私的漫画世界
男性の感性をもった塀内さんの出世作です
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塀内夏子

塀内夏子は神奈川県出身,高校時代から本格的に「少女漫画」を描いており,1979年に「ボロクズ」が別冊マーガレットに掲載され漫画家としてデビューしています。本人は「 まんがは描きたいから描いてたし,大学にもいきたいから勉強して両立してました」と語っています。

その後,武蔵野美術大学に進学するものの中退します。彼女は18歳のときからアパートを借りて自立した生活を送っており,大学中退後はしばらくアニメ制作会社でアニメの背景を描いています。彼女としてはアニメの演出に参加したかったのですが,それが難しいことが分かり,漫画の世界に戻ることにしました。

1982年に「背負子と足音」が少年マガジン新人漫画賞に入選し,再デビューを果たします。この少女漫画から少年漫画への転向の理由は明らかにされていません。

塀内夏子が再デビューをした頃の少年誌は「うる星やつら」「タッチ」「月とスッポン」「すくらっぷブック」などラブコメが大きな比重を占めていました。少年マガジンでは「光の小次郎」「あした天気になあれ」「釣りキチ三平」「あいつとララバイ」などいくつかのジャンルの作品がバランスよく配置されていました。

本人談では塀内が少年マガジンに投稿しようとしたとき,自分の作品ジャンルが見出せませんでした。ラブコメは描けないし,バイクもダメ,ケンカもダメということで消去法でスポーツ系を選択することになったそうです。まあ,登山も自然相手のスポーツのようなものです。

もっとも作者は大のスポーツ好きであり,高校時代はワンダーフォーゲル部に所属し,2008年には日本百名山の完登を果たしています。編集担当者が山の漫画を描きなさいと助言してくれたのは消去法ではなく,これが作者の一つの持ち味であると考えたからでしょう。

少年マガジンに連載された「おれたちの頂」は「塀内夏子」となっていましたが,単行本では「塀内真人」に変わっています。ネット上の事情通の情報では「少年誌では女性漫画家は敬遠されやすい」という配慮によるものとされています。ちなみに「真人」は実の弟の名前だそうです。

しかし,1990年6月号「ぱふ掲載のインタビュー記事」で次のように当時の心境を語っています。

最近やっと落ち着いて読めるようになった。

当時はただただ苦しかった。窒息しそうだった。スケジュールがではなく,精神的に辛かった。 自信が全然なかったから。

その頃はラブコメの全盛期で,「軽薄短小」という言葉が流行った時代に,何故私はこんな暗い, ダサいものを描かなければならないんだろう,と思っていた。

私だって,ケンカしたり,バイクに乗ったり,エッチもしたりする,普通の少年まんがでデビューしたかった。 登山ものなんて好きじゃなかった。実際,普通のコンテをいくつも持ち込んだけど,全部ボツ。

山の話をやりなさいよと言われて,そうするしか道が開けなかった。掲載号が決まるともうやるしかないので, 不安なまま見切り発車した。

始まっても案の定人気はパッとしない,日本中に恥をさらしているような気がして,本屋にも絶対行かなかった。 当時のマガジンは一冊も残っていない。

辛い中で光といえば,邦彦と恭介に「絶対エベレストに登らせてやるからね,そうすれば盛り上がるからね」と 言い聞かせていたこと。そんなこんなで12回の連載を終え,ある程度の評価を貰った。

今,客観的に「新人の作品」としてこれを見ると絵は荒いし,ヘタだし,考証もいいかげんだけど, まあ,ひたむきな表情や感情は伝わるんじゃないかなと思う。新人としては大事なことだったんだよね,そういうのは。


なかなか,大変だったんですね。個人的には作者の自己評価と同じ評価ですが,新人の作品は完成度より作者の思い入れが伝わってくればそれでいいと考えます。私などはこの作品で塀内夏子を知り,作品を集める気にさせられた記念すべき作品です。おそらく,この作品がなかったら「フィフティーン・ラブ」を買うこともなかったでしょう。

その後,少年マガジンを舞台に「フィフティーン・ラブ」,「オフサイド」を発表し,同誌の看板作家となっています。「オフサイド」の連載中に元号が平成に変わったのを機にペンネームの使用を止め本名に戻しました。個人的には少年マガジン誌上の「おれたちの頂」で「塀内夏子」の名前を記憶してしまいましたので,やはりこちらの方が違和感はありません。

