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この物語のように少年が立ち直ってくれればいいのですが・・・
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作品名に注目して下さい

作品名は「家栽の人」となっています。文字に注目して下さい。主人公の桑田判事は家庭裁判所の裁判官という設定になっています。となると作品名は「家裁の人」となるはずですが,裁判所の「裁」ではなく,栽培の「栽」が使用されています。

この文字違いの中に作品の性格が表れています。主人公の桑田判事は植物が大好きで自分でも育てるかたわら,職場である裁判所の敷地内の庭でも草花を育てています。また,近所の庭にある植物を網羅した手製の植物マップも作っています。この植物好きの主人公から「家栽の人」というタイトルが生まれたと考えられますが,もう少し深い意味があるのかもしれません。

家庭裁判所では多くの事案が扱われますが,物語の中では少年事件が主として取り上げられています。家庭裁判所では事件を起こした少年に対して必要により審判を行います。それは少年の犯した罪に対して見合う処置が決められます。もちろん少年の更生は考慮されているはずですが,主体はあくまでも処置ということになります。

しかし,桑田判事の判断基準は「どうしたら少年が立ち直ることができるか」という一点に凝縮されています。裁判官という立場で少年のために何ができるかということに知恵を絞り,周囲の人たちを動かしていく桑田判事の姿勢に対して,少年たちを育てているという意味を重ねて「栽」の字があてられている気がします。

「MARCO POLO マルコ・ポーロ(文芸春秋社)」1993年5月号で原作者の「毛利甚八」さんが「家栽の人」の企画がどのようにスタートしたのかという内情を記しています。発端は1986年の冬ことであり,その当時毛利さんは小学館に出入りするフリーのライターでした。

行きつけのスナックで当時のビッグコミック・オリジナル編集長の林氏から「植物を育てる人」,「職業は裁判官」という設定でマンガの原作を書くことを提案されました。翌年の春にこの話は本当の企画になりました。

毛利さんは担当者とともに監修者である山崎司平弁護士を訪ねて,司法修習生の思い出話を聞き,司法関係の本数冊と六法全書を買いました。そして約3年の間,監修者のアドバイスを受けながら取材なしで29話まで書いたそうです。(引用了)


毛利さんは2014年に末期の食道がんが見つかり,2015年に死去されています。絶筆となった『「家栽の人」から君への遺言』の第二部は『佐世保の君に贈る手紙』となっています。これは毛利さんが自分の病気について知った直後に発生した「佐世保女子高生殺害事件」のことです。

佐世保は毛利さんの生まれ故郷であり,その地で起きた悲惨な事件に対して児童福祉法に沿った適切な対応がとられなかったことへの考察と加害者の少女への問いかけをしています。毛利さんにとっては彼女への問いかけを通して少女の更生を希求することが「家栽の人」を記した自分の使命であると考えたのでしょう。

社会的には非常に大きなインパクトを与えたこの事件も2年もすれば人々の口の端に上ることはなくなります。この事件を興味本位に眺めるのではなく,どうすればこのような少年事件の再発が防げるのか,さらに,少女の心の闇を解き明かし更生の光に向かって歩き出すことができるようにしてあげることが毛利さんの願いだったように感じます。ご冥福をお祈りします。

原作者のストーリーと「魚戸おさむ」さんの絵柄はとてもよくマッチしています。桑田判事が今流にいうイケメンであったら,この作品はこれほど親しみややすいものにはならなかったことでしょう。原作と作画の息が合うことによりこの名作が生まれたと評価できます。

ただし,物語としては秀逸でも,現実世界とのかい離を指摘しなければなりません。桑田判事の人間離れしたすぐれた能力は明らかに現実離れしています。作品中には「家裁の判事は月に500件近くの事件を抱えている」と記されています(第1巻第5話)。

限られた時間の中で裁判や審判に臨まなければならない裁判官にとっては,個々の事案の中で調査官が見落としている事件の背景や少年の心理を神のような洞察力で探し出すことはとてもできることではありません。

