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鶴田謙二

鶴田謙二(1961年生)は静岡県浜松市の出身です。デビュー作品となる「広くてすてきな宇宙じゃないか」の舞台は地球温暖化による海面上昇で水没した浜松市となっています。鶴田は小さな頃から美術や漫画の才能が顕在化しており,小学生時代にはすでに長編漫画を描いていたという記事がeikipedia にあるります。

大学では写真を専攻していましたが,星野之宣の作品に感化され漫画家を目差すことになります。とはいうもののしばらくは同人誌で活動を続け,1986年に「週刊コミックモーニング」誌掲載の「広くてすてきな宇宙じゃないか」でデビューします。

この作品は1997年に復刊された「Spirit of Wonder」の第0話として収録されています。「Spirit of Wonder」は鶴田謙二の初期短編集というべきものであり,全12話から構成されています。なぜか,第1話ではなく第0話から始まっており,そこにも作者のある種のこだわりを見ることができます。

「Spirit of Wonder」の巻末には次のような初出一覧があり,デビューから10年間の執筆履歴が分かります。同時に最終話の最終ページには作者の意志なのか出版社の意志なのかは分かりませんが,「Spirit of Wonder 完」と記されています。

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広くてすてきな宇宙じゃないか
満月の夜月へ行く
星に願いを
リトルメランコリア
少年科学倶楽部
潮風よ縁があったらまた逢おう
時間の国のマージィ
夏子
少年科学倶楽部火星へ
チャイナさんの憂鬱
チャイナさんの願事
チャイナさんの逆襲

1986年
1987年
1987年
1987年
1987年
1987年
1987年
1987年
1988年
1990年
1991年
1995年


「Spirit of Wonder」は鶴田の10年分の執筆作品が収録されていることが分かります。「Spirit of Wonder」の巻末の「用語と解説」に作者はこの時期の執筆状況について次のように記しています。

「Spirit of Wonder」は前回(The Spirit of Wonder)未収録作品をも収録した完全版である。同時に刊行された「水素−Hydrogen」を併せると漫画家になってから10年間のほぼすべての原稿が揃うことになる。あまりの少なさに目を疑う人は少々気が早い。

さらに,「SF名物−初期作品集」を加えると,そこにはなんと15年分のすべて,という驚愕の事実が待っている。向こう15年で描ける量を指しているような気もしないでもないが,それについては今回は気が付かなかった事にする。


鶴田作品の単行本として最初に出版された「The Spirit of Wonder(第1巻)」はほどなくして絶版となっています。この時期,本人は「用語と解説」の中で「売れない漫画家として最初で最後のものになるのでは」と危惧しています。

これほど寡作であることについては作者の遅筆(能力・やる気)に問題があるのか,出版社からの掲載依頼が少なかったのかは分かりませんが,第1巻がほどなくして絶版となっていることから考えると読者からの支持は高くはなかったことがうかがえます。

10年間(1986年-1996年)で単行本が2冊,15年間(1986年-2001年)で3冊ではとても漫画家としては生計は立てれたません。鶴田にとっては職業としての重みはイラストレーターとしての画集や小説の装画の方が高いようです。

鶴田はあまりにも寡作のため各作品の執筆履歴がほとんど分かりません。2015年現在でも漫画単行本として発刊されたものは(私の調べた範囲では)左の作品リストに記しただけです。

その中でも2000年代に発刊された「Forget-me-not」および「アベノ橋魔法☆商店街」は第1巻となっているにもかかわらず,10年を経過しても第2巻は出そうもありません。「The Spirit of Wonder」も第1巻→絶版→タイトルを変更し新作を含め再刊というコースをたどっています。

こうして見ると鶴田は手がけた作品を完結させたことがほとんどない,読者にとっては次巻を期待していると何年経っても出てこない難儀な漫画家ということができます。

それでも私のような団塊の世代にとって「Spirit of Wonder」は古き良き時代のSFを想い起させてくれるものであり,細い描線を多用した丁寧な書き込みの絵柄は私の好みでもあります。


Spirit of Wonder とThe Spirit of Wonder

新装版のタイトルは「Spirit of Wonder」となっていますが,最初の版は「The Spirit of Wonder」となっています。一般的に英文法では地名,人名などの固有名詞には冠詞(a,the)は付きません。

タイトルの元になったと思われる「Spirit of St. Louis」は1927年にリンドバーグが初の大西洋横断単独飛行に成功したときの飛行機の愛称です。ニューヨークからパリまでの飛行距離は5810km,飛行時間は33時間半でした。

彼の使用した飛行機は最大離陸重量は2330kg,航続距離は約6600kmのものであり,当時のエンジン性能からすると最高に近いものでした。離陸可能な最大量のガソリンを積載することによりこの航続距離を達成しています。

余談になりますがパリに到着したとき,彼は「翼よ,あれがパリの灯だ!」と叫んだとされていますが,これは彼の自伝を日本語訳した時の脚色であり,日本ではよく知られているものの,英語圏では知られていません。

