亜細亜の街角
二度目の石油景気に湧く大都市
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バクー(バキュ) (地域地図を開く)

バクーはアゼルバイジャン共和国の首都,人口は183万人,カスピ海西岸に突き出したアブシェロン半島に位置している。市街地は半島南岸のバクー湾に面するように広がった港町である。バクーはロシア語のつづりをカタカナ表記したもので,アゼルバイジャン語の発音では「バキュ」に近い。

アゼルバイジャンはもともとイラン系の民族が住んでおり,歴史的にはペルシャと関係が深く,イラン高原の支配勢力の統治下にあることが多かった。11世紀頃からチュルク系の遊牧民が進出し,地域のチュルク&イスラム化が進んだ。

17世紀にこの地方を拠点にサファヴィー朝が興り,カスピ海南西岸地域一帯の人々がシーア派へ改宗した結果,アゼルバイジャン人(アゼリー人)と呼ばれる民族が形成されていった。19世紀になりロシア帝国が南下政策を進め,イラン・ロシア戦争(1828年)の結果,アラス川北岸地域はロシア帝国に割譲された。

アゼルバイジャンはカスピ海沿岸にバクー油田を擁し,帝政ロシア時代から1950年代にかけて世界最大の石油産出国であった。世界中から石油資本が集中し,小さな港町であったバクーは地域最大の都会に変貌した。

しかし,1960年代初め頃から陸上油田が枯渇し始め,その経済的地位は低下していった。20世紀末になるとカスピ海の海底油田の開発が本格化し,再び産油国としての地位を高めつつあり,バクーの経済も石油で成り立っている。

現在カスピ海ではカザクスタン領の北部,ロシア領の中部,アゼルバイジャン領の南部で油田の開発と採掘が行われている。1999年に発見された北カスピ海油田は世界有数の巨大油田であることが確認されており,その一つのカシャガン油田(推定埋蔵量380億バレル)ではピーク生産時には日量120万バレルを超える計画になっている。

南カスピ海沖合のACG(アゼリ・チラグ・グナシリ)鉱区(埋蔵量54億バレル)はすでに生産中の油田に加え,2005/06年に新たな油田で生産が開始され,2009年には鉱区全体で日量100万バレル(約16万トン)を超えるピーク生産に達する見込みである。

実際には原油価格低迷の影響もあり,2014年のアゼルバイジャンの原油生産量は日量85万バレルにとどまっているものの,世界原油供給量のトップ3である米国,サウジアラビア,ロシアの8%ほどであり,北海油田を擁する英国と同量であり,決して少なくない。

日本の石油消費量は日量450万バレルなので日量100万バレルとは相当量の産油量である。この内陸の石油をどのようにしてヨーロッパや米国,日本などの大消費地に運搬するかは大きな問題である。

欧米や日本はロシアのエネルギー資源支配を警戒しており,地中海に出るパイプラインはアゼルバイジャンからグルジア,トルコを経由するものとなっている。この,2006年に本格稼動を開始したBTCパイプラインは延長約1,770km,日量100万バレルの原油輸送能力を有している。

バクーから黒海沿岸のスプサに至るパイプラインもあるが,ロシア領を通過する難点がある。将来的には北カスピ海油田で生産される原油を輸送することも視野に入れ,BTCパイプラインの輸送能力は日量160万バレルに増強される計画になっている。

黒海を経由しないもう一つの理由はボスポラス海峡を通過するタンカーの船腹数に制限があるためである。海峡は狭いところでは700mの幅しかない。うねうねと続く30kmの海峡を通過するのは巨大タンカーにとっては難しい。しかも,そこは年間5万隻の船が通行する過密地帯でもある。

カスピ海油田を巡っては中国とカザクスタンがパイプラインの建設に合意し着工されている。これはカスピ海北岸からカザクスタンの内陸部の2つの油田を経由して中国の阿拉山口を結ぶ総延長3000kmのものである。このパイプランが完成すると石油輸送能力は年間2,000万トンに拡大する。

