亜細亜の街角
ヨルダンに息づくキリスト教会を訪ねる
Home 亜細亜の街角 | Amman / Jordan / Nov 2007

マダバに向かう

07時に起床,共通スペースで小さなホットケーキもどきをいただく。味は無いに等しいが,チーズや干しブドウをはさむとそれなりに食べることができる。ヨルダンではラマザーンが厳格に守られているため食事には苦労した。

夕食は少し遅れると食堂が閉まってしまう。食堂の経営者もラマザーンのため日中は食べていないので,30分ほど客に食事を出して店を閉めてしまう。朝食や昼食を食べさせてくれるところは(外国人用の高級ホテルはどうだか分からないが)無い。

今日はアンマンの南30kmのところにあるマダバの町とネボ山を見に行くことにする。「歩き方」によるとマダバ行きのバスは「ワヘダットBT」から出ているという。そこは宿からは南に4kmくらいのところにある。

アンマンではセルビスもターミナルから発着しており,ダマスカスのように路上でつかまえるというわけにはいかない。ということでタクシーを利用することにした。運転手に「マダバに行きたいのでムジャンマ・ワヘダットに行ってください」と告げると,彼はかなり遠くのムジャンマ・シアルに行ってくれた。

英語がよく通じないがどうやらワヘダットは移転したようだ。おかげで料金は1.3JD(メーター料金)もかかってしまった。ムジャンマ・シアルは丘の上にある大きなバスターミナルでミニバス,セルビス,タクシーがたくさん集まっている。運転手はマダバ行きのミニバスのところまで僕を運んでくれた。

マダバ行きのミニバスはじきに満員になり発車した。料金は0.4JD,バスは中心部から1kmほど離れたロータリーで終点となった。ここが町のどちらの方角かはさっぱり分からない。

ロータリーの北側は収穫の終わった畑になっておりベドウィンのテントが何張りか見える。。家畜の群れとベドウィンの男性のところに歩いていく。茶色一色の地面から羊や山羊が何かを食べている。

家畜の数はそれほど多くはなく,見るからに彼らの生活は大変のようだ。雨の少ない夏場は青草は望めないので麦わらが羊たちの飼料になっている。ベドウィンの男性が指差すところにある袋には麦わらが入っているようだ。

しかし,この飼料は羊たちのお気に入りではない。彼らの周囲にはたくさんの麦わらが散らばっている。多くのベドウィンが定住化する中でまだこのような生活を続けている人たちもいる。

ベドウィンとは民族名ではない。家畜と一緒に移動生活を送って暮らしている人々を意味する。彼らが定住生活を始めたらもうベドウィンではなくなるのだ。

マダバを歩く

マダバの町の歴史は古く,旧約聖書の出エジプト記のヨシュアの章に「メデバ」の名で登場している。メデバは「水の多い流れ」を意味しているので水の豊かなところであったのかもしれない。

交通の要衝であり豊かな農耕地帯であったため,多くの民族がこの地を支配しては消えていった。マダバの最盛期はビザンツ時代の5-6世紀である。その頃,ここは地域のキリスト教の中心地であり,多くの教会が建てられた。

その後,ササン朝ペルシャの侵入や地震により荒廃するが,19世紀に南のケラクから入植したキリスト教徒によって再建された。そのような歴史をもつマダバは現在でもキリスト教徒の多い町となっている。近年は観光客が増えてきたため,町にはたくさんの土産物屋が並ぶようになった。

さて,このロータリーからどちらに歩こうかと思案に暮れる。とりあえずネボ山行きのバスについてたずねてみると,どうやら運行していないようだ。次にガイドブックの写真を見せて道を尋ねると「あっちだよ」と教えてくれた。

彼の指差す方向(おそらく南西)に向かって歩くと教会が見えた。このあたりが観光の中心地のようだが,かなり傾斜のきつい坂になっている。しかも,道は複雑で一筋縄では教会にたどりつけない。

こうしてたどりついた「ラテン修道院」は少し赤っぽい石造りのきれいな建物であった。三角屋根の下には両手を広げるイエス・キリストと四人の聖人のフレスコ画もしくはモザイクが飾られている。

その上部の十字架は縦横の長さの等しい正十字であり,末端に行くほど広がっているのでプロペラをデザインしたもののようだ。残念ながらこの修道院は閉まっており,内部を見ることはできなかった。

