私的漫画世界
帰りなん いざ みちのく わがふるさと 緑濃き おらが村・・・
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矢口高雄のふるさと

矢口高雄は1939年に秋田県雄勝郡西成瀬村(後の平鹿郡増田町、現・横手市)に生まれました。漫画家としては石森章太郎(1938年)とほぼ同年代ということになります。

奥羽本線の十文字駅の南側を国道342号線が走っており,少し東に行く国道沿いに旧増田町があります。増田町には全国的にも珍しい「まんが美術館」があり,ここは郷土の漫画家矢口高雄のフィールドワークを紹介するとともに,マンガ文化の歴史や国内外の著名な漫画家の原画を展示したギャラリーを備えています。

そのまま342号線を進むと東成瀬村となります。この村は面積203km2,秋田県の南東端に位置しており,東は岩手県,南は宮城県に接しています。住民アンケートにより他の市町村とは合併しない道を選びましたので,古い村名がそのまま残されています。

旧西成瀬村は東成瀬村の西側にあり,面積は東成瀬村の1/4ほどですので1955年に合併の道を選択しています。矢口は自分のエッセイの中で「秋田県平鹿郡増田町狙半内(さるはんない)字中村。行政的には町を名乗っているが,町の中心部から20kmほど奥羽山脈に分け入った戸数70戸たらずの小さな村である」を記しています。また,作品中には「奥羽山脈の山襞に抱かれた山村であり,冬には3mもの積雪がある豪雪地帯です」と説明しています。

東成瀬村の手前で国道から県道274号線に入り,10kmほど行ったところに旧西成瀬村があります。現在は近くには横手天下森スキー場があります。雄物川水系の狙半内川が南から北に流れており,旧西成瀬村はその狭い谷あいに位置しています。谷が南北方向に開けているため,日照時間は少ないようです。

作品中にある日暮村は架空のものであり,最寄り駅は奥羽本線の「十文字」であり,そこから30kmほどのところとなっています。

自然に恵まれた環境で過ごした少年時代の矢口高雄はマンガ少年であり,釣りキチ少年であり,昆虫少年でもありました。この時期の生活体験が「ふるさと」を始めとする矢口高雄のマンガ作品の原点となっています。

「かつみ」に出てくるゆきしろヤマメ釣り,「ニッポン博物誌」に登場するカジカ突き,「ふるさと」に出てくるクヌギの台木で夜にねらうオオクワガタ捕り,あけび取りや桑の実ジュース作りなどの多くは作者の少年時代の実体験だったのでしょう。

現在の日本ではこのような素晴らしい体験ができるのはもう本当にひとにぎりの子どもたちになってしまいました。田舎の子どもたちでも自然と親しむことよりテレビゲームの好きという方がメジャーになっていることでしょう。

図鑑や情報で知っているということと,実際に自然の中で観察したり触れてみることはまったく異なることであり,自然との共生とか自然を大切にするこころは頭の中で考える前に原体験をもつ方がずっと深く強いものになるのではと考えます。この作品の冒頭で作者はふるさとの絵を背景に次のように書き述べています。

ふるさと・・・
それは人生の花園に咲く 可憐な紫の勿忘草

眼を閉じて 紫のカーテンを開ければ
なぞ恋しきや わがふるさと
兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川

たわむれし幼き日々
若き憂いの日々をたどれば とめどなくあふるる涙

帰りなん いざ みちのく わがふるさと
緑濃き おらが村・・・・・・


矢口高雄は釣りとマタギを題材にしたものを除くと漫画家人生の大半を自分の故郷の情景を描いてきました。「ふるさと」と「新・おらが村」はその集大成といってよい作品です。もっとも,それらに先立って発表された「おらが村」と「かつみ」も作品世界を共有しています。作品を時系列で並べると次のようになります。

・おらが村(1973年-1975年)
・かつみ(1976年-1977年)
・ふるさと(1983年-1985年)
・新おらが村(1988年-1990年)

これら4作品に共通するのは「高山家」であり,高山夫妻,長男政信,末娘かつみなのですが,残念ながら「かつみ」では「森田家」となっています。「おらが村」「かつみ」では高校生となっていたかつみは「ふるさと」では23歳で農協に勤めているという設定になっており,ほぼカレンダー通りに成長しています。

