亜細亜の街角
世界で最も古くから人が住み続けている都市
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ダマスカス  (参照地図を開く)

シリア・アラブ共和国の首都ダマスカス,アラビア語の正式名称はディマシュク・アッシャームであり,ディマシュクあるいはアッシャームと呼ばれることが多い。ダマスカスはエジプト,メソポタミア,地中海地域を結ぶ交通の要衝であり,紀元前3000年ごろから都市が形成された。

多くの古代都市が歴史の荒波に押し流され廃墟や遺跡になる中で,ダマスカスは地域の中心的な都市として機能し続けており,「世界で最も古くから人が住み続けている都市」として知られている。

ダマスカスが歴史に登場するのはセム系のアラム人の時代である。紀元前1000年頃,アラビア半島にいた遊牧民のアラム人はからメソポタミア,シリアに広がっていた。彼らの使用していた「古アラム語」はその後の西アジアの言語に大きな影響を与えた。

アラム語とアラム文字はアッシリア帝国,バビロニア帝国の共通語として使用され,その後のアケメネス朝ペルシャもこれを継承したので西アジア地域の国際共通語となった。この時期のものを「帝国アラム語(聖書アラム語)」という。

紀元前6世紀,バビロン捕囚によってユダヤから連れていかれた人々はバビロンで話されていたアラム語とその文字を学び,これがヘブライ文字の原型となった。その関係もあり旧約聖書の一部はアラム語で記されていたという。

紀元前4世紀にアレクサンダー大王の東征とアケメネス朝ペルシャの滅亡により,ギリシア語が世界共通語となり,アラム語は次第に地方語として衰退していく。この時代のものを「中期アラム語」という。

3世紀から8世紀にかけて使用されていた「後期アラム語」は西方アラム語(パレスチナ地域)と東方アラム語(シリア,バビロン地域)に分類される。どちらの言語も現在では限定された小さな集団,あるいは聖書研究などの特殊な場合を除き使用されていない。

ダマスカス地域に居住するようになったアラム人はバラダ川の水を引いてダマスカスに水道システムなどの都市インフラを整備し,そこを中心として紀元前1100年頃にアラム・ダマスカスと呼ばれる強力な国家を形成した。

ダマスカスはイスラム教徒にとっては特別な町の一つである。預言者ムハンマド(570年頃-632年)により啓示されたイスラム教はスリム共同体(ウンマ)を形成し,ムハンマドの死後はウンマの総意で選ばれたカリフ(教主)が最高指導者となった。

656年にウマイヤ家(注)の長老であった第3代カリフのウスマーンがメディナでの暴動で殺害された。シリア総督であった同じウマイア家のムアーウィヤは血族としての報復の権利を求めて第4代カリフに即位したアリーと対立し,軍事衝突にまで発展した。

661年にアリーが暗殺されるとムアーウィヤは唯一のかつ正式のカリフとなり,それ以降カリフ位はウマイア家により世襲されることになった。これがウマイア朝(661-750年)である。ムアーウィヤは都をダマスカスに置き,イスラム世界をさらに拡大していくことになる。

注)ウマイア家は預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門である。ムアーウィヤの父アブー・スフヤーンは預言者ムハンマドと対立したメッカの指導者であり,その後はムスリム軍にメッカを無血開城させ彼に従った。

講談社のユネスコ世界遺産の説明文には次の記述がある。なぜムハンマドはダマスカスに足を踏み入れなかったのか,それはコーランによれば天国は一つしかありあず,それは天上にあるからである。

ダマスカスは地上の天国,エデンの園に比べられるほど美しい街であった。ダマスカスの旧市街の城壁は1世紀にローマが最初に造ったといわれており,現在も残っているものは13世紀から14世紀にかけて,十字軍の侵攻を防ぐためアラブ人が建築したものである。

シリア地域(現在のシリア,レバノン,イスラエル,パレスチナ)が十字軍の侵攻に備えていた頃,アナトリアから勢力を広げたオスマン帝国は14世紀にはアナトリア全域とバルカン半島に勢力を拡大していった。

