亜細亜の街角
見える美しさと見えない美しさ
Home 亜細亜の街角 | Yerevan / Armenia / Sep 2007

セヴァン湖

日本人宿に泊まっていると話の時間が多くなり日記の時間が足りなくなる。このところ2日前の日記を書くパターンになっている。K夫妻がセヴァン湖に日帰りで行ってきたというので,今日は僕も行くことにする。

エレバン駅の地下道に入り,そこで料金を払いメトロのホームに出る。メトロの線路はエレバン駅の少し北側で地上に出ており,この駅ではメトロと列車のホームが並んでいる。

メトロでイェリタサルダカン駅まで移動し,そこでセヴァン行きのマルシュルートカを見つける。セヴァンまでは70km,所要時間は1時間20分,料金は6Drである。

マルシュルートカはセヴァンの町の中心部で止まる。そこからセヴァン修道院までは6kmほど離れており,地元のマルシュルートカのお世話になる。右手にセヴァン湖が広がり,半島のように突き出た先端部に修道院がある。

セヴァン湖は面積1360km2,琵琶湖の2倍もあり,カフカス地域最大の湖でアルメニアの国土面積の5%を占めている。この巨大な湖がおよそ標高1900mの地域に存在するのは,北と南を小カフカス山脈に挟まれた地理的条件による。この盆地状の土地に周辺から30もの川が流入している。

セヴァン湖はその美しさから「カフカスの真珠」との形容されれている。湖はひょうたんのように中心部がくびれた形状をしている。南東部の大きい部分を大セヴァン,北西部の小さい部分を小セヴァンという。

ソ連時代に発電と農業用水として大量に取水されたため,1939年以前に比べて湖の水位は18m低下し,それにともない,湖水面積も100-400km2減少したといわれている。

この湖から流れ出ていくのは北西部のラズダン川だけである。ラズダン川はセヴァンの町のすぐ近くから流れ出し,エレバンを通り国境の川であるアフリャン川に合流する。

この巨大な湖でも人為的な影響が現れている。元来この湖は貧栄養湖であった。しかし,周辺からの生活雑排水と農地からの排水により,リンと窒素が流入し富栄養価が進んだ。

しかし,不思議なことに1970年代の水位低下を機に水中のリン濃度が低下したと報告されている。セヴァン湖の水質は改善され,植物プランクトンの一次生産は低下し,ラン藻類は緑藻にとって替わられた。

この湖固有の理由により,リンは炭酸カルシウムの結晶と一緒に湖底の泥に固定されるという不思議な現象が発生しているという。それは湖の水位が上昇すれば炭酸カルシウムの結晶が再溶出し,合わせてリンも増大するメカニズムが働くことを示唆している。

注)セヴァン湖の富栄養化については 「ILEC (財団法人国際湖沼環境委員会)のニューズレター」より引用し

セヴァン修道院への登り

湖畔は保養地となっており,セヴァン修道院のある半島の周辺も海水浴場やカフェが多い。それらには目もくれず,修道院への階段を登る。

以前は島であったが,水位が下がり陸続きになってしまったという。かってはいくつもの建物からなる複合宗教施設であったが,現在残っているのは聖母教会と聖使徒教会の2つの建物だけである。いずれも9世紀の建設され,17-18世紀に大規模な改修が行われた。

階段の途中に三体の十字架石が立っている。材質は赤砂岩のようだがカビか何かにより,下半分は黒く変色している。修道院のある丘の上まで上ると湖の景色が素晴らしい。天気が良いので湖面は少し濃い青に輝いている。

青く輝くセヴァン湖を背景に大小二つの教会が立っている

丘の周辺にはいくつもの崩れた石材や建物の土台部分が残っている。建設された当時はかなり大きな修道院だったようだ。丘の斜面をもう少し上ると,青く輝くセヴァン湖を背景に大小二つの教会が立っている。この構図は絵葉書などにも採用されている。

左側の大きな方の教会が一般に公開されている。建物は十字架プランとなっており,基本部は二つの切妻屋根の建物が交差しており,中央部には八角柱の胴部と八角錐の屋根をもった塔状部が置かれている。側廊が無いためか基本部の建物がずいぶん高い感じを受ける。

