貴州の東南部は少数民族の暮らす村が多く,日本からもそれらの村を巡るツアーが出ている。情報が非常に乏しいので,現地で入手した旅遊交通図はとても役に立った。
旅行の計画段階で最も苦労したのは宿である。多くのおもしろそうな村があるけれど,はたして外国人が泊まれる宿(僕の泊まれるような快適な安宿)があるかどうかはほとんど分からない。
ツアーの場合はその心配は無いので気楽なものだが,ガイドブックにほとんど載っていないマイナーな地域を個人で旅行するとき,交通と宿はいつも苦労の種である。
結論から言うと,この地域ではほとんど交通と宿の心配はいらない。旅行者が行きたいと思うような場所にはほとんどバスが通っている。また,少し名の知れた町にはちゃんとした宿もある。贅沢をいわなければ快適な旅行が楽しめる。
この地域はミャオ族の多い凱里地区とトン族の多い黍平地区に大きく区分される。黍平は地域交通の要衝の町で立派な汽車站,市場,ホテルがそろっている。街の大部分は開発中の新市街になっているが古い町並みも保存されている。
凱里(173km)→榕江(100km)→黍平 移動
凱里(08:40)→雷山(09:50)→永楽(11:20)→榕江(13:20)→黍平(15:30)とバスで移動する。荷物を持って宿から小十字まで歩き,6路のバスで長途汽車站に行く。黍平行きの大型バスの乗客はわずか6名,それでも定刻に出発した。出発前にバスの中に本売りがやってきて,ひょんなところから「黔東南旅遊交通図」のコピーが1元で手に入った。
進行方向左側が川になっている。朝日が射しこみ,白いシートカバーが窓ガラスに反射して写真にはならない。対岸のゆるい斜面は棚田になっておりなかなかの景色である。
09:30に郎徳と思われる大きな集落を通る。ここから雷山までの山はほとんど人の手が入っておらず,急斜面にも樹木が密生している。雷山は大きな町で宿には苦労しないだろう。町の少し手前に新しい風雨橋があり,町の少し先には棚田のよく見えるところがある。
10:12に大塘村(865m)を通過する。古い街並みがあり田植えの最中である。大塘村の5kmほど先に棚田のすばらしいビュー・ポイントがある。ここから右が谷側になり,バスは急カーブの多い山道を1100mまで上る。
10:50に桃江(890m)に入り,谷が開けた場所でははるか下の集落が見える。11:00にはすごい棚田の景色が連続するようになる。残念ながらバスの中から棚田の写真を撮るのは極めて難しい。道路わきの樹木もフレームのじゃまになり,何回もくやしい思いをした。
11:20に永楽の町外れで昼食となる。急カーブの連続で少し気分が悪いので,大事をとって菓子パンで済ませる。13:20に榕江(230m)に到着する。大きな町で宿の心配はいらないようだ。
少し先の村には立派な鼓楼がありそろそろトン族の地域に入ってきたようだ。13:55に通過した栽麻(545m)は定期市でにぎわっていた。14:07に九潮鎮(590m)を通り,15:30に黍平に到着した。
金(森のように金が3つ)泰旅館
黍平の汽車站はトン族の風雨橋を模したもので新しく立派だ。バスから降りると駐車場の横に旅館がいくつか並んでいる。いずれも新しいものだ。たまたま金泰旅館のおばさんが外にいたので中に案内された。
部屋は8畳,1ベッド,T/HS付き,TVと立派な机もありとても清潔だ。ホテルのような部屋で,40元ではこれ以上のものは得がたいと思われるほどである。暖かいうちに洗髪を済ませる。お湯はそれほど熱くはならない。
周辺では町づくりが急ピッチで進んでいる
黍平は開発途上の町である。東西方向に3本の道路があり,それらは南北の道路で結ばれている。最も北のものは幹線道路になっている。周辺では大きなビルが建設中で,巨大なクレーンが稼動している。この道路の北側には下は石造り,上は木造の家が斜面に建っている。
汽車站は南北道路沿いにあり,周辺にはどうしてこんなにと思われるほどたくさんの賓館や招待所がある。そのおかげでこの町の宿代は設備に比してとても安い。建物も道路も新しく新興都市といったところだ。近くに空港ができたので,これを機に観光で町興しを図っているようだ。
近郊でとれた野菜を販売する
2本目の東西道路を東に行くと露店の市場がある。背後の商店の階段を滑り台にして遊んでいる子どもがいる。カメラを向けると最初はそっぽ向いていたが,そのうち自然体の被写体になってくれた。
その先にはちょっとした常設の市場がある。藍染の地味な民族服のおばさんが野菜を売っている。しかし,ほとんどの人々の服装は漢人化している。
お母さんに断って写真を撮りヨーヨーをプレゼントする
黍平県第二中学の門も風雨橋のイメージである
