私的漫画世界
時代,土地柄,強烈な個性がこの作品を作り出しました
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はるき悦巳

「はるき悦巳(1947年生)」は団塊の世代に属する漫画家なのですがその人物像はネット上の情報を探してもなかなか見つかりません。本人は非社交的な性格であり,「じゃりん子チエ」がヒットしたことにより作者への取材依頼があってもその多くを断っているそうです。

「はるき悦巳」は大阪出身であり,多摩美術大学では油絵科を専攻し,卒業後は大阪には戻らず東京で暮らしています。定職にはつかず,アルバイトで食いつないでおり,1ヶ月働いては1ヶ月はブラブラして過ごすというような生活をしていたようです。

大学時代の同級生との結婚話が持ち上がってようやく定職につき,サラリーマン生活を送りますが,それは結婚相手の両親を説得するためのものだったという逸話も残されています。この体裁をつくろうためだけのサラリーマン生活は結婚の直前に終止符を打ちます。

サラリーマン生活は性格的に合わないことは本人も十分に承知していました。絵を描くことは好きなのですが,働くために絵を描くことをやめたり,絵を描くためだけに働くのは嫌だったそうです。この難しい性格と「食べるため」の仕事の折り合いをつけることのできる職業が漫画家だったということです。

ということで,結婚の直前に漫画家になることを決意します。「はるき悦巳」は1978年,31歳の時に結婚していますから,漫画家としてはずいぶん遅いスタートとなります。結婚した当初は「嫁さん」も働いていましたので,なんとか生活は成り立っていました。

その年の9月に漫画アクション誌上に読み切りで「じゃりン子チエ」を発表しています。この作品の読者反応が良かったことから,第12話まで読み切りの形で出されています。翌年の3月からは正式に連載が開始されます。

連載が始まってもしばらくの間はアシスタントをもたず,「嫁はんに手伝うてもらうけどほんまは全部一人でやりたいんよ」と語っています。嫁さんも多摩美術大学の卒業生ですのでおそらく絵心はあり,立派なアシスタントであったと想像します。

その後,1980年に嫁さんに子どもができて手伝いができないようになったのでアシスタントを採用したそうです。wikipedia にはアシスタントとしていわしげ孝,さかもと瓢作,山本貴嗣の名前が掲載されています。

「じゃりン子チエ」の連載は足かけ20年に及んでおり,1980年に第26回小学館漫画賞(成人コミック部門)を受賞しています。その後,東京の喧騒に嫌気がさし,1983年に家族とともに兵庫県西宮市へ転居しています。

「じゃりン子チエ」は1997年に終了しており,このときはるきは50歳になっています。連載終了の理由が年老いた母親の介護問題が深刻化したためとなっており,家族思いの一面をうかがうことができます。

「はるき悦巳」の性格を表すような本人談は少ないのですが,「関西じゃりン子チエ研究会:はるき悦巳の秘密」 にいろいろな本人談が掲載されています。さすが関西人といおうか変人といおうか,体裁をまったく取り繕うことのない発言が並んでいます。

その中からピックアップして箇条書きにすると次のようになります。
(1)僕はなんやいうたら食えりゃいいんやいうことがある
(2)家でごろごろしてるのが好きやから
(3)近所を自転車で走ってレコード買うか本買うか以外は必要ないんよね
(4)こんな家庭に生まれる子はしっかりしていないとどうしようもないやろ

この性格の一部は「竹本テツ」に転写されています。というよりはテツは作者にとっては一つの理想像となっているように感じます。もっとも,本人談では「小林マサル」がはるき自身であり,その相棒のタカシは元アシスタントのいわしげ孝がモデルであるとのことです。

じゃりン子チエの世界

「じゃりン子チエ」は大阪の西荻町を舞台にしています。現在ではこの地名は残されていませんがかっては「大阪市西成区西萩町」という地名があったと「関西じゃりン子チエ研究会」のサイトでは報告されています。

このサイトでは複数の人が「じゃりン子チエ」に関する研究論文を発表しており,その中に「西荻探検記2003」には町の様子が詳細に報告されていますので引用させていただきます。

南海電鉄・萩之茶屋駅の周辺,辿り着いた西萩の街は古き良き佇まいを残していた。この街が最も賑わっていた昭和30/40年代に立てられたものなのだろうか古い建物が多い。すでに長期間休業してしまっていると思われる店も多かった。

