私的漫画世界
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谷川史子

谷川史子(たにかわ・ふみこ)は長崎県出身であり,高校時代に「ちはやぶるおくのほそみち」を描き上げています。この作品が1986年に「りぼんオリジナル」に掲載されています。

「ちはやぶるおくのほそみち」のタイトルを見てこれは用語の使い方がまちがっていると思うのは私だけでしょうか。作者の高校生のときのまちがいに難癖をつけるのは気が引けますが,別項を設けて説明することにします。

これが谷川のデビューなのですが,高校卒業後は百貨店に就職しています。しかし,漫画家への夢をかなえるため,1年半ほどで退職しています。

1990年に「きみのことすきなんだ」が「りぼん」本誌に初掲載され,これが実質的な商業誌デビューとなります。その後はずっと「りぼん」を中心に活動してきましたが,2000年代の後半からは女性誌に活動の場を移しています。

私が谷川史子の作品との最初に出会ったのは2011年頃の古本屋でした。「おひとり様物語」という変わったタイトルに引かれて第1巻を手に取ってみました。

作者は「谷川史子」という全く知らない方でしたが,雰囲気のある絵とさわやかな感じのストーリーが気に入り購入しました。家に戻って第1巻をじっくり通読すると,普通の恋愛漫画ではなく自立して働く女性たちの生き方が主題であることが分かりました。

私は谷川の「りぼん」時代の作品はまったく知りません。ネット上では『恋愛に不器用な少年少女の物語』という評価が定着しているようです。少女誌から女性誌に移っても恋愛畑の漫画を描き続けているようです。

個人的には恋愛一辺倒漫画は苦手にしているのですが,谷川の作品は(私が目を通した範囲では)恋愛のどろどろした部分や修羅場,性的な描写はまったくありませんので好感がもてます。

すでに書店の在庫は望めませんので3巻までをアマゾンに発注することになりました。このブログを書くためにネット情報をチェックすると複数の女性誌の作品が見つかり,第4巻,第5巻と一緒に注文しました。

リアルタイムで漫画を読むことがなくなり,書店の店頭販売では内容が分かりませんので,まず古本屋で内容を確認し,内容が自分の感性に合うと,その続きや同じ作者の他の作品を集めるというスタイルになっています。

古本屋が流行ると出版社の売り上げや作家の印税に響くことは承知しています。それでも現在の私のように,古本屋を起点として残りの作品を買い求める人が出てくることもあります。

現在の漫画世界においてはより刺激の強い物語や表現が好まれる傾向があり,恋愛ものについてもその例外ではありません。過剰な表現,過剰な物語性の恋愛ものに対して,谷川作品はこころの中の静かな想いや日常生活の表層を浮遊する感情を軽妙にていねいに描いています。この重すぎず,軽すぎない浮遊感がいいですね。

「くらしのいずみ」の帯に「谷川さんはまんが界の永遠の少女です」というキャッチコピーがあります。確かにそうかもしれません。谷川作品は恋愛における美しい感情をそのまま美しい文章と美しい絵で表現しています。この視点は確かに少女のものなのかもしれません。

20代の頃に少女漫画で培った感性を40代になっても持ち続けることは難しいことです。恋愛など人の感情を描く場合も視点や表現方法が年齢とともに変化していくのが普通です。しかし,谷川作品では年齢による表現の深化や時代における話し言葉の変化はあっても20代,30代の男女を見る視点は変わっていないようです。

この確かな視点はおそらく20代の頃に確立されていたので,年齢とともに知識や経験が積み上がっても,時代により社会情勢が変化しても変える必要がなかったということでしょう。実際,谷川の作品はまったく古さを感じさせません。そこにあるのは美しい感情を美しく表現するために磨かれた作者の美しい感性なのです。

おひとり様物語

「おひとり様物語」は谷川作品のなかでは少し毛色が変わっており,軸足が恋愛から女性の自立に移っています。それでも,単行本の表紙を飾る絵はすべてパステルカラーが使用されています。同様に作品内容も原色を強調するのではなくパステルカラーのように淡い色彩の雰囲気をまとっています。このあたりがこの作者の持ち味なのでしょう。

「私的漫画世界」にも登場する「こうの史代」は一時期,谷川のアシスタントをしていました。こうのの絵柄は谷川のものとは全く異なっており,その影響を感じさせないものです。こうのがアシスタントをしていたときはどのような部分を手伝っていたのか興味のあるところです。