門を入ると石垣にはたくさんの十字架石が立てかけてある。こうして見ると十字架石のデザインと大きさはかなり異なっていることが分かる。さきほど,階段の横にあったものはかなり程度の高いもののようだ。

セヴァン修道院

前室の灯明はやはり艶めかしい

聖堂ではミサが行われている

教会の内部からは美しい歌声が聞こえてくる。中に入るとミサが行われており,たくさんの人で混雑している。正面にアプス(後陣)があり,会堂より1.5mほど高くなった至聖所では数人の司祭が聖句を朗誦している。その合間に会堂の横にいる女性たちが美しい歌声を響かせている。

建物の中は音響効果が良いので,彼女たちの歌声は隅々まで染み渡っていく。ロシア正教の教会でテープの歌声を聴いたことがあるが,本物は初めてである。

最前列には長いすに坐ったスカーフ姿の女性たちがミサに参列している。光と音が厳粛な宗教空間を演出しており,すばらしい経験をさせてもらった。観光客も入口でローソクを買い求め,灯明台に次々と挿していくので,薄暗い教会の中でその一画だけが暖かい光に包まれている。

教会の前の広場は写真のポイントとなっている

教会の前の広場はセヴァン湖を背景にした写真ポイントになっており,家族連れが記念写真を撮っている。僕もこれに便乗したら,三組の家族から「家族の写真に入ってください」と依頼され,一緒に収まることになった。

ポストカードの店もありちょっと覗いてみると,セヴァン湖周辺の冬景色のものがあった。湖周辺の山が白に変わっており,すばらしい景色になっている。でも,寒いのはきらいなのでその季節には旅行したくない。

菜の花の仲間

石垣の外ではこの辺り専門の絵描きがいる

写真の依頼もけっこう多い

湖水浴場

階段を下っていくと右側に修道院のような建物があることに気が付いた。何人かの人はそちらに下っていったが,ぼくは上の教会を十分見せてもらったのでそのまま湖岸に出る。

セヴァン修道院のある丘の下は湖水浴場になっている。それほど立派な施設は無いし,砂浜もほとんどないところではあるが,けっこう大勢の人たちが湖水浴を楽しむためにやってきている。

水はとてもきれいだ。水温は少し低いように感じたが,みんな元気に水遊びに興じている。さすがにキリスト教国だけあって若い女性はビキニ姿が多い。近くには足こぎボート乗り場や,小さな遊覧船の乗り場もある。

黒いプードルが岸から少し離れたところで水につけられている。男性が手を離すと真っ直ぐ岸まで泳いでいく。特に彼は水の中にいたくはないようだ。

セヴァン湖の名物はマスの塩焼きである。湖岸に煙が見えるので行ってみると,それは巨大なナス焼きであった。炭火のグリルでそのまま大きなナスを焼いている。マス料理は近くのカフェでやっており,値段は15Drくらいはしそうなのでパスする。

セヴァンの町

マルシュルートカでセヴァンの町に戻り,少し歩いてみる。幹線道路の歩道には野菜,果物の露店が出ている。値段札が貼ってあり,それぞれ1kgあたりで黄桃250,ぶどう350,洋ナシ400,トマト100,キューリ180,ナス100,ジャガイモ150となっている。これを100で割るとDrになる。

幹線道路と交差する道の向こうに駅が見える。両側には3-5階の集合住宅が並んでいる。このあたりはさして人通りも無く,とても人口10万人の町とは思えない。

駅舎は石造りの立派な建物でその上には大きな星の飾りが取り付けられている。ソ連時代はエレバン,トビリシ,バクー,ロシアを結ぶ鉄道輸送はアルメニアの経済を支える大動脈であったことだろう。

現在,そのような国際列車は運行されていない。線路はかなりさび付いており,国内の列車もあまり走っていないようだ。駅周辺には無蓋の貨物列車が数両あるだけだ。この線路に再び国際列車が走るようになるのは,ナゴルノ・カラバフ問題が解決するまで無理だろう。

駅から戻るとき,近くの集合住宅の前で子どもたちが遊んでいるのを見つけた。老人がイスに坐って子どもたちを見守っているので僕も近づきやすい。3歳くらいの子どもの最高の笑顔が撮れたのでお礼にヨーヨーを作ってあげる。