「ふるさと」では15年間ほど前に村を出てスーパーに勤めていた杉村が妻と別居し,5年生の太平と3年生のみずなを連れて,農業をするためにふるさとの日暮村に戻ってくるところから物語が始まります。

個人的にはこの設定にはかなり不満があります。それは1981年に始まったテレビドラマ「北の国から」と同じ設定になっているところです。ネット上にはパクリだなとと批判する人もいます。

物語の内容はまったく異なりますし,テーマも異なります。しかし,初期設定の類似性はやはり問題提起されてもしかたがないレベルです。しかも,故郷にUターンする理由がどちらも妻の不倫なのです。

「ふるさと」で描きたかったのは二人の子どもたちの視点から見た山村の自然や暮らしであり,大人の視点から見た山村の農家の抱える問題です。初期設定を変えても杉村家のUターンは無理なく説明できそうですので,この点は残念です。

ついでにもう一つ苦言を呈すれば,この作品に杉村にいいよる女性たちを登場させたことです。物語の後の展開を考えるとほとんど意味のないものであり,男女の生々しい部分は描かずもがなのところです。矢口さんの作品にはときどき不用意な性的場面が登場し,作品の価値を損ねています。

個人的に感じる問題点を出してみましたが,作者の愛する「ふるさと」の情景は(適応力のある子どもたちの視点を通しているため)明るく描かれており,続編ともいうべき「新・おらが村」と合わせて,作者の漫画家人生の集大成となる作品に仕上がっています。

このような恵まれた自然の中で育った矢口高雄は漫画少年でもありました。1939年生まれの矢口が少年時代に見ることができた漫画作品はごく限られていたはずです。その中で手塚治虫の作品がお気に入りであり,漫画雑誌を買うために杉皮背負いのアルバイトで小遣いを稼ぐほどでした。

同時に漫画を描くことにも興味をもち,持っている漫画の模写をするようになっていました。高校卒業後は地元の銀行員となりますが,その間も投稿を続け,1969年に「長持唄考」(ガロ,高橋高雄名義)でデビューします。銀行員時代は白土三平に傾倒していたようです。

30歳という遅いデビューです。すでに妻子があるにもかかわらず,安定した職を辞しての人生最大の冒険であったと想像します。さらに想像を膨らませると,二人の子どもを抱えてふるさとにUターンする杉村に妻子を抱えて上京した自分を重ねているのかもしれません。

デビュー作の長持唄考」を見る機会はありませんが,それを1972年に書き直した「長持唄裁判」は単行本「かつみ」の巻末に掲載されています。「かつみ」の絵柄と「長持唄裁判」には大きなギャップがあります。

その間には少年誌で矢口としては最大のヒット作品となる「釣りキチ三平(1973年-1983年)」を発表しており,この作品で描画スタイルが固まったようです。「釣りキチ三平」の大ヒットにより,矢口の人生最大の冒険は成功します。

その後も,大自然とふるさとをテーマにした作品を発表しており,受賞歴は下記の通りです。
・第4回講談社出版文化賞(1974年)|釣りキチ三平,幻の怪蛇バチヘビ
・第5回日本漫画家協会賞大賞受賞(1976年)|マタギ

それでは,作品に沿って「ふるさと」の風物詩を探検に行くことにしましょう。もう30年近く前の描写ですので里山の自然も変わっているし,地域の人々の暮らしも大きく変わっているかもしれませんが・・・。

日暮村に引っ越してきた杉村一家

杉村一家(良平,太平,みずな)は東京から良平の実家のある日暮村に引っ越します。東京育ちの子どもたちにとっては,見るものがすべて新鮮に映ります。この二人の子どもたちが田舎で暮らすことに対する適応力があったことは良平一家にとっては幸いなことでした。

山菜の「みずな」の正式和名はウワバミソウ(Elatostema umbellatum,イラクサ科・ウワバミソウ属)の植物であり,湿った斜面に群生します。茎や葉が食用となり,おしたし,天ぷら,煮物などに利用されます。この山菜は長女「みずな」の由来ですが,正式和名は知らない方が幸せです。

高山家では歓迎の餅つきとなります。囲炉裏の五徳の上に大きな鉄なべ,蒸し樽を置いてもち米を蒸し上げます。一樽が一臼分のようです。この臼は年期ものであり,大きな木からそのまま造ったものです。

