六庫と貢山の中間に位置し,この地域では大きな町。怒江の両岸に町が広がり,車が通行できる近代的な橋と人間専用の小さなつり橋が両岸を結んでいる。
街の中心は怒江の東側で,4-5階建ての近代的なビルが並んでいる。平地は限られているため,街は背後の山に競りあがるように広がっている。怒江の対岸は一面の棚田が広がっており,リスの人々が居住している。
1997年にNHKで放映された「風の橋」の中で福貢県シーディー村(福貢上流5km)におけるリス族の生活と怒江の両岸に張られたワイヤ・ロープに滑車をかけ,それにぶら下がって川を渡るシーンが紹介された。
滑車が回るときに独特の音を出すので「風の橋」とも呼ばれている。とても詩的なネーミングである。今回,できればその村を訪れてみたかったが,それほど簡単なことではなかった。
怒江峡谷の中でも利沙底と瓦落の間の風景は特に素晴らしい。バスで移動中にどのあたりが自分にとってベストの風景かをチェックし,拠点の町からバスで訪問するのもおもしろい。
六庫,福貢,貢山の汽車站には里程表が表示されているのでデジカメで写しておくと細かい地名と距離が分かるので便利だ。
貢山(140km)→福貢移動
貢山(09:00)→馬吉(10:17)→旺基独完(10:45)→利沙底(11:00)→瓦落(11:15)→福貢(12:00)とバス(20元)で移動した。07時に起床,雨が降っていなければ貢山の滞在を延長し丙中落に行くつもりであったが,やはり雨は止んでいない。隣の食堂でいつもの餃子をいただいて出発する。
貢山→福貢は便数が多いので時間を気にしないで汽車站に行けばよい。ミニバスは定刻に出発した。風景を見るため運転手の隣の席を確保する。昨日からの雨で小さな沢から泥が流れ込んでため怒江の水はエメラルド・グリーンからにごった緑色になっている。
川沿いの斜面はおおよそ45度から60度,峡谷というよりはかなり開けた谷のイメージである。もちろん場所によっては垂直の断崖が続くこともある。雨のため道路は何ヶ所か水が出ている。工事区間はひどいぬかるみになっている。
小さな村をいくつか通り過ぎる。注意して見ていると地名が表示されているので通過地域が分かる。このようなチェックには最前列の座席が適している。
馬吉では雨の中で定期市が開かれている。ここから先は断続的に峡谷らしい風景が現れる。馬吉の下流側,旺基独完のあたり,利沙底の少し上流から瓦落にかけての区間などがすばらしい。特に瓦落の手前の景色は最高である。
明日の火曜日は利沙底で定期市があるので是非訪れてみよう。問題は雨だ。今日は南下するのにしたがって天気は良くなり,福貢は薄日の射す天気になった。少しは期待がもてそうである。
民政公司客房部(民政賓館)
福貢汽車站に到着してすぐ横の電力賓館に行くと「本日の部屋代150元」と表示してありパス。向かいの民政公司は30元なのでここに決定。部屋は10畳,2ベッド,T/S共同,部屋はまあまあ清潔であるが共同のトイレはひどい状態である。
最初はシャワー室がどこにあるか分からず,まあ1週間くらいシャワーが無くても死にはしないうそぶいていた。しかし,シャワー室が見つかると,暖かい時間帯に気合を入れて頭を洗う。貢山ではとても水シャワーを使う気にはなれなかった。
コンクリートの電柱を人力で運ぶ
福貢の標高は1200m,六庫が870m,貢山が1500mなので標高でも距離的にもちょうど中間に当たる。さすがに暖かくなり半そでのポロシャツと長袖のフリースの組み合わせて十分である。
街の中はコンクリートの建物があるだけでつまらない。市場の周辺にはリス族の女性たちが畑でとれた農産物を売りに来ている。男性が11人がかりで,竹を組み合わせた台にコンクリートの電柱を乗せて運んでいる。中国ではまだまだ人の力に頼っているところが多い。
福貢の吊り橋はさすがに立派だ
怒江のつり橋は車両も通行できるもので,両側にはコンクリートの板が敷かれ歩道になっている。ここでも足下の水はにごった緑色になっている。両側の谷の斜面は30度くらいしかなくゆったりとしている。やはり大きな町ができるためにはこのような地形条件が必要である。
怒江に流れ込むたくさんの支流もそれなりに水量は多い
対岸には小さな水力発電所がある。怒江の本流にはダムは無いけれど,そこに流れ込む支流の水を利用した水力発電はさかんに行われている。一つ一つは小さくても,怒江流域全体では大きな電力を作ることができる。