谷川の作品について語るうえで外せないのは,この作者はほとんど長編と呼べる作品は描いていないということです。「おひとり様物語」は現在,5巻まで進んでいますが,一人暮らしの女性(ときには男性)を共通テーマとして,一話完結の形式で,一話ごとに異なる主人公の自立・自活にまつわる日常生活が描かれています。

この形式で思い出されるのは柴門ふみが1980年代に発表した「女ともだち」です。この作品のテーマは1980年代の女性の恋愛観や人生観です。社会的な視点から1980年代の女性の等身大の生き方を描いたものであり,個人的には柴門ふみの最高傑作と考えています。

この「女ともだち」から不倫,妊娠,嫉妬といった生々しい部分を取り去り,代わりにさわやかさや軽妙さ,暖かさを注入すると「おひとり様物語」のパステルカラーになります。

谷川の「おひとり様物語」は私にとっては2000年代の「女ともだち」のように感じられます。いつの時代においてもどのように生きるか,どのような人生を選択するかは若い世代の最大のテーマであり,作家の創作活動を刺激する題材となります。

しかし,二つの作品を比較すると,同じように女性の生き方をテーマにしても雰囲気が違います。「女ともだち」の閉塞感や結婚願望は「おひとり様物語」では自立と自分らしく生きる姿に変わっています。

この差異は作家の個性とともにその時代の社会的意識が作品に投影されることによるものも大きいと考えます。漫画は大衆文化ですので読者がそっぽ向くようなものは編集部で却下されます。そのため,作家も読者ひいては社会的情勢を意識せざるを得ません。

やはり,25年という時間差による社会的意識の変化が二つの作品の違いに大きく影響しているのでしょう。リアルタイムで両方の作品を読んでいる私などはどちらも時代の社会的制約の中で自立して生きていく女性を描いたよい作品であると考えています。

「おひとり様物語」のテーマは(女性の)自立であり,自分らしく生きる姿ですが,谷川の描き出すものは主人公の微妙な感情のうねりです。一つの作品は16ページの短編であり,その中で日常生活のなにげない出来事にまつわる主人公の感情をていねいに描かなければなりませんので,過剰な表現が入るスペースがありません。

主人公の生活の一コマにおける感情表現に特化していることが読者が安心して読み進めることのできる理由ではないでしょうか。谷川が長編を描かないのはそんなところに理由があるのかなと勝手に推測しています。短篇ですから飽きることもなく,読後感としては肩の力を抜いて,明日からは自分なりに生きていこうという気持ちになります。

「ちはやふる」とは

「ちはやふる」あるいは「ちはやぶる」は神・氏・宇治にかかる枕詞です。枕詞に関してはwikipedia には次のように記されています。

枕詞(まくらことば)とは主として和歌に見られる修辞で,特定の語の前に置いて語調を整えたり,ある種の情緒を添える言葉のこと。序詞とともに『万葉集』の頃より用いられた技法である。


枕詞は特定の語と結びついて初めて意味をもつようになりますので,「ちはやぶるおくのほそみち」は用語の使い方がまちがっているのです。もっとも最近では「ちはやふる」というタイトルの漫画もありますので,語感のよさで使用されているようです。

「ちはやふる」を使用した著名な和歌は「古今集」に収録されている「在原業平」のものです。小倉百人一首にも入っていますので目にしたり,耳にすることが多いようです。現代語訳と合わせて掲載します。

千早(ちはや)ぶる 神代(かみよ)もきかず 龍田川(たつたがは)
   からくれなゐに 水くくるとは

不思議なことが多くあったという神の世の頃にだって聞いたことがない
竜田川のきれいな紅葉が 流れる水を鮮やかな赤色の絞り染めにするなんて

注)龍田川:奈良県生駒郡斑鳩町竜田にある紅葉の名所
注)からくれない:韓や唐から渡ってきた鮮やかな紅色
注)水くくる:くくり染め,川の水を絞り染めのように色をつける

最後の「とは」は倒置法であり,倒置させないで現代語訳すると「竜田川のきれいな紅葉が 流れる水を鮮やかな赤色の絞り染めにするなんて 神代の昔から聞いたことがない」となります。