1453年にはビザンツ帝国を滅ぼし,エーゲ海と黒海の周辺をも支配するようになった。16世紀になるとエジプトのマムルーク朝を滅ぼし,イスラムの聖地メッカとメディナの守護者となり,アラブを含むイスラム世界の指導的地位を確立した。

ヨーロッパ,アジア,アフリカにまたがる大帝国となったオスマンも18世紀に入ると産業化革命により近代化されたヨーロッパ勢力に押されるようになる。バルカンの諸民族は次々と独立を獲得し,エジプトには新しい勢力が生まれた。

黒海北岸は数回の戦争によりロシアに奪われ,20世紀初頭にはオスマン帝国の勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア,アラブ地域だけになり,ヨーロッパからは「瀕死の病人」と呼ばれる状況であった。

第一次世界大戦ではオスマン帝国は枢軸国側について参戦した。この機会を最大限に利用したのが英国である。すでにエジプトを植民地としていた英国は戦争を有利に導くため,またアラブ世界への支配を拡大しようともくろんだ。

英国はメッカの太守ハーシム家の当主フサインに「アラブ王国」の建国を条件にオスマン帝国に対する反乱を持ちかけた。このときの連絡将校がトーマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)である。

ロレンスはフサインの三男のファイサルと会談し,アラブの反乱を実現させる。アカバを攻略し,アラブ軍が目指したのはダマスカスであった。この古の都がオスマン帝国から開放されてアラブの反乱は成就されることになるのだ。

第一次大戦の終了後,アラブ世界はオスマン帝国のくびきから開放される。しかし,フサインの期待した「アラブ王国」はまったく実現せず,シリア,パレスチナ,ヨルダン,イラクに分割され委任統治の名目で英国とフランスの支配下に置かれることになった。

シリアを統治することになったフランスはすぐにキリスト教徒の多いレバノンをシリアから分離させた。シリア人は今でもレバノンはシリアの一部と考えており,一貫してレバノンに対する介入を継続している。

ダマスカスの城壁には7つの門があり,その内部は狭い入り組んだ道になっているが,東西に走る真っ直ぐな道は新約聖書にも登場している。歴史的な建造物に彩られたこの旧市街は1979年に世界遺産に登録された。

現在のダマスカスは旧市街の西側と北側に新市街が広がり,人口200万人の大都会となっている。街の北西部にはまったく緑のないカリオン山があり,都市は山の中腹にまで迫っている。

ダマスカスはいくつかのオアシスに囲まれており,南にあるグータ・オアシスの森はエデンの園のモデルとされている。しかし,それらも都市圏の膨張により減少しつつある。

ハマ(180km)→ダマスカス 移動

07時に起床,ロビーのソファーでバナナ,パン,チーズで朝食をとる。今日が同じく移動日のMさんと一緒にチェックアウトして表通りでタクシーをつかまえる。バスターミナルまでの料金をたずねると「メーターを使用する」という答えであった。シリアでは初めてのメーター・タクシーである。

初乗りが6.5くらいで0.6きざみでメーターが進んでいく。BTに到着した時のメーターは22.5SPであった。5SP以下のコインは見たことがなかったのでどうなるのかなと思っていたら20SPにしてくれた。

僕の車は30分後の08:30,彼の車は15分後の発車だったので急いでチケット(100SP)を買い,再会を約して彼とお別れする。車掌にチケットを見せてダマスカス行きであることを確認してから乗り込む。

バスはメルセデスではあるが座席間隔はトルコに比べて狭い。なぜか,通路側の座席は左右方向にスライドするようになっている。バスが動き出すと冷房が強くなり,やはり長袖が必要になる。

道路の周辺はシリア砂漠の縁らしい荒涼とした風景になる。しかし,ほとんどの区間は逆光になり写真にはならない。バスは11時に巨大なバスターミナルに到着した。

歩き方のダマスカスの地図には一部のバスターミナルの情報しか載っていない。広域のBT地図はシリアの基本情報の一部として別のページに掲載されている。

このあたりが歩き方の無神経なところだ。旅行者の行動パターンと情報の構成が異なっている。それとも僕の情報収集方法が普通の旅行者と異なっているのだろうか。

ともあれバスはガラージュ・ハラスターに到着したらしい。予定している宿までは数kmはあるのでタクシーのお世話になる。運転手が集まってきて最初の言い値は150SP(360円)とお話にならない。