また,桑田判事の扱う事案の少年は審判を通して立ち直りのきっかけをつかむことができる物語が多いのですが,少年審判によりどれほどの少年が更生してくれるかは現実の世界の事件が教えてくれます。

少年犯罪は凶悪化の一途をたどっており,社会的には厳罰化の流れとなっています。「犯罪被害者」が運営していると思われるサイトのデータ(2003年)では少年の凶悪事件(殺人,強盗,強姦,放火)の再犯率は50%を越えています。一般刑法犯では28%,傷害は50%となっています。

最初の事案で少年がどのような処分を受けたにせよ,凶悪犯罪や傷害の再犯率が50%を越えているということは,最初の事案における矯正教育が不適切もしくは不十分であったか,適切な保護観察や矯正教育が行われても犯罪に走る者はどうしようもないということになります。現状がどちらのケースにより近いのかは軽々に判断できませんが,最近の風潮では後者に傾きつつあるような気がします。

現実の世界には桑田判事のような有能で少年に向き合える裁判官はおりません。それでも,少年が矯正教育により再犯率が下がることを願わずにはいられません。桑田判事の言うように「どのような処分を受けるにせよ,子どもたちは再び社会に戻ってくる」のですから。

家庭裁判所の役割

日本の裁判所の概要は「裁判所 COURTS IN JAPAN」に記載されています。ここに家庭栽培所の役割が分かりやすく書かれていましたのでちょっと長くなりますが引用します。

家庭裁判所は全国に本庁が50,支部が203,出張所が77あります。家庭裁判所とその支部は地方裁判所とその支部の所在地と同じ所にあります。家庭裁判所の扱うものは「家庭内の紛争」および「少年の事案」です。

家庭内の紛争を通常の訴訟の手続により審理すると,公開の法廷で夫婦,親子などの親族が争うことになりますし,法律的判断が中心になり,相互の感情的な対立が十分に解決されないままで終わるおそれがあります。したがって,家庭内の紛争については,まず最初に訴訟の手続ではなく,それにふさわしい非公開の手続で情理を踏まえた解決を図る必要があります。

また,非行を犯した少年に対し,成人と同様に公開の法廷で訴訟の手続によって刑罰を科すことは,少年にとって必ずしも好ましい結果をもたらすとは限りません。人格が未熟であり,教育によって改善される可能性の高い少年に対しては,それにふさわしい非公開の手続で,保護処分や適切な教育的措置を行うことが大切であると考えられます。

このように,家庭裁判所は,法律的に白黒をつけるというのではなく,紛争や非行の背後にある原因を探り,どのようにすれば,家庭や親族の間で起きたいろいろな問題が円満に解決され,非行を犯した少年が健全に更生していくことができるのかということを第一に考えて,それぞれの事案に応じた適切妥当な措置を講じ,将来を展望した解決を図るという理念に基づいた裁判所です。

そのために家庭裁判所調査官という職種が置かれ,心理学,社会学,社会福祉学,教育学などの人間関係諸科学の知識や技法を活用した事実の調査や人間関係の調整を行うことになっています。

少年事件の手続きの流れ

少年事件の手続きの流れは「香川県警察」の サイトに分かりやすく説明されていましたので引用します。

警察は事件が発生し犯人である少年が判明したら逮捕して取り調べたり,逮捕しないまま任意で捜査したりします。その結果は次の3通りの流れに分けられます。@14歳未満の少年は罰することができませんので,児童相談所に通告します。A14歳以上の少年で法定刑が懲役・禁錮等の比較的重い犯罪を犯した場合は検察庁に事件を送ります。B14歳以上の少年で法定刑が罰金以下の犯罪を犯した場合は家庭裁判所に事件を送ります。

@のほとんどケースは児童相談所で児童福祉法上の措置をとり事案は終了します。中には家庭裁判所での審判や保護処分が必要であると判断されることがあり,この場合は事案を家庭裁判所に送ります。