子どもたちは良平の力強い餅つき姿にちょっと見直しています。餅つきは大きな音がするのでとなり近所の知るところとなりますので,おすそ分けの風習もきっと残されていたことでしょう。

日暮村の水道は沢の水か湧き水をそのまま利用しているようです。家の中には水道の蛇口があり,ひねると水は出ますが,固定料金制となっているようです。ですから,水を出しっぱなしにしておいても問題はありません。

家の外にも樋で引かれた水が小さな池になっています。夏場,子どもたちはここで顔を洗います。これは冷たくて気持ちがいいものです。また,湧き水でしたら冬場は暖かく感じます。

良平は子どもたちと一緒に向いの山に登ります。頂上からは日暮村は一望できます。わずかばかりの平地の中央に日暮川が流れており,その両側に総戸数は50戸の村が広がっています。これは作者自身の原風景なのでしょう。

良平は桑の実を子どもたちに教えます。桑の木はかって養蚕に使用されたもので,台木から伸びた枝ごと伐って蚕の餌にしていました。養蚕が衰退すると材としての利用価値の少ない桑の木は管理が行き届かない状況になっています。

季節はおそらく初夏なのでしょう。良平は紫色になった桑の実の味を子どもたちに教えます。桑の実の英語名は「Mulberry」であり,日本以外でも食用にされています。

個人的にはパキスタン北部のカラーシュ谷で木から取っていただいたものが記憶に残っています。中国の西域では乾燥果実として干しブドウや干し杏と一緒に売られていました。

学校の帰りに三人は急な雨に遭います。木の下に避難した良平は急に「秋田音頭」を唄い始めます。その一節には「秋田の国では雨が降ってもカラカサなどいらネエ,手ごろな蕗の葉さらりとさしかげ,サッサと出て行がェ〜〜」となっています。

この蕗は「アキタブキ」であり,本州北部から北海道に分布しています。北海道では「ラワンブキ」と呼ばれており,葉柄の高さは2m,葉の直径は1.5mもあります。これは十分カサの代わりになる大きさですが,茎を伝って水が垂れるので,実用性には疑問符がつきます。

オオクワガタは日本では最大級のクワガタムシです。子どもたちにはとても人気のある昆虫のため,生息木のウロなどを破壊する採集が行われたり,雑木林が減って生息環境が狭められたこともあり野生個体数が急激に減少しています。2007年には準絶滅危惧種から絶滅危惧U類に引き上げられています。

夜行性でクヌギやナラ,カシなどの樹液を吸います。昼間はほとんど木のウロなどに隠れています。太平は1回目の夜間探検で大物のオオクワガタを捕まえますが,これはとてもラッキーなことです。私は子どもの頃,家に入ってきた(子ども心には巨大な)ミヤマクワガタを捕まえて夏休みの間飼育して放してあげたことがあり,貴重な思い出となっています。

高山家の稲刈り

高山家の稲刈りは手動のコンバインが活躍します。それでも区画整理のされていない水田の隅はコンバインが入れないので手刈りとなります。手刈りは束を二つ作り,それを交差させて前年の稲わらでくくります。

このくくる技術は「稲わら回し」と呼ばれており,言葉で説明するのは難しいのですが,私の場合は40代の頃,友人の水田で経験したものであり体が覚えています。

手動のコンバインは刈取りと束ねる作業を一緒に行うことができます。交差させた束はハザにかけて天日干しします。これは追熟のためで,コメの味を良くすることができます。もっとも高山家では畔に丸太を立てて,丸太を挟むように稲わらを積み上げていく方法となっています。

昔は天日干しが主流でしたので,脱穀した後には稲わらが残されます。最近のコンバインは自脱式となっており,刈取りと脱穀が同時に行なわれ,玄米だけが袋もしくはタンクに貯まり,稲わらは切り刻んで水田に戻されます。これでは稲わらが残されず,縄,ムシロ,畳などの業者は材料が不足することになります。

高山家の長男の政信は良平の同級生であり,奥さんは出産のために東京の実家に戻っています。奥さんのゆかりさんとのなれ初めは「おらが村」に描かれており,その一部は「ふるさと」の追憶シーンとして入っています。そのときかつみは高校生であり,ここでも兄妹の年齢は整合性があります。