とんでもないというように手を振りながら「no, too expensive」と告げると100に下がる。もう一押しすると75になり,そこが限界のようだ。

このタクシーは乗り合いの形になっており,2人のシリア人と一緒に乗ることになった。3人ともほとんど同じところで降り,彼らは50SPを払っていたので75は外国人料金ということになる。

アル・ラビ・ホテル

タクシーの運転手は目的のアル・ラビ・ホテルを知っていた。ダマスカスを東西に走るシュクリ・アル・クワトリ通りにタクシーは停まり,運転手は「ほら,あの路地を入っていくとアル・ラビだよ」と教えてくれる。

確かにその路地を入っていくとアル・ラビがあった。ガイドブックにはドミトリーが200SPとなっていたが実際には300に値上げされていた。シングルは500とさらに高くなる。部屋は12畳,4ベッド,T/S共同でとても清潔である。ドミトリーとしては部屋が広く,机もあるので助かる。

ここの中庭はガイドブックにも述べられているようにブドウ棚がいくつもあり,心地よい日陰を提供してくれる。ここでお茶を飲んでくつろぐのも良いし,読書で時間を過ごすのもよい。もっとも,この宿には日本人旅行者が多いので,ついついおしゃべりで時間が経ってしまう。

ラマザーン期間中なので外では食事はとれない。中庭のテーブルに坐り,買い置きのパンとチーズで昼食をいただく。今日は朝から大したものを食べていないのでどうみてもカロリー不足だ。

歩道橋からの眺め

宿の路地を出ると東西方向のシュクリ・アル・クワトリ通りに出る。宿へ入る路地の目印になるものをと周辺を探す。リプトンの黄色い屋根をもった売店があり,これはよく目立つ。こういうチェックを怠ると方向音痴の僕は自分の宿のそばでも迷子になる危険性がある。

シュクリ・アル・クワトリ通りは片側4車線,中央分離帯をもった立派な道路だ。宿の路地から少し西に行くと歩道橋があり,その上から通りの様子を眺めることができる。さすがに一国の首都だけあって車の往来は多い。

歩道橋の東側,宿の路地の少し先にはセルビス(市内用の乗り合いタクシー)の停留所がある。セルビルを利用すると市内のほとんどの地域に5SPで行くことができる。

セルビスのフロントには行き先が表示されているので地元の人は自由に利用することができるが,アラビア語は読めない,土地勘も無い旅行者は自力では無理だ。特定の地名を周囲の親切そうな人に伝えて車を教えてもらわない限りとても利用することはできない。

ヒジャーズ駅に行こうとして

歩道橋の西側は立体交差のための片側2車線の陸橋になっており,この陸橋の下を通るアル・シャビリ通りを南に行くとヒジャーズ駅に出る。ここはオスマン帝国時代に造られたヒジャーズ鉄道の起点となった駅である。

ヒジャーズ鉄道はダマスカスとサウジアラビアの聖地メディナを結ぶ総延長1308kmの鉄道である。当初の計画ではメッカまで到達するはずであった。

鉄道施設の目的はムスリムの聖地であるメッカやメディナへの巡礼における交通の便宜を図るためとされていたが,真の目的はヒジャーズ地域の支配を強化することであり,交易であった。

20世紀初頭に足かけ9年をかけて完成したこの鉄道の稼動期間は短いものであった。第一次世界大戦が始まると,英国の支援を受けたアラブの反乱軍により多くの区間が破壊され現在に至っても再建されていない。

わずかに,ダマスカスとアンマンの区間だけは現在でも週2便の列車が運行されている。所要時間は7時間とバスに比べてずっと遅いので,時間に余裕のある旅行者以外は利用価値がない。

