亜細亜の街角
十戒の山からご来光を仰ぐ
Home 亜細亜の街角 | St Catrine / Egypt / Oct 2007

モーゼの出エジプト

逆三角形の形をしたシナイ半島の南部に「セント・カトリーナ」というキリスト教の聖地がある。そこには4世紀に開かれたセント・カトリーナ修道院があり,現在でも修道僧が主の教えに従った暮らしをしている。

シナイ半島の南部の荒地にこのような修道院が開かれたのは旧約聖書にの「出エジプト記」に由来している。モーセに率いられたイスラエルの民はシナイ半島の荒地を40年間さまよい,最後に「約束の地カナン」にたどり着く。

「出エジプト記」にはモーセとイスラエルの民がたどった道がはっきり分かるようには記載されていない。しかし,宗教学者や考古学者はそこに記載されている断片的な地名を分析して,彼らの移動ルートを推定している。

旧約聖書を読み解く場合には歴史的な事実とそれに基づく脚色というか創作の部分を分けて考えなければならない。しかし,ことは世界宗教であるキリスト教にも関わってくるのでその分離は容易ではない。

史実はここまで,あとはフィクションとしてしまうと,宗教の教義を形成している重要な部分を否定することにつながってしまうからである。「出エジプト記」についても歴史上の事実として挙げられそうのは次の2点だけである。
(1) イスラエルの民がある時期エジプトに居住していた。
(2) 紀元前14-13世紀に現在のパレスチナに移動した。

エジプトに居住していたとき「イスラエルの民」が当時のエジプト人と同じであったかそれとも異なる民族であったかすらはっきりしていない。

モーセとイスラエルの民がさまよった荒野に出てくるいくつかの地名はおそらく実在のものであったことだろう。ただし,それが実際にモーセの移動ルートと一致いているかといえば必ずしもそうではない。事実としての地名,井戸などの情報を物語の中に上手に組み入れたと考えるべきである。

もう一つ考えなければならないのはユダヤ教が「一神教」であることだ。これは古代の西アジア,ヨーロッパ世界では特異なことであり,エジプトのファラオ・アクエンアテンが宗教改革に取り組んだ時期のアテン信仰以外に類例はない。

アクエンアテンがエジプトの多神教を棄却し「アテン」を唯一神として定めたのは紀元前14世紀頃のことである。従来からあるエジプトの神々の影響を排除するため,都をテーベ(現在のルクソール)からアマルナに移転させた。

アテン神は宇宙の主催者,万物の創造主である唯一神であり,人間も動物も分け隔てなく抱擁する絶対平等,絶対愛の普遍的な神格であるとされた。この神のイメージは現在のキリスト教やイスラム教の教義に酷似している。しかし,アクエンアテンの過激な宗教改革は失敗し,エジプトは元の多神教に戻る。彼の名前も宗教改革の記録もすべてエジプトの歴史から抹消された。

ここで興味深いのがアクエンアテンの宗教改革が失敗した時期とモーセの出エジプトの時期がほぼ同じとなっていることである。アクエンアテン自らの作とされる「アテン讃歌」がアマルナに残されており,これと様式の類似している讃歌が「旧約聖書・詩篇」に記されていることも指摘されている。

こうしてみると「イスラエルの民」となった集団はエジプトに居住していたときに,アクエンアテンの一神教の影響を受け,宗教改革が失敗に終わったときエジプトにいられなくなっため,別の地域に移り住んだという仮説が出てくる。

紀元前14世紀頃にある集団がエジプトを出たという記録はエジプト側には残されていない。これは,アクエンアテンとアテン信仰に関する記録をすべて削除したという事情によると説明することもできる。

参考としてアテン讃歌(「古代オリエント集」筑摩世界文學体系1(屋形禎亮,杉 勇 訳)と旧約聖書詩編第104章24節の文章を比較すると左のようになる。

しかし,ここで旧約聖書の「出エジプト記」の大半が脚色や創作にしてしまうと,僕の旧約聖書の史跡巡りも成立しなくなってしまうのでこの旅行記では旧約聖書の記述に沿って説明することにする。