さて,「Spirit of St. Louis」には定冠詞の「the」が付いていません。スピリットオブセントルイス号は固有名詞ですので定冠詞が付かないのは文法通りといえますが,英文法においては(慣習的に)定冠詞と固有名詞の間には下記のようないくつかの例外があります。

(1)普通名詞を固有名詞として用いる場合
  the United States
  the United Kingdom

(2)「名詞 of 名詞」の形の場合
  the Bank of England
  the University of Cambrid

(3)複数形の固有名詞の場合
  the Philippines
  the Netherlands

(4)英語圏の人々にとって幅広く知られているようなもの
  the Matterhorn(エベレストには定冠詞は付かない)
  the Atlantic

「Spirit of St. Louis」のケースは(2)に該当しそうですが,公知のものではありませんので固有名詞には定冠詞は付けないという原則の通りとなっているようです。


Spirit of Wonder の世界

「Spirit of Wonder」は各話が独立した一話完結の体裁をもっている短編集であり,その共通項は物語の重要なアイテムとなる「摩訶不思議・荒唐無稽な発明品」です。他にも19世紀のエーテル理論なども含まれており,SFの衣をまとった「空想科学物語」といったほうが適切かもしれません。

現在では科学技術の限界がかなりはっきりしていますが,20世紀の前半から中葉にかけては現在につながる科学技術の進歩とともに理論的に実現は難しい空想的科学技術の物語が紡ぎ出された時代であり,鶴田はその時代の影響を強く受けています。

特にSFの父と呼ばれるジュール・ヴェルヌ(1828年-1905年)やH・G・ウェルズ(1866年-1946年)の影響は大きいようです。ヴェルヌの作品にある「動く人工島」などは「冒険エレキテ島」のヒントになったのでは推測します。

子どものようにそのような発明や冒険に没頭する中年あるいは老科学者たちと主人公の若い女性が引き起こす騒動が物語の中核となっており,いってみればSFを舞台としたなんでもありのコメディということになります。

各話に登場する科学技術は現代科学のはるかに先をいくものなのですが,なぜか登場人物の服装や町の風景は現代もしくは過去の時代のものです。また,唐突に(説明なしに)地球温暖化による海面上昇で水没した近未来の浜松市が登場したりします。この奇妙な落差が「Spirit of Wonder」の世界ということができます。

本来のSFは科学的にありそうな事柄をテーマにしますが,「Spirit of Wonder」ではその逆手をとるようにそのほとんどが原理的にありえない機械や理論を登場させています。どうしてそれらがありえないのか自分の中で検証するのもけっこう楽しいものです。

ともあれ,「Spirit of Wonder」の世界を語るには各話に登場するSF的道具立てを見ると雰囲気がよく分かりますので下表にまとめました。

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広くてすてきな宇宙じゃないか
満月の夜月へ行く
星に願いを
リトルメランコリア
少年科学倶楽部
潮風よ縁があったらまた逢おう
時間の国のマージィ
夏子
少年科学倶楽部火星へ
チャイナさんの憂鬱
チャイナさんの願事
チャイナさんの逆襲

異常気象,海面上昇による水没都市
竜巻発生器,瞬間物質移動機,
ミクロ宇宙,巨大化人間の宇宙旅行
タイムマシン,永久機関
エーテル気流理論
冷線砲,地球規模の異常気象
時間停止機械
クローニング
エーテル気流理論
空間反射鏡,空間反射望遠鏡
重力遮断装置
瞬間物質移動装置


Spirit of Wonder 1|広くてすてきな宇宙じゃないか

近未来の神奈川県,静岡県が舞台となります。地球温暖化による海面上昇のため,海岸近くの町は水没しています。2代続く科学者の家系に生まれた難波舞子は科学者になりNASAに勤務しています。祖父は著名な科学者であり日本人として初めてノーベル賞を2度受賞しています。

休暇で実家に戻ってきた舞子は父親から祖父の遺産の場所を示す地図を見せられ,お宝探しに巻き込まれます。舞子の機転により祖父の残したお宝は無事に発見されます。それは地球規模の異常気象を止めるための方策に結びつく論文でした。

「広くてすてきな宇宙じゃないか(原題It's a Great Big Wonderful Universe)」はヴァンス・アーンダールが1960年に発表した短篇のSF作品です。日本では「S-Fマガジン」に小笠原豊樹の翻訳が1961年,1975年,1990年と3回も掲載されました。

「広くてすてきな宇宙じゃないか」という小笠原豊樹の翻訳したタイトルは秀逸であり,日本の2つの文化ステージで借用されています。一つは鶴田謙二のデビュー作品(1986年)であり,もう一つは成井豊の演劇作品(1990年初演)です。どちらもタイトルを借用したもので,内容は原作とは無関係です。

鶴田謙二の場合は「S-Fマガジン」の表紙絵を描いていたことからこのタイトルに合わせた作品を描き上げたものと推測できます。成井豊の場合はタイトルだけの借用であり,内容はレイ・ブラッドベリ―の「歌おう,感電するほどの喜びを!」を下敷きにしています。