私がこの和歌を知ったのは百人一首かもしれませんが,記憶にあるるのは古典落語です。ちょっと長くなりますが,wikipedia をもとに自分なりに要約してみました。

「先生」の異名を持つ物知りを自認しているご隠居が茶を飲んでいると顔なじみの八五郎が訪れます。八五郎は娘に小倉百人一首の歌の意味を聞かれて答えられなかったので御隠居をたずねてきました。御隠居も意味を知りませんでしたが,知らないでは「先生」の沽券にかかわりますので,即興で次のような解釈を考え出します。

江戸時代,人気大関の「竜田川」が吉原へ遊びに行ったとき,「千早」という花魁に一目ぼれしました。ところが千早は力士が嫌いで振られてしまいます(千早振る)。振られた竜田川は妹分の「神代」に言い寄りますが,こちらも「姐さんが嫌なものはわっちも嫌でありんす」ということをききません(神代も聞かず竜田川)。

このことから成績不振となった竜田川は力士を廃業し,故郷に戻って家業の豆腐屋を継ぎます。それから3年後に竜田川の店に一人の女乞食が訪れます。「おからを分けて下さい」と言われ,気のやさしい竜田川は喜んであげようとしたら,なんとその乞食は零落した千早太夫のなれの果てでした。

昔の冷たい仕打ちを思い出した竜田川はおからを放り出し,千早を突き飛ばします。千早は井戸のそばに倒れ込み,こうなったのも自分が悪いと井戸に飛び込み入水自殺をとげます(からくれないに水くぐる)。

八五郎もこの解釈に疑問をもち,ご隠居にいろいろと質問しますが,ご隠居はそれをうまくいいくるめる解釈を出します。このあたりが落語の見せ場ということになります。


この古典落語を新作にしたものは「落語 千早ふる 小遊三」で見ることができます。それでは作品をいくつか取り上げて,谷川史子の美しい感情の世界を味わってみましょう。

山波久里子(第1話)

書店勤務の26歳,独身,一人暮らし,かっては彼氏がいたようなといったところです。休日前の夜は読書とレンタルのDVD,そしてお気に入りのチーズとワインを横に置いて自分が指定席と呼ぶ一人用ソファーに腰を下ろしてゆったりとした時間を過ごします。

仕事と一人暮らしのどちらにも不満は無い久里子ですが,ある日同僚のアヤから「それってさびしくないですか」と指摘され動揺します。そんな時に限って電車の席はとられる,とんかつ屋で元気をつけようとするとカップルばかり,コンビニでは限定販売のプリンを目の前で先に買われてしまいます。

女ともだちに電話をしても留守中であったり,電源が切られていたりとつながりません。悪いことが重なると自分の一人暮らしに気持ちの上で暗い影を落とすことになります。久里子は物思いにふけります。

世界で 自分は たったひとりなのかもしれない
だれも自分のほうを 向いてくれない
自分のことなど 考えてくれないのではないかと
そんな気分になったりする
毎日は楽しい それは本当
だけど アヤちゃんの言葉に こんなにゆれるのは
どこかで 自分はさみしい人間だと
思っているんじゃないのか


そんなとき,携帯が鳴り,アヤから電話があります。「はじめて一人ごはんにしてみたらとても楽しかった。それで今日ずっと山波さんのことを考えていました」と言われ,久里子のゆううつな気分は解消されました。

はい,この気持ちはよく理解できます。人間はささいなことでも嫌なことが重なると誰かに愚痴を言ってみたくなります。特に女性は口にすることでストレスを発散することができるようです。

電話がつながればともだちとの会話でストレスを発散することができますが,それがだめなら食べる方に走るようです。久里子は嫌な1日をアヤの電話で救われ,これからも一人暮らしを続ける気持ちを強くします。

一人暮らしとは社会から孤立することを意味してはいません。社会とは一定の関係を保つけれども,同時に自分だけの時間をもつことができるのが一人暮らしなのです。男性が書斎をもちたがるのは,仕事や家庭で社会と密接に結びついていても,ときには自分だけの時間が欲しいという欲求の現れです。

白石百合子

OL,31歳,独身,実家暮らし,上司と不倫関係にある(あった)ようです。容姿端麗のため受け付をしています。見合いしてその日のうちに川村からプロポーズされます。彼の家は裕福であり普通の家庭で育った百合子にとっては「玉の輿」ということになります。

