私的漫画世界
戦争と民族,戦争と人間を描いた深遠な物語
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坂口尚(さくぐち・ひさし)

坂口尚は定時制高校に通っている1963年,17歳のときに「虫プロダクション」の試験に受かり入社します。しかし,学業との両立は困難となり自主退学しています。

虫プロでは1年半で坂口班を受け持つことになり,「ジャングル大帝の」の原画制作に携わっています。さらに「鉄腕アトム」の後半部分も担当しています。1969年には虫プロに在籍したまま漫画家としてデビューします。

「3月の風は3ノット(1981年)」,「12色物語(1982年)」を発表し,その詩的な短編集が注目されることになります。この2作品は私の書棚にありましたが,15年ほど前に書棚のオーバーフローを解消するため1000冊ほどを古本屋に出しました。なんということか,この2作品はそのときに紛れ込んでしまったようです。本当に残念なことをしました。

1983年からは短編の世界から長編の世界に挑戦しています。その第一作が「石の花」ということになります。その後も「VERSION」,「あっかんべェ一休」の長編作品を発表しますが,1995年に急性心不全により49歳の若さで逝去します…合掌…。没後の1996年,遺作となった「あっかんべェ一休」に日本漫画家協会賞優秀賞が贈られました。

ユーゴスラビアの歴史

「石の花」の舞台となるユーゴスラビアは第二次世界大戦後に東側陣営の一員となり「ユーゴスラビア連邦共和国」となります。2012年現在,「ユーゴスラビア連邦共和国」は崩壊し,下記のような6つの共和国と1つの地域に分かれています。

国・地域名 面積(km2) 人口(万人)
セルビア共和国88,361986
モンテネグロ共和国13,81262
マケドニア共和国25,333204
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国 51,129376
クロアチア共和国56,542442
スロヴェニア共和国20,273203
コソボ10,908180


第二次世界大戦前に存在した「ユーゴスラビア王国」は大戦後に成立した「ユーゴスラビア連邦人民共和国」とほぼ同じ国土を占めていました。とはいうものの,この王国の原点は1882年成立のセルビア王国です。

第一次世界大戦の結果,オーストラリア・ハンガリー帝国が解体され,1918年にセルビア,クロアチア,スロベニアからなる「スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国」という立憲君主制国家が成立しています。

しかし,この国家はセルビア人が実権を握り,非セルビア人勢力と対立してきました。政治的混乱が続いたため,1929年には国王は憲法を停止し国王独裁制を布告しました。この体制下でも政治情勢は安定化せず,一定の譲歩はなされたものの非セルビア人勢力とは対立が続いています。

つまり,ユーゴスラビアは1918年の成立時から1990年代に完全に崩壊するまでセルビア対非セルビアの対立図式は続いていたといって大きなまちがいはありません。

第二次世界大戦が始まった1940年,ドイツは後背地にあたるバルカン半島の支配を固め,ギリシャに駐留するイギリス軍を排除する必要が生じました。同年11月にはハンガリー,ルーマニア,ブルガリアが相次いで三国同盟に加わったため,ギリシャを除きユーゴスラビアの隣国は枢軸国となっています。

ユーゴスラビア王国政府は枢軸国による侵攻を恐れ,1941年3月25日に三国同盟に参加します。しかし,これに反対する国軍がクーデターを起こし政権は崩壊します。新政権はナチス・ドイツとの同盟を表面上は堅持しようとしましたが,4月6日にドイツ軍とその同盟軍の侵攻を受け,10日ほどで制圧されます。

ユーゴスラビアの領土は三国同盟の諸国に分割占領され,スロベニアはドイツ,イタリアに分割占領されます。セルビア地域には傀儡政権の「セルビア救国政府」が樹立され,クロアチアとボスニア地域は民族主義団体ウスタシャが支配するクロアチア独立国として承認されています。

この時期にナチス・ドイツに抵抗する勢力としてはユーゴスラビア王国軍で主流だったセルビア人将校を中心とした「チェトニック」と共産主義を旗印とする「パルチザン」でした。

ただし,ユーゴスラビア王国時の民族対立は深刻な状態になっており,クロアチア独立国では親ドイツ勢力となっている「ウスタシャ」がセルビア人に復讐し,「チェトニック」はクロアチア人を虐殺しています。