聖書の記述から主要な地名をピックアップするとモーセの移動ルートは次のようになる。
(1) ラムセス市を出発する
(2) 葦の海でファラオの軍隊が壊滅する
(3) メラの泉で木を投げ入れ甘い水に変える
(4) エリムのオアシスに到着する
(5) レピデム(ワディ・フィラン)でアマレク人と戦う
(6) 神の山ホブレ(シナイ山)で十戒を授かる
(7) エイラート周辺
(8) ネボ山でモーセが亡くなる
(9) ヨシュアに率いられてカナンの地に入る

「ネボ山」はアンマン滞在中に訪れたし,「メラの泉」はスエズから日帰りで訪れた。「シナイ山」は完全に逆コースになるので止めるつもりでいたが,やはり出エジプト記のハイライトなので悔いの残らないように訪問することにした。

神の山ホブレは主が降臨する山として旧約聖書でも最重要な聖地の一つである。エジプトを逃れミディアン(現在のアラビア半島)でツィポラという女性と結婚し,羊飼いとして暮らしていたモーセは主の導きによりこの山に登ることになる。

主はモーセに対してイスラエルの民を救うためファラオのもとに行き,イスラエルの民をカナンの地(広々としたすばらしい土地,乳と蜜の流れる土地)に導くよう命じられた。

このときモーセは主の姿は拝していない。彼が見たものは「燃えているが燃え尽きることのない柴」であり,そこからの声を聞くことになる。

モーセはエジプトに行き,ファラオ(ラムセス2世)と対決してついにイスラエルの民をエジプトから去らせることに同意させる。モーゼはイスラエルの民を率いてカナンの地を目指す。神の山「ホブレ」に再び登ったモーゼは主との契約にあたる十戒を授かる。

モーセは長老たちを残して彼一人だけが神の御前に立った。最初の7日間,主の栄光が山の頂を包み,燃える火のように人々には見えたと記録されている。こうして40日40夜モーセは山の上に留まった。

モーセは山に入って40日が経過したことはイスラエルの民にモーセがもう生きてはいないのではと考えさせるのに十分な期間であった。人々はエジプトでよく行われていた金の仔牛の像を作り,それを拝するという大罪を犯した。

神から十戒を授かりシナイ山から降りてきたモーセは人々が偶像に供物を捧げ,祭りに興じているのを見て怒りに燃え,二枚の石板を砕いて水に入れて民に飲ませたという。

セント・カトリーナ

シナイ山(ガバル・ムーサ,モーセの山)は標高2285mの花崗岩の岩山であり,巨大な山塊の外れにある。キリスト教が成立してからかなり早い時期にシナイ山は聖地として登場しており,巡礼者が訪れるようになった。

4世紀に東ローマ帝国のヘレナ女帝の命令により「燃える柴」の周りに聖堂をが築かれた。そこは巡礼者のための登山道の登り口にあたるところであった。6世紀には聖堂の周りに城壁を築かれ,現在の修道院の骨格が出来上がった。

モーセ縁の地にある教会堂に「聖カトリーナ」の名が付いたのは聖女にまつわる伝説による。彼女はアレクサンドリアの貴族の娘で美貌と博識で知られていた。309年,ローマ皇帝マクセンティウスの求婚を退けたため20歳に満たない時に処刑されたと伝えられている。

伝説によれば彼女がまだ洗礼を受ける前に,幼な子イエスを抱く聖母マリアを夢に見た。聖母がイエスにカタリナを嫁として迎えるかとたずねたところ,幼な子は彼女はクリスチャンではないと答えた。

目を覚ましたカタリナは洗礼を受けてキリスト教に改宗した。ふたたびキリストが夢枕に立ち,彼女に指輪をはめ天の花嫁として迎え入れてくれた(聖カタリナの神秘の結婚)。目が覚めたカタリナは指輪があるのを見て,終生これをはめつづけたという。

ローマ皇帝がキリスト教徒の迫害に乗り出し偶像崇拝を強要したところ,カタリナはこれを拒絶し,学識ある弁論をもって皇帝にその非道を説いた。彼女は50人の哲学者を論破し,彼らをキリスト教に改宗させたという。