原作の「広くてすてきな宇宙じゃないか」は日本ではほとんど知られていませんので,タイトルだけが独り歩きした珍しい事例ということができます。

さて,鶴田版の「広くてすてきな宇宙じゃないか」は地球温暖化による海面上昇により海岸地域の都市が水没してしまう近未来の作品です。作品中にはどの程度の海面上昇が生じたのかは記載されていませんが,沿岸部の地方都市が完全に水没していることから10m程度と推測できます。

この10mの海面上昇はグリーンランドの氷床が完全に溶融した時の海面上昇(7m)に近いものです。10mの海面上昇は日本にどのような影響を与えるのでしょう。

日本における標高10m未満の土地面積割合は5.8%ですが,そこには国民の約30%が居住しています。しかも,そこには多くの農業地帯や工業地帯が含まれており,実際にそのような海面上昇が生じたら,日本地図の形が変わり,日本という国家は立ち行かなくなります。同様のことは海岸線をもつ世界中の国でも起こり,10億人単位の環境難民が発生します。

現在の地球温暖化が21世紀の後半に世界の気候にどの程度の影響を与えるかについては世界の気候学者が示すコンピューター・シミュレーション以上の答えはありません。私たちはコンピューターの計算結果なのだから正しいはずだと考えがちですが,コンピューターは単なる計算する機械ですから初期条件と予測(気候モデル)プログラムにより結果は異なってきます。

しかし,この25年の成果として,計算結果と実際の地球の平均気温の上昇はかなり一致してきています。これは,シミュレーション・プログラムの精度が向上してきていることを示しており,これから50年後の世界の気候についても一定の正しさで予測ができるということです。

2013年のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)第5次評価報告書では「気候システムの観測された変化」について次のように記されています。(気象庁翻訳より引用)

●気候システムの温暖化には疑う余地がなく,また1950 年代以降,観測された変化の多くは数十年から 数千年間にわたり前例のないものである。大気と海洋は温暖化し,雪氷の量は減少し,海面水位は上昇 し,温室効果ガス濃度は増加している。

●地球の表面では最近30年の各10年間はいずれも,1850年以降の各々に先立つどの10年間よりも高温でありつづけた。北半球では1983-2012年は過去1400年において最も高温の30年間であった可能性が高い(中程度の確信度)。

●海洋の温暖化は気候システムに蓄積されたエネルギーの増加量において卓越しており,1971年から2010年の間に蓄積されたエネルギーの90%以上を占める(高い確信度)。1971年から2010年において,海洋表層(0-700m)で水温が上昇したことはほぼ確実である。

●過去20 年にわたり,グリーンランド及び南極の氷床の質量は減少しており,氷河はほぼ世界中で縮小し続けている。また,北極域の海氷及び北半球の春季の積雪面積は減少し続けている(高い確信度)。

●19世紀半ば以降の海面水位の上昇率は,過去2000年間の平均的な上昇率より大きかった(高い確信度)。1901年から2010年の期間に世界平均海面水位は19cm(17-21cm)上昇した。

●大気中の二酸化炭素,メタン,一酸化二窒素濃度は,少なくとも過去80万年間で前例のない水準にまで増加している。二酸化炭素濃度は第一に化石燃料からの排出,第二に正味の土地利用変化による排出により,工業化以前より40%増加した。海洋は排出された人為起源の二酸化炭素の約30%を吸収し,海洋酸性化を引き起こしている。

●第4次評価報告書以降,気候モデルは改良されている。モデルは20世紀半ば以降のより急速な温暖化や,大規模火山噴火直後の寒冷化を含め,観測された地上気温の大陸規模の分布や数十年にわたる変化傾向を再現している(非常に高い確信度)。

●21世紀末における世界平均地上気温の変化は,RCP2.6シナリオを除く全てのRCPシナリオで1850年から190 年の平均に対して1.5℃を上回る可能性が高い。RCP6.0 シナリオとRCP8.5シナリオでは2℃を上回る可能性が高く,RCP4.5シナリオではどちらかと言えば2℃を上回る。RCP2.6シナリオを除く全てのRCPシナリオにおいて,気温上昇は2100 年を越えて持続するだろう。気温上昇は年々から十年規模の変動性を示し続け,地域的に一様ではないだろう。

●二酸化炭素の累積排出量によって,21世紀後半及びその後の世界平均の地表面の温暖化の大部分が決定づけられる。気候変動の特徴の大部分は,たとえ二酸化炭素の排出が停止したとしても,何世紀にもわたって持続するだろう。このことは,過去,現在,及び将来の二酸化炭素の排出の結果による,大規模で数世紀にわたる気候変動の不可避性を表している。


注)RCP:温室効果ガスの代表的濃度パス,単位はw/m2であり数値が小さいほど温室効果ガスの増加量を抑えるモデルとなる。気候モデルによる21世紀末(2081年-2100年)の世界平均気温の上昇は下記の通り。
RCP2.6シナリオ 平均1.0℃ 予測幅は0.3-1.7℃
RCP4.5シナリオ 平均1.8℃ 予測幅は1.1-2.6℃
RCP6.0シナリオ 平均2.2℃ 予測幅は1.4-3.1℃
RCP8.5シナリオ 平均3.7℃ 予測幅は2.6-4.8℃

