亜細亜の街角
京都のようにエジプトを代表する古都の観光地
Home 亜細亜の街角 | Luxsor / Egypt / Nov 2007

ルクソール

エジプト古代王国の中心地は「下エジプトのメンフィス」と「上エジプトのテーベ」である。ナイル川に沿って800kmにもおよぶナイルの谷とナイルデルタには,紀元前4000年年頃からノモスと呼ばれる多くの小規模な都市国家が生まれた。

それぞれの都市国家はさまざまな神を祀っていたが,上下エジプト二つの国家にまとまり,さらに統一国家となる過程で,地域の神々も体系化されていった。その中でも「上エジプトのアムン神」,「下エジプトのラー神」は主神の地位を占めるようになる。上エジプトの勢力が強い時は「アムン神」が,下エジプトの勢力が強い時は「ラー神」が国家の最高神となった。

古王国時代はメンフィスに都が置かれることが多かったが,第一中間期の混乱から上下エジプトを再統一した中王国の第11王朝から新王国の第18王朝までテーベが都とされた。

このおよそ1000年の間,テーベは政治権力の中心地であり,国家の最高神「アムン」を祀るアムン大神殿(カルナック大神殿群の一部)とその付属神殿となるルクソール神殿は歴代のファラオによりより増改築が繰り返されて,エジプト最大の神殿となっていった。

一方,新王国時代になると歴代のファラオはナイル川を挟んだテーベの対岸(西岸)の奥深い谷に岩窟墳墓を造営した。そのためそこは「王家の谷」と呼ばれるようになった。同時にその近くにはいくつかの葬祭殿が造られている。

新王国時代にテーベの神官集団は歴代のファラオから莫大な寄進を受け,政治的権力を強めていった。ファラオはなんとか神官集団の権力を削ごうと苦心を重ねている。

そんな中でアメンホテップ4世(在位BC1380頃-BC1360頃)はアムン信仰を捨て太陽神アトン(アテン)を唯一神とする世界最古の一神教を確立した。

彼は「アクエンアテン(アテン神に有用な者)」と改名し,都をテル=エル=アマルナに移した。この宗教改革はテーベの神官集団から権力を奪取しようとする試みでもあった。しかし,この改革は長くは続かなかった。

アテン信仰はテーベの神官集団の反撃にさらされ,アクエンアテンは失意のうちに没したとされている。アムン信仰は復活し,テーベの神官集団は往時の権力を取り戻した。

その後,第19王朝の時代に下エジプトに遷都されたが,テーベはアムン信仰の宗教都市の地位を保ち続けた。しかし,第三中間期,末期王国,プトレマイオス王朝に続く1000年間には外部勢力の侵攻や支配が続き,ファラオの栄光とともにテーベの神殿も没落していった。

1世紀からエジプトに入ったキリスト教(コプト教)は古代王朝の遺跡にいくかの爪あとを残すとともに,その一部を教会堂として使用している。

7世紀にエジプトを支配したイスラム勢力は遠く離れたテーベにある異教の神殿にはほとんど注意を払わなかった。そのため,大神殿は人為的な破壊を免れることになり,それはエジプトのみならず人類の幸せであった。

現在,テーベのあった地域はルクソールと呼ばれている。人口は約10万人,ナイル中流域最大の観光都市となっている。ナイルの河岸には「カルナック」と「ルクソール」の二つの神殿があり,ルクソール神殿の東側が街の中心部となっている。

ルクソール神殿の近くには地元の人たちが利用する渡し舟乗り場があり,簡単に西岸に行くことができる。しかし,西岸の見どころは広い範囲に点在しているために,酷暑の時期はタクシーを利用する必要がある。

アスワン(200km)→ルクソール 移動

アスワンの駅に何回か出向き,ルクソールまでのチケットを入手しようとしたが,発券システムの不調のためできなかった。チケットは当日もしくは車内で買うしかない。

07時にチェックアウトして駅前の食堂で朝食をとる。フールとサラダのサンドイッチとチャイはどちらも1EPである。主食のサンドイッチと飲み物が同じ値段というのは,多少心理的な抵抗感がある。

駅に出向いて窓口に行くとやはりチケットは売られていなかった。同じようにチケットが入手できなかったヨーロピアンの女性と一緒に2等車に乗り込むと,乗客はほとんどいなかった。アスワン,ルクソール間は来たときも乗車率は低かった。