次の手段として皇帝はカタリナに結婚を申し込み誘惑しようとした。彼女は「自分はすでにキリストと婚約している」と言って皇帝の求婚をはねのけた。彼女は投獄され,釘を打った車輪に縛りつける残酷な刑に処せられたが,天からの稲妻によりこの器具は打ち砕かれた。

結局,彼女は斬首にされ,彼女の遺体は天使たちがシナイ山に運んだとされている。これにより,この地に聖カトリーヌ教会が建てられることになった。彼女は長い間キリスト教の聖女として列せられてきた。しかし,ローマ法王庁は実在性が疑わしいとして1969年に聖人の列から除外している。

彼女の名前はキリスト教圏では女性の名前として現在にも受け継がれている。ただし発音はそれぞれの言語により異なっている。ラテン語はカタリナ,イタリア語はカテリナ,英語はキャサリン,フランス語はカトリーヌ,ロシア語はエカテリーナとなっている。

スエズ(250km)→セント・カトリーナ 移動

10:30にチェックアウトしアルバイーンからミニバスでイースト・デルタのバスターミナルに行く。セント・カトリーナ行きのバスは14時発だという。チケットはまだ売り出されいないようだ。なんといっても英語はよく通じない。

ここのイスの回りも異常にハエが多い。しかもここのハエは平気で人間の身体や読んでいる本にまで止まり非常にわずらわしい。アフリカに入るとハエのふるまいが変わったように感じる。この旅行には「ジュラシック・パーク」のペーパーバックスを持ってきたが,この一冊はなかなか読みきれない。

もう旅行も2週間しか残っていないのに400ページのうち250ページまでしか進んでいない。いろいろな場所でけっこう待ち時間はあったし,日記をさっさと書き上げた夜の時間も使用できたはずだが,なかなか思うようにはいかない。

ここはイースト・デルタのバスターミナルになっており,けっこう立派な駐車場もある。バスが何台も停まっており各地への便は多い。当然,ほとんどのバスはイースト・デルタのものであるが,中にはアッパー・エジプトやウエスト&ミドルデルタのバスもいる。

出発の30分前になったので再びチケットの窓口に行くと,「セント・カトリーナ行きのチケットはそっちだよ」と隣の窓口を教えてくれた。チケットは25EP,シナイ半島を67EPで横断して,再び25EPで戻るのだからつまらない出費になっている。

Hotel Moon Land

バスはスエズを抜けるのに1時間近くかかり,セント・カトリーナが近くなると何回も検問を受けた。結局,到着は19時になってしまった。予定していたシェイフ・ムーサのドミはいっぱいだったので,ムーン・ランドのシングルに泊まることにした。

ここの部屋は8畳,3ベッド,T/HS共同,清潔である。ただし,料金は25EPと高くつく。夕食はどうなるかと思っていたら,従業員の男性が残り物のスパゲティを出してくれた。

一つの鍋に茹でたスパゲティ,別の鍋にトマトソースがあったので,自分で両者を混ぜて暖めなおす。味はともかくお腹がふくれたので,明日に備えて21時に就寝する。

シナイ山の夜間登山

宿の主人には「02:30に起こしてくれ」とお願いしておいた。しかし,緊張しているとそれなりの時間に目を覚ますもので,真夜中に起き出して準備をする。ツアーのバスがホテルの中庭に停まっており,洗面所が混雑している。ここはツアーバスの最後の休憩所になっているようだ。

標高が高いので外気はかなり寒い。長袖のスエット,フリースその上に冬用のフリースを着込んで出発する。もちろん,非常食のビスケット,角砂糖,チーズ,夜間登山のためのトーチなどが揃っていることを確認する。

僕の持っている中国製のLEDタイプのライトは小型ながらけっこう明るいので重宝している。なんといっても登山道には灯りはいっさい無いので,携帯のライトは必需品だ。

宿から修道院に向かう道はナトリウム灯が明るく輝いており,歩くのに支障はない。途中から街路灯がなくなり,ここからは早くもライトが必要かなと思ったところにツアーのミニバスが止まってくれ,ゲートまで運んでくれた。

シナイ山のご来光は05時過ぎになるのでそれまでに山頂に立たなくてはいけない。ということで登山者は03時前から登り出すことになる。ゲートの周辺には多くの登山者に混じってラクダとラクダ使いの姿がある。急な山道をラクダで上るというのだから,ラクダにとっては大変な仕事だ。