空模様が怪しくなってきたので幹線道路でエレバン行きのミニバスに乗り,メトロのイェリタサルダカン駅に戻る。この周辺も公園とカフェが多いので,たまには贅沢をしてカフェでコーヒーをいただくことにする。2.5Dr(75円)のコーヒーは久しぶりということもありおいしかった。

おかしな取り合わせの夕食

宿に戻り洗濯をする。昨日この家の下水管が壊れたので家の人が修理した。セメントが乾かないので排水ができない。トイレは別系統なので,台所の洗い物の水もトイレに流していた。

洗濯はそうはいかない。洗い場のタライで洗濯をして洗い水は庭の外れに捨てる。洗髪は庭に水を持ってくれば可能であるが,下水管が直るまで待つことにしよう。3日くらい頭を洗わなくても平気でいられるようにならなければ,バックパックの旅行は難しい。

Jさんと一緒に夕食の買物に行く。今朝はKさん夫妻が,夕方にLさんがチェックアウトし,残ったのは僕とJさんだけである。18時頃に昨日の肉屋に行ったところ,すでに閉まっていた。しかたが無いので代わりに駅の地下道でハムを買う。

しかも,Lさんは出発するとき,スパゲティを鍋に残していったので,ごはん,サラダ,ハム,スパゲティ雑炊という変則的な食卓となった。余ったスパゲティ雑炊とごはんは暗くなってから到着した日本人旅行者のお腹に納まった。

ガルニ神殿

07時に起床,部屋で日記を書いていたら新しい人が起き出してきたので朝食にする。昨日はごはんを1kg炊いたので9個の塩味だけのおにぎりが残っている。ビニール袋に入れておかなかったのでだいぶ乾いている。

それでもおにぎりは日本人にはごちそうである。3個とも簡単に入ってしまった。昨日の轍を踏まないように,Jさんと先に帰ってきた方が買出しに行くという約束をしておく。

今日はエレバン最後の見どころであるゲガルト修道院とガルニ神殿跡に行くつもりだ。両者は5kmほど離れており,その間に移動拠点となるガルニ村やゴグト村がある。

ティグラン・メッツ大通りを北に歩きGUMデパートの広場に行く。ここで9番のマルシュルートカをつかまえる。30分ほどでゴグト方面のバスターミナルに到着する。そこはただの路上でバスターミナルのようなものは見当たらない。

路上でマルシュルートカを待つが,目的の284番は一向に現れない。たまたま後ろを見るとバスがトタン板で囲われた一画に入っていく。覗いてみるとそこがBTであった。284番が停車しており乗り込む。

ガルニ村までの風景はけっこう目を楽しませてくれたが写真にはならない。ガルニ村でヨーロピアンの旅行者と一緒に下車する。ガルニ神殿への道は彼が村人にたずねて確認してくれた。おそらく,村人のほとんどはその場所を知っているはずだ。

5分くらいでガルニ神殿の入口に到着する。石の門のところで入場料10Drを払って中に入る。ガルニ神殿はアルメニア国内に現存する唯一のヘレニズム建築物である。

アルメニア国内に現存する唯一のヘレニズム建築物

この神殿が建てられた1世紀のアルメニアの精神文化はギリシャ,ローマの大きな影響を受けており,この神殿も太陽神ミトラ(ラテン表記ではミトラス)に捧げられたものである。

ミトラスはアーリア人の古い神話に登場する光明の神であり,古代ペルシャではミスラ,古代インドではミトラと呼ばれていた。ミトラとは「計るもの」を意味し,年月や人間関係を正しく計る契約や審判の神とされた。

アレクサンザー大王の東征によりミトラスの太陽神信仰は地中海世界にも伝播し,紀元前3世紀にはミトラス信仰に基づく密儀宗教はローマでも有力なものとなった。しかし,キリスト教の普及により衰退し,忘れ去られていった。

ミトラスの最大の祭りは太陽の復活(誕生)を祝うもので,冬至の12月25日に行われていた。この祭りはキリスト教と結びつき,クリスマス(降誕祭)となったといわれている。これに対してギリシャ正教では,天地創造の始まりを1月1日,アダムとイブが誕生した1月6日をクリスマスとしている。