高山家の初孫の誕生に合わせるように,沓沢先生は太平を誘い,イワナの産卵を見せに行きます。イワナ(サケ科・イワナ属)は渓流魚であり,サケの仲間としては珍しく海には下らず,一生を川で過ごします。

肉食性で水棲昆虫や流れてくる昆虫などを捕食します。産卵期は秋から冬であり,その間は禁漁となります。サケの仲間らしくメスは尾びれで川底の砂利を動かし産卵のための窪みを作ります。

多くのサケ科の魚は1回の産卵で寿命を迎えますが,イワナは数年に渡り繁殖を行います。ヤマメとともに人気の高い渓流魚であり,沓沢先生や正勝は大のイワナ党です。

ヤマメは一部の稚魚が海に下るという習性をもっています。多くの場合は川の中で弱者のため十分なエサが取れない個体が海に下ります。数年後に彼らは川に残ったヤマメの何倍もの大きさのサクラマスとなって戻ってきます。サクラマスの産卵には川に残っていたヤマメのオスも参加します。

コメの収穫が終わると,村の男性は出稼ぎに出かけ,寂しい冬枯れの景色となります。良平の出身校も売却され,今は工場となっており,教室の一部は取り壊されています。子どもの減少と若者の都会への流出により「ふるさと」は過疎の村になりつつあります。

雪の季節になっても良平は出稼ぎには行かず,板の間で稲わらをたたいています。農家の冬場の仕事とといえば縄や莚編みです。でも良平はちょっと違ったものを作っているようです。

夕方までかかって二足のワラグツができあがりました。ここでは「ワラシベ」というようです。このような技能は親から子へと伝えられますが,便利なものが簡単に買えるようになると急速に衰退してしまいます。

山彦とはヤママユガの一種のウスタビガの繭のことです。薄い黄緑色で下がふくらんだ逆三角形をしており,木の枝から自分の糸を使って繭を吊り下げます。ウスタビガは晩秋に羽化しますので繭の中は空ということになります。もっとも,ウスタビガは繭の中に産卵することがありますので,繭の中で卵の状態で越冬することもあります。

「飯詰め」とはご飯を詰めた料理の名前ではありません。大きな籠のようなもので,冬季はご飯が冷めないように飯櫃を布などでくるんで入れておくものです。飯櫃の代わりに乳児をくるんで入れておくこともできます。

乳児の頭はどんどん大きくなるため,成長に対応できるように柔らかくなっています。そのため,頭の向きが同じ状態で長時間寝かされると,寝具に接している部分が平らになってしまいます。

これが作品中の絶壁頭であり,現代用語では「フラットヘッド症候群」と呼ばれています。「飯詰め」の中では,上半身は立った状態になっているため,後頭部に加わる力が小さいので絶壁頭の防止に役立つのかもしれません。

農閑期に村に残った人たちも工場勤めとなりますが,良平はきっぱりと拒否します。その代わりに「ワラシベ」作りに精を出します。1日かけて2足がようやくですが,実用品ではなく「雪ん子」の名前で民芸品として東京で販売する計画です。サンプルは大好評で即完売となったので手先の器用なお年寄りにも声をかけて量産します。仕事の無い冬の村でのささやかな手内職となります。

日暮村の冬

冬場の日暮村では生鮮食料品はサブちゃんの巡回販売車に頼っています。雪に閉じ込められた山村ではありがたいサービスです。東北大震災の被災地ではコンビニの移動販売車が活躍しており,復興が進んでからは買い物不便地域にサブちゃんのような演歌を鳴らす移動販売車も登場しています。

干し餅は水分の多い餅を外の寒気にさらして凍らせるとともに乾燥させる東北地方では伝統的な保存食です。地域より「凍り餅」,「凍み餅」などの呼び名があります。芯まで風化させるため,何回か水に付けては吹雪にさらします。

正勝の祖父は昔気質の名人マタギでした。冬場になると枝を炙りながら丸く加工し何かを作っています。それは中心線が1本入ったような輪っかの形状をした道具で「マルカケ」と呼ばれています。

中心線は円周より少し外に飛び出しており,ここをつかんでウサギに向かって投げつけます。ウサギに当てるわけではなく,その上を回転させながら通過させると,ウサギは天敵の猛禽類と勘違いし,木の下の穴などに逃げ込みますのでそこを捕獲する猟法です。