僕も利用してみようかと考えていたが,日程が合わなかっことと,ヒジャーズ駅から5kmほど離れたカダム駅まで行かなければならないのであきらめた。

駅舎自体が歴史的な建造物なので歩道橋から降りてそちらに向かう。しかし,悲しいことに僕は陸橋を上ってしまい,バラダ川の終端まで行ってしまった。かってはダマスカスを支える水源となっていたバラダ川はコンクリートで固められ,その先は暗渠になっていた。

僕はこの水路がバラタ川とは気が付かず,地元の人にヒジャーズ駅への道をたずねた。彼はまずタキーヤ・スレーマニーエ・モスクを紹介してくれ,そこを起点に駅への道を教えてくれた。彼にお礼を言ってモスクに入る。

モスクとクラフト・センター

このモスクは複数のドームに囲まれた大ドームというオスマン様式であるが,その周辺を屋根付きの回廊が取り巻くという独自のものになっている。池の向こうにモスクの建物があり,それはメッカの方角を向いている。

礼拝の時間が始まり50人ほどの男性が回廊の部分に並ぶ。建物の門は閉ざされたままである。回廊の床には薄いじゅうたんが敷かれており,人々はそこに正座している。

ムスリムの人々は礼拝の時に敷物の無いところには坐らないという不文律があるようだ。彼らの座り方は日本の正座とまったく同じものだ。足が悪い人はイスに坐っておリ,礼拝のスタイルはかなりの自由度はあるようだ。

このモスクに隣接するようにハンドクラフト・センターがある。その周辺には土産物屋が集中している。精緻な紋様を施された木工製品が目に付く。民族楽器をたくさん店先に並べている店もあり,見ていて楽しい。

クラフト・センターと思われる施設は噴水池の中庭を囲むコの字形になった回廊付きの建物である。正面にはモスクのような建物があり,両側の建物にもたくさんの小ドームが乗っている。この施設の回廊巡りも楽しい。布地,金属やガラスの工芸品などが多く,見ていて飽きない。

ようやくヒジャーズ駅に到着する

さすがに大きな通りはアスファルトになっているが,小さな通りは石畳であり,果物を運ぶ馬車などに出会うととても絵になる写真が撮れる。ようやくヒジャーズ駅に出る。駅前は半分のロータリーになっており,複雑な交通の流れになっている。

駅舎は石造り,ヨーロッパ的で重厚な建物である。南に面しているため正面の写真は逆光になりちょっと難しい。入口の両側には巨大なシリアに国旗が飾られ,入口の門の横にはアサド現大統領の写真が掲げられている。

ここには横断歩道は無いので交通の流れを見計らいながらロータリーを縦断する。現在,この建物は駅としては使用されていない。駅の内部はステンドグラスが美しいきらめきをもって迎えてくれる。

現在は古本の展示場となっている。そして,ここにもアサド大統領の肖像画が二枚も飾られており,ちょっとうんざりだ。吹き抜けになった二階部分にも同じようにステンドグラスで飾られている。二階部分はなにやら事務所として使用されており,上がることはできない。

周辺は再開発が進んでおり,完成予想図のようなものが貼られていた。そこに描かれている建物は現在のものとは異なっている。この1917年に造られた歴史的建造物が失われるのは寂しいことだ。

この建物を生かす形で再開発はできそうな気がするがどんなものだろうか。裏手に出ると何本かの線路があった駅舎の南側地域は再開発のためすべて撤去されており深さ4mほどの溝になっている。どうやら再開発は本気のようだ。

ナセル通りを歩く

駅前には東西方向のナセル通りが走っている。ナセルはおそらくエジプトの大統領の名前であろう。どうしてここにナセルの名前があるかはシリアとエジプトの歴史に由来する。第一次世界大戦後にアラブ世界は英国とフランスにより分割され統治されることになった。

これに対抗するため国家を超えたアラブ民族の連帯をめざす汎アラブ主義が生まれた。これは社会主義とアラブ民族主義が合わさったものであった。この流れから生まれたものがシリアのバアス党,エジプトのナセル主義でありイラクのフセイン政権である。

第二次世界大戦後にエジプトのナセル大統領が汎アラブ主義を積極的に推し進め,エジプトとシリアによるアラブ連合共和国が成立したが,エジプトの主導を嫌ったシリアが離脱して短命で終わった。おそらく,駅前の通りにナセルの名前が残っているのはこの時代の名残であろう。