方式は山のずっと上から導水管で水を運び,その落差でタービンを回すものである。上流部に小さな取水口を造るだけなので環境への影響も少ないことだろう。
しかし,怒江は水力エネルギー資源が非常に豊富で,開発可能な発電量は1800万kw,年間発電量は850億kwとされている。2008年には発電ユニット86基,設備容量136万kw,投資総額60億元というプロジェクトが動き出している。
この計画が怒江の本流を利用するものなのか,怒江に流れ込む支流を利用するものかは分からない。本流を利用するものならダムのような大規模な設備が必要であり,ダム湖により周辺の川沿いの地域が水没することになる。
そこは永年にわたり少数民族の人々が農業で生計を立ててきた,かけがいの無い土地である。水力発電は自然エネルギーを利用するので,発電時の温室効果ガスの排出が少ない。しかし,大規模なダムを造る場合は,貴重な自然や生態系を破壊し,流域の人々の生活を脅かすことになる。
町の背後の山は頂上付近まで段々畑になっている
怒江の上流側に歩いていくと対岸の市街地が一望できるようになる。川岸の平地から背後の斜面に向かって白い建物がひな壇のように並んでいる。
その両側には山の頂上近くまで段々畑が続いており,左側の最上部には小さな家屋が集まった集落になっている。手前の山の切れ間から雪山が顔を覗かせている。
桐の花,実からは油がとれるので栽培されている
こちら側の斜面もほとんど段々畑になっている。川岸のわずかな平地にはビニールをかけた苗床が並んでいる。中心部がうす茶色で周辺が白い桐の花が咲いており,ピンポン玉より一回り大きな昨年の実がまだ付いている。
リス族の人々はこの実から桐油を作る。桐の実を砕き,鉄鍋で熱し,熱いうちに布袋に入れて油を絞る。桐油は常温では固体なので抽出したときの容器の形のまま市場で売られている。
福貢の町が大きくなったのはひとえに平地があったからだ
下流側を見ると怒江は折り重なる山々の間を悠然と流れている。このおだやかな景色も雨季になったら一変し,その名の通りの怒れる川になることだろう。怒江のもう一つの顔も見てみたいものだ。
利沙底の定期市
7時に起床し宿のとなりの食堂で包子をいただく。蒸篭には10個の包子が入っており,その単位で販売されている。餃子なら大丈夫であるが包子は皮の部分が厚いので10個は少し多すぎる。
汽車站の前には貢山行きのプレートをつけた軽車両がたくさん停まっている。ミニバスと軽車両は時間をずらして運行しているようだ。8時に出発した軽のバンは立派な速度で走る。工事区間は水が出てひどい状態だ。瓦落まで45分,利沙底まで1時間を要した。
9時の利沙底は市の準備中でまだ人出は少ない。一応,食堂もあるので昼食はここでとれそうだ。この辺りでもリス族の人々の服装は漢人化している。
両者の間には日焼けの具合,赤いスカーフの着用,赤を基調にした肩掛けかばんぐらいしか差異点はない。もっとも怒江の上流側を見てから戻ってきたときには,しっかりとした民族服の女性をたくさん見かけた。
市の商品はとくに変わったものはない。巨大な豚が石のかまどの上に置かれ蒸気を当てられながら毛を剃られている。この後は解体されて台の上に並ぶのであろう。
利沙底周辺の怒江の風景
利沙底村の背後に巨大な岩山があり,上半分はガスがかかっている。なかなかいい雰囲気である。天気が回復してきたのでガスがとれないうちに上流側の岩山を見に行く。
利沙底周辺の景色がもっとも峡谷のイメージに近い
村から見ると巨大な岩山も怒江の岸から見ると周辺の山々に溶け込み,風景の一部になってしまう。対岸の岩山は垂直に切り立った崖になっているが,こちら側の斜面が緩やかなため峡谷のイメージが減じられてしまう。それでも道路が高くなっているところからフレームを工夫すると峡谷の感じが少し出てくる。
風の橋を見ることができた
上流側に川を横切る黒いものが見える。これはもしやとそちらに歩いていくと,確かに川の両岸に2本のワイヤ・ロープが張られている。道路が高い位置にあるのでかなり下である。
これは溜索と呼ばれ,橋の少ない怒江を渡るための装置である。しかし,この施設も橋がどんどんできてきたので,この周辺でもあまり見かけなくなった。
始点が対岸の終点より少し高い位置にある。ワイヤ・ロープに自前の滑車を取り付け,滑車に付いているベルトに腰を乗せ,始点から滑車に乗って対岸に渡る。
対岸の終点に激突しないため終点の少し手前で止まるようになっている。その後は自分の力でワイヤ・ロープを引っ張り終点まで移動する。当然,往きと帰り用の2本のワイヤが必要になる。