塀内は「おれたちの頂」から22年後に「イカロスの山」を執筆しています。こちらはヒマラヤ(カラコルム)に8000mの未踏峰が残されていたいう設定になっており,8年前の学生時代にザイルをつないでいた平岡と三上の二人が挑戦することになります。

さすがに登ることだけをテーマにするのではなく,三上と結婚して子どものいる靖子と平岡の秘められた愛が8000m峰の登山の中で確認されていくという人間の物語が付加されています。22年間の漫画家生活における作者の成長を見ることができた思いがして,私の書棚に新しい愛読書が増えました。

1970/80年代のテニススタイルの変遷

1970年代から1980年代は世界のテニスが大きく変化した時期です。それ以前の古典ニスはベースラインで打ち合うだけのものであり,フォアハンドはフラット(無回転)バックハンドはスライス(後方回転)もしくはフラット打法でした。

この古典テニス界を大きく変える二人の天才が現れました。米国の「コナーズ」は女子の「エバート(米国)」とともに両手打ちのフラット・バックハンドにより強い打球を打つことができ,テニスのスタイルを一変させました。この二人は4大大会で多くの優勝を飾っています。

スウェーデンの「ボルグ」はボールに前方回転を与えるトップスピン打法の開拓者でした。現在のテニスプレーヤーはすべて軟式テニスのようにラケット面でボールを擦りながら振り切る打法となっていますが,それまでは硬式テニスでは手首を痛めるのでラケットは振り切ってはいけないとされてきました。それに対してボルグはフォアもバックもトップスピン打法で世界の頂点に立ちました。

この二人に触発されてバックの両手打ちとフォアのトップスピン打法は1980年代の流行になりましたが,そこにに現れたのがチェコの「レンドル」です。彼は190cmを越える身長と強い身体能力により強力なフォアのトップスピンと片手バックハンドのフラット打球を駆使し,現代のパワーテニスのスタイルを先取りするものでした。

レンドルのパワーはそれまでの技術を凌駕し,それにより新しい技術が必要とされる時代となりました。彼によるパワーテニスの流れはベッカー,エドバーグそして1990年代のサンプラスと受け継がれます。

もっともサンプラスはオールラウンドプレーヤーであり,ベースラインから離れることのなかったレンドルに対して,サーブ・アンド・ボレーでも最高の技術をもつことで世界の頂点に君臨します。そのサンプラスをもってしても全仏オープンのクレーコートでは優勝することはできませんでした。コートの差による影響はそれほど大きなものなのです。

陸上からテニスに転向する

物語は主人公の「ヒロ」が中学3年生のときから始まります。陸上部に籍を置き100mの中学タイ記録をもっているヒロは全日本2位にランキングされている同じ中学3年生の九童に出会います。

全日本2位のランキングとは現在でいうJTAポイントランキングが2位ということです。もっともこの作品の時代はJOPポイントとなっています。ジュニアの試合ではポイントが出ませんので日本テニス協会の公認大会に出て,それなりの成績を収めなければなりません。

ポイントランキング20位くらいであれば全日本選手権でも本戦ストレートイン(予選なしで本戦に出場できる)となりますので,2位はとてもすごいことです。とても同年代の中学生を相手に試合をするレベルではありませので,中学生の大会に顔を出すことは迷惑です。

それほどの実力をもった九童が練習のためヒロの学校にやってくるというありえない設定から物語は始まります。「これじゃ試合になんねいよ,もっとマシなやつはいないのか?」と吠える九童にかちんときたヒロはコートに入ります。

それまでテニスをしたことのないヒロですが強烈なフォアハンドの打球に九童は驚かされます。九童に「続きがやりたければコートに来い」と言われたヒロは,陸上部を退部してテニスにどんどんのめり込んで行きます。

テニス歴2週間でヒロは中体連神奈川大会に出場します。試合を重ねるごとに強打と俊足だけのテニスから成長し,決勝で九童と対戦します。これが好勝負となります。もちろん,ヒロは負けますが九童との試合を通してcontirol,combination,concentlation を学びます。ヒロはこの試合を見ていた名コーチ・モーリスによりスカウトされます。ヒロは誰よりも強くなれるならと米国行きを決めます。