車掌がすぐにやってきてチケットを発券する。料金は31EPとかなり高いのでヨーロピアンの女性との間で少しもめた。周辺の乗客が仲裁に入り確かに31EPだよと説明され僕は納得せざるを得なかったが,女性はそれでも応じなかった。

列車は定時の08時に動き出した。車内の窓ガラスは例によって汚れているのでデッキに出て写真をとる。車内は冷房の効きすぎのため寒いのでここはほっとする暖かさである。

車窓からはほんのわずかの間ナイル川が見えた。窓の汚れの少ないところで写真にしたが,汚れや反射光が入ってしまう。やはりデッキで,しかも光の方向を考えないとものにならない。

ナツメヤシの農園はけっこう多い。水路の両側にナツメヤシが並び,水路沿いの道を山羊を連れた男性が埃とともに歩いている。見事な景色であるが列車の中からでは構図を気にしているひまは無い。

踏み切りで列車待ちのロバ車の前を列車は通り過ぎる。一瞬のシャッターチャンスを狙った結果は,先頭のロバの頭がわずかに欠けてしまった。

サトウキビの農地も何回か見かけた。エジプトではそれなりにサトウキビ農地を見かけた。ルクソールの西岸にも大きな農園があった。それでも砂糖の自給率は57%しかない。やはり,耕作可能地が国土の6%程度しかないという自然条件が大きな制約となっているようだ。

車窓から眺めている一面の農地は,幅10-20kmのナイルの谷に限定されており,その外側はわずかなオアシスを除き不毛の荒野となっている。ナイルの谷を形成する河岸段丘の崖をときおり見ることができる。場所によっては1kmくらいに迫っているところもある。

ナイルの谷は川が長い年月をかけて,土地を浸食した結果である。そのためナイル川の高低差は驚くほど小さい。ナセル湖の満水時標高が180m,アスワン・ハイダムの高さが111mなので,ルクソールの標高は70m程度であろう。

ルクソールからカイロまでは直線でも500kmもあり,その間の標高差はわずか50mほどしかない。この平坦な土地をナイルはほとんど上流からの水の圧力だけで流れている。

ホテル・アトラス

ルクソールには12時に到着した。4時間の列車の移動は比較的快適である。駅を出るとホテルの客引きがやって来る。「宿はアトラスに決めているよ」と告げると,「近道を教えてあげる」と案内を買って出る。8割方ウソだと思いながら彼の後をついて線路沿いの道を行く。

案の定,「ここにきれいなドミトリーがある」と言い出す。「シングルが必要なんだよ」と強く言うと彼は離れて行った。おいおい,こんなところに置き去りにしてどうしてくれるんだ。

ガイドブックの地図には線路沿いの道は記載されていないのでいったん駅前からの道に出て,アフマド・オラービ通りで左折して少し歩くと「Atlas」の看板がある。そこで右に曲がるとアトラスがある。結果として距離的なロスはたいしたことはなかった。

アトラスのフロントはちゃんと英語が通じる。エジプトでは安宿でもほとんど英語が通じたのでずいぶん助かった。部屋は8畳,3ベッド,T/HS,ファンつきで清潔である。料金の15EPに文句はない。

アフマド・オラービ通りの周辺はルクソールの下町といった感じのところで,小さな店や食堂があり,ちょっと歩くと水も食事も手に入る。

この通りを北西にまっすぐ行くと,駅前に通じるマンシェーヤ通りのT字路交差点(今後はT交差点と略して表現する)に出る。ここを右に曲がるとルクソール駅,まっすぐ行くとルクソール神殿に出る。

そこは市内のマイクロバスの路線にもなっているが,英語は通じないし行き先表示も分からないので,利用するのは簡単ではない。

今日はT交差点の少し手前にある食堂でサンドイッチをいただく。ここはあまり衛生的とは言えないけれど,まっとうな商売をしている。いつものフールとサラダを挟んだサンドイッチは2個で2EPと標準価格である。店のおじさんがターメイヤ(ソラマメをすりつぶして油で揚げたもの)を作っている。

揚げたてのターメイヤはおいしいので1個味見をさせてもらう。うん,期待通りのおいしさだ。この食堂は朝早くから始め,15時くらいのは終わってしまう。朝が早い僕にはとてもありがたいところだ。