それに対して「チトー」が率いる「パルチザン」は民族の代わりに共産主義を連帯のきずなとしていたため,民族を越えた戦線を結集することができました。結果としてチトーはソ連軍の力を借りずにユーゴスラビアを解放しています。

大戦後,チトーは首相を経由して大統領となり,民族主義を徹底的に排除するとともにスターリンのソ連と断絶し,独自の国づくりを開始します。しかし,チトーは1980年に死去し,その11年後にセルビア人の民族主義者が権力を握たっため,各共和国が独立を宣言しユーゴスラビア連邦は崩壊しています。このとき,民族扮装,民族浄化により多くの人命が失われ,数多くの戦争犯罪が発生しています。

特に「ボスニア・ヘルツェゴビナ」は人口比がボシュニャク人(ムスリム人)が44%,セルビア人が33%,クロアチア人が17%と異なる民族が混在していたため,セルビア人勢力はセルビア本国(ユーゴスラビア連邦)に帰属しようと悲惨な内戦となりました。

およそ3年半以上にわたる戦闘で20万人の死者と200万人の避難民が発生しています。民族浄化のため多数の人々は虐殺されたり女性に対するレイプが起きており,第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となっています。

残念ながら国連はこの紛争に対してまったく無力であり,セルビア人勢力に対するNATOの大規模な空爆により,ようやく停戦が実現しました。武力により平和がもたらされるわけではありませんが,人権と人命を守るために武力行使が必要な場合もあるということです。

1990年代のユーゴ紛争を引き起こしたセルビアはナチス・ドイツを非難する資格を失いました。ナチス・ドイツの大義である「大ドイツ」とセルビア民族主義者の大義である「大セルビア」は本質的に同一のものであり,「民族浄化」までも軌を一にしています。ナチス・ドイツから国を解放した「パルチザン」を誇りとしている民族にとっては大きな汚点でしょう。

チトーが民族主義を徹底的に排除したのは共産主義を大義とする国家造りを目指したからであり,民族主義は最大の障害になると考えていたからでしょう。しかし,1989年のソ連邦の崩壊により東ヨーロッパは共産主義のくびきから解放されることになります。

この大変動はユーゴスラビア連邦をつなぎとめる大義を消滅させることになります。連邦は遅かれ早かれ崩壊することになったはずです。残念ながら民族主義の台頭により各共和国の独立は血塗られたものとなってしまいました。セルビア民族主義の高まりはコソボでも内戦(1996-1999年)を引き起こしており,現在の旧ユーゴスラビア連邦は7つの共和国に解体されています。

クリロの戦いから50年経っても人間は歴史から何も学んではいないようです。この作品の中でフィーが収容された強制収容所はアウシュビッツ絶滅収容所がモデルとなっています。現在は敷地全体が博物館となっているアウシュビッツの墓碑銘には「過去を忘れた者が再び同じ過ちを繰り返す」と刻まれています。


石の花

「石の花」は単行本で6巻ですが,物語の密度が高く,かつ複数のテーマを包含しているため,個人的には何回か読み直してみても作者がこの物語に込めた思いを理解できたとは言い難いところがあります。私なりに思い至った範囲で,「石の花」という複雑かつ深遠な物語をどのように読んだらいいのかという観点で記すことにします。

物語はユーゴスラビア王国政府が三国同盟に加盟し,それに反対する軍の将校たちがクーデターを起こすところから始まります。ユーゴスラビア王国の前身は1918年に成立した「スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国」です。この国名がユーゴスラビアを構成する主要民族を表しています。

「ユーゴスラビア」は「南スラブ人の土地」を意味し,南スラブ人の独立と統一を求めるユーゴスラヴ運動に由来しています。地域が他の国の分割支配を受けていた時期には「統一と独立」は意味のあることでしたが,実際にそれが達成されると次には内部対立が始まります。

外部の敵がいなくなると内部対立が深まるという図式はユーゴスラビアに限定されることではなく,多くの地域や国に共通するものです。

人口が最も多いセルビアはこの国の権力を握り,セルビア対非セルビア勢力の対立が生じます。また,セルビアの支配下にあるモンテネグロ,マケドニア,コソボでは被支配意識が民族主義を生むことになります。国王独裁の「ユーゴスラビア王国」になってもこの図式は大きく変わってはいません。