まさに,中央アジアの内陸油田を巡り,欧米,ロシア,中国が綱引きをしている構図である。かってロシアと英国の「グレートゲーム」の場となった中央アジアでは現在「石油のグレート・ゲーム」が展開されている。

この石油景気によりアゼルバイジャンやカザクスタンの物価はずいぶん上がっており,予算の少ないバックパッカーにとってはのんびり旅行できない地域にもなっている。

タシュケント(1500km)→バクー 移動

2007年夏,トルクメニスタンのトランジットビザ発給が停止されており,陸路と海路でウズベキスタンからアゼルバイジャンに向かうのは無理であった。仕方がないのでタシュケント→バクー間は飛行機移動となった。

出発時刻は07時なので前日から空港に出向き,一晩をそこで過ごすことにした。国際空港は24時間オープンでありイスもある。荷物を置き本を読んでいると日本人の若者がやってきて挨拶をされる。Hさんは僕と同じ便でバクーに向かうという。こういうときは二人いた方が何かと都合が良い。

空港内を一通り見学し,トイレと洗面所を確認する。掲示板には機内持ち込みが禁止されている品物のリストが出ている。その中にペットボトルや爪切りが記載されており,僕の蜂蜜のペットボトルは持ち込めそうにない。

それならばということで,水の半分ほど入った500ccのボトルに蜂蜜を入れ盛大に飲んでしまうことにした。Hさんと二人で蜂蜜を山分けし1時間もかからずに飲んでしまった。それ以外はすることがないので四方山話をするか本を読んで時間を過ごす。

空港のイスはさすがに寝るようにはできていない。横になることができないので浅い仮眠になる。04時からチェックインカウンターの表示を見て回るが,バクー便の表示はない。06時台の便がけっこう多くてカウンターは混雑している。

05時少し前に表示が出たのでHさんと一緒にカウンターに並ぶ。しかし,なかなか進まない。カウンターの左側にはカスタムのゲートがあり,そこの人ごみはどんどん増えてくる。掲示板の表示からして手荷物検査は厳しいかもしれないと考え,メインザックは預けることにする。

周囲の乗客は梱包用のフィルムで預ける荷物を厳重に巻いている。荷物を扱う空港職員の信頼度は低いようだ。ここではカスタムを通過するためには税関申告書を2枚書かなくてはならない。

使用言語はロシア語のみなので内容は全く分からない。幸いウズベキスタンに入るときに書いたものとほぼ同じ内容だったので,それを書き写すことにした。カスタムでは入国時のものと出国時のものを照合しているようだ。

その作業は途方もなく遅い。フライト時間の近い06時台と07時台の便が多く,そこに職員の処理能力を越える乗客が押しかけているので人ごみは増える一方である。ここでは混雑するときちんと並ぶという習慣はなく,ひたすらゲートめがけて人々が押し寄せるという状況である。

一人当たりの所要時間はおよそ2分,全く意味のないチェックにこれだけの時間が費やされる。ここを通過するのに70分ほどかかってしまった。時刻は06:30,フライトまであと30分である。

次のイミグレーションもカスタムよりはずっと少ないというものの,かなりの人が並んでいた。我々より10分早い出発のキエフ行き便の乗客が割り込んできて,我々がここを通過したのは出発の3分前であった。

キエフ便と同じところで手荷物検査を受ける。履物もX線検査を受けなければならず,乗客はビニール袋のようなソックスに履き替える。その割には検査はずさんでどうも実効性があるとは思われない。

搭乗待合室に着いたのは07時を回っていた。もちろん,乗客を残して飛行機が飛び立つわけもなく,出発時間は07:40となった。航路の大部分は沙漠の風景である。赤っぽい褶曲した岩肌が奇妙な模様を描き出している。不毛の荒地という言葉がぴったりする土地である。