さらに東に歩くと風雨橋を模した立派な門構えの黍平県第二中学がある。中に入ると左側にコンクリート製,5階建ての新しい学生寮がある。中学校などは町にしかないので周辺の村の子どもたちはここで寄宿生活を送っているのだ。
古い街並み
中学校の横の小道を上って行く。小さな丘の上から南に向かう通りの両側は古い街並みになっている。その先はコンクリートのビルが並んでおり,古い街並みはここから500mくらいの狭い地域に限定されている。すぐ下の階段は石造りになっており,下の通りも石畳の両側をコンクリートで固めたものになっている。
この地域の伝統的な家屋は石と木材を組み合わせたもので,屋根は普通の瓦で葺いている。屋根の庇に相当する部分はほとんどない。屋根の両端はめくれ上がっており,そこに龍や獅子の飾りが付いている。
家と家の間は空間が無く,石の壁で仕切られている。石の壁は屋根より高く,2段あるいは3段の階段状になっている。この壁は「うだつ」と呼ばれ,日本にも入ってきているらしい。壁の上部には飾り屋根が造られており,その先端はやはりめくれ上がっている。
この通りに面した家は特にすべてが商店や土産物屋というわけではなく,普通の民家もたくさんある。この地域では子どもたちの写真は意外と撮りづらかった。小学校高学年になるともう簡単は撮らせてくれない。
茅貢では定期市が開かれていた
今日は40kmほど離れた茅貢までバスで行き,周辺の村を訪問することにする。宿の近くで朝食を探したが包子や餃子は見つからない。食堂でとなりの人が食べているものを注文すると,真っ赤になった類似品が出てきた。辛いのでごはんはよく入るが,おかずは半分残した。
汽車站でバスを確認すると榕江行きはおよそ40分おきに出ていることが分かった。最終バスの時間帯も確認し,出発である。料金はミニバスの中で車掌に直接8元を払う。
バスはしばらく山道を走り,規(本当はつちへん)塞を過ぎたあたりから集落ごとに風雨橋あるいは鼓楼が見られるようになる。塞斗と高近の間が歩くのにはよさそうだ。
僕の感覚では距離は茅貢から黍平方面に向かって,茅貢(3km)→高近,流芳,塞母,塞南(3km)→塞斗といったところだ。これらの集落は幹線道路の両側にあるので気に入ったところでミニバスから降ろしてもらえばよい。
ミニバスの本数はけっこう多かったと記憶している。10時少し前に茅貢で下車すると偶然市の日であった。時間が早すぎてまだ人が集まっていない。
茅貢市|この地域では珍しい成長した苗
地域の町の周辺の水田に植わっている小さな苗に比べてずいぶん成長したものが売りに出ているとのでちょっと奇異に感じた。しかし,この見立ては正しくはなかった。
この地域でもうるち米に関しては品種改良が進み,在来種に比して収量は多いものの耐寒性は劣っている品種に変わっている。そのため,@半温室内の苗床,A平地の苗床に移植,B山間地の棚田に十分成長した苗で田植えをするという手間のかかる工程で栽培されている。
この市場で見かけてものはBの段階の苗のようだ。それに対してこの地域で栽培されているもち米は耐寒性のある在来種であり,囲いのない平地の苗床に直まきで苗を育てている。
茅貢市|野菜を商う
茅貢の町の建物はほとんどコンクリートになっており見るべきものはない。通りには藍色の民族服のおじいさんやおばあさんが野菜,タバコの葉,日用品を売っている。軍服か警察の制服を着たおじさんは肉をさばいている。
大きな竹カゴにはアヒルのヒナが入っている。アヒルの雛は黄色一色,茶色がかった灰色,背中が黒いものがあり,種類ごとに集められている。やはり写真写りからすると黄色一色のものが一番だ。
茅貢市|石臼の中に座り込んでいる
石臼の中に座り込んでいる2人の女の子がいる。カメラを向けても表情に変化はない。動かないでと念じながらおもしろい一枚を撮る。
茅貢花橋の保存状態はよい
黍平地区のみどころはトン族の集落にある風雨橋と鼓楼である。どちらも釘を使用しないトン族固有の木造建築である。風雨橋は飾り屋根の付いた実用的な橋で,雨の多いこの地域では一種の社交場となっている。
鼓楼はその名の通り太鼓を納めた塔楼で,緊急時や災害時にはこの太鼓を打って知らせていた。また,祭りや集会のときには村人が集まる場所でもある。鼓楼のとなりに舞台が設けられているところもある。
道路の脇を用水路が流れており,町外れに行くと用水路をまたぐように茅貢花橋がある。かなり古いもので一部は傾いている。
横から見ると上部には塔状の3つの楼閣を持っており,壁を作れば家になりそうな建築物だ。中央の楼閣の屋根は六角形で,その端はめくれ上がり弓形の飾りが付いている。これはタイの寺院の屋根飾りと類似している。楼閣の下には龍の飾りが付いており,なかな手の込んだ建築である。