現在のボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国に相当する地域ではボシュニャク人(ムスリム人)が多数を占めており,民族と宗教という二つの対立軸をもつことになります。物語の中には宗教対立については語られてはいませんので,第二次大戦中には大きな対立要素ではなかったようです。

物語の冒頭ではさりげなく3つの視点が紹介されています。中学校でクリロがけんかをしているところを目撃した校長が「学業も大切だが,国の危急存亡には一兵士となって命を投げ出さんとならないときもある」と発言しています。

クリロの兄のイヴァンは酒場で「おいクリロ,首都ベオグラードでクーデターがあったんだ。三国同盟にに加入した現政府を軍の将校たちが倒したんだ」と語り,「おれたちゃ,ドイツのいいなりになるもんか…イヴァン」ととなりの男が気勢をあげます。

クリロの父はイヴァン対して「この国はわしら多くの貧しい農民が大昔から天候と闘いつづけ耕し育ててきたんだ。一握りの政治家でも革命家連中でもない。農民の汗と血が稲穂を実らせるんだ」と話します。

連合国と枢軸国の戦争はすでに始まっており,直接の当事者ではないユーゴスラビアがとるべき道は戦争に巻き込まれないようにすることであり,ユーゴの政治家が統治しようがドイツに間接的に統治されようが同じようなものだと語る農民の視点が歴史的には正しい選択となります。

軍の将校のクーデターはいたずらに戦争を呼び込む行為であり,いったん戦争に巻き込まれると校長先生のような威勢のよい発言が殺し合いなどはしたくないという理性の発言を封じることになります。これが戦争の恐ろしさです。クリロもイヴァンも否応なしに戦争に巻き込まれることになります。

3つの視点に加え,新任のフンベルバルディンク先生はクリロとフィーに突然変異を例に挙げて「力と運命」の話を始め,「人間は現実の時間を歩きながら,頭の中で時を戻ったり,先に進んだりすることができる。この空想の力は人間だけに与えられたものだ」と語ります。

物語の冒頭に唐突に出てきた先生の言葉は何を意味しているのでしょうか。人間だけに与えられた想像する力,空想する力は戦争という大きな時代の波に対してどのような役割をもちうるのでしょうか。

その答えは作品中には直接的には表現されていませんが,私は物語の流れからすると戦時においても想像や空想の力を働かせることにより運命を変えることができると解釈しました。

同じように戦争に巻き込まれるにしてもロボットの兵士になるのか,人間性をもち続ける兵士になるのかでは運命は大きく変わります。しかし,実際にはそのように行動することはとても難しいことです。

それから50年後に起きた民族紛争(独立戦争)でもセルビア人,クロアチア人,コソボのアルバニア人を問わず自分たちが正義だと信じる民族主義者たちは昨日までの隣人である他民族の婦女子を含めた非戦闘員を「正義の戦い」の中で容赦なく殺害しています。国家や民族のために人間性を放棄することこそが戦争の本当の姿なのです。

この世界における正義と悪は相対的なものなのです。少なくとも絶対的な正義などは無いと考えなければなりません。私は絶対に正しい,あの人は絶対に間違っているという思い込みは放棄しなければなりません。自分だけが正義であるという独善的な思い込みこそが戦争を引き起こしていることを歴史は教えてくれます。

物語のタイトルとなっている「石の花」とは生徒たちがフンベルバルディンク先生に引率されて訪れたポストイナ鍾乳洞にあります。この鍾乳洞は全長19.5kmもあり,世界最大級のものです。

生徒たちは鍾乳洞の中心部へはトロッコ列車で移動します。終点には1万人を収容できるというコンサートホールと呼ばれる大きなな空間があります。その近くに美しい石柱があるそうです。

鍾乳洞は地下の川が長い年月をかけて石灰岩を浸食したものであり,地下河川の水位が下がると巨大な洞窟が形成されます。地表から浸み込んできた地下水は二酸化炭素を溶かし込んでいるため弱い酸性となり,石灰岩を少しずつ溶かします。

そのような水が天井から滴るところでは石灰成分が再結晶してつららのような鍾乳石とタケノコのような石筍が形成されます。長い時間が経過すると鍾乳石と石筍がつながり石柱となります。

