石垣は凹凸面の多い石同志がしっかりかみ合い強固なものになる。アジアの多くの地域で石組みの壁を見てきたが,八重山の石組みはずっと記憶に残ると思われる。

与那国共通のデザインかと思っていたら…

汚水用マンホールのふたは与那国島共通のデザインではないようだ。ここのものには「そない」としっかり刻印されている。描かれているのはヨナグニサン,与那国馬,バショウカジキ,西崎灯台であろう。久部良や比川集落のマンホールを確認しておくべきであった。ネットで調べてみると,比川は祖納と同じデザインで「ひかわ」となっている。久部良は同心円状の三重の波マークで久部良の名前は刻印されていない。

国泉泡盛合名会社

この会社のサイトによると,国泉泡盛は戦前までそれぞれ個人で酒造りをしていた金城氏,大嵩氏,我那覇氏が合名会社として1958年に設立したとある。主要なブランドは「どなん」であり,高級品はおそらくクバと思われる葉を加工した繊維で包まれている。元はこの場所にあったが,2011年にアヤミハビル館の手前に新工場に移転している。


与那国島2   亜細亜の街角   黒島1