ガルニ神殿は半島のように三方が崖になった台地の末端に建てられている。この半島部とその付け根の地域は緑が豊かで村の家屋が点在している。急峻な崖の下は峡谷となっている。

はるか下にはアザト川の細い流れがあり,この半島状の地形は水の浸食でできたことを物語っている。谷を挟んで眺望できる山々はほとんど緑が無く,この神殿の台地周辺だけが水に恵まれているようだ。

ガルニ神殿はギリシャの周柱式神殿の形式をそのまま採用している。石造りの壁で囲まれた神室(セラ)が中央にあり,その周囲に石柱を並べた様式である。規模は異なるものの有名なパルテノン神殿も同じ様式である。

この神殿は17世紀の地震により全壊し,20世紀に再建されたという。そういえば,色の異なる石材が使用されており,若干まだら模様になっている。

神室(セラ)の内部は何も無く,単に音響効果がよい空間である。楽師が一曲歌を披露してくれ,観客は拍手でそれに応える。今日は天気が良くない。時おり強い雨が降り出し,2回雨宿りをすることになった。雨が上がったところでゲガルト修道院に移動する。

ゲガルト修道院

ガルニ神殿の門のところで,一緒にここに来たヨーロピアンに出会い,タクシーをシェアしてゲガルト修道院に行くことにする。ちょうど地元のタクシーが現れ,片道10Drで行くというのですぐに決定する。

運転手の話ではゲガルトまでは10kmあるそうだ。確かに5kmの距離ではないような感じは受ける。修道院に到着すると運転手は1時間後に出発という条件でそこで待っているという。

ゲガルト修道院は切り立った崖の真下に造られており,施設の周囲は頑丈な石造りの外壁で囲まれている。ゲガルトとはアルメニア語で「槍」を意味している。

槍とはエチミアジン大聖堂の聖遺物館に保存されている,「キリストのわき腹を刺したといわれているロンギヌスの槍」のことであり,当初はこの修道院にあったのでゲガルトの名前が付けられた。

現在外壁の外から見るとアルメニア様式の教会だけが見えるが,本来の施設は岩山に穿った岩窟修道院であった。教会の横にある石段を上り裏手に出ると洞窟の入口がある。

その上には大きな岩の下の部分を削り,6枚の十字架石が立てられている。石の表面は赤っぽく着色されており周囲の灰色の岩に対してよく目立つ。教会の建物は岩山にくっついており,内部はつながっているのかもしれない。

洞窟と聖堂はつながっている

周辺部は暗い空間となるので中央に集まる

入口から岩窟教会に入ってみる。内部はドーム構造になっており,最上部は明り取りのためか開放されているので,中央部だけは明るい。おそらく岩をそのまま削りだしたのであろう巨大な柱が明かりの周囲を囲んでいる。

ヨーロピアンの団体のガイドがツアー・メンバーを明かりの下に集め,この修道院のいわれを説明している。彼の声は低く薄暗い会堂内に響き,往時の祈りの声のようにも聞こえる。

内部には華やかなな装飾は一切無い。壁面に掘られた精緻な十字架群,柱に彫られた十字架以外は何も見つからなかった。ここは社会生活の虚飾を捨てて,禁欲と祈りの生活に入った初期の修道院の姿がよく見て取れる。

修道院の主たる目的は宗教的生活であるが,聖書を読むということ自体が,語学や文学の素養を必要とするので,修道院はそのための教育の場でもあったはずだ。

岩窟教会はいくつかの複雑な構造になっているようだ。暗い場所での移動なのでそのように感じるのかもしれない。薄暗い空間の片隅にある灯明台の回りにはローソクを挿す家族がおり,そこだけが明るい光を放っている。

聖障と後陣もわずかな光しか届かない

聖母子像のイコンが置かれた至聖所には中央部と背後からわずかな光が差し込んでいる。暗くはあるけれどもフラッシュ無しの写真に耐えられる明るさである。地元の人たちであろうか,それとも観光客であろうか,10人ほどの人々が司祭の聖句に聞き入っている。

