塀内夏子の処女作品
塀内は高校在学中から本格的に漫画を描いていました。その頃,処女作の「ボロクズ」が集英社の別マ少女まんがスクール銀賞を受賞し,1972年に商業誌に掲載されています。ということで処女作は「ボロクズ」ということになりますが,塀内の漫画家としての活動はそこで中断します。
漫画作品の場合,連載を開始するために漫画家と編集部の間で打ち合わせがもたれます。塀内は集英社の編集部との打ち合わせを通して,自分は少女漫画家としては不向きであることが分かったからです。
その後,武蔵野美術大学に進学するものの中退します。彼女は18歳のときからアパートを借りて自立した生活を送っており,大学中退後はしばらくアニメ制作会社でアニメの背景を描いています。彼女としてはアニメの演出に参加したかったのですが,それが難しいことが分かり,漫画の世界に戻ることにしました。
1982年に「背負子と足音」が少年マガジン新人漫画賞に入選し,再デビューを果たします。しかし,この作品も一般の読者にとってはほとんど見る機会のないものであり,次作の「おれたちの頂」が私にとって「塀内夏子の処女作品」ということになります。
塀内夏子が再デビューをした頃の少年誌は「うる星やつら」「タッチ」「月とスッポン」「すくらっぷブック」などラブコメが大きな比重を占めていました。少年マガジンでは「光の小次郎」「あした天気になあれ」「釣りキチ三平」「あいつとララバイ」などいくつかのジャンルの作品がバランスよく配置されていました。
少年誌で再デビューを果たした塀内ですが,何を描くか,何が自分にふさわしい題材であるかについて苦吟したことが本人談で述べられています。少年マガジンに投稿しようとしたとき,自分の作品ジャンルが見出せませんでした。
ラブコメは描けないし,バイクもダメ,ケンカもダメということで消去法でスポーツ系を選択することになったそうです。高校時代に塀内はワンダーフォーゲル部で活動していましたので,その経験を生かす形で登山をテーマにしたということになります。
私は「背負子と足音」を読んでいませんが,少しは山をやっていたこともあり,少年誌では珍しい登山をテーマにした「おれたちの頂」はリアルタイムで楽しく読ませてもらいました。
近代登山とアルプス
近代登山発祥の地とされるヨーロッパでは19世紀の後半に狩猟や信仰目的ではなく,山に登ることそのものを目的とする遊びやスポーツとしての登山(climbing)が盛んになります。
中でもヨーロッパの屋根とされるアルプス登山は標高が高いだけではなく,高度の登攀技術を必要とする難易度の高いものであり,そのような最上級レベルの登山を「アルピニズム(alpinism)」,そのような困難に挑戦する登山家を「アルピニスト(alpinist)」と呼ぶようになります。
ヨーロッパ大陸は概して平坦な地形なのですが,ヨーロッパ中央部を東西に横切るようにアルプス山脈がそびえています。私の習った50年前の地学ではアルプス山脈やヒマラヤ山脈を形成したのは「ヒマラヤ・アルプス造山運動」であるとされていました。しかし,何がそのような大規模な地殻変動を引き起こし,海底地形を4000mあるいは8000mの高さまで持ち上げたかについては全く触れれていませんでした。
地球は半径6400km,表面積5億km2の巨大な球体です。表面の3分の2は海洋で覆われており,7つの大陸が島のように浮かんでいます。キリスト教社会ではこの風景は地球が神の手で形成されてからまったく変わっていないと長い間信じられてきました。
実際には地球の表情は誕生から45億年の歴史を通してダイナミックに変化してきました。しかし,それは人間の尺度で考えると極めてゆっくりした動きなのです。誕生当時の重力エネルギーに放射性物質の崩壊熱が加わり,地球内部にはぼう大な熱が蓄積されており,その熱が垂直方向の(地球深部と表層間の)巨大な対流(物質の移動)を生み出しているのです。
この巨大な対流により地球の表面はゆっくりと,絶え間なく変化を続けていると説明するのがプレート・テクトニクス(仮説)です。プレート・テクトニクスによれば地球の表層は10数枚のプレートに分かれており,それぞれのプレートがすれ違ったり,離れたり,衝突することにより地質学上の大きな変動が引き起こされます。