修道院の庭に珍しい植物があった。葉の形状からベンケイソウ科の仲間のような気がするが,木質状の茎が40cmほど伸びている。資料で調べると茎が伸びる種類もあるようだ。

モザイクの教会

この近くから町を見下ろすことのできる場所があった。すぐ下にモスクがある。二本の細いミナレット,ドームをもったモスクはオスマン様式である。ヨルダンはおよそ400年間にわたりオスマン帝国の支配下にあったので,オスマン様式が新しいモスクにも受け継がれているようだ。

ラテン教会を見つけてようやく地図と現在地がが照合できるようになった。ともあれ,この町で見逃すことのできない「聖ジョージ教会」に向かう。ここも坂道がけっこうきつい。

さすがにマダバの観光名所であるギリシャ正教の聖ジョージ教会はヨーロピアンの団体で混雑していた。教会の外観は距離がないのでとても全体は入らない。

この教会の床には「聖地パレスチナ地図」のモザイクが残されている。地図の中にはごていねいにも大きさの違う文字で地名が入れられている。この地図は6世紀のもので,当時のパレスチナ地方の様子を現在に伝える貴重な歴史資料にもなっている。

教会の建物は1896年に再建されたものだが,床のモザイクは6世紀のままになっている。ビザンツ帝国のモザイクはタイルやガラスをよく使用しているが,このモザイクはすべて色のついた自然石を使用している。

オリジナルの大きさは8X20m,230万以上のモザイク片からできというから想像を絶する作業であったことだろう。モザイクはオリジナルの半分くらいしか残っていないけれどとても巨大である。訪問者が誤って踏まないように周囲は鎖で囲われており,外から写真を撮ることが許されている。

この教会で写真がダメであったらとても悲しいことになったろう。この教会はモザイクだけが有名になっているが壁のフレスコ画も見ごたえがある,と思ったらその中の何枚かはモザイクであった。やはりここはモザイクの教会のようだ。

聖ジョージ教会から土産物屋の多い坂道を下りていくと処女教会がある。ここはわずかなモザイクがあるだけで見るべきものは少ない。教会の裏手にモザイクの学校がある。覗いてみるといくつかの習作や製作中のものがあった。

周囲には色ごとに分けられた1cmほどの大きさの自然石が積まれており,この組み合わせで描いていくのだ。この習作は1m四方ほどのものなので気の遠くなるような作業というわけではない。

マバダの雰囲気はイスラム風になっている

12使徒教会は巨大なアーチ形のドームでありこれのどこが教会なのかは分からない。入るだけ無駄というものだ。バス停のあるロータリーに出るときに食料品を中心とした市場の前を通りかかった。

キリスト教徒が多い町ということであるが,女性たちの服装はイスラム化されており,一様にスカーフ,ゆったりとした長衣を着用している。

男性の一部もゆったりとした長衣にカフィーヤを被りイガールで押さえるという伝統的なベドウィンの服装をしている。たまたま,そのような服装をしてる老人が坐っていたのでお願いして撮らせてもらった。

注)カフィーヤはふろしき大,格子模様もしくは白の布で日除けのために被る。イガールは繊維質でできた二重の輪で,これでカフィーヤを押さえる。亡くなったPLOのアラファト議長が赤と白の格子模様のカフィーヤをトレードマークにしていた。

ネボ山

ネボ山は標高600m,眼下に死海とパレスチナを見下ろすところにあり,モーゼ終焉の地として知られている。モーゼについては旧約聖書の「出エジプト記」に記されており,映画「十戒」でもほぼ聖書の記述に沿う内容で描かれている。

モーゼが神の山「ホブレ」に登ったとき,主はモーゼに対してイスラエルの民を救うためエジプトのファラオのもとに行き,イスラエルの民をカナンの地(広々としたすばらしい土地,乳と蜜の流れる土地)に導くよう命じられた。

モーゼはエジプトに行き,ファラオ(ラムセス2世)と対決してついにイスラエルの民をエジプトから去らせることに同意させる。モーゼはイスラエルの民を率いてカナンの地を目指す。神の山「ホブレ」に再び登ったモーゼは主との契約にあたる十戒を授かる。