ガイドブックには山頂までの道はとてもきついと書かれていたので,比較的高齢者の多い韓国人のグループについて行くことにする。登山道は石段コースとラクダ道コースがある。石段は距離は短いが急なので多くの人はラクダ道で登ることになる。

修道院を過ぎたあたりにもたくさんのラクダがたむろしており,「キャメル,ラクダ」などの声がかかる。えっ,アラビア語でラクダというのかなと思ったら全然見当外れであった。

アラビア語では「ジャメル」といい,これが英語の「キャメル」の語源だという。もっとも「キャメル」はギリシャ語に基づいているという説もある。

ラクダはやはり日本語であり,漢字の「駱駝」は中国でも同じ表記なので中国由来の言葉のようだ。中国西部のラクダはふたコブなので「双峰駱駝」となる。

周辺はまったくの闇である。満天の星とライトに照らされた自分の足元以外は見えない。ラクダは人よりずっと早く歩く。なんといってもコンパスが違う。道幅はそんなに広くないので追い越される時は道を譲らなければならない。ラクダ上の観光客から「excuse me」の声が聞こえる。

見通しのよいところでは斜面を一列に連なるライトが見える。これはとてもきれいだ。灯りはゆっくりと動いている。この韓国人の団体は20-30分ごとに休憩をとる。カロリーがショートしないようにときどき角砂糖を口に含む。

歩き出すとザックの紐を引っぱられた。韓国人のおばさんが僕をガイド兼介助者にしようとしている。しかし,どうも僕より若そうだ。立場が反対なのではと思いつつも,たいした負荷にはならないのでそのまま登ることにする。

そのうち負荷はだんだんと大きくなる。十字架を背負ったキリストの心境である。道のところどころには茶店があり,飲み物や軽食を売っている。値段は高い,ふもとからロバを使って荷上げするのだからこの値段はしかたがない。

しばらくすると戻ってくるラクダがあり,狭い山道は混乱する。それでも周囲が見えないので登ることだけに専念するため意外と苦しくはない。ラクダ道は最後のところで石段の道と合流する。残りは石段で800段,全体の1/4が残っている。

石段では後ろのおばさんが過負荷になったので地元の(有料の)介助者にお願いする。ここから先は混雑がひどくなり,前の人のペースでゆっくり登るしかない。05時を過ぎると東の空が白み始めライトは不要になる。

頂上付近になると大渋滞だ。狭い山頂付近に人が集まり,みんなご来光を見るため東側に場所を確保しようとしている。山頂にある教会の後ろ側でようやく自分のスペースを見つける。

歩くのを止めるととたんに寒さを感じるようになる。ザックから冬用のフリースを取り出す。さすがに長袖を三枚着ているので耐えられる。周囲には毛布にくるまっている人が何人かいる。これは地元の人が商売でやっているものだ。寒さを利用してうまい商売を考えたものだ。

シナイ山のご来光

05:20,地平線の部分だけが赤く染まる。グラデーションをもつ薄い茜色の一筋の帯になっており,しかも,その上は群青色の夜の空が広がっている。手前の山並が暗いシルエットになっている。これは感動的だ。回りの人たちは一斉に写真を撮る。

僕も刻々と変化する周囲の風景を含め写真を撮っておく。05:35を過ぎると空は白っぽくなり,神々しい雰囲気は薄れる。手前の山並みがシルエットから黒っぽい山並みに変わる。

周囲の人の視線は一様に東に向いている。やはり,キリスト教圏の人たちにとってはこの山頂からのご来光は格別な意味をもっているのであろう。

05:45に太陽の上部が顔を出した。カメラのシャッター音が一斉に響く。頼りなさげな太陽が球体に見えるようになるとみんな下山を開始する。おそらく聖カトリーナ修道院の見学とツアーバスの時間の都合があるのだろう。

朝日に染まるシナイ山本体

しかし僕が本当に撮りたい写真は朝日に染まる背後の岩山である。特に山頂の北西方向にある岩山はいかにも聖地らしい雰囲気がある。

「歩き方」には素晴らしい出来栄えの写真が掲載されており,この写真が僕をシナイ山に向かわせる決め手になった。この岩山が赤く染まるようになるのは05:50頃からである。