アルプス山脈はアフリカプレートがユーラシアプレートに引き寄せられ,衝突により巨大な山脈を形成しました。同じようにインド亜大陸を乗せたオーストラリアプレートはユーラシアプレートに引き寄せられ,衝突によりヒマラヤ山脈を形成しました。
どちらの山脈も二つの大陸の間に存在していた浅い海底が衝突により持ち上げられたもので,山頂近くからしばしば堆積岩の地層や海の生物の化石が見つかります。
アルプス山脈の形成開始は約3000万年前,ヒマラヤ山脈は約1500万年前です。アルプス山脈の主要峰は非常に鋭角的な景観となっており,これは今過去200万年の間にあった少なくとも5回の氷期の氷河作用が作り上げたものです。
258万年から現在まで,地質時代の最も新しい時期は「第4期」と呼ばれており,その中で258万年前から1万年前を「更新世」,1万年前から現在までが「完新世」となります。
第4期は北半球の大陸氷河が拡大・縮小を繰り返しており,氷河が拡大した時期を「氷期」,氷河が縮小した時期を「間氷期」と呼びます。何回かの「氷期」にアルプスの高峰は氷河に覆われ,その巨大な力により削られます。その結果,マッターホルンやグランドジョラスに代表される,鋭い山容が形成されました。
最後の氷河期が終ったのは1万年前であり,「完新世」はそこから始まっています。「完新世」は人類が狩猟・採集から農耕を開始し,文明社会の扉を開けた時期ということができます。「完新世」は最後の間氷期という地質的な意味とともに,人類文明の始まりという文明論的な意味ももつことになります。
ヨーロッパにおいてアルプスは広大な牧草地(アルプ)を育み,人々は牧畜で生計を立ててきました。キリスト教ではアルプスは特別に宗教的な意味をもたず,アルプより標高の高いところは人類を寄せ付けない岩と氷の支配する世界でした。
測量などの特別な事情を除くと,アルプスに登ろうなどとする人はほとんどおりませんでしたが,18世紀の後半になってアルプス最高峰のモンブラン登頂が達成され,近代的登山の幕開けとなりました。近代的登山では人々はスポーツと同様に山に登ること自体に意味を見つけ出すことが原点となります。
19世紀の半ばにはアルプスの主要峰はほとんど登頂され,それとともに登山技術も急激に進歩しました。この時期に「アルピニズム」が誕生します。アルプスの最後の難関であったマッターホルンが登頂され,アルプスの4000m級が登りつくされ未登峰がなくなると,より困難なものを目指す「アルピニズム」は岩壁や側稜などからの登山,あるいは冬季の登山などを選択するようになります。
アルプス登山のスタイルは少人数で,ベースキャンプから時間をかけずに一気に山頂を目指すものであり,「アルパイン・スタイル」と呼ばれています。それに対してヒマラヤの7000m,8000mの登山は少人数で一気に登頂を目指すのは困難ですので,「極地法」が採用されます。
それは,最初に安全な地点にベースキャンプを設け,そこから比較的連絡のとりやすい距離に次々と前進キャンプを設営し,必要な物資の荷上げを行います。そして,最後のアタックキャンプから少人数のメンバーが登頂を目指すものです。
この方法は高所登山において成功率と安全性を高めるために生み出された方法であり,多数の隊員とシェルパに代表される荷上げを担当する人たちのサポートが欠かせません。ヒマラヤの8000m峰を攻略するには「極地法」は必要不可欠と考えられてきましたが,1975年にラインホルト・メスナーとペーター・ハーベラーがガッシャーブルムI峰(8068m)にアルパインスタイルで登頂に成功します。この快挙によりアルパインスタイルは世界の高難易度登山(登攀)にも広まっていきます。