しかし,モーセが山に登っていた40日の間にイスラエルの民は金の仔牛を偶像として拝するという大罪を犯した。さらに,その後もイスラエルの民は何度も主にそむいたため,40年の長きにわたり荒野をさ迷わなければならなかった。

イスラエルの民が犯した罪によりモーゼはカナンの地に入ることができず,約束の地を眼下に見るネボ山で最後の時を迎える。

このようなエピソードをもつネボ山は是非訪れてみたいと思うのだが問題は足である。マダバからネボ山まではおよそ10kmである。往きをタクシーにして帰りを歩くことにしてもそう大したことにはならないだろうとふんだ。

バス停のあるロータリーまで行き,再度バスの情報を探してみたがやはり運行されていないようだ。こちらの足元をみてタクシーはとても高い値段を要求する。ようやく,3JDで行くというタクシーが見つかった。往復プラス山で1時間待ちの料金は10JDとさすがに高すぎる。

タクシーは小さな町を通過してネボ山の上に着いた。山頂の教会に入る前に周辺の風景を眺めてみる。わずかなオリーブ農園を除き,周囲は茶褐色の荒地になってる。この荒地の風景を見ると,緑豊かなパレスチナの沃野をめぐる幾多の争いが起きたのも当然とうなづける。

道の両側のモニュメント

教会の門のところで入場料(1JD)を払い中に入る。教会は一番高いところにあり,道の両側は緑が多い庭園のようになっている。入ってすぐのところに何やら正体不明のモニュメントがある。

これは2000年にローマ法王がこの地を訪問した時の記念碑である。側面にはラテン語で「一つの神,万民の父が,万民の上にいる」と刻まれている。右側の庭園にはフラシスコ修道会の石碑があり,「ネボ山がモーゼ縁の地であり,キリスト教徒の聖地である」と記されていた。

山頂の教会

山頂の教会は4世紀にエジプトから来た修道士により建てられたとされている。6世紀に改装され,この間に多くのモザイクが残された。

14世紀にフラシスコ修道会の修道士がやってきて修道院となったが,一時期放棄された。19世紀にフラシスコ修道会が再興し,現在は修道会が土地を買い取り,管理している。

教会の建物は勾配が極端に緩やかな切妻屋根になっており,オリジナルの建造物とはとても思われない。どちらかというと,6世紀の遺構を保護するための建物というような感じを受ける。

中に入ってみると遺構を覆う屋根が金属の梁によって支えられている。正面奥に至聖所があり,その手前には二列の石柱が並んでいる。石柱の間にはモザイクで飾られた床があり,祈りのための長いすが置かれている。

至聖所に相当するところには石の祭壇が置かれている。祭壇の背後の壁にはシンプルなステンドグラスが聖人の姿を浮かび上がらせている。ここも古い石組みを保護するように背後に壁が造られている。

石柱の外側の床にも古いモザイクが残されており,ここもモザイクの教会であった。モザイクの題材は主として動物と人であるが,ダチョウ,シマウマ,黒人などアフリカ由来のものが多い。これらは4世紀にエジプトからやってきた修道士の影響なのであろう。

この教会は何回か改修が行われており,もっとも古い正面の祭壇の左右に二つの祭壇がある。また,石柱の左側の壁には地下から発掘されたモザイクが展示されている。

展望台からの眺望

教会の外から歌声が聞こえてくる。建物の西側はちょっとした広場になっており,そこで韓国人の団体が賛美歌を合唱している。聖地の静寂を乱すようなものではなく,きれいな歌声なので聞き入ってしまい,終わると拍手をしてしまった。

韓国ではキリスト教徒が人口の3割を占めており,キリスト教の聖地詣でのツアーが盛んだ。エジプトのシナイ山でも韓国人のとても大きなグループと一緒に山登りを経験した。

展望台には不思議なT字型のモニュメントがある。これはタウ十字(ギリシャ語ではTはタウと読む)でありフランシスコ会が使用したものです。ユダヤ教以前からT字は神を象徴するものであり,その起源はエジプトとされている。

タウ十字はそのまま神を象徴しており,キリスト教ではさらにT字の縦棒のところに神あるいは知恵を意味する蛇が巻きついているシンボルも使用されている。旧約聖書では悪役となってっている蛇もここでは別の意味を持たされている。