「広くてすてきな宇宙じゃないか」が執筆された1980年代の半ばには温室効果ガスによる地球温暖化は半信半疑の状態でしたが,21世紀に入りシミュレーション予測値と実際の観測数値がかなり一致してきており,国際的には人類の活動により大気中に放出された温室効果ガスが地球温暖化を引き起こしているのはまちがいのない事実として受け入れられています。

にもかかわらず,温室効果ガスの削減が自国の経済活動にとってマイナスになることを恐れる(ヨーロッパを除く)世界の指導者たちは責任ある削減目標の設定に消極的です。

特に世界の二酸化炭素排出量の45%を占める中国と米国の責任は重いのですが,両国が国際公約でイニシアチブをとる気配はありません。このままでは最悪のシナリオである「RCP8.5」が現実のものとなりそうです。

地球温暖化とともに今世紀の半ばに人類は化石燃料の枯渇にも直面することになるでしょう。枯渇といっても資源が無くなるわけではありません。供給が需要を満たせなる事態です。

石油・天然ガスは現在は米国のシェールオイル・ガスにより需給が緩んでいますが,いったん供給不足の状態になれば高騰し,相対的に経済基盤の弱い開発途上国は大きな影響を受けるでしょう。

その一方で単位面積当たり少量の資源が広く分布している米国のシェールオイル・ガス開発がもたらす環境破壊はカナダのオイルサンドと同様に在来型の資源に比してはるかに大きなものであり,とても容認できるものではありません。

エネルギーは人類活動には不可欠のものであり,それを獲得するためにはあらゆることが許容されてきたという苦い歴史があり,現在は技術の発達によりさらに悪い方向に動いてます。

「広くてすてきな宇宙じゃないか」の中には異常気象(地球温暖化)を食い止めることができる論文が見つかるという話になっていますが,現実の地球温暖化は(グリーンランドの氷床溶融のように)一度ある閾値を超えると不可逆的なものなる可能性をもっています。そうなると人類はなすすべもなく破局が訪れるのを見守るしかないのです。


Spirit of Wonder 1|満月の夜月へ行く

ドリトル少年の祖父であるファーブル博士は屋敷の敷地内に掘っ建て小屋のような研究室をもち,日夜怪しげな発明に情熱を傾けています。博士の助手のアリスはメイド服の妙齢のアンドロイドです。

ファーブル博士はアリスに新発明の「瞬間物質移送機」を見せます。この装置は2つがペアになっており,片方から手を差し入れると他方からその手が出てくるというものです。絵から判断するとこの装置は物質を移送するのではなく,異次元を介して二つの空間を結びつける装置のように見えます。

この装置を乗り物の前後に取り付けた宇宙船は(前方の物質が後方に移送されるので)物質の中を自由に動けるようになりますので(?),地球の中心部まで移動(落下)して地球脱出速度をクリアし,その速度を維持して月に向かうというものです。

当然ですが宇宙船がそのまま地球の反対側に移動するときは減速しますが,機体の長さを短くして,後部にできたすき間に生じる力の反動で加速するという摩訶不思議な原理によります。私には「すき間に生じる力の反動」で加速するという原理はまったく理解できませんでした。

ファーブル博士は「アリス,ドリトルを頼む」という一文を残して帰ってきません。カレッジを卒業したドリトルはアリスと一緒に博士の研究室を再開することにします。博士の発明した瞬間物質移送機を作動させると博士が現れます。驚く二人に博士は「月に行くのは失敗して地球の裏側に到達したので,そこで第二の研究室を作って研究を続けている」と語ります。

あきれ返るほどハチャメチャなSFであり,原理の理解できない話ですがアンドロイドであるアリスの造形が話を救っています。私などは「瞬間物質移送機」の片側をあらかじめ月に送り込んでおけば月との間を自由に行き来できるようになるので,発明の使い方に問題があるように感じられます。


Spirit of Wonder 2|星に願いを

「星に願いを」というタイトルは日本の楽曲,映画,小説など多岐に渡って使用されています。もっとも古いものは1940年に公開されたディズニー制作の長編アニメーション「ピノキオ」の主題歌「When You Wish Upon A Star」の邦題です。

夜空にまたたく星々に願いを託すことは古今東西を問わず人類の普遍的な文化です。人類は長い間,太陽や月,惑星は地球の回りを公転しており,夜空の星々は天蓋のようなものにはめこまれて地球の回りを回っていると考えてきました。

恒星が太陽と同じ星であることを知ったのは18世紀,太陽が核融合で熱と光を放出していることを知ったのは20世紀に入ってからです。

私たちは宇宙に対する知見を積み上げ,宇宙の果て近くまで観測できる技術を手に入れましたが,夜空の星を通して宇宙の深淵に触れ,畏敬の念をもつ感覚はエジプトやギリシャの時代となんら変わりありません。宇宙の深淵と永劫の時間感覚は人類の存在の小ささを否応なく知らしめるものであり,人々はそこに神を感じ願いを託すのでしょう。