内部から見ると,一段目を支える梁の上に柱を立て,楼閣部分を造っている。楼閣の柱は梁の上に乗っているのではなく,やはりかすがいのようなもので固定されていた。横の上部には板に直接描いた絵がある。一瞬,七福神かと思ったら8人の神様であった。
高近に移動
路上でミニバスをつかまえ高近に移動する。道路の南側に集落があり,その手前は水田になっている。水田を横切って石畳の道が集落に向かっている。水田と集落の間には大きな用水路があり,その上に風雨橋がかかっている。
この橋も3つの楼閣をもっている。正面から見ると風雨橋は集落の入口の飾り門のようにも見える。集落の家屋は木造,瓦屋根の伝統的な家屋で,そのほとんどが2階建てである。集落の中の道は石畳となっており,古い木造家屋とよく調和している。
少し行くと鼓楼がある。屋根は七層になっており,上5層は八角形,下2層は四角形になっている。最上部は透かし彫りの壁の上にあり,その上には相輪が置かれている。土台は石をコンクリートで固めたもので,鼓楼の柱は石の台の上に置かれている。
楼閣の1層の獅子像,2層と3層の間にある龍の飾り,屋根の端の弓形の飾りは茅貢の風雨橋と共通している。鼓楼の下はゴミが散乱しており,普段は使用されない施設になっているようだ。そんな事情もあり鼓楼は間近で見るより,集落の建物を前景として見たほうが感じが出る。
高近|アヒルのヒナにとってはこの女性はお母さんだね
流芳|近くの用水路では2人の女の子が洗濯をしている
黍平の方に歩いていくと流芳の集落がある。手前は水田になっており,その背後の斜面に伝統的な家屋が並んでいる。鼓楼と思われる建物の最上部が覗いている。水田の少し広い畦道を子どもたちがこちらに歩いてくる。カメラを向けると集落の方に戻ってしまう。
ぼくも後をついていくと犬に吠えられた。石もないので近くの竹の棒でようやく追い払う。竹の棒を返すと,その家の男性が手招きしてくれる。中に入るとちょうど昼食時で,ごはん,ゆで肉,玉子焼きをいただく。旅先ではこんなことが縁になり,現地の人たちと触れ合うきっかけにもなる。
となりの部屋には4人の子どもがおり,食事のお礼にヨーヨーを作ってあげようと考えていたら,僕が食べている間に遊びに行ってしまった。ヨーヨーを4個作り,家の主人に遊び方を教えて置いてきた。
近くの用水路では2人の女の子が洗濯をしている。写真を撮り,用水路の水でヨーヨーを作ってあげる。この子たちの家に行くと,下の子と同じくらいの近所の子どもたちが集まってくる。
民族服のかわいい被写体もおり,4人さんにヨーヨーを作る。このような情報は集落の中にすばやく伝わる。さらに3人の男の子が顔を見せる。次には小さい子ども連れた母親がやってくる。ということで,結局9個のヨーヨーを作ることになった。
この集落の鼓楼は相当老朽化している。修理の手も長い間入っていないようだ。向かいの塞母村では風雨橋は立派であるが鼓楼は今にも崩れそうになっている。このあたりでは鼓楼はその使命を終えようとしているように感じられる。
塞母|田植えの準備が進められている
道路を挟んで流芳の向かいに塞母の集落がある。道路からすぐ水田が広がっており,村人は農作業の最中である。荒起しの終わった田に水が入れられ,牛が引く鋤で土と水を混ぜて泥田にする。
横木に15cmほどの間隔で鋭い歯を植え込んだ道具を牛に引かせ,土の塊を砕き,泥田をならす。仕上げは女性が板に柄をつけた道具をデッキブラシのように動かし表面を滑らかにする。
塞母|水田に肥料を運ぶのは重労働だ
大変なのは肥料運びだ。ここでは有機肥料が中心で,女性たちが家畜の敷きワラ,人糞などを天秤棒で運んでいる。彼女たちの服装は左横合わせの上着と黒いズボンである。上着の色は鮮やかな青と灰色がかった青がある。
塞母|子どもたちの案内でもう一つの風雨橋へ
立派な風雨橋を通って集落に入る。集落を歩いていると子どもたちが少し離れて所にあるもう一つの風雨橋に連れて行ってくれた。
水路が橋のところでせき止められていて小さな滝のようになっている。子どもたちが橋の上でポーズをとるので写真にする。お礼にヨーヨーを作ってあげると村を出るまで付きまとわれてしまった。
一年でもっとも忙しい時期であろう
幹線道路を東に歩き気に入った風景を撮る。平和な農村風景が続いている。道路わきの家に看板が掲げてあり,そこには「黍平県茅貢郷塞南村」と書かれている。家の下では水田の脇の雑草をおばさんが刈っている。これは家畜の飼料になるにちがいない。
学校帰りの子どもたちの写真を撮る
そろそろ3時半になろうとしているので,黍平に戻るバスを道路沿いで待つことにする。学校帰りの小学生がこちらに向かって歩いてくる。集合写真の画像を見せてあげるととても喜び,いろんな背景で撮らされた。ようやくバスが来たので子どもたちの「撮って」攻撃から逃れることができた。