この空間の音響効果も素晴らしい。これがもっと明るい空間であればこれほどの宗教的な雰囲気は感じられないであろう。教会堂に要求される一つの要素は「暗さ」であり「光」である。

イエスを洗礼するバフテスマのヨハネ

バフテスマのヨハネから洗礼を受けるキリストのイコンはわずかな光に照らされてすばらしい効果をもって浮かび上がっている。他にも天井部からの光で浮かび上がる柱や壁面の十字架からはとても荘厳な感じを受ける。

今まで訪問した教会に飾られたイコンの見える美しさも素晴らしいが,この教会の内部のように見えないあるいは隠された美しさもいいものだ。十分に暗い空間を堪能して外に出る。

壁面と柱を飾るものは十字架だけである

少し明るいところがあり,この洞窟教会は岩盤をくりぬいた構造であることが理解できた。インドのアジャンター石窟と同様に初期の修道院は祈りと瞑想の場であり,それは仏教の修行僧の生活と通じるものがある。

どちらも社会から隔絶した自然の中での生活である。異なる点はキリスト教の修道院は自給自足を原則としているが,仏教の出家者集団である僧伽(サンガ)は一切の食べ物を一般の人々の寄進に頼っていることである。

明るい空間もある

蜜蜂の巣箱

岩窟教会の入口の石畳から一段高くなったところには蜜蜂の巣箱が置かれていた。これは修道士が蜂蜜を自給するためのものであろう。巣箱の周囲は金網が巡らされており,近づくことはできない。

修道院の全景は道路から撮るのがよい

道路に出るまで修道院の全景を撮れるポイントを探したが徒労に終わった。手前の新しい建物と内側の擁壁が教会を隠してしまい,ピッタリした構図にならない。道路の反対側の斜面からが良さそうだがいかんせん時間が無い。

ヨーロピアンと一緒に道路に下りてタクシーを探したところ見つからない。天気もかなり回復したのでのんびり歩いていくことにする。道路の左側には川が流れており,近くではキャンプを楽しんでいる人のテントも見える。

スモモの木

周辺の崖には明らかに人工的な洞窟が穿たれており,修道院以外にも多くの洞窟で修道士がこの辺りに暮らしていたようだ。川べりの斜面にはスモモの木があり,小さな実がなっている。

背の高いヨーロピアンは手を伸ばして数個もぎとり僕にもくれた。「小さいね」と言うと,彼は「uncultivated」と答えた。なるほど,品種改良が進んでいない野生種に近いというのはこう表現するのかと感心する。

名もない村へ移動する

歩き出して5分くらいのところで例のタクシーがやってきた。修道院のところでUターンをして戻ってくる。1時間の約束の間に仕事をしていたようだ。タクシーでゲルニ村に戻り,彼の案内で村の教会を見ることにする。ロンリープラネットにはそんな細かい情報まで載っている。

名もない村の教会

村の教会はバシリカ様式のものであった。平面図は長方形で,入口の反対側にアプス(後陣)が設けられており,一段高くなった至聖所となっている。半円状のドームはそれほど目立たない。

入口近くの壁面には明り取りの窓があり,その両側にキリストの生誕と十字架のキリストのイコンが飾ってある。至聖所には聖母子像が置かれている。

羊が通る

村の道を歩いてバスの停留所に向かう。そこはただの交差点であるが村人はここからエレバンへのミニバスが出るという。通りをヤギの一団が通る。あわててカメラを出してフレームもいい加減に写真を撮る。

確かにしばらく待つとエレバン行きのバスがやってきた。来た時と同じ場所で降ろしてもらい,もう一度ミニバスに乗りGUMデパートに到着する。宿に戻ると部屋の机の上にメモが置いてあった。

Jさんは先に戻ってきて,買物に出かけたようだ。今日も夕食は肉じゃがにする。しょう油は残り少なくなっており,それでもちゃんと肉じゃがに仕上げることができた。2人の夕食となり,トマトとぶどうが付いたので材料費は5.8Drになった。

余談になるが,帰国後,僕はパン食をやめてごはんをメインとする食事に切り替えた。中央アジアと西アジアの旅は「ごはん」の素晴らしさを再認識させてくれた。


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