物語中の「ショウコ」の恋人は移民船で地球から4.3光年離れた「アルファ・ケンタウリ」に向かいました。「ショウコ」も移民船に乗るはずでしたが妊娠が分かり船を降ろされました。

スケルマーズデイル博士は「ショウコ」を被験者にして,人間を巨大化して宇宙空間の距離を乗り越える実験を行います。

スケルマーズデイル博士の趣味はハミルトン型のミクロ宇宙を(実験室内で)作ることですが,人間と宇宙の相対的な大きさを変えることにより最大の障害である宇宙の距離の問題を解決しようとします。といっても宇宙を縮小することはできませんので人間を巨大化することにします。

身長4光年の「ショウコ」は宇宙をひとまたぎして24時間以内に「アルファ・ケンタウリ」に到達して,元の大きさに戻り,かっての恋人と再会を果たします。

「ハミルトン型宇宙」は主としてエドモンド・ハミルトンにより書かれた「キャプテン・フユーチャー」シリーズに登場します。この小説の日本語訳が早川文庫から出版され,その表紙と作中のイラストを鶴田が担当したことから自らの作品中の小道具として登場させたようです。

人間を巨大化するため物質を構成する最小の単位である素粒子レベルで操作するようです。といっても,素粒子そのものを巨大化するわけにはいきませんので,素粒子の間隔を広げる技術が使用されるようです。

しかし,これは不可能な技術です。物質を構成する基本要素である陽子,中性子,電子は一つもしくは複数の素粒子から構成されています。

陽子,中性子を構成する複数の素粒子を結びつける力(相互作用)は陽子や中性子の大きさ程度の範囲でしか働きませんので,素粒子の間隔を広げると陽子や中性子は壊れてしまいます。

原子核を構成する陽子や中性子を結び付ける相互作用も原子核程度の大きさの範囲でしか働きませんし,原子核と電子を結びつけている相互作用(電磁気力)も原子の大きさ程度の範囲でしか有効に働きません。

同様に分子を構成している原子を結びつけている化学的結合エネルギーも分子程度の大きさの範囲でしか有効に働きません。こうして考えると物質を構成している要素の大きさは必然的に決まるサイズがあり,それより小さくしても大きくしても元の要素のままではいられなくなります。

したがって,物質の巨大化は無理であり,同じように顕微鏡で覗いて分かる程度の小さな人間型生物も無理なのです。


Spirit of Wonder 3|リトル メランコリア

9歳のマリーは不治の病にかかっており,10歳までは生きられないと医者に宣言されています。ドロッセルマイエル博士と若い助手のウィルヘルムはタイムマシーンを作り出し,未来に移動し,マリーの治療方を探します。

その帰りにタイムマシーンのトラブルによりウィルヘルムは10年後の世界に放り出されます。10年後の世界でウィルヘルムは成長したマリーと出会います。

ドロッセルマイエル博士は半年後の世界に移動しマリーが元気にしていることを確認し,マリーの病気治療は博士たちの手によって実行された歴史的事実であることを知ります。

博士と小さなマリーは10年後の世界に移動しウィルヘルムと10年後のマリーに再会し,無事に元の世界に戻り,マリーの治療に成功します。

この時点で現在と10年後の世界から戻ってきた二人のウィルヘルムが顔を合わせることになり,10年後世界からもどってきたウィルヘルムはどの世界に戻ればよいかという問題が発生します。

この時間旅行で生じるパラドックスを往年の名著「夏への扉(ロバート・ハインライン)」はどのように解決していたかを知りたくなり,ずいぶん久しぶりに書棚から出してきました。

この作品中にもタイムマシンで過去に戻ってきた主人公と過去の時代の主人公が二人存在することになりますが,その点に関してはまっとうな説明はありません。行きつく先はパラレルワールド(多元宇宙)ということになるようです。

多元宇宙ならば10年後の世界で成人したマリーと暮らすウィルヘルムと現在の世界で小さなマリーと暮らすウィルヘルムは両立できるということです。


Spirit of Wonder 4|少年科学倶楽部

ウィンディの夫ジャックは船乗りであり,長い航海から戻ってきて休暇中です。ウィンディの父親は創立50周年を迎える「少年科学倶楽部」のメンバーであり,その記念行事として「火星飛行」を目指しています。「少年科学倶楽部」は中高年男性の集まりですが,若いジャックもそのメンバーに入っています。

蒸気機関車が走っていたり,手押しポンプで水を汲んでいることなどから話の時代背景は現代よりふた昔前のように見えます。その時代に火星を目指すのは男たちのロマンでしょう。

彼らの「火星飛行」にはリンドヴァーバーグ博士の「エーテル気流理論」がキーとなります。リンドヴァーバーグ博士とは実はウィンディのことであり,なんとか彼女の協力を取り付けようと年寄りたちが画策します。このたくらみに気が付いたウィンディは自分の理論を信じてくれ,それにより夢をかなえようとする男たちに協力することにします。