19世紀にカスピ海から東に進もうとしたロシア軍は真水の補給に大変な苦労をしたという。赤い砂漠の中をうねりながら茶色と白が織りなす線が続いている。おそらく涸れ川の跡なのであろう。そしてこの先にカスピ海があるに違いない。

カスピ海が見えた

時間にして20分ほどでカスピ海が見えてきた。カスピ海は面積374,000km2,日本とほぼ同じ面積の内陸塩湖である。海とするならば世界最小の海,湖とするならば世界最大の湖ということになる。

湖の北側にはヴォルガ川,ウラル川,クラ川,テレク川などが流れ込んでおり,流れ出す川は存在しない。カスピ海の水面標高は-28mである。海面より低いところにある巨大な内陸湖はどのようにして造られたのであろう。

5000万年前に大陸移動によりアフリカ大陸はユーラシア大陸に接近し地中海が形成される。この時期,ウラル山脈に相当する地域でヨーロッパとアジアは分断されており,中央アジアの大部分は地中海や北極海につながる浅い海であった。同じ時期にアフリカから分離したインド亜大陸はアジア大陸に接近し大衝突が始まろうとしていた。

「1500万年前」にはアフリカ大陸,アラビア楯状地がユーラシア大陸に接近あるいは衝突した結果,ヨーロッパアルプス,アナトリア高地,カフカス山脈,エルブルズ山脈,ザグロス山脈が形成された。

インド亜大陸とユーラシア大陸の衝突によりヒンドゥークシ山脈,カラコルム山脈,ヒマラヤ山脈,コンロン山脈,チベット高原,横断残脈が形成された。ヨーロッパ大陸はアジア大陸と合体しウラル山脈が形成される。これがアルプス・ヒマラヤ造山運動である。

バルカン半島,アナトリア高地,イラン高原が隆起したことによりアラル海あたりから黒海にかけての地域は広大な内海のようになった。さらにカフカス山脈の隆起によりカスピ海以東の地域は黒海から切り離され,完全な内海となった。

その当時の内陸海は現在のカスピ海からアラル海までの広大な地域に広がっていた。砂漠地帯にあるこの内陸湖からは水分が蒸発し,面積は縮小していった。カスピ海はその名残であり,北側からの河川流入量と湖面からの蒸発量がバランスしたところで面積が決まる。当然,自然環境の変化により水面標高は変動する。

茶色の大地の向こうに明るい青の水面が見える。水面は明るい青,空は低いところから高いところに向かって薄い青から群青色へとグラデーションを見せている。雲も浮かんでいるが,東側に雨を降らせることは少ない。

バクーが近くなると,青一色だった湖面の色が灰色がかったものになり,小さな波紋と潮目のような筋が現れてくる。不思議な光景だ。バクーは少しガスがかかったようになっている。10時にビナ空港に到着した。飛行機を出るときはフランス人が一人加わった。僕は空港でアライバル・ビザを取らなければならない。ここのビザ申請はちょっと変わっていた。

まず,イミグレーションに並び,入国スタンプを押してもらう。それから,右側にある窓口にビザ申請書(英文併記)を提出する。このとき写真2枚と40$が必要となる。パスポートにビザスタンプを押してもらい,再びイミグレを通過する。

ホテル・アラズ

空港は市内中心部から20kmほど離れており,バスが運行されているらしい。空港から外に出るとタクシーの運転手が集まってきて,空港までは40マナト(5600円)と法外な値段を言ってくる。とはいうもののバス停は近くには見当たらない。

フランス人が交渉して6マナトで決着したのでタクシーで移動する。ホテル・アラズ前の道路に入り運転手が「あれがアズラだよ」と反対側の建物を指差して教えてくれる。そこで降ろしてもらえば何の問題も無かったのであるが,親切な運転手は少し先でUターンしてアズラの前に行こうとした。

しかし,大きな交差点のところでUターンしようとすると,反対側の車線は通行禁止になっており,戻るに戻れなくなってしまった。しかも,周辺はこの交通規制のため大変な渋滞となっており,アズラに近づくことはできない。