そして,その店先の地面には,腰を下ろして酒を飲んでいる人,マンガ雑誌や文庫本を読んでいる人,そして,何もせずにただ寝そべっている人が居た。おそらく,この人たちは今日,仕事にあぶれたのだろう。「じゃりン子チエ」でも,チエちゃんが取り仕切るホルモン焼屋の常連客が「今日は仕事にあぶれた」と言う場面が出てくる。

−中略−

歩いている途中で,道端にテーブルを置き,大声を出しながら騒いでいる4人組を見かけた。何をしているのだろうと思い,立ち止まって様子を窺っていると,それはバクチだった。私は,ギャンブルに関しては全くと言っていいほど知識が無いので,なんのバクチかはわからなかったが,トランプのようなカードを使用していたので,「カブ」ではなかったのかと思う。バクチをやっている4人組の表情は生き生きとしていた。

それにしても不思議な街だ。商店街の中では,労働者風の男性,普通の主婦,子供,自転車に二人乗りしているカップル,お婆さん,そして,一昔前のヤクザ風の男など,全く統一感のない,様々な人々が行き交っていた。

−中略−

ホルモン焼屋は道の両脇に,まるで,観光地のおみやげ屋のように建ち並んでいた。「ホルモン一串50円」,「ホルモン一皿120円」・・・…一体,どちらの店で食べたほうが得なのだろうと考えたが,どちらにせよ本当に安いことには変わりなかった。

屋台では中年の男性がタバコをくわえながら,鉄板でホルモンを焼いていた。「ジュ−ジュ−ジュ−」,「ジュ−ジュ−ジュ−」・・・・・・作品中でも見受けられる,あのホルモンを焼く時の音が食欲をそそる匂いと共に辺りにこだましていた。安いのはホルモンだけではなかった。「讃岐うどん100円」,「手作り弁当 250円」etc・・・・・・千円札を一枚持っていれば,この街ではたらふく食べられる。


作品中の背景などから判断すると町内には木造二階建ての家が並んでいます。多くの家は1階で商売をして,2階が居住空間となっています。チエの家は平屋屋ですの1階の表半分がホルモン焼屋,後ろ側が居住空間となっています。このような板壁の家屋は1970年(昭和45年)以前に建てられたものと推定できます。

この作品が始まったのは1978年(昭和54年)ですから,高度成長から石油ショックを経て安定成長時代に入った頃です。いかに下町とはいえ古い街並みというような気がします。

主人公のチエちゃんにしてもいつも下駄ばきであり,おバァはんはいつも和服姿ですので,雰囲気は昭和30年代といったところです。そう考えると,この作品は作者の子どもの頃の町内や体験がベースになっているのではと考えられます。実際,作者は西萩町(現在花園北2丁目付近)の出身であり,中学1年のときに大阪市住吉区に転居しています。

主人公の「竹本チエ」は西荻小学校5年生であり,家の稼業であるホルモン焼屋を切り盛りしています。この小学5年生という設定は物語が進んていっても変わりません。他の登場人物も基本的には年をとらない設定となっており,変化があるのは子どもが生まれることぐらいです。

本来の経営者は父親の「竹本テツ」なのですが,いつの頃からか稼業をすっかり放棄し,やくざや博徒を小突きながらバクチとけんかの気ままな生活を送っています。物語の冒頭で店の名も「テッちゃん」から「チエちゃん」に変更されています。

チエは父親と同居しています。母親の「ヨシ江」はテツの出ていけの一言で家を出て(比較的近いところで)別居状態です。ヨシ江は手に職がありますので自分の生活費は自分で稼げる状況です。テツには内緒でチエは母親と会っています。母親は竹本家の玄関先に花を一輪置いて行きます。その合図の翌日が二人の秘密のデートということになります。

チエの祖父母(テツの両親)は近所でやはりホルモン焼屋を開いており,材料の仕入れはこの二人が担当しています。この家は完全なかかあ天下であり,家計は祖母の「竹本菊」が握っており,祖父は影の薄い存在であり,名前も出てきません。

チエの家の生計費は基本的にはチエがホルモン焼屋で稼いでいるようです。材料の仕入れは祖父母が担当していますので,チエは売り上げをすべて祖母に渡し生活費を受け取っているようです。ただし,儲けの一部は自分のへそくりにしています。チエの家は借家ではないようですし,電化製品もほとんどありませんので基本生計費はとても安いと推測されます。

