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三つの作品の類似性

「ハンサム・ウーマン」は1992-1994 年に「ビッグコミック・スペリオール」に連載された作品であり,単行本は全5巻です。鎌田洋次さんはすっきりとした絵柄でけっこう好みです。絵の雰囲気は浦沢直樹さんの「パイナップル・アーミー」と感じがよく似ています。

1980年代の終わりから1990年代の中ごろまでにビッグコミク系で発表された下記の3点は物語の構成やある種の共通する雰囲気をもっています。

パイナップル・アーミー 1985-1988年 浦沢直樹+工藤かずや
マスター・キートン 1988-1994年 浦沢直樹+勝鹿北星
ハンサム・ウーマン 1992-1994年 鎌田洋次+プランダ村


いずれの作品もある種の専門家が主人公となりさまざまな事件や依頼を解決するストーリーとなっています。この類似性はビッグコミック系の編集者であった「長崎尚志」さんによるものと考えられます。

長崎氏は1980年に小学館に入社し,「ビッグコミック」,「少年サンデー」,「ビッグコミックオリジナル」などの編集を歴任し,1999年には「ビッグコミックスピリッツ」の編集長になっていますが,同年に更迭されています。

小学館を退社後は漫画原作者(脚本家)あるいは「マンガ・プロデュサー」として活動しています。浦沢直樹さんとはデビュー当時からの付き合いであり,いろいろな作品にクレジットが出ています。

マンガ作品においては編集者が読者の評価などをもとに漫画家とストーリー展開について話し合うことが多く,ある意味では編集者は漫画家と二人三脚でストーリーを創り出していく共同制作者の側面があります。

クリエーターとしての才能が豊かな長崎氏は編集の立場から担当していた作品作りにかなり深く関わっていたようであり,そのためか浦沢作品では原作者(脚本者)と衝突していたことが複数のメディアで語られています。いってみれば,原作者が二人いるような体制ですからどこかで問題が発生することは十分に考えられます。

「ハンサム・ウーマン」の脚本者は「プランダ村」となっており,どのような人物かは見当もつきません。表紙のクレジットは「鎌田洋次」に比べて小さくなっており,鎌田さんとプランダ村さんが共同でストーリーを考え出していたようです。

ネット上では「プランダ村」が「長崎尚志」あるいは「勝鹿北星」である可能性が取りざたされています。いちおう信ぴょう性の高い情報源であるwikipedia ではプランダ村=長崎尚志と明言しています。

1992年頃に長崎氏は少年サンデーの編集部に在籍していたので,編集者でありながら古巣であるビッグコミック・スペリオールに連載されていた作品の脚本者を兼業していたことになります。このような場合は脚本者としての印税はどのようになるのでしょうか。

このような二足の草鞋稼業が問題となったのか,あるいは世間で噂されているように「美味しんぼ」の原作者である雁屋哲氏との対立が原因となったのかは不明ですが,長崎氏はわずか数カ月でビッグコミック・スピリッツの編集長を更迭されています。

この更迭事件は「ハンサム・ウーマン」が終了してから5年後のことですから,作品の展開とは無関係と考えられます。しかし,「ハンサム・ウーマン」はそれなりの人気がある作品にもかかわらず,メインテーマである「大きな日本人」との対決を置き去りにしたまま終了しています。

そのため,ネット上ではその理由についていくつかの分析と指摘があります。その一つは「マスター・キートン」との類似性です。何人かの登場人物のプロットは確かに類似しており,イコンをめぐってボリス村が襲撃される事件はマスターキートンの最終話となるジェコバ村襲撃事件と酷似しています。

個人的には「大きな日本人」の存在はパイナップル・アーミーにおける「黒の手紙結社」を率いる謎の日本人テロリストと同じ設定であり,仮に「ハンサム・ウーマン」の連載が続いていたとしたら今後の展開も想像がつきます。

このように長崎氏の脚本により「ハンサム・ウーマン」は浦沢直樹の二作品とかなり類似度が高くなっているため途中で打ち切らざるを得なかったと考えられます。あるいは,長崎氏が二足の草鞋稼業を続行できなくなったのかもしれません。