結局,ずいぶん大回りして近くの路上で降ろしてもらったが,当然,料金のことでもめることになった。運転手は大回りした分の追加料金を要求した。フランス人は約束の6マナト以上は絶対に払わないと論争になる。彼は2マナトを我々に渡してどこかに行ってしまった。

運転手の要求を(英語とロシア語の混在会話で)よく聞いてみると追加分として2マナト(280円)が欲しいとのことであった。まあ,それほど大きな出費ではないので二人で折半して払うことにして一件落着である。

さて,ホテル・アズラは3人部屋を2人で使用すると一人あたり14マナトだという。それは余りにも高い。これはダメかなと思っていると,英語の話せるスタッフが「このホテルには日本人が泊まっており,彼を含めて3人部屋にすれば一人10マナト(1400円)になるよ」と助け舟を出してくれた。

Hさんが宿泊者名簿で日本人の名前を確認し,「彼は同じ宿に泊まったことがあるので平気ですよ」と言って新しい部屋に3人で泊まることにした。夕方彼が戻ってきてコーカンの宿で一緒だったJさんであることが分かった。そういえば,彼の名前を聞いていなかったことに気が付いた。

旧市街を散策

部屋が決まったのでHさんと一緒にイチャリ・シャハル(旧市街)を見に行く。バクーの市内にはメトロが走っており,これを乗りこなすと移動は簡単になる。

しかし,メトロは日本のsuicaのようにカード化されており,キップでは乗車することができない。メトロカードを手に入れるには最低でも2マナトが必要だ。1回分の料金は0.05マナトなのでこれは40回分に相当し,ずいぶん不経済になる。ということで我々はマルシュルートカを探して旧市街に向かった。

海岸に沿って片側4車線か5車線の大通り(ネフッチレル通り)がある。ここを横断するのはいつも大変であった。この海岸大通りと旧市街の間は何も無い広場になっており,どこまでが道路なのか識別がつかない。

海岸大通りに面して旧市街の城壁がある。このイチャン・シャハルはアゼルバイジャン語で「内城」を意味している。1806年のゴレスターン条約でロシア帝国に併合される以前はレンガや日干しレンガ造りの家屋が密集した人口5000人ほどの町であった。

帝政ロシア,ソ連の時代に周辺に新しいヨーロッパ的な新市街が建設されたが,イチャン・シャハルの内部は古い時代の城壁,建造物,家屋が保存されている。

イチャン・シャハルの内部は世界遺産とはいえ,人々の生活空間となっているので,車の通りも多く世界遺産の景観維持と人々の生活が共存できるかは疑問な状態だ。石畳の通りを車が走り,歴史的建造物の周辺にも車が駐車しており,写真の構図が難しい。

今日は二人連れなのでいつものように好き勝手にのんびりと歩くわけにはいかない。それにしてもこの街は古いものか新しいものか判断に悩むところが多い。15世紀や16世紀の建造物もそれと分かる新しい補修が加えられており,ウズベキスタンのオアシスを見てきた僕には何か物足りない。

一般の建物の特徴は張り出し窓である。二階の一部が外に張り出しており,おもしろい景観を見せてくれる。中には二重の張り出し窓もあり,構造的に大丈夫なのかと心配になるものもある。

乙女の塔

「乙女の塔」はこの街のシンボルとなっている12世紀の石造りの円柱状の塔である。いろいろ言い伝えがあるようだが,難攻不落を祈願して「乙女の城」と名付ける事例はいくつもあるらしい。

イチャン・シャハルの内部は生活空間となっている

新市街から海岸通りへ

とりあえず僕はT/Cをマナトに両替したいので国際銀行に行く。バクーの新市街は真っ直ぐな道路が多いのだけれど,目印になる建物が少なく特定の場所に行くのは難しい。ようやくたどり着いた銀行では「T/Cの両替はできません」という冷たい返事であった。

仕方がないのでATMでドルを引き出し,来るときに見かけた両替所で両替する。今回の中央アジアと西アジアの旅行ではT/Cが本当に無力であり,ATMが無いと旅行ができないところであった。