この広場の端に展望台があり,そこから死海とパレスチナを眺めることはできる。晴れていれば素晴らしい眺望が楽しめそうであるが,あいにくと死海の辺りからもやが立っており,視界は良くない。

約束の地を前にして生涯を閉じなければならなかったモーゼの胸中はどのようなものであったことだろう。主の偉大さを自分の行った奇跡を通して体験してきた彼にとっては,「すべては主の御心のままに」という澄み切ったものであったことだろう。

展望台の近くに標識があり,方角と地名が表示してある。そこにはヘブロン,エリコ,ナブルスなどなじみのパレスチナの地名が記されている。ここからエルサレムまではわずか46kmに過ぎない。しかし,モーゼの時代も現在もそこにたどり着くのは容易ではない。

モーゼの死後,ヨシュアに率いられてカナンの地に下ったイスラエル人は当時の先住民族と戦い,彼らを押しのけながら自分たちの支配地域を広げていった。それは,紀元前13世紀頃の出来事であった。

彼らはヘブライ王国を建国し紀元前10世紀のダヴィデ王,ソロモン王の時代に最盛期を迎える。その後,ヘブライ王国はイスラエル王国とユダ王国に分かれ,どちらも紀元前6世紀には滅亡する。

紀元前6世紀にはユダヤの民は虜囚としてバビロンに連れていかれ,50年後にようやく解放されることになる。このバビロン捕囚の時代に唯一神ヤハウェに帰依するユダヤ教が成立しており,民族名もユダヤ人と呼ばれるようになる。

ユダヤ民族が再び国家を形成できたのは紀元前2世紀のことであるが,すぐに西方の大国ローマの支配下に入るようになる。イエス・キリストが誕生した時代,ユダヤ人はローマの圧政に苦しみ,聖書に記された救世主(メシア)の到来を待ち望む時代であった。

ローマ支配に異を唱え,立ち上がったユダヤ人はあっけなく滅ぼされ(紀元70年),ユダヤ人は国をもたない流浪の民として世界の各地にディアスポラ(離散)することになる。

そして,1900年後に再びユダヤ人は「約束の地」に自分たちの国を造ろうとする。そこは多数のアラブ人に混じって少数のユダヤ人が共存する土地であったが,イスラエルの建国は再び民族間のあつれきを生むこととなり,それは現在も続いている。

2000年に当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世はここを訪問しており,同じ神を信仰するユダヤ教徒,イスラム教徒,キリスト教徒に平和を希求するメッセージを残したという。

彼のメッセージは憎しみを交錯させる二つの民族には届かなかった。パレスチナ内部でも穏健派のファタ派と過激派のハマスが主導権争いを繰り返し,ハマスの支配するガザは封鎖され巨大なゲットー(強制収容所)のようになっている。

ナチスの時代にゲットーを経験したユダヤ人が新しいゲットーを作り出そうとしているのは歴史の皮肉としかいいようがない。平和への希求と憎しみの連鎖の間で揺れ動くパレスチナに平安が訪れ,僕自身の心の中でこの問題の整理がつくまではイスラエルとパレスチナ行きは封印しておく。

帰り道は遠かった

ネボ山からの帰りはタクシーがいないのでやはり歩くことになった。来るとき小さな町があったのでそこまで行けば何か交通機関があるだろう。道の両側は荒地という言葉がぴったりの土地が続いているが,なぜか道路の両側だけには樹木が繁っている。

「モーゼの泉」という看板を掲げた建物がある。ここがモーゼが地面を杖で叩いて水を噴き出させたといわれる泉なのであろう。旧約聖書の出エジプト記には水にまつわる話がいくつか残されており,ここもその一つかもしれない。残念ながら建物は閉まっており中は見ることができない。

あいかわらず西の方角はかすんでおり死海やヨルダン川は見えない。3-4kmほど歩いたところで乗り合いのワゴンをつかまえることができた。

英語の少しできる少年が料金は1JDだと言う。「う〜ん,それはちょっと高すぎる,この距離なら0.5JDで十分だろう」と交渉すると,大人たちは「まあ,そんなものだろう」と同意してくれた。