最終話では半田の裁判の席上で傍聴人にメモを手渡し,判事は判決の後にそのメモを読み上げるように傍聴人に促します。そこには「末広,あなたを愛しています。もう一回,結婚してください」と記されています。

この最終話は名作を締めくくるのにふさわしいものですが,マスター・キートンの最終話では娘の百合子あての手紙の中で「百合子,君のお母さんにこう伝えて下さい。ジェコバ村は美しいところです。ドナウ河が近くを流れ,緑の美しい土地です。君にこの風景を見せたい。来て下さい。私はここにいます」と記しています。この辺りの雰囲気もよく似ています。やはり,同じ人が同じ系統の作品作りに関与するとこのようなことは起こり得ます。

ハンサム・ウーマンとは

主人公はニューヨークに活動拠点を置く辣腕女性弁護士の眞行寺麻沙美(しんぎょうじ・まさみ)です。日本語でも難しい姓は英語圏ではさらに発音が難しいので通常はファーストネームの麻沙美を簡単にした「サム」と呼ばれています。作品中では彼女を「ハンサム・ウーマン」と呼んでいます。

現代英語では「Handsome」という形容詞は男性に対して適用されるものであり,女性に対して使用されることはほとんどありません。しかし,古い英語にはそのような用法がありました。

「Handsome Woman」とは単に性的魅力をもつだけではなく,しばしば年齢とともに身に付いてくる落ち着き,尊厳,強い心と人格を備えた洗練された美しさと魅力をもつ女性と定義されています。しかし,現代の英語ではまず使用されることがないため,うっかり使用すると「男性的な女性」と受け取られることがありますので使用しないのが無難です。

物語の主人公の眞行寺麻沙美は確かに古い用法の定義に一致しており,美人で,有能で,簡単にはあきらめない性格をもった弁護士です。作品中では「知的でいい女」あるいは「あのいさましい女」というフレーズにハンサム・ウーマンというルビがふられています。

ただし,本人は「肝心なところで頭に血が昇るんです…」と自己分析をしており,冷静なこころを鍛えるため,剣道の修業に励んでいます。山本師範代には「真剣で対峙するなら一刀で倒します」と言わしめています。

麻沙美は日米(正確には日本とニューヨーク州)の弁護士資格を有しています。これは大変なことなのです。麻沙美は高校卒業後に留学し,ハーバード・ロースクールで法学博士(LLM)の学位をとり,ニューヨーク州の司法試験に合格しています。

米国の弁護士資格は国家資格ではなく,州法に基づく州ごとの資格となっています。原則としてニューヨーク州の弁護士は他州では法律業務を行うことはできません。司法試験は各州当局により実施されており,受験するためにはロー・スクールにおいて学位(JD)を取得する必要があります。

麻沙美は大学教育を米国で受けていますのでロー・スクールの学位(JD)で受験資格が得られますが,日本で法学教育を受けた場合は,アメリカのロー・スクールで一定の学位(LLM)を取ると受験資格が認められます。

州試験に合格すると日本の司法修習のような訓練制度はありませんので,そのまま資格が取得できます。妹の麗(うらら)と同じように麻沙美も幼年時代から英語を学んできたことは容易に想像がつきますが,言語の壁がありますので米国の弁護士資格を取得するのは大変なことです。

米国の弁護士制度は日本と異なっており,日本の弁護士資格は米国では認められませんし,米国の弁護士資格は一部の例外を除き日本では認められません。麻沙美が日本で法律業務を行うためには日本の弁護士資格が必要となります。

1980年代に日本の弁護士の資格を取るためには(この時期には法科大学院課程はありませんでしたので),法学部に在籍中あるいは卒業後に司法試験に合格し,その後,司法研修所に入所し2年間の司法修習を修了するのが一般的です。

麻沙美が日本の弁護士資格を取得した経緯は述べられていませんが,日米の弁護士資格を取得するために要した時間と努力は並大抵のものではありません。この司法修習生の時期に半田末広と結婚し,その後離婚しています。物語の中では離婚の原因については詳しくは触れられていません。

物語の構成

基本スタイルとしては1話完結の形式をとっており,複数話にまたがっている場合は例えば別れのバランス,憎悪のバランスというように類型型のサブタイトルが付けられています。米国の弁護士はどの程度危険な領域に踏み込むのかは分かりませんが,麻沙美は一つ間違うと生命にかかわるような事件にしばしば巻き込まれます。