オレンジ・ボウル18歳以下で優勝する

米国に渡ったヒロはカリフォルニア・テニスアカデミーに入ります。ここでヒロはモーリス・コーチにより徹底的にフォアハンドを鍛えられ,9カ月でジュニアの最高峰の試合とされる「オレンジ・ボウル」に出場することになります。 うろ覚えですがオレンジボウルは18歳以下,16歳以下,14歳以下と区分されており,ヒロは18歳以下に出場します。この大会にはデビー,ロビン,ウルフなど将来のテニス界を背負う逸材が出ています。結果的にはヒロが衝撃の優勝を飾ります。

このオレンジボウルの試合期間中にはいくつかの名場面が出てきますので引用します。

● ヒロミに負けた後のデビーの覚悟
弱い者が人より上にいくには自分の流す血でおぎなうしかない
流す血と傷だけが オレを強くしてくれる
ヒロミ お前には感謝しておくぜ
今度あう時が楽しみだ・・・…


● ロリを励ますヒロ
期待にこたえられないつらさなんか ロビンにはわかりっこない!
甘ったれんなよ!
わからないのは あたりまえだ
テニスは孤独なスポーツなんだから
期待にこたえられないのがつらい?
ほんとうにつらいのは 試合に負けたときじゃないのか?
キミにはわかってないんだ
勝ってことがどんなにたいへんか
負けがどんなにみじめか!
傷だらけで挑んでくるやつだっているんだぞ
ママやマスコミがなんだ
向かってくる敵以外に こわいものなんかないじゃないか


● ヒロとウウルフの会話
オレがケガすりゃ あんた有利じゃないか
そんなこと思ってないよ
ウソだ!!
みんな…みんな 敵なんだ
ヒロミ 君はさみしいの
はは…さみしい?…おれが!?
オレは強いんだ
さっきだってストレート勝ちだ!
ほんとう強いものは 強がったりしないよ
じゃあ どうすればいいんだ
オ…オレはさわがままだから 自分が一番なんだ
他人がどうなったっても 勝ちたいよ
だって 勝負だもん……
そうやって けおとしあうのにさ さわやかな顔なんかできないよ
いったん 勝負をしちゃったら 友だちでなんかでいられない
なあ…そうだろう!? オレ まちがってる!?
まちがっちゃいないよ・・・ だけど…
テニスはひとりじゃない 敵とふたりだ
戦っているとき 一番近くにいるのは 誰だと思う?
敵さ…
互いに全身全霊をかけて打ちあう時は 誰よりもこころが近い
たとえ 生き方や考え方がちがっていてもね……
そういう試合ができるってことは とても幸せなことだと思う

1984年全米オープン

全米オープンのを前にヒロはデビーからロビンの異常を聞かされます。ロビンはヒロとの戦いに敗れてこころと体のバランスを崩したようです。デビーは「やつこそは本当の天才(ナチュラル),なまじ凡人のような練習をしたため自分のテニスの土台を狂わせてしまったのさ」と説明します。コーチの話ではチェコのテニス協会はこの事実をひた隠しにして,半ば監禁状態でトレーニングをさせているというのです。

8月の全米オープンはニューヨークのフラッシング・メドウが会場となります。ジュニア以外の実績のないヒロはワイルドカードでようやく予選にエントリーできました。1回戦の始まる直前にエントリー表でロビンの名を見つけたヒロは激しく動揺します。ロビンは米国に亡命していました。

1回戦の後でヒロ,ロリ,ロビンが顔を合わせます。ここでもロビンの名言が出てきます。

チェコにいればぼくはいつまでたっても天才少年さ!
おまえは天才だ・・・できるはずだ・・・チェコの誇りだ
コーチたちはぼくをおいつめる!
翼がないのに飛べという!!
家に帰れば数えきれないほどのトロフィー
でも それがなんだっていうんだ!
みんな過去のことじゃないか
思いたくないよ それがぼくの人生の頂点だなんて
あるはずだよ もっとすごい 興奮する瞬間が!!
翼をなくした鳥はね 萎えた足で歩くんだ
よろけながら たよりなく みっともなく…
でも 歩かなければ 前へは進めない


ヒロは予選の2回戦でかろうじて中国の竜飛を破り,3回戦でロビンと対決します。ヒロは全力で闘い,強打を連発します。その中でロビンは手ごたえを感じる一打を打ち返します。ロビンの過去と現在がつながり,天才的なタッチが戻ってきました。この試合には敗れますが天才ロビンの復活の兆しに関係者は沸き立ちます。