気球の本体のような形状をした宇宙船「Spirit of Science号」はゆっくりと空に浮かびますが,宇宙に到達する前に高度が下がり海に着水します。エーテルは宇宙空間を満たすものであり,大気圏ではエーテル飛行船は機能を発揮できないようです。

宇宙空間を光が伝搬することからそこには光を伝搬する媒質であるエーテル (aether, ether) で満たされているという仮説は18世紀から19世紀にかけての物理学の大きな命題でした。

当時は電磁波という概念は確立されておらず,ニュートンは光の実体が多数の微粒子であると考え,光の屈折や回折という性質を説明するためエーテルと光が干渉すると提案しています。一方,ホイヘンスは光がエーテル中を伝播する縦波であるとの仮説を提唱しています。

「少年科学倶楽部」の中では光によりエーテルが振動し(疎密波ができるため)軽い部分と重い部分ができ,その圧力差を利用して宇宙気球を動かすというものです。

しかし,エーテル説が華やかであった頃にエーテルは「天体の運動に影響を与えないという事実から,質量も粘性も零であり,さらに透明で非圧縮性かつ極めて連続的でなければならない」とされており,物質との相互作用は無いことになっています。したがって,エーテルの風で宇宙船を動かすことはエーテルの定義からあり得ません。

当時は「エーテルの風」についても研究されています。地球はエーテルの中を進んでいるのであるから,地上ではいわば「エーテルの風」が吹いていることになり,観測者により光速の変化として捉えられると考えられていました。しかし,そのような光速の変化は観測されませんでした。

「エーテル理論」はアインシュタインの「特殊相対性理論」により完全に否定され,その中で光速は観測者によらず一定であるとされています。物理学の世界では排除されたエーテルは私たちの身近な意外なところに生き残っています。それは「イーサネット」と呼ばれる通信プロトコルです。

イーサネット (Ethernet) はコンピューターネットワークの規格の1つで,世界中のオフィスや家庭で一般的に使用されているLAN (Local Area Network) で最も使用されている技術規格である。

現代のLANでは主に物理的な規格である「イーサネット」と、通信内容の取り決めを決めた「TCP/IPプロトコル」の組み合わせが一般的である。(wikipedia より引用)


Spirit of Wonder 5|潮風よ縁があったらまた逢おう

「広くてすてきな宇宙じゃないか」の続編の位置づけです。かっては陸地であった静岡県の沖合で巨大な球状の氷塊が発見され,その一部を舞子の父親が引き上げます。

その中には人間が閉じ込められており,解凍すると生き返り,関係者を驚かせます。「植木田均」は「冷線砲」の発明者であり,舞子の父親や時田所長に輪をかけたようなエッチな中年です。

植木田が閉じ込められていた氷塊の中心部には「冷線砲」があり,氷塊を何十年も維持していたようです。科学者たちは「冷線砲」を無傷で回収するため,氷塊の周囲を爆破しようとしますが失敗し,冷線砲は動作を停止します。植木田は舞子とともに海底に潜り,植木田は舞子を洋上戻るのを待って「冷線砲」を作動させます。

作品中では「冷線砲」についてまったく説明されていません。作動させると装置の周辺が氷塊になることから周辺の温度を下げるものだと推測できます。

しかし,「エネルギー保存の法則」には逆らうことはできませんので,温度を下げるためには熱をどこかに移動させる必要があります。冷蔵庫の中が周囲環境より低温なのは庫内の熱を外に運び出しているからです。当然,冷蔵庫が冷える分,周囲は暖められます。熱を運び出すことからこのような装置はヒートポンプと呼ばれています。

水中に強力な冷凍機を設置すればその周囲を氷らすことができます。しかし,運び出した熱を別の場所に捨てなければければなりませんので,地球という大きな入れ物が冷えるわけではありません。

地球を冷やすには地球の熱を波長の長い赤外線のような形で宇宙に放射する必要があります。あるいは地球に照射される太陽エネルギーを地表に到達する前に反射させる方法もあります。

地球温暖化にはRPC2.6からRPC8.5までのいくつかのシナリオがあります。単位はw/m2であり数値が小さいほど温室効果ガスの増加量を抑えるモデルとなります。

地球の受ける太陽からの輻射量は180兆 kwであり,単位面積あたりの平均輻射量は343 w/m2です。実際には雲や地球表面から反射により30%くらいは宇宙空間に戻されますので平均輻射量は250 w/m2ほどです。

このままでは地球は無限に熱くなりそうですが地表から波長の長い赤外線の形で宇宙空間に輻射量と同じ熱エネルギーが放射され地球の平均気温はほぼ一定に保たれます。

温室効果ガスは宇宙空間に放射される波長の長い赤外線の一部を吸収し,大気を暖めますので,まるで毛布のように地球を暖めます。

平均輻射量は250 w/m2に対して温室効果2.6w/m2(PC2.6シナリオ)が加わると地球の平均気温は1℃上昇すると予測されています。この温室効果を相殺するためには180兆 kw X 0.7 X 1% = 1.26兆 kwの熱エネルギーを人工的に宇宙に放射する必要があります。