光が当たり始める瞬間がもっとも神々しい輝きを放つがなかなかそう簡単にシャッターチャンスはなかった。少しずつ光の当たる面積が広がっている岩山をしばらく見ていた。日が強くなるともう岩山は赤褐色の岩肌に変わってしまう。山頂の教会の写真を撮ってから僕も下山を開始する。

下山を開始する

山頂から一段低くなった平らな場所にはまだ大勢の人々が残っている。この山頂でご来光を迎えた人の多さは驚くほどだ。人々は下山途中もこの風景を惜しむように道から外れて立ち止まり,カメラを向けている。

巨大な岩の上に坐り,じっと東を見ている地元の人がいる。前方には大きな岩山が視界をふさいでいるはずだ。地元の人なので彼がそこに坐るのは初めてではないだろう。

見慣れた景色の中で彼の視界にはいったい何が写っているのだろう。やはりこのような風景は人を詩人あるは哲学者に変えるのかもしれない。近くの岩の上にも一人でたたずむ観光客もいる。

風景を眺めながら下山する

見通しのよいところに出ると夜中に登ってきたラクダ道が稲妻状に行き来する道が見える。山の直下は広い斜面になっているが,その下は山の間を縫うように道が続いている。

帰り道はなまじ景色が見えるのでかえって疲れた。垂直にそびえるシナイ山の崖を見ながら狭い道を下っていく。下から荷物を乗せたロバが飼い主の女性と一緒に登ってくる。女性の色鮮やかな民族衣装に引かれて,背後から写真にする。

ラクダがたくさん腹ばいになって休んでいる。僕は山頂から降りるほとんど最後なのでこれから先は客が来そうもない。今日の仕事はもうお終いだろう。正面の岩山もなかなか絵になる。中心部が盛り上がっていれば映画のシナイ山のイメージに似ているなあ,などとしょうもないことを考える。

修道院の周辺はラクダの休憩所になっている

セント・カトリーヌ修道院

ようやくセント・カトリーヌ修道院まで降りてきた。城塞のような擁壁が見えるところにはベドウィンの人々やラクダがたくさん休んでおり絵になる。しかし,修道院の方はうまい構図にならない。後ろの岩山に登ってみても周囲の壁が高過ぎて内部を見ることはできない。

修道院の入口には入りきれない観光客が列を作っている。内部が狭いので入場制限をしているのだ。だいたい15分くらいで列が動き中に入ることができた。内部は建物が多く,中庭や通路といったスペースはずいぶん狭い。

建物の内部はほとんど写真禁止であるが,外観はOKである。しかし,距離が足りなくて撮影は思うようにはいかない。とりあえず聖カトリーナ教会堂に入ってみよう。

ここはギリシャ正教のバシリカ(平面図が長方形で切妻屋根をもつ)様式の教会で正確に東向きに至聖所がある。この建物に合わせて擁壁を造ればすっきりした配置になるのだが,なぜか壁は45度ずれており,しかもいびつな長方形になっている。

混雑している入口を通ると内部はギリシャ正教の教会になっている。至聖所は見ることができるが,中央の導線は柵で囲われており立ち入り禁止になっている。

両側の壁には古いイコンが飾ってある。しかし,内部は暗いので詳細な部分は見ることができない。写真は不可なのでどのようなものがあったかは記憶を呼び起こすことはできない。

なんといっても次から次へと人が入ってくるのでここは長居ができない。外に出てもう一度入口に行き,その上部にあった光に満ちたキリストのフレスコ画を撮る。

その近くには「燃える柴」に見立てられているツタのような植物がある。中心部から細い枝が垂れ下がり,人々はその枝に触れようと懸命に手を伸ばしている。内部の主要な建物は石造りになっているが,この木の上は日干しレンガ造りに見える。

修道院の外に出て正面の岩山に登ると,修道院の全景を背後の岩山付きでフレームに入れることができる。修道院本体の右側には現在修道僧が暮らしていると思われる建物が並んでいる。