「固雪」は春先の雨とその後の寒気で雪の表面が固く凍りついたものです。作品中にあるように大人が乗っても耐えられる強度があります。太平とみずなは裏山でそり遊びですが,実際には傾斜の多少あるところでは速度が出るため,足でブレーキをかけることができなければ危険なことになります。また,段差などがあると転倒することもあります。

ニホンザルは日本固有亜種と考えられており,ホンドザルは本州,四国,九州に分布しています。下北半島に棲息するものは世界でもっとも高緯度に棲むサルとして知られています。当然,奥羽山脈にも多数のニホンザルが棲息していましたが,狩猟により姿を消しています。1947年に狩猟獣から除外されたことから再び数を増やし,農作物への被害も増加しており,有害鳥獣として駆除されることもあります。

春・コメ作りの始まり

コメ作りは苗の育成から始まりますが,その前に塩水選で籾を選別する必要があります。籾の中には種子が充実していないものもあり,卵が浮くくらいの塩水につけて浮いたものは除去されます。選別された種籾はぬるま湯に浸けて発芽を促します。

ユキシロヤマメとは春先の雪解け水で川が増水する頃のヤマメのことをいい,この頃に渓流釣りが解禁になります。沓沢先生と太平は釣りのポイントにやって来ましたが,初めての太平は1匹も上げないまま時間だけが過ぎていきます。

太平とみずなは学校の帰りに山の斜面の木に白い鳥がたくさん止まっているのを見つけます。足音を忍ばせて近寄って見るとそれは「こぶしの花」でした。こぶしの木は関東にもたくさんありますので小学生なら見たことがありそうですが,それでは意外性がありません。春先に葉の出る前に白い大きな花を咲かせますので,鳥が集団で・・・という誤解もあり得ます。

一年中水の引かない田んぼで太平とみずなはなにやら気持ちの悪いものを見つけます。想像たくましい太平は宇宙からやってきたアメーバ状の侵略生物などと言い出します。二人の大騒ぎに正勝がその気持ち悪いものをすくい上げると,なんとカエルの卵塊でした。

春は山菜のシーズンであり,おチエバッパは山菜採りと朝市における販売に余念がありません。春はバッパの書き入れ時なのです。彼女の扱う山菜は山ウド,ホンナ,シドケ,コゴミ,タランボ,ヤマワサビ,山椒の若芽,アイコ,イワダラと多彩です。

おチエバッパの案内で杉村一家はカタゴ(カタクリ)の群生地に案内されます。カタゴは雑木林やブナ林の下草となっていますので,木が若葉を出す前に大急ぎで成長します。群生地は淡紫色のじゅうたんのように見えることから,カタゴの花莚という表現が使われます。現在ではジャガイモなどのでんぷんから作られる片栗粉はこのカタゴの根からとったものでした。

良平の水田は荒起こし,水入れ,代掻きと順調に進んでいます。荒起こしも代掻きも機械力になっていますが,山間地の小さな水田では大きな投資となり,ローンを払うために出稼ぎに行くという矛盾が発生しています。

代掻きにより水田が滑らかにしてから田植えの準備のため型車が登場します。現在は機械化されているためこの型車の出番はほとんどありません。昔の日本では稲の間隔を適正にあけ,かつ草取りが容易になるように代かきの終わった水田の上を田植型枠機という道具を回し押して,泥の上にラインを引いていました。この道具で泥の上に線引きし,その交点に苗を植えます。

良平の水田は手植えですから数反でも大変な労働力が必要です。そのため,村の人が応援に来てくれて,泥田はみるみる青田に変わっていきます。腰の痛くなるきつい労働ですが,終わったときの爽快感,達成感は格別です。

収穫の秋

第7巻が抜けているので季節は夏を飛ばして秋になります。正勝は登校中の太平に天下森のアケビが食べごろだと誘います。アケビはアケビ科の蔓性落葉低木であり,秋に10cmほどの楕円形の果実が熟します。果皮は淡紫色に色づき,裂開して内部の果肉が見えるようになります。果肉には黒い種がたくさん含まれていますので種ごと味わって飲み込むことになります。他の動物も同じように食べますので,フンから発芽して生息域を広げていきます。

太平とみずなは恐竜の卵を発見したと家に飛び戻ってきます。藪の中で青白く光る50cmもある物体だということです。大人たちと一緒に現場に行くと,それはオニフスベというホコリタケの仲間でした。この地域では「テングノヘダマ」という奇妙な名前で呼ばれています。