チエや菊がテツにお金を渡すことはありません。それでは,テツの博打の軍資金はどうやって調達しているのでしょう。物語の内容からすると次の4通りになります。
@やくざに因縁をつけて金を巻き上げる
Aテキヤ稼業の人たちにたかる
Cつけで遊び負けると借金を踏み倒す
B適当な理由をつけて気の弱い父親からもらう

非常識のテツ or テツの非常識

物語の主人公はひどい家庭環境の中でけなげに生きるチエちゃんですが,本当の意味で物語をけん引し,その骨格を作っているのは父親のテツです。物語の中でテツはケンカにおいては無敵であり,女子供を除いたほとんどすべての登場人物をどついたり,こずいたりします。

やくざを見つけ出す才能はたいへんなもので,ほぼ100%の的中率です。テツに見つかったやくざはインネンをつけられ,小遣いを提供することになります。かたぎの男性たちもテツのげんこつの被害に遭っており,そのままでは話しの制御ができません。

登場人物の中でテツをパワーで制御できるのは「おバァはん」と「花井拳骨」の二人だけであり,ときには「小鉄」がそれに加わります。また,精神的にテツを制御できるのは「チエちゃん」と「ヨシ江」だけということになります。

面白いのはいつもテツの拳骨の被害にあっているお好み焼き屋のおじさん(百合根)は酒が一升を越えると大トラに変身し,これにはテツも(精神的に)かないません。

したがって,各話でテツが暴走したときは,制御装置になりうる5人と1匹が汗をかくことになります。このあたりのやりとりはこの作品のハイライトというべきものです。なぜならば,作品中で大きな事件を起こすのはテツだけなのです。

もっとも,非常識を絵に描いたようなテツですが決して悪人ではなく,ヨシ江と顔を合わせると言いたいことの半分も言えないシャイな一面もあります。そのあたりのさじ加減がこの作品の魅力につながっています。

言葉を話す猫の世界

チエの家で飼われている「小鉄」とお好み焼屋の「アントニオ・ジュニア」は大変強い猫という設定になっています。どのくらい強いかというと「ジュニア」の父親の「アントニオ」は牛殺しのアントニオと呼ばれ,土佐犬をかみ殺したという逸話が残されています。

あのテツが「アントニオ」にいじめられていたという記述もあります。その「アントニオ」も「小鉄」の敵ではなくあっさり撃退されます。その気になれば「小鉄」は町内一の強者ペットとして威張り散らすこともできますが,本人はまったくその気はないようです。

しばしば二匹は猫語で会話し,それは日本語で表記されています。もちろん,猫と人間が直接会話を交わすことはできませんが,二匹は人間の言葉を理解することができます。二匹の猫の会話から猫が人間の世界をどのように見ているかを理解することができますし,ときにはストリーの解説をしてくれます。

おい小鉄 カルメラなにニコニコしとるんや
知らんのか,今日テツが帰って来るんや
エッ あいつもう退院するのか
まだギブスはめているけどな
もう大した事ないらしいんや
それでか,オレとこのオヤジ ウロウロしとったの
なんでおまえさんとこのオッさんウロウロするねん
なんでてておまえ テツまたオレとこの店 居候するんやろ
オレ 人間の世界に口出しはしたないけど
ただでさえうっとおしい男がミイラみたいな格好で寝てるとこ想像してみい たまらんで
たまらん状態でテツがこの家帰って来るんや
エッ
ミイラ預けて知らん顔してるほどチエちゃんの家族は非常識やないで
助かるわ,テツ オレらの世界の常識すら通用せんとこがあるからな


上記の会話はデク登との相撲対決で押しつぶされ両手,片足,その他を骨折して入院したテツが退院する日の朝のものです。状況説明とテツの非常識さをつぶさに物語っています。この二匹は時には哲学的な会話を,ときには詩的な会話をしており,けっこう物語の重要人物となっています。

サラリーマンが登場しない漫画です

私の手元には単行本が20巻までありますが,サラリーマンはほとんど登場しません。ワイシャツとネクタイ姿の人物は警察官になったテツの幼なじみの「ミツル」とチエのクラス担任の「花井先生」,それに医者くらいのものです。