婚約が決まり百合子は寿退社ということになります。会社の男性たちは百合子がひとりでいたなどとは誰も考えなかったため,声がかからなかったようです。いわゆる「高嶺の花」のような存在であったようです。しかし,自己主張がそれほど強くないため,上司に誘われるまま関係をもったのでしょう。

子どもの頃から「いい子」で育った百合子は30歳の大台に乗り「結婚しなければ」とあせりを感じています。私などは百合子の結婚願望と不倫関係の矛盾をさっぱり理解できません。

寂しさから,愛が欲しいからあるいは積極的に好きだから不倫関係をもつことはありうると考えますが,実家での暮らしに不満はなく,結婚願望をもつ百合子がどうして結婚の対象にならない部長と不倫しなければならないのでしょう。

婚約者の川村が百合子の身辺調査をして,不倫が露見すれば婚約解消ということになるでしょう。川村にとっては妻とは人生を一緒に歩む存在ではなく,自分の人生の付属物と考えているようですので,傷物,不良品と分かればあっさり捨てることになりそうです。

たまたま,百合子はまんが女子であり自分の区切りのために作品を描き上げ出版社に投稿します。それが,まだまだのレベルながら佳作に入ります。

婚約者は結婚後も漫画を描いてもいいよと言ってくれますが,彼が妻に求めるのは家庭の運営だけだと分かり,「私じゃなくてもいいんですよね? 私もそう思ってました」と別れを告げます。

百合子はこの日の自分を後悔することがあるかもしれません。実際,漫画家としてやっていけるのはほんの少数であり,百合子にその才能があるかどうかは分かりません。しかし,それは自分で選択した人生なのですから後悔をしても先に進まなければなりません。そうです,人生の時間軸は現在を起点に未来にしか向いていないのです。

小森雛子

OL,27歳,独身,一人暮らし,結婚願望が強い女性です。大学時代の彼と別れたあとはずっと「おひとり様」です。同僚のマイの婚約指輪を見てときめきます。容姿も10人並み,性格もいいのになぜか恋人ができないと嘆いています。

そんな雛子が部署のちがう高田からお茶に誘われます。雛子もちょっと気になっていた男性ですので交際は順調に進展します。自分の部屋の掃除に洗濯,料理と自分でも驚くほどの「巣作り」に精を出します。

しかし,デートの時に見たくもない販促用のTシャツを着ている彼に幻滅を感じ,急用を思い出したと言ってその場を去ります。

マイとばったり会った雛子はマイの冴えない感じの(でも医者)婚約者を紹介されます。マイは風采が上がらなくても一生懸命なところに惹かれて彼のそばにいてあげたいという気持ちになったようです。それは雛子にとってはとても無理と思えることです。

雛子は彼と別れます。「どんなにだめでも どんなにみっともなくても この人でなくなくちゃと 心から思える人」と雛子はつぶやきますが,それがどんな人なのか自分でも分からないのではないでしょうか。

人の心は移ろいやすいものであり,「この人でなくなくちゃ」と思う今日の自分が明日も同じとは限りません。「この人でなくなくちゃ」と思って結婚してから,自分が知らなかった彼の一面を見つけるとすぐに「こんなはずではなかった」になるのはごく普通にあることです。

それはパートナーについてもいえることです。結婚生活を長もちさせる秘訣は「絶対」を相手に求めないことです。お互いに「この人とならば多少の考え方の違いや問題が生じてもやっていける」と思えるかどうかにかかっています。

三ノ輪 Tomoko(第17話)

書店勤務,33歳,独身,一人暮らし,口ベタで地味でぶきっちょな性格と自認しています。彼女の勤務する書店に21歳の大学生・五反田がバイトをすることになります。

三ノ輪は仕事を教えることになり,そのため彼の歓迎会に出席することになります。酔って帰る彼から「ミノワさんが来てくれたんですげーうれしかったです」と言われちょっとときめいてしまいます。

彼から「髪がきれい」と言われ,髪型も服も新しくします。しかし,五反田には彼女がいます。友人からは「あこがれでも欲情でも頑張ってみたらいいじゃない」と言われますが,自分の想いを伝えることはとてもできません。

五反田と飲んで前後不覚になり,彼に背負われてアパートの近くまできて気が付き慌てます。彼からやさしい言葉をかけられ「そんなふうに言わないでよ いなくなるくせに 卒業したらあたしの前からいなくなっちゃうくせに」と口にしてしまいます。

