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時代が生み出した作品ですね
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「ぼっけもん」とは

「ぼっけもん」とは「薩摩・鹿児島県人の気質を表した言葉。挑戦心がある,豪胆な,向こう見ずな,大胆な,無鉄砲な,豪傑な,やんちゃな,元気な,無茶な,荒くれ者,ウジウジしない,肝っ玉が太い,無邪気な様・人物を表現している(wikipedia)」となっています。

一言で表現するなら男っぽいといったところでしょうか。主人公の浅井義男の性格設定はこのぼっけもんの定義の中では挑戦心がある,向こう見ずなあたりが当てはまります。ただし,女性との付き合い方については当初の硬派スタイルが物語の進展とともに怪しくなります。

岩重孝のデビュー事情とぼっけもん

作者の岩重孝(1988年にいわしげ孝に改名しています)はちょっと特異な漫画家デビューを果たしています。中野渡淳一著「漫画家誕生169人の漫画道,新潮社」には次のようなエピソードが掲載されています。

彼は高校在学中に「少年ジャンプ」に投稿し何度か入選しています。ところが大学時代には「ガロ」に持ち込みをしますが一度も掲載されることはありませんでした。卒業後は漫画家をあきらめて本屋に就職しました。

ところが,店で扱っていた長谷川法世の「博多っ子純情」に刺激を受け,故郷の鹿児島を舞台に自分なりの青春漫画を描いてみました。作者は「卒業論文みたいなもの,これで駄目なら吹っ切れる」と思って「ビッグコミック」に投稿しまた。この作品が入選して24歳で遅い再デビューを果たしました。このときの作品「忘れ雪」はそのままシリーズ化して「ぼっけもん」となりました。(引用了)

「ビッグコミック」に投稿して入選したというのは1978年のことで,第二回小学館新人コミック賞に選ばれました。24歳のときに卒業論文として完結した形で提出した作品がそのまま長期連載されることになったわけです。

漫画家としてのこころの準備もその後のストリー展開も考えられていない状態で始まってしまったようです。そのため,最初の数話は単発的なものとなり,物語の方向性がまったく定まっていない状態が続きます。第1巻第5話まではまるで色情狂物語の様相です。

登場人物の描画も当初は劇画調でありずいぶん垢抜けしないものです。浅井の眉が合わさってくるんと弧を描くようになったのは3巻からであり,その後も5巻くらいまでは描画が変化しています。秋元にしても最初に登場した時(第1巻第6話)は「村野守美」の作品かと思いました。このあたりでは物語の方向性も定まらず,作画も借り物の状態だったようです。

この作品は小学館から1980年に新たに創刊された「ビッグコミック・スピリッツ」に連載されることになり,ようやく長編を目指したストーリー展開ができてきました。それに合わせるように絵柄もずいぶん変化していきます。この大きな変化は第3巻第1話(故郷)あたりからです。ここが「ぼっけもん」本当のスタート点です。

ということで初めての方は単行本の1-2巻は読み飛ばし,第3巻から読み始めた方がとっつきやすいかもしれません。第2巻までのひどさにその先を読みたくないという人が出てくるのではと心配です。

出だしのできの悪さに対して,ストーリーの方向性が出てきてからの質の向上は明らかであり,作者の情熱がほとばしるような作品に仕上がったことにより,1986年に小学館漫画賞を受賞し岩重孝の代表作となりました。

ぼっけもんの時代性

1980年代に女性の視点から描いた柴門ふみの「女ともだち」は女性の社会進出が限定されていた時代にどうすれば自分らしく生きていけるか,一個人として社会的に自立したいと願う様ような女性の姿が描かれています。

女性にとって結婚が人生の一つのゴールとされていた時代の価値観に対して,自分の価値観を前面に押し出した新しい女性の生き方は1980年代の新しい潮流ということができます。彼女たちの恋愛観は王子様に見つけてもらうものから,人生のパートナーを見つけるものに変わってきています。

ぼっけもんにおける浅井は故郷鹿児島で高校時代の友人3人と「シアタービル」を設立する事業に参加することになり,秋元は東京に残り女性雑誌「Miss Time」の編集部に就職します。この限りでは二人とも自立した生き方を選択しています。

しかし,秋元は離れ離れに暮らすことが浅井と一緒にいたいという自分の想いと相いれないことに気が付きます。1970年代の女性なら「浅井さんは私の王子様なんだから仕事を捨ててでも王子様のところに行くわ」ということになるのでしょう。秋元にとっての選択肢は仕事を捨てるか,浅井を捨てるか,遠距離恋愛でがまんするかということになりますが,口にしてはいけないことを言ってしまいます。

京都旅行(第8巻)で秋元は「清水さんが…いくらひっついていても 男と女は離れたらダメになるって…中退はやめて…そしてシアタービルも…アタシのこと本当に好きならそうして…お願い…」と迫ります。秋元の性格はこんな自己中心主義ではないのですから,作者もずいぶんなことを言わせたものです。

本人は自認しているどうかは分かりませんが,ぼっけもんの性格をもった浅井にはこのような迫られ方には我慢できなかったことでしょう。ホテルに戻ってから秋元は「仕事を捨ててオレについて来いと言われるのをずっと待っていたのかもしれない」と述懐しますが,話の順序が逆ですね。

男同志ではずいぶんざっくばらんな浅井もこと愛する女性に対しては彼女の生き方を束縛するようなことを口にはできません。浅井の性格を熟知している秋元にそのことが分からないはずがありません。

にもかかわらず,先に相手を束縛するような迫り方をして結果がどうなるかを考えなかったのでしょうか。しかも,他の客がたくさんいる食堂で話を切り出します。明らかに秋元の勇み足ですね。静かな環境で「私は浅井君と一緒にいたい,どうして浅井君はオレに付いてこいとは言ってくれないの」と迫ればまったく違う結果になったことでしょう。

秋元の作戦ミスが二人の破局につながり,物語は後半に向かって展開していきます。「ぼっけもん」が「女ともだち」と異なるのはこの後の展開です。秋元は東京に残り,編集者として忙しい日々を送ることになります。美人で性格のよい秋元にいいよる男性は複数現れますが,秋元の身持ちは固く新しい恋愛は始まりません。

別れたといっても浅井との思い出はそう簡単には過去のものにはできないのです。秋元の中では浅井はずっと想い人であり続けているようです。秋元は一見,自立した女性として描かれていますが,根底にあるのは浅井に対する一途な想いを捨てきれない古風な女性像なのです。

1970年代の青春物の名作に「土佐の一本釣り」と「博多っ子純情」があります。作者の岩重孝も自伝でぼっけもんは「博多っ子純情」の影響を大きく受けていると記しています。どちらの作品も男性が主人公ですが,ヒロイン女性の一途な想いが表現されており,これが70年代のスタイルだったようです。

80年代になると女性作家(柴門ふみ)は女性の自立と新しい生き方を主題とする作品を出している一方で,男性作家(岩重孝)はまだまだ女性の一途な想いという価値観から脱け出せない時代だったようです。