「おれたちの頂」が描かれた1983年には「アルパイン・スタイル」は「アルピニズム」を具現化するものとして日本でも広く知られるようになっています。作品中で恭介が8000m峰の無酸素登頂を世界のレベルだと力説する白鳳山岳会の稲垣に「おとなが何十人もそろって億の金をつぎ込んで,たったひとりかふたりしか登頂できないヒマラヤ遠征なんかバカバカしいや」と反論したのは,アルパイン・スタイル」を意識した発言です。もちろん,「アルパイン・スタイル」で8000m峰を登頂するのは恭介が言うほど簡単なことではありません。
wikipedia には「アルパイン・スタイル」の条件として次の4項目が挙げられています。
(1)クライマーは6人以内
(2)酸素ボンベは持たない
(3)固定ロープを使用しない
(4)高所ポーターやシェルパの支援を受けない
「おれたちの頂」ではプレモンスーンの時期(4月・5月)にエベレスト南西壁登山が描かれています。隊員は高校生の佐野邦彦と南波恭介を含めて5人であり,ベースキャンプまでのポーターとアイイスフォールを突破するまでのルートづくりまではポーターが参加しますが,そこから先は5人で頂上を目指すことになります。ネパール側からの定番である東南稜ルートの場合はベースキャンプ(標高5300m)を起点になりますが,そこから一気に登頂できるわけではありませんので複数の前進キャンプを設営し,必要な荷上げを行います。前進キャンプは地形により異なりますが,急性高度障害を防ぐため高度差がおよそ700mを目安としています。そのため,C1(およそ6000m),C2(およそ6400m),C3(およそ7200m),C4(およそ8000m)となり,C4から頂上を目指すことになります。「おれたちの頂」ではC6がおよそ7900mという記述があります。ヒラリーとテムジンが初登庁した時はC9(8500m),日本隊が初登庁した時はC6(■m)が最終キャンプとなっていました。
でしたら可能ですが南西稜
日本でもヨーロッパの「アルピニズム」が流入し,登山そのものを楽しむ文化が生まれました。日本で「アルピニズム」という言葉を用いる場合には、「より高く、また、より困難な状況・スタイルによる、スポーツ登山を志向する考え方・発想」として用いられている。
日本にもアルピニズムが流入し、登山を登山として楽しむ慣習・発想・文化が生まれた。日本で「アルピニズム」という言葉を用いる場合には、「より高く、また、より困難な状況・スタイルによる、スポーツ登山を志向する考え方・発想」として用いられている。
麓から一日で一気に登頂できるわけではないので中間地点にいくつも前進キャンプを設営しますが、それを下からキャンプ1(C1)、キャンプ2(C2)と呼びます。
いくつかテントを張れるなだらかな斜面や岩棚であること、雪崩や落石の通り道を外れていることに加え、急性高度障害を防ぐため一日あたりの高度差を700m前後に抑えてキャンプを設営します。
ネパール側の場合C1から順に5900〜6050m、6300〜6400m、7000〜7500m、7900〜8000mとなります。 ヒラリーの時代は今よりも細かく刻みC9(8500m)、植村直己が日本人初登頂を果たした際にはC6まで設営されていましたが、現在は通常サウス・コル上のC4を最終キャンプとして頂上を目指します。
アルパインスタイル(英語: Alpine style、アルプス風登山)とはヒマラヤの様な超高所や大岩壁をヨーロッパ・アルプスと同じ様な扱いで登ることを指す登山スタイル・用語。
大規模で組織立ったチームを編成して行う極地法とは異なり、ベースキャンプを出たあとは一気に登り、下界との接触は避ける。また、サポートチームから支援を受ける事もないし、あらかじめ設営されたキャンプ、固定ロープ、酸素ボンベ等も使わない、登る人の力にのみ頼ることを最重要視して行う登山スタイルである。
この手法の利点は登山期間を短くできることで、それにより天候の悪化や雪崩に巻き込まれるリスクを低減できる。また遠征にかかる費用を低く抑えることができる。 一方欠点としては登攀時に所持する食料や燃料を必要最小限に切り詰めるため長期間の停滞には不向きであり、想定外の悪天候などにより停滞を余儀なくされた場合に脱水状態や飢餓のリスクが増大することである。
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