自分の心の中を彼に見せてしまい,『なんでこんなみっともない はずかしいことになっちゃんたんだろう』と自己嫌悪に陥り,三ノ輪は翌日の勤めを休みます。

彼女の部屋に五反田が訪ねてきて,「来週,田舎に帰り家業を継ぐ」と話します。三ノ輪は思い切って彼の手に触れさせてもらいます。五反田は彼女をそっと抱きしめます。

三ノ輪にとってはそれで充分です。五反田は「このことは誰にも話さず墓場までもっていきます」と話します。三ノ輪もその日のことは大切な想い出として胸の小箱にずっとしまっておくことにします。

この作品は33歳の女性が一回り年下のいい男にやさしくされて舞い上がっている話ではありません。(過去の失恋により)もう二度と自分の想いを伝えることはできないと思っていた女性が好きという感情を呼び起こされたときのとまどいがていねいに描かれています。

三ノ輪の部屋で抱き合った二人が再び接点をもつことはないでしょう。しかし,そのときのぬくもりは口にすることはなくても,お互いのこころの中で生き続けることでしょう。

渋澤智絵(第21話)

OL,30歳,独身,高校生の頃に父親が亡くなりずっと母親との二人暮らしです。そんな智絵にも転機が訪れます。母親との生活はときどきわずらわしく感じるようになったからです。たまたま,友人の志麻が結婚することになり,彼女のマンションを「おともだち価格」で借りられることになります。

智絵の周辺でも友人は結婚したり,転職したりして自分の道を歩んでいますが,智絵は自宅と職場を往復する毎日であり,特別にしたいこともないけれど一人暮らしを始めたいと思うようになります。

しかし,それは何かと自分に頼るようになった母親を一人にするということなのです。智絵はその点について悩み友人に相談します。友人は「一人になればなんでもできるようになるよ」と智絵が母親の成長を妨げている可能性について話します。志麻の決めゼリフは「娘が望む道を選ぶのが お母さんは一番嬉しいんじゃないかな」です。

智絵は思い切って家を出たいと母親に話します。母親は娘の自立に反対しませんでした。それどころか,それまで智絵に頼っていたことを自分でするようになります。

母親は「まあ楽しく頑張んなさい そして母のありがたみを思い知りなさい」としっかりしたものです。娘の世話から解放された母親は自分のやりたいことを始め,とてもいきいきしているのが智絵にはちょっとまぶしく感じられます。

智絵の自立は母親の自立につながり,お互いに自分を成長させることができます。これはとてもよくできた話ですね。

母子家庭では親子の絆は強くなりますが,一生そのままというわけにはいきません。仏教でいう「諸行無常」ということです。就職,結婚,再婚など人生の選択により,母娘の絆は変わらなくても母子家庭は姿を変えなければなりません。

それに気付いた母親は娘の独立を暖かく見守ることにします。縁側で母親は智絵に「誰かに頼りにされるっていいものよ お母さんは頼りにされてうれしかったの お父さんにも あんたにも・・・ずっと」と気持ちを語ります。作品中にはありませんが,智絵は縁側の陽だまりのような母親の愛を感じ取ったことでしょう。

「おひとり様物語」にはこのような雰囲気の話しが並んでいます。そこには一人暮らしの女性を見守る作者の暖かいまなざしを感じることができます。作品中の会話の中にもけっこう心に響くものがあり,他の作品も読んでみたいという気になります。

それでも,「りぼん」時代の作品まで手を広げるつもりはありません。女性誌や青年誌を舞台にした谷川作品はこれから少しずつ増えていくかもしれません。でも,我が家の書棚はすでにオーバーフローしており,200冊くらいは平積みの状態です。そこだけは頭の痛い問題です。


忘れられない

自分には無縁なことだと思っていましたが,ネットで谷川作品を検索し,表紙に惹かれて購入しました。単行本のタイトルになった短篇の主人王の智花が涙をこらえている表情がいいですね。この作品の表紙買いは当たりでした。

年に1度,母親は桜の季節に家を空けることがあります。通常は日帰りなのですが,今回は2-3日の泊りになると父は話してくれます。母親が(自分の知らないことで)家を空けるなんてと,智花は不安のあまり結婚している元カレを呼び出します。

奈良県の旅館に母を訪ねた智花は母の消えることのない大切な想い出について知ることになり,ついつい呼び出している元カレにもう会わないことを告げます。

くらしのいずみ