Spirit of Wonder 8|少年科学倶楽部火星へ

「Spirit of Wonder 4 少年科学倶楽部」の続編にあたります。おなじみのメンバーが火星飛行の情熱を傾け新しい宇宙船「Spirit of Science U世号」を作り上げます。

「エーテル気流理論」を著したウィンディは妊娠したことを久しぶりに帰宅した夫のジャックに子どもができたことを告げようとしますが,少年科学倶楽部のメンバーにその都度ジャマされます。

そうこうしているうちにウィンディがジャックの朝食を届けに宇宙船に乗り込んだところで宇宙船はゆっくり浮かび上がります。これでウィンディは否応なく火星飛行に参加させられます。

今回の飛行は順調で少年科学倶楽部のメンバーは火星の土を踏みます。ウィンディはジャックと二人きりで火星を歩き,ヘルメットの無線を介して妊娠を報告します。この報告は他のメンバーにも筒抜けとなります。

火星にやってきた証として少年科学倶楽部のメンバーはパーシバル・ローウェル(1855年-1916年)が観測に基づいて作製した火星儀と少年科学倶楽部の名が記された1958年のペナントを設置します。

この作品はパーシバル・ローウェルを追悼するものとなっています。彼についてwikipedia には次のように記されています。

ボストンの大富豪の息子として生まれ,ハーバード大学で物理や数学を学んだ。もとは実業家であったが火星に興味を持って天文学者に転じた。私財を投じてローウェル天文台を建設し,火星の研究に打ち込んだ。火星人の存在を唱え,黒い小さな円同士を接続する幾何学的な運河を描いた観測結果を残している。火星探査機の観測によりほぼすべてが否定されている。


Spirit of Wonder 9|チャイナさんの憂鬱

第9話,第10話,第11話とチャイナさんがヒロインの作品が続きます。港町「ブリストル」の外れの高台に「天回」という中華料理店があり,20歳そこそこの「チャイナさん」が切り盛りしています。

「天回」の二階には「ブレッケンリッジ博士」と助手の「ジム・フロイド」が下宿しており,日夜怪しげな研究に資金をつぎ込み,部屋代を払ってくれません。今日も家賃の取り立てに来たチャイナさんに対して博士は居留守を決め込んでいたため,ドアの戸板を中国拳法で破壊する実力行使に出ることになります。

近くの子どもたちと一緒に市場に向かったチャイナさんはあこがれのジムが美人の「花屋」となにやら親しげに話をしているのを見かけ,ちょっとブルーな気分になっています。

家賃は払ってもらえず,お店は忙しいのにジムは手伝ってもくれず,うつうつと店を閉めてからいっぱい飲んでいるところににジムがリボンにくるまれた誕生日プレゼントを差出します。機嫌の悪いチャイナさんはプレゼントの箱をジムに投げ返します。

このプレゼントは月の石を加工した指輪でしたが砕けてしまいます。一計を案じたジムは月に巨大な「誕生日おめでとう チャイナさん」という文字を描きます。月に人間が行くことなどは夢物語の時代ですので,この快挙は世の人たちから無視されてしまいます。

ジムはさらに過激なことを考えます。なんと,月を破壊して土星の輪のように地球の周回軌道を回らせることにします。ジムと博士は「空間反射望遠鏡」を使用して月の対空間を地上につくり,それを「重力圧縮装置」を使用して砕きます。

対空間の物体を破壊すると本物の空間の物体も破壊されることから考えると,「空間反射望遠鏡」とは実体空間を(拡大・縮小して)目の前に移動させる装置のようです。

「重力圧縮装置」は月を砕くには力不足のようですので,最後の一撃はチャイナさんの登場ということになります。こうして月は地球の輪となり「チャイナ・リング」と呼ばれるようになります。

さて,月が小さな質量に分かれ,地球の輪になると地球にはどのような影響があるでしょうか。地上から輪が見えるのは当然ですが,おそらく地球の地軸の傾きが不安定になると考えます。

地球の外側には木星,土星といった大質量の惑星がありますので,その影響で地軸が大きく振られるわけです。月という大きな衛星が地球の回りを回っているため地軸は安定しています。

その月が小さな質量に分かれて一様な輪になってしまうと地軸安定化装置としての機能は損なわれ,地軸の傾きが大きく揺らぐことになり,気候は激変します。

Spirit of Wonder 10|チャイナさんの願い事

チャイナさんは願い事がたくさんあり,毎晩日課のように星空を眺め流れ星に願いを託しています。それを見たジムが「それならば流れ星が光っている間にしなければダメじゃないかな」といらないことを言ってしまいます。チャイナさんは今までの願い事がむだになったとひどく落胆してしまいます。

ジムは「重力遮断装置」を作り,それで発光時間の長い流れ星を打ち上げることを思いつきます。「重力遮断装置」は完成し,その実験により天回の屋根が吹き飛んでしまいます。