この岩山も風化した花崗岩でできており,青空を背景にどっしりと構えている。無数の襞が少しずつ岩山が削られていることを物語っている。日本のように人を包み込むようなやさしさは一切なく,ひたすら人を拒絶する自然の中に身を置くと日本にいるときは思考形態が変わってくるような気がする。

和辻哲郎氏(1889-1960年)はその名著「風土」の中で世界をモンスーン,沙漠,牧場という三つに類型化し,日本をはじめ世界各地域の民族,文化,社会の特質を見事に浮彫りにした。

このような環境に身を置くと確かに環境が人間の考え方や社会形態に大きな影響を与えるという彼の考え方はよく理解できる。そして,そのような人間の行動様式と自然環境が複合したものが「風土」を形成しているという。

彼が亡くなって半世紀が過ぎようとしているいま,石油とテクノロジーは都市という人工空間を造り上げ,世界の半分を均質化してしまった。和辻氏が現在生きていたら,この都市空間をどのように論じてくれることだろうか。

セント・カトリーナの町を歩く

セント・カトリーナには小さいながら集落がある。修道院から1kmくらいの取り付け道路をのんびりと歩いて帰る。集落を横断する道路は集落の規模には不釣合いに広く,立派だ。これはセント・カトリーナ地域が2002年に世界遺産に登録された効果であろう。

その立派な道路から見ると,宿の北側にちょっとした近代的な家が並んでおり,そこから宿の前を通り東にしばらく行くと商店街がある。道路の南側にはシナイ山から続く山塊の終端が立派な姿を見せている。集落の説明はこれでお終いである。それほど小さい町だ。

宿の西側に食堂もどきの建物があるので入ってみる。おじさんがカタコトの英語でメニューを説明してくれる。チキンの片足,パン,トマトサラダで10EPはしかたがないところだ。

宿で昼寝をしてから集落の散策に出かける。下校中の小学生がいたので写真を撮らせてもらう。特に写真対する拒否反応はなく三人が並んでくれた。商店街の近くにはモスクがあり,この建物も新しそうだ。なんだか,世界遺産に合わせて建物の多くを新築したような感じを受ける。

子どもたちがいなくなってしまうともう写真に撮りたいものは無くなったので,宿の北側に行くことにする。宿の敷地のすぐ向こうにベドウィンの小さな家があり,近くで子どもが遊んでいるのでおじゃまする。

近づくと犬が吠える。その声で母親が出てくる。子どもは10才と6才くらいであり,水をもらってヨーヨーを作ってあげる。二人が余りにも喜ぶので,ついでにフーセンもあげる。

こちらは自分でふくらますことができるのでやはり気に入ってくれたようだ。母親が三人の写真を撮りなさいと言うので,記念撮影はしたものの,成人女性はさすがにネットでは公開できない。

この家の横の斜面を登り周辺の風景を眺めてみる。背景の岩山の手前に何やら奇妙な形をした家屋のような建物がたくさん並んでいる。探検に行くかなとも思ったが夕食の時間なのでやめにした。

ムーン・ランドには食事はないので町に食べに行く。昼食をとった食堂はすでに閉まっている。近くのスーパーマーケットでインスタント・ラーメンの値段を聞いたら,5EP(100円)と日本の2倍の値段である。何かの間違いだろうと再確認したらやはり5EPである。う〜ん,物価のムチャクチャなところだ。

商店街では明るい感じの「コシャリ」の店だけが営業していた。茶碗一杯のコシャリは3EPと高い。このコシャリはガイドブックではエジプトの国民食などと持ち上げられているが,たいしておいしいのもではない。そもそも,冷や飯,スパゲティとマカロニの細切れを混ぜて,トマトソースをかけたものがおいしいはずもない。しかし,今日はこれしかない。

早朝の移動

翌日は聖カトリーナからカイロ経由でアレクサンドリアまでの大移動である。聖カトリーナ発カイロ行きのバスは06時に出る。昨日に引き続き宿の管理人に「05時に起こしてくれ」と頼んだら目覚まし時計を貸してくれた。

目覚ましの少し前にちゃんと起きてバスターミナルまで歩く。管理人には昨日のうちに宿泊費を支払っておいた。宿の前には月明かりの山が黒いシルエットになっている。この山はシナイ山から続く山塊の北西の外れにあるものだ。


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