ヒロは本戦の3回戦でデビーを破りベスト16入りを果たします。この試合の決着がついたときデビーは「負けたな…さすがだぜ…」と握手を求めてきました。ヒロは驚きながらもこれに応じます。試合を通して二人は分かり合えたようです。

二つの事件

ヒロはATPランキングポイントでは41位まで上昇し,ロビンも68位に顔を出しています。全米オープンで王者フィッツ・ロイにまったく歯が立たなかったヒロはボレーを強化するためウルフと組んでダブルスを始めます。ヒロはウルフに両手打ちの強烈なバックハンドを披露します。これでヒロの技の範囲が広がります。

ウルフとのダブルスはヒロにとっては得難い経験でしたが,ウルフはテニスエルボーでプレー困難となり,治療のために帰ります。ヒロは自分のためにウルフが無理をしたんじゃないかと思い悩み,全仏は1回戦で敗退します。

ヒロはウインブルドンに備えて自分なりのアプローチ・ショットのヒントをつかみますが,その直後にヒロの目の前でエイミが交通事故で亡くなります。ヒロは落ち込みのため,デビーは大きな喪失感のためウインブルドンの前哨戦となるグラスコート選手権を欠場します。

「フィフティーン・ラブ」は挫折しても再起していく明るいスタンスのテニス物語ですから,この事件だけはいただけません。死んだものはもう帰ってこれないのです。デビーとヒロの精神的な成長,テニスに対する姿勢の変化は別の話でもフォローできたはずです。

1985年ウインブルドン(全英)選手権

ヒロはウインブルドンも辞退しようとモーリス・コーチに申し出ます。そのとき,ウルフがヒロを訪ねてきます。彼は2週間前にヒジの手術をしたこと,2年ほどのリハビリでコートに戻る決意をヒロに語ります。ウルフはヒロがテニスに対する情熱を失ったことを指摘します。彼はゲームの大切さと勝利のコールを受ける喜びをについて語ります。

ウインブルドン本戦には128名が出場します。作品中には全選手の名前の入ったトーナメント表が掲載されています。よくまあ,こんなに名前を集めて来たものだねと感心します。その中にはデビー,ロビン,竜飛,バグジーの名前もあります。第1シードのロイのエントリー番号は「1」,第2シードのビリーのエントリー番号は「128」となっています。

ヒロはまだ構想中のアプローチショットを完成させていませんので,1回戦でぶっつけ本番で芝のプレーとアプローチショットに取り組みます。一足先に試合を終えたビリーはヒロのアプローチ・ショットとネットプレイのコンビネーションによるまったく新しいレシーブ&ネットに驚きます。デビーはビリーから,ロビンはビデオでヒロの新しいスタイルを知ります。

3回戦でヒロのレシーブ&ネットはほぼ完成します。この新しい技は作品中では「ヒロミスペシャル」と呼ばれていますが,さすがにこの呼称は恥ずかしくて使用できません。

4回戦ではネットプレーの怖さを知り,足が動かなくなったヒロはウルフの言葉から勇気をもらい,再びネットプレーにより勝利します。これでベスト8に進出です。

ロビンもベスト8入りを決めます。試合後にヒロと家族のことに話が及ぶとさみしそうに語ります。

うらやましいな ぼくは一人っ子だったから
チェコでは 亡命者の名前は いっさい報道されないようになっているんだ
たぶん 明日の新聞でも 全英ベスト8の名前は7つしかないだろう
だけど,ぼくの両親はきっと気づいてくれる
8人目がぼくだってことを
だから……つらいことなどない 後悔もしていない
準々決勝 おたがいがんばろうな!


ロビンの両親はロリ宛の手紙を出し,ロビンの活躍に気付いていると,国境近くでは西ドイツのテレビが入るので,そこでロビンの試合を見ることができることを書き記します。ロリからこの手紙を受け取ったロビンは最高の試合をみせてあげると準々決勝の対戦相手のデビーに宣言します。

白熱した試合はデビーが勝利しますが,ロビンは良い試合ができたことに晴れ晴れとして表情で握手を求めます。

ビリーとヒロの準決勝は接戦となります。ヒロはジャンプサービスに磨きをかけ,ビリーは鋭角リターンと強烈なバックスピン・スライスで対抗します。ロイは「ビリーほどテニスのうまいやつはいない…ただし,致命的な欠点がある」と評価します。