当然,彼女自身も銃器を所持しており,射撃訓練場にも足を運んでいます。その成果があり,彼女の射撃の腕はそれなりのものになっていますが,自分の生命に危険が及んでいる場合でも相手を射殺することはできません。これはそのような事件を担当する麻沙美にとっては致命的な欠点であり,一般常識からするときれいごとで固めた偽善とも写ります。

一方でこの種の作品には珍しく主人公の特異な能力が前面に出るものではなく,人間関係を物語の主軸に置いています。このため「マスター・キートン」と比べても一味異なる作品に仕上がっています。個人的には「マスター・キートン」と同等の評価を受けてもいいように感じます。

特に麻沙美と半田末広との関係はとてもいいですね。物語の中では二人の離婚の原因については多くは述べられていません。麻沙美は彼が犯罪捜査や取り調べにより消耗していくのが見るのがつらくて離婚したとキャシーに語っています。

つまり,結婚生活の障害となったのは半田の仕事であり,懲戒免職となったのであれば復縁にはなんの障害もありません。しかし,二人とも自分のこころをストレートに相手に告げることはできないため,間接的にあるいは映画などの名場面から引用する形をとっています。

このあたりのやりとりはともすればアクションが主体となりがちなこの種の作品としては異色であり,上品なものにしています。特に半田の「結婚した頃は言えなかったけれど…俺の心は君への想いでいっぱいだ…」のセリフは麻沙美のこころに響いたようです。

しかし,それは「ゴースト・ニューヨークの幻」のラストシーンに出てきたものだったのです。このような落ちもこの作品の魅力の一つです。

「憎悪のバランス」では離婚して米国で事業を成功させた木下に対して,孫娘の誘拐犯から身代金要求の電話があります。彼の娘は母親とともに仕事一筋の父親を軽蔑した目で眺めて彼の元を去ります。当然,彼のここには「消えない憎悪」残されます。

渡米した彼は事業で成功し,アメリカンドリームの体現者となります。資産家令嬢と再婚し,一人息子のユージンを設けますが現在は別居中のようです。麻沙美は妻側から息子を取り返す依頼を受けています。

そんなとき,誘拐事件が発生します。妻と一緒に自分を捨てた娘の子どもは孫には違いありませんが,彼の「消えない憎悪」と孫娘の命のバランスをどう考えればよいのでしょうか。しかも,木下は事業に失敗して300万ドルの身代金は払えません。

結果として彼は350万ドルの支払いを条件にユージンを妻の元に戻すことに同意します。孫娘の命を救うために息子を売ることにしました。息子を抱きしめながら交わされた「すまん」,「いいさパパ」という短い会話が印象的です。この話には誘拐された子どもが無事に戻ってきたときの後日談があり,その部分も人情話になっています。

このように物語の主軸は人間関係となっているためウエットな場面が多く,アクションと人情の両方が楽しめるできのよいエンターテインメントに仕上がっています。確かに「大きな日本人」という設定を外すと,5巻で終了させても十分に違和感なく楽しめます。


ほっかほかホンカン

原作は久保田千太郎,漫画アクションで1989-1990年頃に発表された作品です。主人公は湯島天神下派出所に勤務する森幹夫巡査です。作州(岡山県の東北部)随一の名門旅館鶴山楼の跡取り息子なのですが親とけんかして大学に進まず警官になったといういきさつがあります。高校時代は柔道をしており,インターハイでも活躍しています。

ある日,本郷署に新署長の景山新太郎が赴任してきます。彼は森巡査の同郷であり,東大出のキャリアとして階級は警視ということになっています。この二人の公私のつきあいが物語の主軸になります。景山署長は女子署員にとても受けがよいのになぜか森巡査の評判はよくありません。

巡査としても懲戒処分に相当するような大チョンボをして落ち込むこともしばしばです。幼児誘拐犯のモンタージュ写真とそっくりの台東署の神谷刑事につかっかり投げ飛ばされます。それがきっかけで彼の妹の知恵と知り合いになります。一方,景山署長は大学の後輩で未婚の母と新聞記者を両立している瀬戸内遥に想いを寄せています。さてこの二つのカップルの行方はどうなるのでしょう。