David Roberts の絵画集

T交差点を北西に歩きルクソール神殿に出る。周辺は囲われているがすぐ近くに遺跡があり,遺跡の半分を鉄格子の柵越しに見ることができる。観光客の多いルクソールではTCの両替はTomas CookやAmexがあるのでとても簡単だ。

ツーリスト・バザールの一部には本屋があり,そこにはこの旅行記のギザやアスワンで紹介した「David Roberts」の絵画集があった。あまりの素晴らしさに,ついつい買い求めてしまった。彼がエジプトや中東を旅行した1838-39年当時の遺跡や人々の様子が分かりとても興味深い。

ルクソール神殿の入口は東側にあると思い回ったところ,そちらは出口になっており,もう半周回らなければならなかった。さらに夕日を見るために出口からさらに半周回ることになり,ずいぶん無駄に歩かされた。

ルクソール神殿の東側は旧バス乗り場の広い駐車場になっており,現在は観光バスが停まっている。その横にはモスクと思われる塔のようなミナレットをもった印象的な建物がある。ガイドブックには特に記されていない。

神殿の北側では地区の再開発が行われている。そういえばT交差点と駅を結ぶマンシェーヤ通りでも大規模な再開発が行われており,建物を取り壊したガレキが山になっていた。

ここでは重機ではなくほとんど人力で建物が取り壊されている。工事の人々はハンマーをふるいコンクリート,レンガ,石材からなる建物を崩していく。中に入っている鉄筋はそのまま再利用するようだ。近くには道具を使って曲がった鉄筋を伸ばしている人もいる。

ルクソール神殿|概要

ようやく入口にたどり着き中に入ることができた。ルクソール神殿はアムン神殿の付属神殿として造られたもので,北側にはアムン神殿と結ぶ2.5kmのスフィンクス街道が延びている。

もっとも,現在はスフィンクス街道は神殿の敷地のところで終わっており,わずかな数のスフィンクスが道の両側に並んでいるのに過ぎない。ここのスフィンクスの顔はファラオのものであることに留意しておく必要がある。なぜか本殿にあたるカルナック神殿のスフィンクスは牡羊の頭になっている。

神殿は新王国時代のファラオにより何度も増築が行われている。おまけに西と東にはローマ時代の砦跡までがついている。平面図で見ると最南部に小さな至聖所とアムン神の礼拝所があるのでここが神殿の最重要部であろう。

南から北へ至聖所,前室,列柱室,アメンホテプ3世の中庭,列柱室,アメンホテプ3世の塔門(第二塔門))と続いている。おそらくここまでがオリジナルもしくは初期の神殿であったところであろう。

歴代のファラオはそこから北へ北へと建物を増築していったようだ。その北側にはラメセス2世の中庭,ラメセス2世の塔門(第一塔門)と続き,その北側にネクタポ1世の中庭がある。ラメセス2世の中庭にはガーマ・アブー・イル・ハッガーグというイスラム教のモスクまで増築されている。

ルクソール神殿|ラメセス2世の塔門

という複雑な増築形態をいちおう頭に入れてから中に入ることにしよう。ラメセス2世の塔門(第一塔門)の入口の両側にはもうおなじみのラメセス2世の坐像が迎えてくれる。この坐像も大きい,高さ10mくらいはある。

ラムセス2世像の台座には,二人の神が上エジプトと下エジプトを象徴するロータス(ハス)とパピルスを結び付けているレリーフがある。このデザインは上下エジプトの統一を表す「セマ・タウイ」と呼ばれるもので,古代王朝時代を通じて玉座の側面などによく使用されていた。

坐像の両側には一対のラムセス2世のオベリスクがあるはずだが左側の1本しかない。右側の1本はパリのコンコルド広場にあるという。これはフランス国王シャルル10世とエジプトの太守ムハンマド・アリとの間で合意の元に移築が決められたという。略奪ではなく寄贈であった。

まあ,当時のルクソールの二つの神殿はほとんど瓦礫の状態であり,イスラム教徒のムハンマド・アリにしてみれば異教の神殿の石などはそれほど価値のあるものとは考えなかったので,気軽にあげることになったのではと推測する。

それに対して,フランス側もお礼としてエジプトに大時計を贈り,それはカイロのシタデルにあるガーマ・ムハンマド・アリの中庭にあるとされている。僕はシタデルには入らなかったのでこの時計は目にしていない。