新市街には19世紀末の建物が多い

新市街には19世紀末の石油景気時代の建物が多い。それから100年が経って二度目の石油景気時代となり,近代的なオフィスビルがどんどん建ち始めている。そんな中でもイチェリ・シャハルをとりまくヨーロッパ調の重厚な建物は見ごたえがある。

とりわけ19世紀末の石油成金の豪邸はバクーの観光名所にもなっている。旧イスマイリエ宮殿(現在の科学アカデミー)や旧ミルザ・バトエフ邸(現在のアゼルバイジャン石油公団)の建物は素晴らしく,マルシュルートカを利用する際のよいランドマークになる。

イチャン・シャハルの西側にメトロのバキュ・ソベティ駅があり,近くにケバブ・サンドイッチ屋がある。ホットドッグ用のパンに野菜とドネル・ケバブを入れるもので1個0.8マナトとこの街では最も安い昼食である。

バクー駅前広場

海岸を一通り見学してマルシュルートカに乗って鉄道駅に向かうつもりがはるか南に行ってしまった。これは大失敗。似たような番号が同じ方向に行くとは限らないのだ。

他のマルシュルートカがたくさん停まっているところで降りて,鉄道駅行きを探す。英語はまったく通じないのでこれは苦労する。ようやく男性が「これに乗れ」と教えてくれた。車は海岸大通りを走り,駅の南をそのまま走り抜けそうだったのでそこで下車する。

バクー駅は大きな広場になっており,左に旧駅,右に新駅がある。旧駅は19世紀末の石油ブームの時期のものである。ヨーロッパを思わせるような重厚な建物だ。それに対して新駅はソ連時代のただ巨大な建物である。

ここの10/11階には宿泊所があるけれども,最近の情報では泊まれなかったというものが多い。新駅の下には地下鉄の28 May 駅がある。ここはメトロの東西線と南北線の乗り換え駅になっており,メトロカードさえあれば市内の移動はかなり便利なのだが・・・・。

線路沿いの道を歩く

マルシュルートカの番号系統が分からない我々は宿までの2kmを歩くことにした。地図ではアラズのすぐ北側に駅が記載されていたので線路沿いに歩くことにした。前半の1kmは普通の道路であったが,残りは線路を歩くことになる。まあ何とかなるだろうと先を進む。

古い機関車がとなりの線路を動いており目を楽しませてくれる。ようやく線路をまたぐ歩道橋があり線路区域から街に出た。小さな路地から出るとそこは見覚えのある宿の前の通りであった。

ヤナル・ダグ

宿で休んでいるとJ さんが戻ってきた。再会の挨拶をしてから彼が知っている食堂に出かける。HさんとJ さんは乾杯のビールとなるが,飲めない僕はビーフシチューとパンを注文する。2.2マナト(310円)の料理はさすがにおいしい。それにしても物価は高い。

宿に戻るとHさんの様子がおかしい。熱が出てきたようだ。僕の体温計で計ってみると39℃を越えている。夜中までに下痢が加わり,どうも細菌性の感染症のようだ。こんな場合は病院に行くのが一番だがHさんは高い医療費を恐れ行きたくないようだ。彼が持っている抗生物質を飲ませる。

翌朝になると熱は38℃くらいまで下がったが,ひたすら横になっているしかない状態だ。H さんと二人で昨夜の食堂に行き,紅茶とパンで朝食をとる。

少し固いパンを紅茶に浸すとおいしくいただける。それにしてもこの食堂はハエが多い。経営者の子どもがときどきハエたたきで退治するがとても追いつかない。

H さんにはパンと水,それにスイカを残して,我々はタクシーで「ヤナル・ダグ」に向かう。ここは山の斜面から天然ガスが漏れ出して燃えているところだ。公共の交通手段はないのでタクシーをチャーターするしかない。