その中でもっとも美しいものを生徒たちは見ることになり,フィーは「まるで花のようだわ…石でできた花…」とつぶやきます。もちろん石柱は石なのですが,人間の想像力はそれを花と言わしめることができるのです。

フンベルバルディンク先生は「これは石の花じゃない!花に見ているのはぼくたちのまなざしなんだよ」と語ります。この「ぼくたちのまなざし」の意味するものは,同じものを見ても一人ひとり感じ方は異なるということなのでしょう。そこにあるのが「想像力」ということになります。

鍾乳洞見学の前日にイヴァンはザグレブに向かい,鍾乳洞からの帰路に生徒たちを乗せたトラックははドイツ空軍機の攻撃を受け,多くの子どもたちが犠牲となります。フィーは洞窟内で体調が悪くなり,フンベルバルディンク先生に付き添われて近くの病院で休んでいたため難を逃れます。

ドイツ軍が侵攻してきた初日に4人は離れ離れになります。フンベルバルディンク先生はその後ふたたび登場することはありませんが,最後のページにクロリとフィーは彼が置き忘れていった帽子とプラムの種を見つけます。おそらく彼は人を憎んだり殺すことなくこの困難な時代を生き抜いたのでしょう。

作品中では戦闘員,民間人を含めこの戦争で170万人ものユーゴ国民が亡くなっていると記されていますが,戦闘行為で亡くなった犠牲者数より民族間の対立で亡くなった人々の方がずっと多かったという統計もあります。


民族優越意識

「石の花」の中では多くの民族が登場しそれぞれ直接的あるいは間接的に民族の誇りあるいは立場を披露しています。

ナチス・ドイツの「アーリア民族優越主義」は優秀なゲルマン民族が他の劣等民族を支配する使命を(神から)与えられていると自分たちの大義を正当化しています。

ユーゴではこの国をオスマン帝国と戦って守り通したのはセルビア人であるという自負があり,自分たちがユーゴを指導していくのは当然であると考えています。

この時代のユダヤ人は自分たちの国をもたずヨーロッパでは主として金融業と商業に携わっており,多くの国の経済を支配下に置いていました。それはそれぞれの国の多数民族の自尊心を損ねるものでした。

クリロと一緒にゲリラに参加したユダヤ人のイザークは「人を殺しちゃいけない」,「暴力に暴力で向かってしまってはいけない」とクリロの「力と運命」という考えに反論します。

「人を殺しちゃいけない」とはユダヤ教の聖典となっている「旧約聖書」の最初に出てくる神との契約に記されています。神からモーゼが受け取り,「十戒」として知られている神との契約はユダヤ教から派生したキリスト教でも同様の重要性をもっているはずです。

イザークの「人を殺しちゃいけない」という発言はその当時にユダヤ人の置かれている状況(弱者の立場)によるものと推測できます。ユダヤ民族が繁栄していたユダヤ王国の時代には他民族との武力抗争は日常茶飯事でした。人は集団として武力をもつことにより神との契約は忘れ去られるようです。

ユダヤ人の場合はユダヤ=神に選ばれた民族という選民意識があり,自分たちと異民族をはっきり意識的に区分していました。このユダヤ人の「選民意識」もナチス・ドイツの「アーリア民族優越主義」も同根であり,人類は遠い昔から他者より強大な武力をもつと「民族の誇り」が自民族優越意識に転化されるようです。


クリロとフィーの戦争体験

クリロにとっての最大の戦争体験は人を殺すことでしょう。歩いて村に戻るとすでにドイツ軍に占領されており,両親の安否もわからないままクリロは山奥へ逃亡します。クリロはイヴァンと会えないまま彼の友人のブランコ,ミルカと行動をともにして,銃の扱いを指導されます。

人を殺す手段を手に入れてもクリロは容易に敵を撃つことができません。森の中をさ迷いながら自然界の弱肉強食が「力と運命」意味することだと解釈しますが,一緒にゲリラに参加したユダヤ人のイザークは「人を殺しちゃいけない」,「暴力に暴力で向かってしまってはいけない」と反論され思い悩みます。

人を殺すことにためらいを感じたり想い悩むのは人間として当然であり,この思いは終戦後にも引き継がれることになります。しかし,クリロの思いは戦時中のゲリラ部隊の中では通用しません。ゲリラ部隊の三人は三様に戦うことを選択します。