この作品の男性登場人物には常識人というか普通の人はほとんどいません。確かに大阪風のどつき漫才が延々と続くこの作品では,常識人のサラリーマンは居場所がありません。そもそも作者は性格的にサラリーマンに向いていないと自認していますので,サラリーマンは登場させたくないという心理が働いているのかもしれません。

また,執筆時期は日本経済が高度成長から安定成長に移行する時期であり,「一億総中流」と形容された豊かな社会において,作者はその豊かさを享受出来ない人々が「一億総中流」の人々よりもはるかに人間的な暮らしをしていることを描きたかったのかもしれません。

作者はサラリーマン=豊かさという社会の図式に背を向け,「僕はなんやいうたら食えりゃいいんやいうことがある」というように働くのは生きていくための手段であり,豊かでもなくても生活できればそれでよしという考えをもっています。

「じゃりン子チエ」の世界は作者の一つの理想であり,テツは作者のあこがれを具現化したキャラクターというようにも感じられます。サラリーマンは「一億総中流」のシンボルですので,その豊かさに背を向けている作者には描きようがなかったのでしょう。

不思議な魅力をもっています

「じゃりン子チエ」の魅力は「三丁目の夕日」と共通する部分があります。とちらの作品も狭い町内の小さな事件を取り上げています。「三丁目の夕日」は昭和30年代のノスタルジアを情緒的に描いていおり,「じゃりン子チエ」は同じような時代を大阪人らしい飾りのないあるいはえげつない姿で描いています。

その先導役を担っているのがテツであり,テツの非常識に負けないパワーをもっているテツの家族ということになります。私は大阪には住んだことがりませんので大阪人の気質は良く分かりませんが,大阪人ならあのくらいのことはやりかねないという気にさせられます。

「じゃりン子チエ」がブレークしたきっかけは朝日新聞の「文芸時評」(1980年5月26日付夕刊)で小説家の井上ひさしがこの作品を絶賛したことによるとされています。内容の全文はネットでも探すことはできませんでしたが,単行本の末尾にその一部が掲載されています。

見晴らしよい叙事詩
徹底的な大阪弁と登場人物が常用する独白に笑わされ,大人より子供が大人らしく,猫が人間より人間らしく,猫の目のように移り変わる視点が物語世界に奥行きを与えている。この作品は近来,出色の通俗・大衆・娯楽・滑稽小説のひとつと言い得よう。


さすがに小説家ともなると難しい書評を書くものですね。確かに「じゃりン子チエ」においては大人,子ども,猫の精神的なギャップがとても小さく,対等の関係として描かれることが多いのが特徴です。この対等の関係がこの作品の魅力となっていると考えます。

経済発展により(経済的に)豊かな社会が実現されると社会の分断が起きる傾向が強くなります。大人世代は就職や結婚を機に生家を出て新しい家庭をもち,そのような新世代の家庭は近所付き合いも少なく,社会から孤立した存在となります。大都市では特にその傾向が強く現れます。

子どもたちは学校と家庭を行き来するだけの存在となり,人間関係を構築したり,全人格的な成長につながる経験をする機会が非常に少なくなります。親世代を含め大半の子どもたちにとっての評価基準は勉強の成績ということになり,知識偏重の教育が押し進められます。

家庭や学校における教育の基本目標は社会に参加できる人材を育てることですから,その意味では当時の教育システムは人間を育てられないものとなりつつありました。

主人公の「チエちゃん」は父親のテツが稼業であるホルモン焼屋の経営を放棄しましたので代わりに店を切り盛りしています。母親のヨシ江は別居状態であり,「ウチは日本一不幸な少女や」が口癖となっています。しかし,チエちゃんは自分が言うように不幸なのでしょうか。

常識的には崩壊した家庭の子どもですからとても幸福ということはないでしょうが,乱暴者のテツもチエにつらく当たることはありませんし,祖父母はチエちゃんを暖かく見守っており,母親のヨシ江はしばしば会いに来てくれます。

店の客も(テツのにらみが効いているのか)あまりトラブルも起こすことはありません。学校の成績はあまり良くないようですが父母譲りの運動神経をもっており,マラソンでは圧倒的な強さを発揮しています。

成績が取り柄のいじめっ子のマサルにはいつも悪口を言われますが,ヒラメちゃんとの共同戦線で撃退します。家庭環境はともあれ,チエちゃんは周囲の大人と伍して,明るくたくましく暮らしています。