現在の両国の国際的な評価は対照的なものとなっている。エジプトはイスラエルを承認し親米国家となり,シリアは反米,反イスラエルの姿勢を堅持し,テロ支援国家として国際的に孤立している。

それでもナセル通りの名前が消えないのは一時期とはいえスエズ運河の国有化に代表されるナセルが残した汎アラブ主義の輝きに敬意を表してのことであろう。

ナセル通りをまっすぐ東に行くと旧市街の入口に出る。この通りも片側3車線以上の立派な通りで,分離帯には棕櫚の木が植えられており南国的な雰囲気に溢れている。しかし,実際にはダマスカスは北緯33.5度にあり,これは日本でいうと福岡あたりになり,平均気温はほぼ東京と同じである。

通りの北側には石造りの重厚な建物が多く,少し先の歩道橋からはけっこうきれいな街並みを楽しむことができる。通りの突き当たりは旧市街の西の外れにある城砦の壁面が見える。この歩道橋からの眺めはダマスカスでも好きなものの一つだ。

ナセル通りはアス・サウラ通りに突き当たる。その前に城砦の壁面とスーク・ハミディーエの入口がある。そして,スークの入口にはにこやかに手を振る大統領の大きな看板がある。地下道をくぐってようやく旧市街の入口に到達する。

スーク・ハミディーエは真っ直ぐにウマイヤド・モスクまで伸びている。ここはアーケードの商店街になっている。まだ午後の早い時間なのでそれほど人通りは多くない。ゆうゆうと歩くことはできる。それが夕方のアザーンが終了すると,どっと人通りが増え,人ごみで歩くのが困難になる。

アーケードの窓からの採光と商店からの明かりにより,なんとかフラッシュ無しでも写真が撮れる。スークを歩く男性の服装は完全に現代化している。

一方,女性はスカーフを被り,くるぶしまで届きそうな黒系もしくは白系の長いコートを着ている人が多い。キリスト教徒の女性なのだろうか,半袖のTシャツを着ている人もいる。

スークとT字型で交差する通りのある一画はとても明るくここだけは苦労しないで写真を撮ることができる。ここから先はアーケードの片側がガラスになっておりかなり明るくなる。スカーフの店ではスカーフを被った首だけのマネキンがたくさん並べられており,そのリアルさに一瞬身構える。

スークを出ると

このスークはウマイヤド・モスクの少し手前で終わり,モスクに接する広場に出る。出口には人ごみを左右に分けるように三本の石柱に支えられた門とアーチがT字形を形成している。これは,ローマ時代のユピテル神殿の名残である。

洗礼者ヨハネ(バフテスマのヨハネ)

ウマイヤド・モスクのある場所はアラム人の時代からの聖域であった。ローマ時代にはユピテル(ジュピター)を祭った神殿が建てられ,その後はビザンツ帝国の「洗礼者ヨハネ聖堂」が建設された。

洗礼者ヨハネ(バフテスマのヨハネ)は新約聖書に登場する人物であり,ヨハネによる福音書を記したイエスの弟子ヨハネとは異なる。「マタイによる福音書」によればヨハネはらくだの皮衣を着,腰に革の帯をしめ,いなごと野蜜を食べ物とする人物であった。

悔い改めを呼びかけ,ヨルダン川で洗礼を授けたので洗礼者ヨハネと呼ばれている。イエスもヨハネから洗礼を受けている。キリスト教においてはヨハネはイエスの先駆者として位置づけられ,カソリックや正教会では前駆授洗者の称号を与えられ,聖人とされている。

「マタイによる福音書14章」にはヨハネの死について次のように記されている。洗礼者ヨハネは当時のパレスチナの領主ヘロデ・アンティパスとヘロディアの結婚を律法に反するものと非難したため捕らえられ,牢に入れられていた。ヘロディアは離婚したとはいえヘロデの弟フィリポ(正しくはヘロデ・ボエートス)の妻であったからだ。