そもそも,僕はずっとこのオベリスクは1798年のナポレオン遠征の際に勝手に持ち出されたとずっと思い込んでいた。いずれにしても,高さ25mの大振りのオベリスクの重量は約250トンある。フランスも相当の苦労をしてこれを運んだことだろう。

古代エジプトで巨大なオベリスクをどのようにして立てたかについてはよく分かっていない。映画「十戒」では大勢の奴隷が片方から棒で押し,片方から何本もの太いロープで引くシーンがあった。しかし,そのような方法で本当に立てることができるかは検証されていない。

このオベリスクは硬い赤花崗岩でできているため,そこに刻まれているヒエログリフはほとんど風化されずにきれいに残っている。同じように赤花崗岩に刻まれたレリーフも保存状態はよい。

ルクソール神殿|ラメセス2世の中庭

塔門を抜けるとラメセス2世の中庭に出る。そこにはガーマ・アブー・イル・ハッガーグが場違いな姿を見せている。このモスクができた頃は,この神殿はほとんど瓦礫の山であり,石材を入手するのが容易だったのかもしれない。

オリジナルの中庭は周囲を列柱で囲まれていたようだ。円柱状の列柱は一つの石材を削ったものではなく,複数のブロックに分けてそれを積み上げている。

石柱の上部には石材の梁が渡されている。列柱+梁の構造はローマの建築物に良く見られる。こうしてみると列柱建築の源流はエジプトにあるようだ。

ここの石柱は柱頭部分に膨らみをもたせるという装飾的要素をもっている。それは葉が開く前のパピルスをイメージしたものといわれている。

カルナック神殿にはアスワンのイシス神殿と同様の葉の開いたパピルスをあしらった柱頭飾りがあったので,植物をデザインしたギリシャ式の柱頭飾りの起源は新王国時代のエジプトに求めることができるようだ。

ギリシャの柱頭装飾もローマの列柱建造物もその起源はエジプトにあると考えると,やはりこの国の古代文明の偉大さに畏敬の念を感じないわけにはいかない。

列柱の間に立っているファラオの像は完全なものは少ない。人為的なものか自然に倒壊したものか即断はできないが,第一塔門のラムセス像が顔の部分だけが傷ついていたことなどから人為的な破壊である可能性が高い。

南面のラメセス2世像はほぼ完全な形で残されている。ファラオの威厳をたたえながら左足を一歩前に出した姿はエジプトではよく見られる。それにしても石像の顔はずいぶん若々しいものになっている。

統治期間の長かったラメセス2世なので,壮年期のものが主流になるのが自然だと思うのだが,ここのものは20代くらいに見える。それとも,ファラオは神の化身なので,いつまでも年をとらないとでも言いたいのであろうか。

ルクソール神殿|第二塔門

第二塔門の横にはツタンカーメン王とアンケセナーメン王妃が寄り添う像があった。ラメセス2世の像と異なり,王妃は王と同じ大きさで造られている。18歳で早世したツタンカーメンは,この神殿で結婚式をあげたとされているので,そのときのものでろう。まだ少年の面影を残している像は印象的だ。

ルクソール神殿|列柱廊

塔門の先は巨大な列柱が狭い間隔で並んでいる列柱室となる。南に向かって撮る写真は逆光になるので,列柱を通り抜けて反対側から写真を撮る。この石柱も円筒型のブロックを積み上げたもので,かつ一つの円柱は垂直方向に2分割されているようだ(単に割れただけだったりして)。

ルクソール神殿|アメンホテプス3世の中庭

アメンホテプス3世の中庭は二列の列柱に囲まれており,梁のように柱頭に渡された石材もきれいに残っている。床もきれいな石畳となっており,3500年近い歳月の経過を考えると,信じられないくらいに保存状態はよい。

周辺の壁は崩れてしまっているのでオープン状態になっており,周辺に並べられた数多い未修復の石材の向こうに,神殿の東側にある現代のモスクの白いミナレットが輝いている。

神殿最奥部のレリーフ

この先は小さな部屋に分かれた神殿最奥部となる。壁面はすべてレリーフとヒエログリフで埋め尽くされており,一部は往時の彩色がわずかに残っている。光の具合が良くないので,きれいに写真にするのは難しい。また,それらの内容もガイド無しではとても読み解けるものではない。