良平の水田で収穫されたコメが出荷されます。出荷先は農協であり,ここで品質検査を受けて等級が確定します。品種と等級により政府買い入れ価格が決定されます。良平のキヨニシキは1俵(60kg)あたり19,011円です。これが昭和59年の生産者米価です。出荷量は30俵(1800kg)でしたので,粗収入は約57万円です。

収穫されたコメのうち一部は自家用の飯米として手元に残しますので全収穫量は2200kgほどでしょう。反収500kgで計算すると杉村家の水田の広さは4反(約40a)強ということになります。

粗収入はコメの売上金額であり,そこから営農費用(苗,水利,肥料,農薬,機械など)を差し引くと実収入はいくらにもなりません。平地の少ない山村でコメだけで生計を立てるのはまったく困難です。

コメを出荷して良平が買ってきたものは薪ストーブでした。それまで杉村家では囲炉裏で暖をとっていましたが,それは火災の危険性,煙たい,室内が煤けるなどの問題があります。一冬,子どもたちに囲炉裏の経験をさせたので良平はより安全な薪ストーブにしました。おそらく薪ストーブの方が囲炉裏より薪の消費量は多くなるので,秋までに大量の薪を用意しておかなければなりません。

薪は丸太の状態では燃えづらいので2つあるいは4つに割る必要があります。この薪割の風景は私などには懐かしいものです。私も太平の年齢の時には家の裏で薪を割り,それを物置に積む仕事をさせられていました。これは餅つきよりずっと重労働です。

我が家が石炭ストーブになったのは中学生になった頃でした。石炭を運ぶトラックは家の裏には入れませんでしたので,家の表に置かれた石炭の山を家の裏にある小屋まで運ぶのはこれまた重労働でした。しかし,その作業なしでは寒さの厳しい北海道では暮らせません。

日暮村の冬

11月の中ごろから雪が降ります。しばらくの間は量も少なく2-3日で消えてしまいます。しかし,そのうち溶けることなくどんどん積み上がるようになります。これを「根雪」といいます。再び地面が見えるようになるのは4月に入ってからのことです。

雪が降るときに音がするかどうかで太平と正勝が取っ組み合いのけんかになります。作品中では「雪の音」は可聴域以下の低周波数であり,めったに聞こえないということになっています。私も雪の降る地域で育ちましたがこの音は聞いたことがありません。おそらく心因的な音なのでしょう。

お正月支度は学校の冬休みに合わせ12月26日から始まります。26日は大掃除であり,囲炉裏の煤を払うのに活躍するのが梵天と呼ばれる長柄の藁ぼうきです。さすがに私は囲炉裏生活の経験はありませんので,この梵天は見たことがありません。

煤掃きが終わったら門松用の松を取りに裏山に登ります。昔は正月用の自家製納豆を作ったり,大豆を挽いて黄な粉を作る作業もありました。納豆は茹でた大豆を熱湯で消毒した藁でくるんで,暖かいところに置いておくとできます。黄な粉は石臼で挽きます。

29日は買い出し,30日は餅つきと目の回る忙しさが続きます。元旦には朝一番に谷川から若水を汲んできて,1年の健康を祈願して神棚に奉納し,みんなも一口ずついただきます。朝食(お雑煮)をいただく前に初詣にでかけます。

お年玉のことをここでは「ヤセンマ」と言います。痩せた馬ですから大して役に立たないという意味が込められているようです。町では朝に届く年賀状の配達も,この地域では昼ごろになるようです。

子どもたちの遊び道具にコマがあります。これは半分手作りのものであり,芯は鉄の棒でできており,胴には鉄の輪がはまっています。このコマを相手のコマにぶつけて順位を競う「天下様ごっこ」は子ども時代を懐かしむ大人たちの真剣勝負となります。

冬季は川の水量が少なくなり,かつ魚たちの動きも緩慢になりますので「ガッチン」漁が可能になります。これは水面に出ている大きな岩をハンマーで打ち付けるものです。音の震動は水中では伝わりやすいので周辺の魚は気絶してしまい,簡単に捕えることができます。だたし,冬季の漁は漁業組合法で禁止されているようです。