ヘロデはヨハネを殺そうとしたが,民衆はヨハネを預言者であると思っていたため実行することはできなかった。ところが,ヘロデの誕生日にヘロディアの娘(父親はフィリポ)が皆の前で踊りをおどり,ヘロデを喜ばせた。

それで彼は娘に「何でも望みのものをやろう」と約束した。娘はヘロディアにそそのかされて「洗礼者ヨハネの首を盆に乗せてこの場で下さい」と言った。ヘロデは動揺したが客の前で誓ったこともあり,ヨハネの首をはねさせた。

この娘の名前は新約聖書には記されていないが,古代イスラエルの著述家であるフラウィウス・ヨセフスが著した「ユダヤ古代誌」には父母等の名前が聖書の記事と一致する「サロメ」という女性の名がある。現在ではヘロディアの娘をサロメとすることが定着している。

サロメは多くの絵画の題材として取り上げられ,オスカー・ワイルドによる戯曲「サロメ(1893年)」は現在でも公演されている。僕の好きな漫画家星野之宣氏も「妖女伝説」の中でサロメを主題にした作品を発表している。

モスク建築の手本となったウマイヤド・モスク

「洗礼者ヨハネ聖堂」には彼の首が聖遺物として祀られていたとされている。擁壁で囲われた中庭の中心に,東西方向に長い長方形プランの教会堂があった。しかし,イスラームではメッカの方角に向かって礼拝するので,この教会堂の構造はモスクには不向きであった。

そのため,モスクに転用するとき,教会堂は取り壊し,メッカの方角の南側に礼拝堂を建造することになった。そのとき教会堂を構成していたアーチの列(アーケード)を注意深く解体し,モスク内部のアーケードに転用したという。

ローマ様式の教会からの転用とはいうものの,ウマイヤド・モスクは既存の建造物に手を加えたものではなく,まったく新しい建造物となっている。

この方形の敷地を回廊,もしくは付属の建物で囲い,内側を大きな広場とし,メッカの方角に敷地と同じ幅の礼拝堂を配置する構造はその後のモスク建設の基本となった。

ウマイヤド・モスクは東西が150m,南北が100mとされている。この東西の150m幅のほとんどが礼拝堂となっている。つまり,礼拝堂は非常に細長い構造となっている。

礼拝堂はバシリカ様式の長方形プランであり,中央部にはそれと交差する切妻屋根の建物が配され一種の十字架プランになっている。中央には巨大なドームが置かれ,両側には独特の形状のミナレットが配置されている。

正面の壁は「ビザンツの金色」を含むモザイクで飾られている。あまりの素晴らしさに礼拝堂の外観写真を一枚しか撮らなかったのは不覚であった。

二つの宗教が混在する空間

礼拝堂に入るとその巨大さに驚くが,二列二層のアーケードが空間を区切っているため空間の広がりに圧倒されることはない。このアーケードの石材は「洗礼者ヨハネ聖堂」から解体・転用されたものである。

礼拝堂の床はじゅうたんが敷かれている。多くのモスクと同様にその模様はミフラーブを表すアーチ形が連続するのものになっている。

集団礼拝をするときにはこの一つ一つのアーチ模様が一人分のスペースとなっており,人々はアーチ模様の先にあるメッカに向かって礼拝する。この模様および礼拝用じゅうたんをアラビア語で「サッジャーダ」という。

全長136mの礼拝堂は横から見るとどこまでも続いているような錯覚にとらわれる。そこはすべてアーチ模様の同柄のじゅうたんが敷かれているのであるから壮観だ。

その一画には洗礼者ヨハネの首を納めたといわれている祠堂がある。そこにはこのモスクの前身である「洗礼者ヨハネ聖堂」に祀られていた聖遺物が保存されているという。

イスラム教の礼拝堂の中にキリスト教の聖人の祠堂があることは少なからぬ驚きである。この礼拝堂は建設の当初はキリスト教徒も入ることができたという。二つの宗教が違和感なく共存できる空間はイスラムの懐の広さを表しているようだ。

祠堂の前は鎖により分けられ,男性と女性が分かれてお参りすることができるようになっている。ここに納められているのがキリスト教の聖遺物と知っているのかは分からないが,ムスリムの人々もここにやってきている。

