名陶工たちの見果てぬ夢
朱よりも赤く 炎より深い− それを緋色と言う
しかし未だかって 陶芸の最高芸術と言われる
この「緋色の器」を作り上げた者はいない
名陶工たちは その見果てぬ夢を 「緋が走る」と呼んだ
この作品はこのような一文から始まっています。陶芸の世界を題材にしたマンガ作品は他にもありますが,この作品は日本における陶芸の現状,制作技術などがよく分かる本格的なものに仕上がっています。本当に陶芸の世界に「緋が走る」という現象があるかどうかは置いておいても,十分に楽しめます。
日本にはこれに類する陶器の名品があります。それは「曜変(耀変)天目」と呼ばれています。800年ほど前に宋から日本にやってきたもので,現存するものはわずか3点,それがすべて日本にあり,いずれも国宝に指定されています。実は有名な曜変天目はもう一点ありました。それは織田信長が所蔵していたもので本能寺の変で焼失しています。
陶磁器では窯焼きの時に炎の性質,温度変化,内部の酸素濃度,釉薬の成分などが複雑に作用して予期しない色彩や景色が生まれることがあり,それを「窯変」と呼んでいます。「曜変(耀変)天目」も本来は「窯変天目」なのでしょうが,結果として生まれた景色が夜空の星のきらめきを写し取ったような虹彩をもっているため「曜(耀)」の字が当てられるようになりました。
この名品は宋の時代に福建省の建窯で焼かれたことは分かっていますが,その技法はすでに失われており,文献も残されていません。現在の日本や中国にはこの天下の名品を再現しようと研鑽を重ねている陶芸家がいます。
その再現にほぼ成功した瀬戸市の陶芸家は「ただ似たようなものを作っても真の意味での再現ではありません。論理的,学問的に再現の技術を発表していかなければ再現したと証明できない」と語っています。さてさて「緋色の器」についてはどのように再現が進んでいくのでしょうか。
「緋色の器」が現存しておらず,作り上げた陶芸家がいないにもかかわらず,陶芸の最高傑作というお墨付きをもらっているのは奇異な感じがしますね。実は物語の最後に近い第14巻に「緋の器」にまつわる悲劇が語られています。少し長くなりますが引用してみました。
はるか昔,中国明王朝の時代,焼物の郷・景徳鎮には藍家と鈞家という二大勢力があった。明王朝はどちらかを宮廷の官窯にするため,両者いずれも極上品を献上させその優劣により決める事とした。
そこで両者は全身全霊をこめて作陶に打ち込んだ。特に藍家は唐三彩の逸品を作るかたわらスパイを送り鈞家の様子をうかがった。すると鈞家は青磁でも唐三彩でもなく,燃え盛る炎を器の中にからめとろうとする画期的な作品を作ろうとしていたのである。
鈞家当主の鈞韶は百人の弟子を中国本土から朝鮮・モンゴル・日本まで渡らせ粘土を探させたという。そして・・・できた作品は炎よりも鮮やかなる故,”緋”と名づけられた。その今にも走り出しそうな様から”走緋”と称された。まさに陶芸界究極の逸品であった。
それを察知した藍浦はとても唐三彩では勝てぬと思いある一計を案じたのである。唐三彩を宮廷に届ける道中,藍浦はあらかじめ鈞家の使用人を金で雇い藍家の一行を襲わせたのだ。鈞家があたかも藍家の唐三彩をねたんだかのように。
そして,事は藍浦の思惑通りに運んだ。宮廷は問答無用で鈞家の取り潰し,鈞家一族の拷問打ち首を命じた。官窯はめでたく藍家のお役目となったのである。この時,緋の器は役人の手によって打ち砕かれ,藍家の栄華は末永く続くと思われていた矢先・・・
なんの因果か策略を謀った藍浦,そして二代目と相次いで急死した。正義感の強い三代目は真相を知り,鈞家再興に尽力し,官窯を鈞家に譲り渡し,藍家は自ら窯を解いた。
こうして,鈞家は再興されました。「緋の器」の製造方法は「走緋伝」という文書には残されているものの,それを再現することはできず,陶芸家の見果てぬ夢となっていました。その夢に挑戦し続けて,途半ばで逝った松本竜雪の夢を引き継いだのが主人公の松本美咲です。
世界最古の土器
単行本ではときどきページが半端になることがあります。そのようなとき集英社編集部による日本の焼き物の話が1ページ挿入されることがあります。その最初の情報のタイトルは「世界最古の焼物は日本製」となっています。これは必ずしも正確な情報ではありません。正しくは現在までに古代遺跡で発見されている土器の中で,もっとも古いとされているものは日本で発見されたものであるということです。
粘土を練り,炎で焼くことにより固い器を作ることは新石器時代から行われていたようです。この技術はある特定の地域で開発され,世界に広まっていたというものではなく,時期の前後はあるものの世界の各地で並列的に始まったようです。
日本列島にヒトが住み着くようになったのはおよそ3万年前であり,時期は異なるでしょうが,それは北からの集団,中国大陸からの集団,南からの集団と少なくとも三つ以上の集団であったと考えられています。それぞれの集団は必ずしもまとまって日本列島にやってきたというわけではなく,より小さな集団が断続的にやってきたと考えられています。
人類の祖先にあたるホモ・サピエンスは15-20万年前にアフリカで生まれ,6万年前には中央アジアにまで進出してきました。ここから人類はユーラシア大陸に拡散していきます。5万年前には東南アジアに達し,これは南の集団の祖先となります。3万年前にはシベリアのバイカル湖付近で大型草食獣を狩る集団が出てきます。これが北の集団の祖先になります。
彼らは最後の氷河期の間および氷河期の終了した時期に日本にやってきました。おそらく彼らは土器を製造する技術を携えて日本列島にやってきたようです。九州南部を拠点とした南の集団の遺跡からは12,000年前の土器が,北の集団のものとして青森県の大平山元遺跡からは16,000年前の土器と考えられる破片が見つかっています。
大平山元遺跡のものは土器であったか否か,年代測定が正しいのかという学術的な決着はついていません。日本以外でもっとも古い土器としては中国の長江中流域で発見されたものが14000年前ですから,日本の土器は世界でももっとも古いものの一つといって差し支えないでしょう。その後に始まる縄文時代にも日本では「火炎土器」と呼ばれる,日用品というよりは祭祀に使用されるような装飾豊かな土器が製作されています。