戦争という極限の状況下では人間の本質がより直接的な形で現れます。バルゴ大尉の言葉は戦争を遂行するための常套文句であり,彼に言わせれば戦わないものは臆病者ということになります。ユーリ中尉は二階級特進で中尉になったとたんに(勲章に目がくらんだのか)発言内容ががらりと変わります。

このような主戦論は50年後には民族主義と結び付き新しい戦争を引き起こしています。戦争とは大規模な殺人行為であり破壊行為ですので,平和のための戦争,正義のための戦争などはないと考えるべきです。

クリロはこのことに気が付きますが戦争の狂気の中ではこのような正論は主戦論により抹殺されます。

リジェが理想とした共産主義は戦後の東ヨーロッパに楽園をもたらしたでしょうか。終戦後,ユーゴスラビアは共産主義を標榜する連邦国家となります。チトーは民族主義を徹底的に排除し,表面的には平和な国家を実現しました。

しかし,平和を守るために自由,平等,民主主義は置き去りにされました。人々は共産主義に良心や判断を委ね,規律の中で保たれた平和は共産主義の終焉とともに瓦解します。

戦争が終わり物語の最終場面でクリロは村の総司令部から勲章授与のため呼び出されます。クリロはフンベルバルディング先生のことを「のんきな先生」と非難した司令官に「戦争が起こり銃を持ち,立ち上がる それは雄々しいことでしょう。しかし,戦争を起こしたくないという願いのために 起こる前に起こさないように想いをめぐらす それは銃を持って立ち上がった人間より価値の低いことでしょうか!?」と反論します。

クリロは戦争のもつ本質を看破し,人を敵と味方に分断するこころが戦争を生み出すことを口にします。

一方,女性のフィーにとっての戦争体験は「強制収容所」です。戦時中の「強制収容所」はナチス親衛隊経済管理本部が監督しており,それぞれの収容所には管轄のため司令部が置かれ,そのトップである所長(司令官)は親衛隊大佐か親衛隊中佐でした。

実際にはユーゴにおけるナチス親衛隊管轄下の強制収容所はセルビアに2ヵ所でした。これとは別にクロアチアにはクロアチア独立国が運営する「強制収容所兼絶滅収容所」がありました。

物語の中ではフィーが収容された「強制収容所兼絶滅収容所」はクロアチアのザグレブにあるという設定になっており,アウシュヴィッツ絶滅収容所をモデルとしています。収容所司令官はマイスナー中佐(じきに大佐に昇進)です。

ナチス親衛隊の管理する「絶滅収容所」はアウシュヴィッツを含め2ヵ所しかなく,対象となったのはユダヤ人とロマ人(ジプシー)です。クロアチアの絶滅収容所の対象者はセルビア人や共産主義者であり,スロヴェニア人のフィーが収容される状況ではありません。そもそもスロベニアのダーナス村のようところが破壊され,住民が強制収容所に収容されるようなことはありませんでした。

物語の中ではアウシュヴィッツ絶滅収容所の惨状を伝えるためにそこから生きて解放されたユダヤ人心理学者のフランクの名著「夜と霧」に記されている場面が随所に出てきます。フィーが収容所で体験したことは実際にアウシュヴィッツで行われていたことです。

収容所でフィーは司令官のマイスナー中佐の目に留まり彼の屋敷に連れて行かれます。彼の死んだ妹がフィーにそっくりだったからです。収容所から助け出されマイスナーの妹として暮らすようになってからフィーは同胞が収容所で苦しんでいるにもかかわらず,自分だけが恵まれた生活を送ることに対して大きなこころの負担を感じます。

クリロが銃により人を殺すことに良心の呵責を感じたようにフィーも自分たちを苦しめている敵に庇護されていることに対して良心の呵責を感じるようになります。フィーはマイスナーの屋敷における「魂の虜囚」ではなく強制収容所における生活を選択します。収容所における苦しみの中で彼女は生きていることを実感しようとしました。

収容所という極限状態においては被収容者たちは生きることに最大の関心を払ったようです。感情を押し殺したり,他者への無関心などは自己防衛のための「こころの鎧」であったと分析されています。生きていくために,精神を崩壊させないためには外部からの痛みや苦しみを可能な限り自分の中で減衰させることが必要でした。