マダバの路上でワゴンから降ろされ,ロータリーに出て帰りのバスを待つ。うまいぐあいにすぐにミニバスがやってきた。しかし,このミニバスはアンマンの南で渋滞に遭遇し,路上で降ろされてしまった。

ここから宿まではどうやって帰ればよいのか見当がつかない。近くの人にキング・フセイン・モスクの写真を見せながら説明するとあそこだと教えてくれた。その通りに歩いていくと,別のモスクに出てしまい意志が伝わっていなかったことに気が付いた。

何人かの人に同じようにたずね,ダウンタウンに行くセルビスがみつかり,下車してから大きな通りを1kmほど歩くとようやく見覚えのあるところに出た。今日はよく歩いた。

宿に戻るとどうやらラマザーンが今夜で明けるという。夕方,通りでは爆竹が鳴らされている。これで自由に食事ができるので一安心だ。日本人の旅行者と一緒に近くの「イラキ食堂」に夕食を食べに行く。チキン,フライドライス,野菜の煮込みをシェアして,久しぶりにたくさんいただいた。

死海

死海は面積940km2,最大水深433m,琵琶湖の1.5倍もある巨大な塩湖である。死海について知っておかなければらないのは水面標高が-418mであることだ。ここは地球上の陸地でもっとも低いところである。

大陸と海洋地殻は構造が異なるので地球上の陸地では海面より低いところはそれほど多くはない。そのようなところは特異点であり,たいていは地溝帯と呼ばれるところである。

死海のあるヨルダン渓谷は 「東アフリカを分断する大地溝帯」の北端に位置している。地溝帯の深部ではマントルから熱い物質が湧き上がってきており,地表近くでは左右に移動するので陸地を引き裂く力が加わることになる。

そのため,地溝帯は年に数cmほど広がり,深い谷を形成することになる。死海は地球表面を動かす巨大な力が働いている現場なのである。当然,地震も発生し火山活動もある。

白亜紀にはこの地溝帯は海であったが,西側のパレスチナ地域が地殻変動で隆起したため海面下の陸地になった。死海周辺の年間降雨量は25mm以下と極めて少ないので,そのままでは地溝帯を満たしていた海水は蒸発してしまい,塩の渓谷になったことだろう。

現在,死海に水が残っているのはヨルダン川をはじめとする少数の河川により水が供給されているからである。死海に流入する河川,雨水,温泉は水と一緒に周辺の土壌に含まれる塩分を運び込んできた。

一方,死海から流れ出す川は無いが乾燥地帯にあるため大量の水分が蒸発する。こうして,死海の塩分濃度は長い期間をかけて高くなり,現在では飽和状態近くになっている。

死海の塩分濃度は約30%と海水の10倍も高い。この塩分濃度は特殊な藻類を除き,通常の生物が生息できるものではないので死海と呼ばれるようになった。死海の塩分濃度が異常に高いのは死海の環境条件によるものである。

同じような現象は中央アジアのアラル海でも見られる。アラル海の場合は流入する水量が激減したため,供給量より蒸発量がはるかに大きくなり,わずか40年で0.3%程度であった塩分濃度は5%近くまで増えてしまい,豊かな漁業資源は絶滅し死の海となった。

ゴラン高原に源をもつヨルダン川は死海に流入する主要河川であり,イスラエル,ヨルダン両国が淡水資源として利用している。このため,20世紀の中頃から死海に流入する水量が減少し,水位が低下してきている。

死海の湖面標高は過去50年でおよそ30mほど下がっており,近年はそれが加速している。それにより,湖水面積は過去100年でおよそ3分の1に縮小した。湖面の低下による死海の消滅を防ぐため,紅海と死海を結ぶ180kmの運河を建設し,紅海の海水を死海に取り入れる計画が進行しているという。ただし,それにより現在の景観が維持できるという保証はない。

死海周辺は年間降雨量が25mm以下という乾燥した世界である。しかし,数年に一度くらいはまとまった雨が降ることがある。砂漠の土中には大量の植物の種子が休眠しており,雨の到来とともに一斉に芽を出し,ほんのいっときのお花畑になるという。

南アフリカのナマクアランド,ペルーの海岸砂漠地帯など世界の乾燥地帯にはそのような天候まかせのお花畑がいくつかある。いつかは砂漠に広がる奇跡のような「幻の花園」を見てみたいものだ。