距離的には空港より近そうであるが往復になるので料金は12マナトである。途中で油井が林立している地域があった。ここは帰りに寄ってもらうことにしよう。

タクシーは道路沿いの空き地に止まり,運転手は少し低くなったところを指差す。斜面の下からいくつかの小さな炎が出ている。しかし,それだけである。う〜ん,僕のイメージではもう少し広範囲に燃えていると思ったのに,ずいぶんかわいい炎であった。

しかし,これの巨大なものがトルクメニスタンにある。こちらは天然ガスの採掘現場であり,1970年に天然ガスの充満した洞窟が崩落したため地表に直径100mもの大きな陥没地形ができ天然ガスが噴出した。有毒ガスを無害化するため火をつけることになり,現在に至るまで燃え続け,「ダルヴァザ(地獄の門)」と呼ばれるようになった。

写真を何枚か撮り,丘の斜面を登ってあたりを見渡す。特に写真を撮りたい風景ではない。タクシーに乗り込み,油井のところに行ってもらう。周辺には小さなやぐらが林立している。それでも,汲み出し機械が付いているものはそれほど多くはない。

米国西部の古い油田地帯でおなじみの機械が動いている。モーターの動力で機械のヘッドの部分が上下に動き,それで石油を汲み上げている。地下に通じる金属パイプの地上部分は別のパイプが取り付けられており,ここを通って汲み上げられた原油が集められるようだ。

本来,地上からパイプを掘リ下げて原油層に達すると,高い内部圧力により原油は自噴する。バルブを閉めなければいくらでも出てくる。ところが石油がどんどん汲み上げられ,原油量が65%くらいになると次第に内部の圧力が下がるので自噴量が低下する。

そのため高圧の水を注入したり,ポンプのような副次的な手段で原油を汲み上げるしかけが必要となる。バクーの陸上油田は100年前のものであり,生産性はひどく悪そうだ。近くには小さな黒い原油溜まりがある。意外なことに臭いはあまりしない。

再び旧市街見物に出かける

宿に戻るとHさんの具合は小康状態といったところだ。パンも水分はちゃんと摂っており,後は体内の病原菌を抗生物質と免疫機構が退治すれば回復する。しかし,それには体力が必要だ。

Jさんはシェキに移動のためチェクアウトした。Hさんの枕元にパンと水を置いて一人で出かける。4番のマルシュルートカに乗って石油公団ビルのところで下車する。今日は一人なのでイチャリ・シャハル(旧市街)を適当に歩くことができる。

古い建物は感じのよいレストランになっている

やはり,自分の見学スタイルとしては個人行動が適している。複数で行動するとどうしても自分のペースにならず,写真も取りこぼすことが多い。

世界遺産にもかかわらず旧市街には多くの人が居住しているため車は多い。しかも,その多くは路上駐車なのでフレームにしばしば入り込み難儀した。

バクー旧市街の名所案内

さすがは世界遺産というところか…。旧市街の名所が一覧の形で図示されている。しかし,場所との対応もつかないし,名称も記されていないということでは旅行者の役には立たない。

イチャリ・シャハル(旧市街)にようこそ

こちらのイラストはバクー市街の全体像がつかめるので役に立つ。紙に印刷してくれたらもっと嬉いのだけれど…。

要塞時代のバクーを描いたプレート

上部には「BAKI」と記されており,現地の発音が「バキュ」に近いことがうなづける。

小さな土産物屋が多い

イチャリ・シャハル(旧市街)の主要産業は観光であり,土産物屋も多い。軒先を借りての小さな土産物屋もあった。う〜ん…,この程度の商品展示で暮らしていけるとはとても思えない。

イチャリ・シェハルの城壁がときどき見える

噴水広場の水の出ていない噴水

旧アルメニア教会

ワヒド公園にあるチャイハナ

海岸方面から旧市街を眺望する

旧市街の一部は大規模な工事が行われている

バクー旧市街は2000年には文化遺産として世界遺産登録された。しかし,世界遺産保護の政策の無いまま都市開発が進行しており,2003年には危機遺産になった。

僕が広場に到着したときも工事用の鉄板がめぐらされ,その向こうでは日干しレンガ造りの家屋が重機により盛大に取り壊されていた。ここに限らずバクーの街は至るところで再開発が行われており,高いクレーンが林立している。