Aのケースは検察官が取り調べを行い,少年をどのような処分にするのがよいのかという意見を付けて事件を家庭裁判所に送ります。

Bのケースおよび検察から送られてきた事件,児童損談所から送られてきた事案は家庭裁判所で審判(大人の事件でいう裁判)を開始するかどうかを決定します。

Cこれまでの手続の過程で少年が十分改心し,もはや審判廷に呼び出す必要がないと判断された場合は審判手続を開始せず終了します(審判不開始)。

D少年が凶悪な犯罪を犯した場合など刑事処分にするべきであると認められる場合には事件を検察庁に送り返します(逆送事件)。

E保護処分(刑事処分や児童相談所へ送る処分以外の処分)が必要であると認められる場合は審判手続を開始します。

家庭裁判所の審判により少年の処分が決定されます。ただし,少年審判は成人裁判とは異なり非公開となります。これは,人格が未熟であり,教育によって改善される可能性の高い少年を保護するためのものです。

F審判の過程において少年が非行を克服し,保護処分の必要がないと認められた場合は保護に処さない旨の決定をします(不処分)。

G保護司等の観察のもとで少年が改善・更正することが可能と認められる場合は,少年が少年自身の力で社会復帰できるように保護監察官や保護司が補導援護する保護観察処分にします。

H少年を取り巻く環境を重視し,施設における生活指導を要すると認められる場合は,児童自立支援施設(不良行為少年の支援施設),児童養護施設(保護者のいない児童,虐待されている児童等の保護施設)に入所させ社会復帰を促します。

I強制力によって少年を施設内に拘束し,矯正教育を与えることによって非行少年を社会生活に適応させる必要があると認められる場合は少年院に送ります。

作品の構成

主人公は家裁の判事を務める桑田判事です。父親は高裁の長官をしており,その後,最高裁判事となる桑田恒太郎です。司法修習生時代の成績も抜群であり,優秀な裁判官でありながら東京への転所(エリートコース)を拒否した経歴があります。つまり,非常に有能でありながら家裁→高裁→最高裁という出世コースを自ら忌避している変わり者の裁判官ということです。

家族と一緒に官舎暮らしをしているという設定になっていますが,家族や家庭は物語の中には出て来ず,終わり近くに「まる」という息子さんが登場します。

物語は桑田判事が担当する事件が主要な題材となっており,基本的に一話で完結するスタイルとなっています。それぞれの話には植物名がつけられており,その植物が話の中で重要な位置を占めるようになっています。

このスタイルはストーリー作りの大きな制約になったことと考えられますが,その中でこころあたたまる感動的な話が目白押しとなっており,多くの人に読んでもらいたい作品です。

第1巻第3話に離婚後に子どもの親権を争う男女の話があります。審判の席上で桑田判事は「子どもの幸せは争って与えるものではないでしょう…この子にとって父親がいいか,母親がいいか分かりません…これから先,正彦君には母親の必要な日もあれば,父親の必要な日もあります。この子にとって一番いいのは両親がいることです。まずそこから考え直して下さい。私の書いた審判書一枚でこの子が幸せになれるとお考えなら私が決めます」と諭します。

第5話では万引きの常習犯の少年の審判で子どもを殴りつけた父親に対して「子どもを殴るのが親の役目ですか?この法廷はあなたのお子さんを裁くために開かれたわけではありませんよ。何が自分の子どもを苦しめているのかご存じないのですね」と諭します。子どもは世間体を保つために夫婦を続けている両親に抗議していたのです。

このような人情噺と言ってよいような内容の話が詰まっています。彼の審判は家庭裁判所が目指している「法律的に白黒をつけるというのではなく,紛争や非行の背後にある原因を探り,どのようにすれば,家庭や親族の間で起きたいろいろな問題が円満に解決され,非行を犯した少年が健全に更生していくことができるのか」ということをそのまま具現化するものなのです。

このような審判ならば多くの人々は争うことより円満な解決を考えたり,少年においても立ち直りのきっかけとなることでしょう。残念ながら現実の世界では神のような調停者はおらず,法律的に白黒をつけることが家裁の仕事となっているようです。

少年事件の実名報道について

第3巻第3話に少年事件の実名報道に関する話があります。桑田判事に言わせるとこれは成人の実名報道でも同じだというのです。家族から犯罪者が出て,それが大きく報道されると昨日までは普通の社会生活を営んでいた人たちが「犯罪者の家族」ということになってしまいます。