フィーも他の被収容者と同じ苦しみを経験し,極限状態において現れる人間の本性を見聞きすることになります。マイスナーがいみじくも言ったように「生存とは闘争そのものだ」という社会が収容所では現出しています。

収容所の外における生まれや地位や財産は収容所では意味をもたず,監視と絶望が支配する「平等な世界」が収容所でした。この「平等な世界」を別の視点から語っている女性がラーナです。フィーは顔にあざをもつラーナと出会い,彼女が収容所に来てはじめて他の人と対等になれたという話を聞きます。

シャバには自分を見るどころか隠そうとする連中ばかり!あさから晩まで自分を装うことにけんめいだわ。シャバの舞台では宝石やらファッション,地位,お金で飾りつけた連中が次から次へと登場してはいかに自分が他人より秀でているかを見せびらかしたくて動き回っている。

そんな連中がアザを見て同情してくれるのは,自分がほっとするからなんだわ。「自分より劣った人間がここにいた」と…。なんという羞恥心のなさでしょう!あたしが気にすまいと思ったって,連中の視線がこのアザに突き刺さってくるのよ。

あたし,収容所にほうり込まれてから,やっと誰とも対等になれると思ったの…。

人を蹴落とし,押し合いへしあい,あのシャバが平和だったといえる?「仲良く平和を」と口にしている連中が何をしているかっていうんだ!あんな平和なら…あんな平和なら,あたしは二度と望むもんか!!


このラーナの叫びは収容所の外の世界における彼女の苦悩を端的に語っています。彼女にとっては「平和な世界」は見せかけだけのものに過ぎないのです。

どれだけ文明が進んでも(人間そのものが不完全なため)社会は不完全なものであり,差別,誹謗,妬み,憎悪,欲望といった負の感情が溢れています。

世の中を一新しようと始めた戦争は破壊と殺戮という多大の犠牲を要求するものであり,その後に生み出される新しい社会もやはり不完全なものなのです。戦争よりは見せかけでも平和は選択されるべきであり,その中で不完全な社会を改善する努力が続けられるべきです。

生存のための闘争が必要とされる収容所生活においてフィーは真っ白な無垢の未来を空想します。誰しも誕生した時は真っ白な状態であり,それを空想したフィーは収容所を出たら白紙の状態に戻って人生を再会したいという希望なのでしょう。ともあれ,フィーは絶望に捕らわれることなく解放の日を迎えます。

しかし,作者はマイスナーの口を借りて人間社会の不完全さを次のように説明しています。

イヴァン,きみは力づくといって非難するが,きみには分かっているはずだ。民衆がそれをきらっていないことを…。

民衆は抽象的な平和論より現実に足らないものを補う力を求める。民衆は自由を受け入れるより,支配者を好む…。
自由…生まれたとき備わっていた自由な心を不安と混乱の世の中で持ち続けるというのはやっかいなものだ。
絶え間なくつきつけられる問いに何が善で何が悪かを自由な心で自ら選ばなければならないということは重荷だ。

世の中はますます複雑になっているし,いくつもの思想の道ができ,いくつもの宗教の花が咲き,いくつもの神が手招きをする。
そのひとつひとつを自由な心で選ぶというのはとてつもないエネルギーがいる。そんな自由はいっそ誰かに預けてしまった方が楽なのだ。
ある国家に…ある宗教に…ある伝統に…ある慣習に…。

自ら問い,自ら悩み,自ら選ぶ自由よりある権威にしたがってしまった方が楽なのだ。
人はパンのみでも生きられてしまえるものなのだ。また,パンを与えてくれる者が正義と思わなければ生きていけない。

人間は…この移ろいやすい過ぎ去りゆく世界で唯一絶対のものを求めたいのだ。自分を支えてくれる確かなものを……。
だから…だから,この闇の地上に虹が必要なのだ。風は応えてはくれぬ……力の虹,力で作った虹が応えるのだ。
暗黒の中にかかり,大地を照らす。それが人間にやすらぎを与えるのだ。


このマイスナーの発言には一定の説得力があります。しかし,自分の良心を何かに預けて安易に生きることは厳に慎まなければなりません。不完全な人間や人間が作り出したものに判断を委ねるのではなく,どれほど大変でも自分で考え,自分で判断して生きていくことが人に課せられた使命なのでしょう。