現在のアゼルバイジャン石油公団の建物

旧市街の北側および東側には新市街が広がっており,カスピ海油田による好景気のため,あきれるほどたくさんのビルが建設中であった。石油公団のビルになっている19世紀末の石油富豪のミルザバドエフ邸は角地にあり,三階建てながらとても重厚な建物になっている。

やはり,ヨーロッパの石造建造物の重厚さはコンクリートとは質感が異なり個人的にはとても好ましい印象を受ける。4番のマルシュルートカにはこの石油公団ビルのところで下車することができるので,僕にとってはとても良いランドマークとして利用させてもらったという現実的な効用も心証を良くしている。

集合住宅の壁面

海岸大通りをぐるっと回って駅まで歩いてみた。新市街には旧ソ連時代の大規模集合住宅がある。その壁面は一種の幾何学模様となっている。日本の大きな直方体型の集合住宅も類似の景観をもつが,こちらの方は壁面の飾りと小さな窓が幾何学模様を強調している。

ほとんどの部屋には衛星アンテナが付いている

地元の放送では飽き足らないのか,ほとんどの部屋の窓には衛星アンテナが取り付けられている。

ケーブルカーは改修中であった

アゼルバイジャン石油公団の建物のビルの東側には幅の広い通りがあり,そこを横断するとカスピ海の青い水面が見える。バクーはカスピ海に突き出した半島の付け根に位置しており,緩やかな弧を描く海岸線と突堤により小さな湾に面している。海岸に出る手前に臨海公園があり,遊園地も併設されている。

バクー旧市街(イチェル・シャハリ)は海岸から少し内陸に入ったところにあり,海岸と旧市街の間には新市街,その東側には大きな道路が臨海公園と新市街を分離している。自然の海岸線と突堤で半円形の湾のようになっており,一帯は臨海公園になっている。

旧市街の南側にはちょっとした高台があり,ケーブルカーを利用して上までが上がることができる。しかし,残念ながらケーブルカーは改修中で自分の足で階段を登らなければならなかった。

何回も立ち止まりながら登っていくが,樹木がじゃまして街を一望というわけにはいかない。展望台はあきらめて,ケーブルカーの終点で写真を撮る。

半円形を描く市内の海岸線があり,眼下にはヨットハーバーの立派な施設がある。その向こうには大小二つの桟橋が突き出ている。その先には大きな船が停泊しており,港湾施設のようだ。旧市街は低層階の建物が密集しており,その周囲を15-20階の高層ビルが取り囲んでいる。

テレビ塔にしては低すぎる

この塔はなんであったか思い出せない。テレビ塔にしては低すぎるので展望台であったような気がする。

公園の向こうに大きな噴水がある

6年ぶりににコンテンツを変更しようとネットの情報を探してみると,あまりの変貌ぶりに驚いた。この噴水も夜間はライトアップされてきれいに輝いていた。

海岸通り近くの海岸線を眺望する

ヨットクラブ,立派なクルーザーが係留されている

ヨットクラブには立派なクルーザーが係留されており,中に入ろうとすると守衛に阻止された。会員以外はオフリミットのようだ。まあ,ゲートのところからでも十分写真は撮れる。

この立派な建物は?