対岸の始点のところに人影が見えるので道路から10mほど下の岩場に下りてカメラを構える。黒い物体が動き出した。距離があるので滑車の音は聞こえない。川の中央部,白く泡立っているあたりでシャッターを切る。
男の子はワイヤを引いて岸までたどりついた。続いて2人の女性が川を渡った。赤いかばんが揺れている。思い出の写真が撮れたのでお礼に男の子にビスケットをプレゼントする。
再び利沙底の市
溜索を見ることができごきげんな気分で利沙底村に戻る。天候も良くなり半袖でもいいくらいの陽気になる。市の会場には大勢の人が集まっている。民族服のリス族の女性もたくさんいる。
男性も女性も竹で編んだ肩ひもつきの背負いカゴを持っている。市の商品も多彩だ。肉や野菜などの生鮮食品は言うに及ばず,衣類,プラスチック製品,日用雑貨,ひよこ,変わったところでは弩まで揃っている。
近くに学校があり,学校帰りの女子中学生が壁に寄りかかり何かを待っている。彼女たちの前にも背負いカゴがある。
近くの家の前には「免費教育 福貢県民委」と書かれた学校用のザックが置いてある。貧しさゆえに学校に通えない子どもたちに金銭的支援が行われているようだ。食堂でリス料理なのか豚肉を使った何とも形容しがたい料理をいただき下流側に歩き出す。
弩は東アジアにおいて古代から使われた弓の一種である
リンゴの花が満開である
リンゴの花が満開である。この地域でこの時期に見られるのはリンゴと桐の花ぐらいである。道路沿いの木に看板がかかっており,そこには「治水之本在山,治山之道在林」と記されている。
怒江の流域でも森林の減少が洪水などの天災に結びついているのであろうか。経済発展,木材需要の急増,森林の減少,大洪水は中国の大きな環境問題となっており,植林は国家的事業と位置づけられている。
45度ほどの斜面で鋤を扱う
道路と川の間のわずかな土地を耕している親子もいる。傾斜45度の斜面で牛を使うのだからこれは大変だ。父親が牛を動かし,中学生くらいの息子が鋤を扱っている。
その上のさらに狭い農地では2人の女性がクワを使用して耕している。一緒にいた女の子の写真を撮り,非常食のビスケットをみんなでいただく。
対岸の45度くらいの斜面は全面的に農地になっている。怒江はそのような人の営みに関わり無く,ゆったりと流れ,日本の山村を思わせる風景になっている。
苗床を造り籾をまく
道路と川の間に平地が広がっているところでは田植えの準備が進められている。ここでは水を入れてから牛を使って荒起しが行われている。一部では泥田を丁寧にならして苗床を作っている。
女性が肩掛けかばんからモミを取り出し,かなり高密度で蒔いている。まだ気温の変化が大きいので,福貢で見たように苗床に細い竹を半円形に刺し,その上からビニールで覆うことになるだろう。
石月亮展望台
ふと対岸の山を見上げると山の頂上付近に穴が開いている。標高3300mのところにある石灰岩が侵食されてできた幅約40m,高さ約60mの洞窟だそうだ。
楕円形の穴を月に見立てて石月亮と呼ばれており,怒江峡谷のシンボルになっている。この光景はかなり遠くからでも見える。ここから8kmほど離れたところには石月亮を望む展望台がある。
この展望台は結果的に訪れることになった。たまたま瓦落の手前の峡谷の風景を見るため,5kmほどを三輪車で移動し,再び瓦落方面に歩き出す。
緩斜面が続いている地域では田植えの準備が行われている。道が上りになり,怒江はだんだん下になる。谷のV字がだんだん急角度になり峡谷のイメージが強くなる。少し先に赤いテントがあり,そこは石月亮展望台になっている。
やれやれ,誰が見てもここが峡谷の最高のビューポイントということか。ここから見る石月亮は峡谷のかなたに小さく見える。
怒江は展望台付近で南から西にゆるやかに流れを変えるので,下流側もみごとな風景になっている。折り重なるように連なる山々を縫うように怒江が流れ,川に飛び出したわずかな土地に集落ができている。
対岸の山の小学校で歓迎される
09:30になってもまだ東の山から太陽は顔を出していない。南北方向に谷が走っているため福貢の日照時間はとても短い。しかし,空は明るいので写真を撮るのには問題が無い。
今日は山の家を訪ねようと橋を渡り下流側に向かう。小学校低学年の子どもたちが歩いている。一人はかばんをもっているので学校に行くところだろうと推測する。