第5セットになるとなるとビリーはバックスピン・ドロップを自ら封印します。彼にとってはサービス&ボレーが身上であり,アメリカの荒鷲の異名にかけてヒロをたたきつぶそうとします。勝負は第22ゲームにまでもつれ込み,ヒロが勝利します。試合後にビリーは敗因にプレッシャーに弱い自分の欠点をあげています。

ロイとデビーの準決勝はワンサイドながら時間がかかります。デビー自身は自分がなんのために戦うのか分からないまま体が動いている状態だったのですが,ヒロの声に自分の戦いの原点を思い出します。

ヒロと戦い今度は彼から(握手のため)手を出させなければならないという思いにデビーのテニスが甦ります。デビーは第3セットをうばいますが,第4セットではロイの不思議な予測能力に敗れます。エイミの事故死によるわだかまりは消え,試合後にデビーとヒロは和解します。

一方,女子シングルではロリが女王ライサ・ハーゲンと決勝戦を戦います。1984年・85年当時の女王といえばナブラチロワかクリス・エバートあたりがモデルでしょう。西ドイツ出身の女王といえばシュティフィ・グラフですが,彼女はこのとき16歳になったばかりであり,ウインブルドンを制したのは1988年のことです。

15歳のロリはプレッシャーとも戦いながら善戦します。観戦しているヒロは「いつも泣きべそをかいてばかりいた女の子は…もういないんだ…」とつぶやきます。

ロリは準優勝に終わります。試合後の選手控室に向かう通路でヒロに「よくやったよ」と声をかけられたロリはヒロにしがみついて泣き出します。二人の間のわだかまりも解消したようです。翌日はウインブルドンの最終日,男子決勝です。

決勝戦でヒロはロイの予測能力により打球のコースを読まれほんろうされ,2セットをあっさり連取されあとがありません。第3セットに入り,ヒロは「走り,打つ」という自分のテニスの原点を思いだし粘りをみせ,タイブレークを制します。

第4セットになるとロイは裸足でプレーします。ドレスコードの厳しいウインブルドンですから本来これは認められないでしょう。裸足になったロイは野生のテニスに変わりボレー合戦を制します。ゲームカウント0-5となり勝負はほとんど決したかに見えます。

しかし,ヒロの闘志は衰えず,落としたラケットを拾って打った打球にドライブがかかり,ロイはその打球を打ち損じます。ここことに気が付いたヒロはドライブを併用して劣勢を挽回します。

奇跡の大逆転で勝負は最終セットにもつれこみます。その中でヒロは打球のコース予測を磨き,持ち前の健脚を最大限に生かす技を身に付けます。最終セットを6-3でとったヒロは最年少「16歳6ヶ月」での優勝となります。

「フィフティーン・ラブ」は荒唐無稽の打法は登場せず全体としてよくできたリアルなテニス漫画です。あえて難点を指摘するとすればヒロの16歳のウインブルドン優勝は早すぎることです。これは米国のアカデミーに入って9カ月でジュニア・ナンバーワンになるという設定は始まっています。これを2年後くらいにしておくともう少し現実的な物語になったことでしょう。ヒロの成長が早過ぎます。

ウインブルドンの最年少優勝は1985年のボリス・ベッカー(西ドイツ)の「17歳7ヶ月」です。作者の頭にはこの数字が入っていたことでしょう。しかし,ベッカーは190cm,85kgの偉丈夫であり,相当のテニスキャリアがあったとはずです。パワーと技術そして精神力が必要なウインブルドンで勝利しても違和感はありませんが,175cm,58kg,キャリア2年のヒロでは現実味が薄れます。

それでも物語全編を通してピンと張られた緊張感の糸がたるむことはありません。登場人物のこころの描写も優れており,この時代を代表するテニス漫画ということができます。


おれたちの頂

佐野邦彦と南波恭介の登山物語です。全2巻の中で彼らはこんな山に登っています。私は山の写真を眺めるのが好きですので,ストーリーと背景の両方を楽しんでいました。
@南アルプス北岳
A谷川岳一ノ倉沢衝立岩
B北アルプス奥穂高(冬季)
CK2(喬戈里峰),荷上げのみ
D谷川岳一ノ倉沢・烏帽子岩大氷柱
Eエベレスト南西壁(プレモンスーン)
Fローツェ南壁→頂上で恭介死去
Gエベレスト南西壁(厳冬期)