出稼ぎに行っていた恵子の父親が脳溢血で死亡しました。彼は亡くなるときに「おらが村さには紅い雪が降る」と言い残しています。冬季の出稼ぎは農村に現金収入をもたらしますが,多くの社会問題も生み出しています。

出稼ぎに頼らない農村は良平の大きなテーマとなっています。太平は夕焼けに照らされた雪が赤くなるとこを良平に伝えますが,ヨーロッパではときどき赤い雪が降ることがあります。これはサハラ砂漠から巻き上げられた酸化鉄の赤い微粒子が雪に混じることにより発生します。

「エキノコックス症」とは寄生虫エキノコックスによって引き起こされる感染症です。最終宿主であるキタキツネやイヌ等のフンと一緒に排泄されたエキノコックスの卵胞に汚染された水や食料を摂取することにより感染します。卵胞はヒトの体内で幼虫となり,おもに肝臓で発育・増殖し,深刻な肝機能障害を引き起こします。

初期段階では無症状であり,症状が出てくるまでには成人では10年ほどかかります。臨床症状が出現した時点では手術による切除は困難となっていることが多いとされています。日本では原因となる条虫が北海道に生息しており,調査地域のキタキツネの60%が感染していたという報告もあります。

蕗(フキ)は日本原産であり,日本全国に分布しています。フキは地下茎で増えていきますので,地上に出ている部分は葉柄と葉ということになります。この地下茎は有毒です。春先に出てくるフキノトウは雌雄異株の花茎です。成長すると花を付けタンポポのような綿毛をつけた種子を飛ばします。このフキノトウの若芽はテンプラやおひたしなどにして食用となります。


新・おらが村

「ふるさと」の続編に相当します。日暮村に暮らす杉村良平は村おこしのため,かって村で生産されていた日暮れカブの復活を目指します。雪の下からたった2株が掘り出され,翌年に花を咲かせ種子を採取します。これで幻のカブの復活は軌道に乗り,良平はさらに漬物にして東京で販売することを計画します。

農家に嫁ぐことをあれほど嫌っていたかつみは出稼ぎしなくても暮らしていける村にしたいという良平の熱意に惹かれていきます。当面の設備資金に苦労している良平にかつみは通帳を差し出し,使って下さいと言います。

良平とかつみは子どもたちに祝福されて結婚します。その後,杉村家は火事で全焼し,それを契機に良平は工業高校の頃から暖めていた,豪雪地帯に対応した家造りを始めます。

おらが村

「ふるさと」と作品世界を共有しており,8年前の設定となっています。高山家の長男政信は28歳,かつみは15歳で登場しています。政太郎は村会議員をしており,高山家を始めとする山村の生活やいくつかの家の問題がドキュメンタリーのように描かれています。

後半部は政信と婚約者のいる律子との悲恋が描かれており,政信は駆け落ちのように周囲の人たちを悲しませ,故郷を捨てるようなことはできないときっぱりとあきらめます。

そのように誠実な政信を慕って東京の出稼ぎ先の社長の娘であるゆかりが高山家にやってきます。母親の信江は都会立ちの女性に農家の嫁は務まらないと反対しますが,ひょんなことからゆかりを認めるようになり,二人は結ばれることになります。

かつみ

「おらが村」とほぼ同じ設定ですが,高山家が森田家になっています。オド,アバ,高校生のかつみは同じ造形であり,オドが正月休みに出稼ぎ先から北川という若者を連れて帰ってきたところから物語は始まります。

北川は山村の村で農業をやりたいと言っており,かつみとアバが喜ぶお土産を持参してきました。また,当座の下宿代として30万円を差し出します。村の少年マジックも登場し,この3人を共同主役にして物語は進行していきます。北川と鷹殿のあい子との恋愛を発端として,なぞに包まれた北川の前歴が明らかになっていきます。

ニッポン博物誌

奥羽山脈に寄り添って暮らす人々の様ような姿を描いている秀作であり,今は人々から忘れ去られようとする風物詩がていねいに描かれています。前半は動物が主役になっており,後半はマタギと呼ばれる専門猟師の話が複数掲載されています。

マタギ列伝

奥羽山脈の山襞深くに分け入って鳥獣を狩る専門猟師がマタギです。大自然の掟に従い,単発の村田銃と槍で動物と相対するマタギの世界を奥羽山脈の自然とともに描いています。