サラーフッディーン廟

それ自体が芸術作品のようなウマイヤド・モスクを出て,その北側にあるサラーフッディーン(サラディーン)の霊廟を訪ねる。エジプトを基盤とするアイユーブ朝の始祖となったサラーフッディーン(1137/1138年 - 1193年)の本名はユースフ・ブヌ・アイユーブ(アイユーブの息子ユースフ)という。

この時代のイスラム世界では苗字に相当するものはなく,その代わりに父親の名前をもらう習慣がある。彼の父親の名前がアイユーブであったので「アイユーブの息子ユースフ」ということになる。

一方の「サラーフッディーン」はサラーフ・アル=ディーンと表記するのが正しいとされている。このアラビア語を直訳すると「宗教(信仰)の救い」ということになる。当時のムスリム男性に使用された尊称である。アラビア語の通例でアルの部分は前の言葉に吸収されるのでサラーフッディーンとなる。

このため,サラーフッディーンが始祖になった王朝は「アイユーブ朝」となった。彼は現在のイラク北部のティクリート出身で出自はクルド人である。 父のナジュムッディーン・アイユーブはセルジューク朝治下のティクリートの代官であったが,罪によりティクリートを追われた。

12世紀初頭の西アジアのイスラム世界は宗派と民族により分裂していた。ウマイヤド朝からカリフの地位を受け継いだアッバース朝は勢力を失い,モンゴル高原から中央アジアを経由して移動してきたチュルク系民族のセルジューク朝が中央アジアから西アジアにいたる覇権勢力となっていた。

アナトリアやシリアはその支族が独自の王朝を建国している。アナトリアはルーム・セルジューク朝,シリアではアレッポを中心とするザンギー朝,ダマスカスを中心とするブーリー朝が抗争を繰り広げていた。

エジプトはチュニジアから興ったファティーマ朝が支配していた。彼らはアラブ民族ではあったがファテイーマ(アリーと結婚したムハンマドの娘)の名前から分かるように,シーア派の分派イスマーイル派の王朝であった。

また,スペインに逃れた後期ウマイア朝もカリフを擁立しており,三人のカリフが並立する混乱の時代でもあった。地域の覇権勢力となっていたセルジューク朝はアッバース朝のカリフから世俗権力を授けられたスルタンを頂いていた。

このように分裂・抗争していたイスラム世界は聖地エルサレムを支配していたエルサレム王国と十字軍に苦戦を強いられていた。サラーフッディーンは15歳からアレッポの君主ヌールッディーン・マフムードに仕えることになった。

1154年にヌールッディーンはダマスクスをはじめシリア内陸部の主要都市をほぼ全て手中にした。シリアを統一したヌールッディーンは三回のエジプト遠征を行なった。サラーフッディーンは1169年に急死した叔父の軍権を引き継ぎ,さらにファーティマ朝の宰相にも就任してエジプト全土を掌握すると,同年にアイユーブ朝を創設した。

そのため主君ヌールッディーンから領土的野心を疑われ,両者の関係は急速に悪化した。しかし,ヌールッディーンは数年後に病没しシリアの情勢は混乱した。

サラーフッディーンは要請を受ける形でシリアに向かいダマスカスは無血開城した。こうしてアイユーブ朝は西アジアの半分を支配するようになった。1187年にはエルサレム王国を攻撃し聖都の奪還に成功した。

これに危機感を強めたヨーロッパ諸国が送り込んだ第3回十字軍との戦いをかろうじて休戦に持ち込み,アイユーブ朝の領土は守られた。この戦いの翌年にサラーフッディーンはダマスカスで没し,遺骸は現在の廟に納められた。

聖都をイスラム世界に奪還し,十字軍を退けたことによりサラーフッディーンはアラブの英雄として現在に伝えられることになった。廟に入るとブドウの紋様があしらわれた大理石の石棺が置かれている。

しかし,これは19世紀にドイツから送られたもので,オリジナルはその隣にある。彼の騎馬像は城砦の西側,通りに面したところにある。残念なことに改修工事が行われており,周辺は無粋な鉄パイプで囲まれていた。


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