そうです,珍しく作者が正しい説明をしています。重力を遮断すると地球の自転による遠心力で遮断された物体は空中を飛び,重力の遮断範囲を越えると重力により落下します。小さな物体に重力遮断装置を取り付けると,物体は宇宙に飛び出します。

「重力遮断装置」に時限装置を組み合わせるとちょうどよい高度から物体は地球に再落下してきて発光時間の長い流れ星になります。この話を聞いてチャイナさんはすぐに人工流れ星を打ち上げるようジムに迫り,流れ星に長い願い事を託します。

この話の問題点は「重力遮断装置」です。ある種の物体を地球と被験体の間に置くと重力が遮断されるというアイディアはH.G.ウェルズが作品中に登場させています。また,反重力装置により重力をキャンセルするというアイディアも一時期はSFの材料になっています。

しかし,相対性理論により重力とは大質量が存在することによる空間のゆがみであることが広く受け入れられました。重力源から電磁波のようなものが放射されるわけではないので「重力遮断」というアイディアはSFの世界でも消えていきます。

東京オリンピックの頃のテレビアニメ「スーパージェッタ―」では「重力を中和することで空中を飛ぶことができる反重力ベルト」が登場しており,このあたりが「重力遮断」あるいは「反重力」のアイディア限界点であったようです。しかし,それらは人類の見果てぬ夢であり,現在でもまじめに取り組んでいる人もいるようです。

Spirit of Wonder 11|チャイナさんの逆襲

ジムが研究に夢中になり,研究室からほとんど出てこないのでチャイナさんはご機嫌斜めです。中華料理店の経営にも身がはいらず,料理がまずいという客にけんかを売って追い出す始末です。そのため店はちょっとした経営危機を迎えています。もちろん二階の下宿人は家賃を滞納しています。

チャイナさんの状態に危機感を抱いた二人は「SF的な夜逃げ」を計画します。二階の研究室のドアに「瞬間物質移動装置」の端末を取り付け,部屋のセットとつなぎます。チャイナさんが二階のドアから部屋の中に入ると「瞬間物質移動装置」によりがらんどうのセットに移動してしまい,二人は夜逃げしたことになるのです。

ジムという精神安定化装置がなくなりチャイナさんの憂鬱は嵩じます。ある日,ブレッケンリッジ博士が茶目っ気を出して,セット側の端末から顔を出してドアの前のチャイナさんを驚かしたため,チャイさんが大暴れして「瞬間物質移動装置」を壊してしまい夜逃げは終了となります。

お詫びにジムは「瞬間物質移動装置」を利用した動画配信装置を作り,町の人を驚かせます。この動く看板は「チャイナさんのごきげんうかがい板」として親しまれます。当のチャイナさんは窓から放り出したジムのくれた指輪を必死に探します。

しかし,「瞬間物質移動装置」は端末を通過した物質がもう片方の端末から出てくる装置であり,動画配信には「空間反射鏡」の方が適しています。これならば三次元の動画を配信することができます。などなど,「Spirit of Wonder」はしっかり読むと半世紀前のSFの香が漂ってくるなつかしい気持ちにさせられる作品です。


Forget-me-not

伊万里マリエルはベネチアの町で私立探偵をしています。彼女はベネチアの旧家ベヌーチの相続権を有していますが,相続には行方不明になっている絵画「Forget-me-not」を探し出すという条件がついています。そのため,立派なお屋敷の片隅の事務所で暮らしています。

彼女は非常に有能であり,スコットランド・ヤードの警部のところにホームステイしたときは3か月で18件の殺人事件を解決しています。その彼女をしても(他のことに注力しているためやる気がないため)絵画「Forget-me-not」の行方はまったく分からず,事務所暮らしが続いています。

第1巻では彼女に懸想した「怪盗ベッキオ」との対決にほとんどのページが費やされ,絵画探しのことは完全に忘れ去られています。作者にも本来のテーマは「Forget-me-not」探しであることを忘れないでと言いたくなります。しかし,そこは遅筆というか忘筆の作者には第2巻に進めること自体が忘れられているような気がします。


おもいでエマノン

エマノンは地球上に生命が発生してから現在まで,進化の過程のなかで30億年の記憶をすべて受け継いでいるという設定になっています。正確には30億年の間,連綿と続いている個体の記憶が遺伝子の形で受け継がれているということです。しかも,記憶が保持されるのは次の世代を産むまでという設定になっていますので女性(雌性)に限定されるようです。この設定はなにやら「ミトコンドリア・イブ」に近いものです。

主人公は九州に向かう定期船の大部屋で「エマノン」と名乗る謎の美少女と親しくなります。彼女は30億年前から現在までの無数の直系の祖先が経験した記憶をすべて受け継いでいると話します。しかも,次の世代を生むと前世および自分のそれまでの記憶はすべて次の世代に移行してしまうというのです。

それから13年後,主人公は「エマノン」に再会します。しかし,彼女はすでに娘を産んでおり,主人公の記憶は無くなっています。しかし,彼女の娘に記憶は受け継がれ,彼女は船旅のときのことを決して忘れないわと告げられます。平凡な主人公は30億年の記憶の一部になることにある種の高揚感を覚えます。