死海ツアー

ラマザンが明けたのでイラキ食堂で堂々と昼食がとれる。ごはん,野菜の煮込み,サラダで1JDである。昨日の夕食の2.5JDに比べるとずいぶん安いけれど,肉が入らなくてもヨルダンの食事は高い。

今日のメインは「死海ツアー」である。ツアーといってもサーメルさんがタクシーを呼んでくれ,それに乗って夕方の死海で遊ぶというだけのものである。

死海での2時間待ちを含めてタクシーのチャーター料金は20JDなので,4人が集まると一人5JDとなる。今日の参加者は日本人6名と韓国人2名である。

16時に宿の前の通りに出る。タクシーがやってきて,今日のツアー客は2台のタクシーに分乗して出発する。アンマンの標高は700mほどで,死海からは1100mも高いところにある。しかし,それほど急な下りの道路ではなく,1時間ほどでなんとなく死海に到着した。

運転手はビーチの駐車場に車を停め,入口を教えてくれた。しかし,このビーチはなんだか高級な雰囲気が漂っている。入口で料金を確認すると10JD(1600円)である。安い方のビーチは5JDなので我々は当然そちらに移動する。

料金を払って入口から入ると,右側に土産物屋,左側にはトイレがあり,中には簡単な脱衣所もある。ここで着替えて死海に向かう。太陽はだいぶ傾いており,少し色付いた西側にはパレスチナの土地が霞んでいる。

さて,これだけ塩分の濃い水に触れた手でカメラは触りたくないので,死海に入る前に写真をとっておかなければならない。かなりの西日になっているので角度を変えても湖面の青さを写し撮ることは難しい。

岸から少し離れたところには人々が浮かんでいる。夕日の写真を撮るにはまだ時間が早い。対岸のパレスチナ自治区もしくはイスラエルは台地のように連なっており,手前の湖面はその上にある西日に照らされて黄金色に輝いている。

この穏やかな風景の対岸が数十年におよぶ紛争地域であるとはとても信じられない。湖岸には板状の白い塩の結晶ができている。この結晶はとても硬く,手で力を加えても簡単には割ることはできない。

正面の湖岸は外国人観光客が多く,地元の人は右側の湖岸で遊んでいる。そちらの方から体中に黒い泥を塗った二人の青年がやってきた。

死海の泥には多くのミネラルが含まれており,泥パックは肌の健康にとても良いとされている。周辺の土地は赤茶色であるが,なぜかこの泥は黒っぽい色をしている。

地元の人々が浮かんでいる湖岸に向かい,写真を撮らせてもらう。女性たちの一団が水に入っており,当然彼らは普通の服を着たままである。大人の男性も海パンではなく膝丈のズボンをはいている。

これで一通りの写真は撮れたので死海に入ってみることにする。裸足で水に入ると例の板状の塩の結晶があり足裏が痛い。腰の深さまで進むともう浮力を感じるようになる。水の上に腰を下ろすようにするとあっさり浮くことができる。

体の1/4くらいは水面から出ているようだ。これではおぼれようがないので深いところまで行くことができる。しかし,浮力があるため歩いて移動するのは意外と大変だ。

背の立たないところまで行っても胸くらいまでしか沈まないのでバランスが悪い。ちょっとした波で横倒しになりそうなのでこの姿勢は危険だ。やはりよく写真にあるように,背中を水に漬け,両手・両足を水から出すようにするのが最も安定している。

死海の水は目に入るとかなりひどいことになる。洗い流すまで痛くて目を開けていられないという。注意はしていてもそこは水の上,何かの拍子にバランスを崩すと体が反転しそうになる。そんなときはあわてて手で水をかいて体勢を復元しなければならない。

岸に戻るときはボートを漕ぐように手で水をかいて慎重に移動する。ツアーメンバーの中には水に浮いたままデジタル・カメラを操作している人もいる。この塩だらけの環境ではカメラがダメージを受けないということは考えられない。彼らのカメラのその後が知りたいものだ。

太陽は西岸に沈んでいく。雲があるので西日は隠れるように消えていった。そろそろ我々のグループも帰る時間となった。岸から少し離れたところにある囲いも何も無いシャワーで塩を流し,トイレの更衣室で着替えを済ませる。


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