ナイル川の夕日

日が傾いてきたのでナイル川の夕日を見に行く。ルクソール神殿の出口は東側にあるので,もう半周して川べりに出る。ここでの川幅は300mほどである。世界最長のナイル川もそれほど大きいというイメージはない。

それでもナイルの年間流量は800億トンもある。日本の代表的な大河である利根川,信濃川,阿賀野川の年間流量は100-110億トンなのでやはりナイルは巨大な流れである。ちなみに三峡ダムのある長江の年間流量は4500億トンもある。

年間流量を単純に日割り計算すると日当たり流量は2.2億トンとことになる。アスワン・ハイダムが無い時は,渇水時=4000万トン/日,洪水時=7億トン/日とされているので,ハイダムの水量調整効果はそのマイナス面は置いておくにしてもみごとなものだ。

このダムにより流域では安定した灌漑ができるようになり,農業は年間を通して可能になり,生産量の増加に大きく寄与したのは事実である。ナセル湖は極度の乾燥地帯に位置しているため,湖面からの蒸発量は流入水量に対して無視できない大きさになる。

B.エンツ博士の論文では,ダム湖の水面標高が160mの場合,表面積は約3000km2になり年間換算蒸発量は66億トン,水面標高が180mの満水時には,表面積は約6000km2になり年間換算蒸発量は157億トンとされている。

ナセル湖が満水になることはほとんどないので年間間蒸発量は約66億トン程度で,ナセル湖の年間流入水量860億トンから蒸発量を引いた約800億トンがナイル川の年間流量とされている。

この水がエジプトの得られる全水量であり,それを流域の国々と分け合って,持続可能な方法で国を運営していなければならない。農業の基本となる小麦の栽培には大量の水を必要とする。

通常の耕作地では小麦1トンを生産するためには約1000トンの水が必要である。エジプトのような乾燥地帯ではその2-3倍の水が必要となる。

現在のエジプトは小麦だけでも600万トン程度は輸入しているので,これはおよそ150億トンの水を輸入しているのと等価である。ナイル川の水をほとんど一人占めしているようなエジプトですら,7000万人の人口を養うことのできない自然環境にあることは自明である。

参考までにエジプトの主要食料品の生産データ(2002年)は次のようになっている。コメは近年急速に生産が伸びており,それは小麦よりずっと水をたくさん必要とする。

食糧の区分 生産量(万トン) 輸入量(万トン)
小麦
コメ
トウモロコシ
ジャガイモ
サトウキビ
618
570
684
190
1571
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暮れ行くナイルの川面を渡し船がこちらにやってくる。この渡し船は地元の人々が使用しており,片道1EPで両岸を結んでいる。背後には「王家の谷」につながる岩山が連なっている。

渡し船が到着すると先生に引率された小学生が船から下りてくる。今日は西岸の遺跡見学だったのであろう。ルクソールは日本でいうと京都のようなところだ。しかし,修学旅行のようなお金のかかる制度はないエジプトでは,ルクソールを見たことのある子どもはほんの少数であろう。

夕日はファルーカと小さなボートをシルエットにしながらナイル川の西岸にいよいよ沈みそうになる。黄金色に輝く空と川面の景色を十分に楽しませてもらった。

少し川沿いを歩いてから帰ることにする。船着場にはマストを垂直に立てたファルーカが20艘ほど係留されている。ファルーカはヌビア地域の風物詩だと思っていたらここでもずいぶん活躍しているようだ。

ルクソール神殿の横を通ったので名残の何枚かを撮る。宿の帰りがけに水(1.5リットル,2EP)とマンゴー・ネクター(1リットル,5EP)を買った。エジプトでマンゴーのジュースを飲めるとは考えもしなかったので,嬉しい誤算である。

ジュースではなく果肉もそのまま使用しているので,ねっとりした甘さは病み付きになる。2日もつかななどという考えは甘かった。次の日のお出かけ前にはもうパックは空になっていた。

ルクソールは観光地のため食堂はたくさんあるが値段は高い。ちょっとしたものでも20EPを越えるので簡単には手が出ない。ハーフチキン,ライス,サラダ,ナス炒めのセットメニューを15EPでやっているところが見つかりそこで夕食にする。

宿に戻り洗濯を忘れていることに気がついた。シャワールームで足踏み式で洗い,部屋に掛けておいたら翌朝にはすっかり乾いていた。やはり,湿度はとても低いんだね。


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