少年法では第61条に次のように規定されています。

第61条:家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については,氏名,年齢,職業,住居,容ぼう等によりその者が当該事件の本人であること推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。


少年法第61条では少年の健全な育成と矯正を担保するためにその名誉やプライバシーを保護することを目的に定められています。ただし,違反しても刑事・民事および行政責任などが一切課せられないため,一部の週刊誌などでは実名が掲載されることが多々あります。

また,少年法で禁止しているのはあくまでも家庭裁判所の審判に付された少年,または少年のとき犯した罪により公訴を提起された者に対してであり,逮捕者や指名手配者は含まれません。したがって逮捕された段階で少年の氏名などを報道しないのは,マスコミによる単なる自主規制に過ぎません。報道の自由,表現の自由という基本的人権に関わる問題であり,法律上禁止されていない逮捕時点での実名報道を規制することはできないということです。(wikipedia)

報道の自由,表現の自由は基本的人権に関わりますので,少年法第61条で禁止はできても,違反時の罰則は規定できない図式です。仮に罰則を規定したら憲法違反訴訟となるほどの重大な問題となります。報道の自由,表現の自由はそれほど重い権利ですので,逆にその権利の行使にあたっては慎重な判断が求められるのです。

少年犯罪の凶悪化と実名報道は相当部分でリンクしています。第3巻第3話では婦女暴行・殺人という凶悪犯罪を犯した少年が週刊誌で実名報道されます。この記事を書いた記者の言では「野獣に人権はない」となっています。このような凶悪犯罪の場合はおおむね多くの人々は好意的に受け取るかもしれません。

しかし,桑田判事は記者に対して「何のために,誰のために実名報道をするんでしょうか」問いかけます。
「実名報道をしても被害者は救われず,加害者の家族は罪人のように眺められます」
「でも,あの場合は少年の親にも責任はあるでしょう」
「だからといって,親や兄弟,親戚が社会的に抹殺されていいんですか」
と続きます。

実名報道がされても誰も救済されない,この論理には注目すべきです。マスコミが報道の自由を盾にして加害者の少年(とその家族)に社会的制裁を科すことは報道の自由から逸脱したものと考えるべきです。

2012年には「光市母子殺害事件」の犯行当時,18歳と2カ月の少年であった被告人に対し死刑が確定しました。このときはマスコミの大半で実名報道がなされました。その理由としてNHKでは「主婦と幼い子供が殺害される凶悪で重大な犯罪で社会の関心が高いこと」,「判決で元少年の死刑が確定することになり,社会復帰して更生する可能性が事実上なくなったと考えられること」を上げています。

朝日新聞では「国家によって生命を奪われる刑の対象者は明らかにされているべきだとの判断から」としています。読売新聞では「死刑が確定すれば,更生(社会復帰)の機会はなくなる」,「国家が人の命を奪う死刑の対象が誰なのかは重大な社会的関心事とな」るからであるとしています。

これに対して毎日新聞は「元少年には今後も更生に向け事件を悔い,被害者・遺族に心から謝罪する姿勢が求められる」,「今後、再審や恩赦が認められる可能性が全くないとは言い切れない」として匿名で報道するという原則を変更すべきではないとしました。(wikipedia)

週刊誌の勇み足実名報道は論外ですが,死刑確定の場合はその社会的な関心および社会復帰の可能性がほとんどないという報道機関の現状の判断は適正と考えます。しかし,繰り返しになりますが報道の自由は社会的制裁の代行であってはなりません。

神戸小学生殺害事件の犯人の顔写真を載せた雑誌「FOCUS」に抗議するため,児童文学者の灰谷健次郎は自著の著作権を新潮社から引き上げました。これは氏の児童文学者,教育者としての立場からすると当然のことです。「FOCUS」の実名報道は少年を周知させただけであり,なんら公共の利益に資していないのです。逆にこのような報道姿勢をもつ新潮社が不買運動などの社会的制裁を受けないところに少年法第61条の危うさがあります。