新市街は建設ラッシュである

新市街の風景も近代的な高層ビルが建てられており,6年経つと景観は一変している。2010年代に入り,アゼルバイジャンは石油をてこに年率35%という急激な経済成長を遂げている。

原油の生産量は日量100万バレルに達している。1バレル100$時代においては海上油田とはいえ大規模油田からの国庫収入は少なくともバレルあたり40$にはなりそうな計算である。すると石油収入は年に150億ドルほどになる。

アゼルバイジャン共和国のGNPは648億ドル(2011年)なのでGNPの相当部分は石油による収入となっている。この巨大な世紀油収入がアゼルバイジャンの経済成長の原動力となっている。

突堤では何人かの人が釣竿を垂れている

近くの桟橋は立ち入り可であった。先端からは港めぐりの遊覧船が出ている。まあ,風景を眺める分にはこの桟橋の先端から眺めても似たようなものであろう。だいたい東側(沖合い)には水面以外は何も見えない。

少し離れたところから見るとカスピ海はきれいな青色に見える。しかし,桟橋から見ると水質汚染はかなりのもので油もずいぶん浮かんでいる。それでも桟橋ではたくさんの人が釣りをしている。

獲物は15cmくらいのイワシでよく釣れる。油が浮かんだ水面が波立ち,小さな魚が顔を出している。この周辺の魚はまだ食料として利用できるのだろうか。

カスピ海の水面標高は-26mであり,流失する河川はない。面積は37.8万km2,水量は7.8万km3,最大水深は1025m,塩分濃度は海水の1/3程度という巨大な塩湖である。

水位は環境条件により大きく変化し,31種の固有生物が生息している。特にチョウザメは貴重な資源であり,世界のチョウザメの90%はカスピ海で漁獲されている。しかし,旧ソ連の崩壊により沿岸国による資源保護が機能しなくなりこの20年で漁獲量は1/5に減少している。

これに追い打ちをかけるように,周辺国から毎年未処理の排水が120億km3,約15万トンの石油製品,1400トンのフェノール,3400トンの合成界面活性剤などが流れ込んでおり,環境の劣化は著しい。

また,1977年には-29mであった水面標高は-26.5mまで上昇しており,沿岸国に深刻な被害を及ぼしている。海底油田からの原油流出でも発生したら,閉鎖環境であるカスピ海は致命的な環境破壊となる。

電動バギーで遊ぶ

周辺は海浜公園になっており,電動のバギーで子どもたちが遊んでいる。時速5kmくらいでは危険はないだろう。ここの木陰にはベンチがあり本を読むにはいいところだ。しかし,なぜか周囲には馬糞が多い。

記念撮影のカップル

竜舌蘭が植えられている公園のところで結婚式のカップルが記念撮影をしている。僕も便乗して一枚撮らせてもらう。彼らはスケジュールがタイトなのか,すぐ花で飾られた車に乗って出発した。

リュウゼツラン(竜舌蘭)

リュウゼツラン属では208の種が知られている。主要な自生地は北米・南米の暖かい地域であり,かっては繊維をとるために栽培されていた。現在では特異な観葉植物として世界中に広まっている。

大半の種では茎は短いため大きな葉が根からロゼット状に直接生えているような感じを受ける。葉は先が鋭く尖り,縁にトゲを持つ厚い多肉質なので「竜舌蘭」という和名となったのであろう。

和名はランとなっていても近縁の植物ではない。また,アロエにも形状は類似しているがこちらとも近縁ではない。

センニチコウ(千日紅)かな

公園の一角を鮮やかに染め上げている花の群落がある。おそらくセンニチコウ(ヒユ科・センニチコウ属)であろう。主な開花期は夏から秋ということなので季節的にも合致する。熱帯アメリカ原産にもかかわらず日本でも園芸品種として立派に花をつける。

臨海公園内のオープン・チャイハナ

アゼルバイジャンとは「アゼリー人の土地」を意味しており,国民のほとんどはアゼルバイジャン人あるいはアゼリー人と呼ばれているチュルク系の民族である。本国の人口は約800万人であるが,イランには1000-2000万人と本国の2倍以上のアゼリー人が居住している。

イラン以外にもトルコ,アルメニア,グルジア,ロシア連邦のダゲスタン共和国など周辺地域にも多数が居住している。チュルク系らしく陽気で旅人には親切である。臨海公園内のチャイハナでお茶をしている人たちはほとんどトルコ人に見える。


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