後をついていくと子どもたちは途中でマントウを買い,それを食べながら何ヶ所かで道草をしながら歩いていく。コンクリートの細い道を上り,その先に学校があった。校舎は2棟,一つは上の広場にあり,一つは10mほど下の狭い棚に造られている。教室は全部で4つである。
僕が着いたときは自習時間になっており,教科書を読む子どもたちの声が聞こえてくる。下の下級生のクラスで写真を撮ろうとしたが,暗いうえに狭いのでうまくいかない。
休み時間になると先生が子どもたちを整列させてくれたのでようやく集合写真がとれた。先生が何人かおり,筆談でいくつかの質問を受けた。
怒江に流れ込む支流の一つ
対岸の山は雲間から日が射しちょっといい風景になっている。学校の上にはコンクリートの水路があり,上部もコンクリートで覆われているので歩くのにちょうどよい。水路の周辺には桐とリンゴの花がたくさん咲いている。桐の花を撮ろうとしたが,かなり高い位置にあるため簡単ではない。
水路は怒江に流れ込む沢に向かっている。怒江周辺には多くの沢があり,本流以上に狭く急峻な谷を作っている。水路は沢沿いの斜面を削って上流側に続いている。ところどころで斜面からの落石があり,コンクリートのフタが破壊されている。
対岸の急な斜面には桐の木が植えられており,一面花盛りである。60度ほどの急斜面では土留め無しで斜面農業が行われている。これでは少し雨が降れば表土が流れ出すことは請け合いである。
水路は垂直の谷が少し開けたところに取水口をもっていた。狭い谷からは勢い良く水が流れ出し,その一部は取水口に入るようになっている。
一帯には巨大な岩がごろごろしており,清冽な水は大岩の上を滑るように,あるいは垂直の崖と大岩のわずかなすきまを激しく流れ下っている。大岩の上に坐り,岩と水の織りなす風景をしばらく眺めていた。
再び山の小学校を訪ねる
午後は再度対岸の小学校を訪ねる。ちょうど授業が終わったところだったので集合写真を撮る。子どもたちが多すぎるので校舎の前に一列に並んでもらい,4枚一組の組写真にする。デジタル画像などは見たことがないのだろう。液晶画面で自分の姿を確認し歓声を上げながら指をさす。
顔見知りになった子どもたちの家を訪ねる
顔見知りの女の子と一緒に彼女の家に行く。高床式で家の中は2つに仕切られ,小さいほうが寝室になっている。床は細い竹を編んだもので,囲炉裏の一画はコンクリート敷きになっている。
黒くすすけた鉄瓶と鉄鍋が囲炉裏の近くに置かれている。この地域ではまだ薪が主要な燃料となっている。地域人口が自然の容量を超えない範囲では,薪はカーボン・ニュートラル(二酸化炭素を増加させない)のエネルギー源である。 しかし,人口が自然容量を凌駕すると急速な自然破壊に結びつく。
カリブ海に浮かぶイスパニョーラ島の西側はハイチ,東側はドミニカ共和国となっている。200年前は島全体が豊かな森林で覆われていたが,現在は島の西側(ハイチ側)の97%の森林が破壊されてしまった。一方,東側にはまだ豊かな森林が広がっている。
植民地時代のハイチは奴隷制度に支えられた砂糖とコーヒーの豊かなプランテーションが広がっていた。18036年にフランス軍を駆逐して独立したハイチでは,フランス人が作ったプランテーションを解体し,それを小さな自営農場に分割して,独立闘争の兵士たち与えた。このあたりの事情は現在のジンバブエと酷似している。
生産性の低さを補うため,農民たちは周辺の森林を伐採し,やみくもに農地を拡大した。その結果,肥沃な土壌は急速に流出し,生産性は低下していく。農民たちは農地拡大→土地の不毛化の悪循環を繰り返し,森林は急速に減少していった。
現在でも職の無い多数の貧しい人々は,収入源の木炭を作るため,乏しい森林を伐採しており,ハイチの森林は東部の国境地帯にわずかに残るだけである。
家の天井からはトウモロコシがぶら下がっている。大人は農作業なのか子どもたちばかりである。年上の子どもがポットからお湯を注ぎお茶を入れてくれる。3人の子どもたちとこの家に顔を出した近くの家の子どもにヨーヨーを作る。
子どもたちに手を引かれて村を案内される。というよりは,友だちの家を紹介してくれているようだ。行く先々で子どもたちがおり,僕の案内役の子どもたちはヨーヨーを持ち歩いているので,ヨーヨーの生産量は飛躍的に増える。子どもたちの写真もずいぶん撮ることになった。
結果的には4ヶ所で25個くらいの出費となる。子どもたちは集落のある斜面の下の道まで僕を見送ってくれる。手を振りながら見送ってくれる子どもたちに手を振り返し,畑の中の道を通り街に戻る。