母親のヨシ江が戻ってきて彼女の働きで生計が立つようになってもチエちゃんはホルモン焼屋を止める気遣いはありません。チエちゃんからホルモン焼を取り上げたらただの元気な子どもになってしまい,この漫画が成立しません。「ウチは日本一不幸な少女や」という独白は大人の感性をもつようになった子どもの照れ隠しの表現ということではないでしょうか。

最初にこの漫画を見たときはネームが多くて絵も汚いという印象を受けました。そのときはすでに井上ひさしの最上級の褒め言葉をもらっている作品ということは知っていましたが,少なくとも私の感性に合致するものではありませんでした。

たまたま何かの機会に10巻くらいまで通読することがあり,ようやくこの作品の魅力が理解できるようになりました。登場人物の話す大阪弁,書き込みの多い絵柄,えげつなくもテンポよく展開されるご町内の事件が一体化して独特の世界を描き出しています。

ただし,個人的には20巻あたりから話がマンネリ化してきたように感じ,収集はそこで終了しました。「じゃりン子チエ」はネームが多く,それをすべて読み込まないと内容が理解できない作品ですので,読書時間は他のものの2倍くらいかかります。その分,読後感は充実しており,いい時間を過ごしたなと感じさせてくれる作品です。

脚本との類似性

井上ひさしがこの作品を絶賛したのは彼自身が劇作家であったためではないかと推測できます。「じゃりン子チエ」は登場人物の会話をつなげていくだけで劇の脚本にもなりそうな場面がたくさんあります。 花井センセは自分が仲人したテツがヨシ江を追い出してしまったことを知り,叱りつけます。ヨシ江本人の希望もあって花井センセの立会いのもとでテツ,チエ,ヨシ江が顔を合わせることになります。

その前の晩,ホルモンを焼くチエは上機嫌で客に一級酒をおごってしまいます。そこへテツがぶつぶつ言いながら出てきて,客が話しかけると,「うるさいわい,わしに話しかけるな」とどやされます。チエが中を覗くとテツは机に向かって何かを書いています。

店が終わってからテツは「でけたぞ〜〜,これでもう思い残すことはないど……くそ〜〜,今日は思いきり寝るど〜〜」と叫んで寝てしまいます。母の帰還がうれしくて寝付けないチエはテツの書き物を読んでしまいます。

それは明日の対面時の台本でした。ヨシ江の前では固くなって思ったことが話せないテツはあらかじめ台本を用意して,その通りにことを進めようとしていたのです。台本は次のような内容でした。

ヨシ江が入ってくる
ワシは ずっと だまっとく
※注意 ぜったい しゃべらんこと
ヨシ江は こまって しゃべりだす
ヨシ江「すいません 長いこと 勝手なことばっかりしまして…」
ワシ「あやまるようなこと なんでしたんじゃい」
※ここはつきはなすようにゆう
ヨシ江「ワタシ 悪かったと思うてます」
ワシ「おとこ手ひとつで 子供を育てるちゅうのは 大変なことやど」
※ヨシ江 インケツをひいたような顔になる
すかさず
ワシ「おまえに そのつらさが分かるか」
※注意 ヨシ江の顔をナナメに見ながらゆうと こおか的
ヨシ江「ワタシ……ワタシ……」
※ヨシ江はアホやから 何をゆうたらええか 分からない
ワシ「ワシはええんや ワシが許しても チエがどないゆうかや」
※よゆう シャクシャク 心の大きなところをみせる


これはヨシ江の性格を考えた上での見事な台本です。作品中にはこのように活字にすると台本になるような会話がちりばめられていますので,先のような評価につながったと考えるわけです。さて,テツの台本はチエにより書き直されてしまい,翌日の対面は次のように進行します。

ヨシ江「す… すいません 長いこと 勝手なことばっかりしまして」
テツはすかさずカンニングペーパーを見ながら
テツ「いや 出て行け ゆうた ワシも悪かった」
居合わせた一同はテツを含めびっくりします。
ヨシ江「ワタシ 悪かったと思うてます」
テツ「い…いや みんなワシが悪かっ…」


ここでようやくテツは台本が書き直されていることに気が付きますが,すかさず花井センセが「テツ〜〜 えらいやないか ワシ 変なことゆうたら一発かましたろ 思てたんじゃー」とテツの言葉をさえぎり,めでたくヨシ江は戻ることができました。