亜細亜の街角
■石油開発で生まれ変わった近代都市
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シルクロード(silk road)

「シルクロード」とは中国,中央アジア,西アジア,ヨーロッパを結ぶ通商路の総称である。この優雅な名称は中国から輸出された代表的な産物である絹にちなんでヨーロッパで命名された。漢字一辺倒の中国でも「絲綢之路」とこれまた優美な呼び名になっている。

紀元前から広大なユーラシアの主要都市を結ぶ通商路があり,そこにはさまざまな産物や文化が行き来していた。ある地域の産物を遠い地域に運ぶと何倍もの高値で売ることが出来る,この商業原理に基づき多くの商人が荷物を運んだ。そこにはユーラシアを東西に分断するパミール高原,炎熱の砂漠など多くの難所があり,盗賊も出没する危険なものであったことだろう。

シルクロードの東の起点は中国の長安(西安)であり西の基点はローマとなっている。もっともローマと地中海あるいは黒海の間は海路がメインとなっており,シルクロードの名前にふさわしいのは長安から地中海あるいは黒海の沿岸の都市までということになる。

メインのルートは長安から西に向かい,天山山脈あるいはパミール高原を越え,中央アジアのオアシス都市を経て西アジアに向かうもので,前漢(紀元前2世紀)の頃には確立されていた。

この他にも長安から雲南,ビルマを経てインドに抜けるルート(西南シルクロード,3000年前にはあったとされている)と広州からマラッカ海峡を通り,インド経由で東アフリカに向かう海のシルクロードもあった。しかし,海のシルクロードは宋の時代(10世紀)からと新しく,どちらかというと「スパイス・ロード」というべきものである。

固有の名前の付いたものは次の通りである。
@河西回廊:長安→蘭州→敦煌
A天山南路:敦煌→トルファン→庫車→喀什
B西域南道:敦煌→楼蘭→和田→喀什
C天山北路:敦煌→トルファン→イリ→サマルカンド
Dステップ・ロード:長安→モンゴル→カザフスタン→黒海
E西南シルクロード:長安→成都→大理→ビルマ→インド

トルファンからコルラ(庫爾勒)までの移動ルートは天山南路に相当する。しかし,左の大きさのgoogle map ではトルファンもコルラも出てこない。地図をもう一段階拡大すると「トルファン」と「新疆巴音郭楞蒙古自治州(コルラ)」が出てくる。

僕は南疆鉄道(南疆線)でトルファンからコルラまで移動したが南疆線はトルファンを通ってはいない。それはトルファンの標高による。南疆線は天山山脈の南麓,標高は900mほどのところを走っている。しかし,トルファン市の標高は0m以下(最低標高はー134m)であり,この標高差を鉄道がカバーするのは困難であった。

そのため,トルファンの近くの大河沿(標高900m)に鉄道駅を設け,ここをトルファン鉄道駅としている。したがって,トルファン(バス)→大河沿(鉄道)→コルラという移動になる。

しかも,写真の撮れる日中の時間帯に乗車するという条件を付加すると05:41発以外には適当なものが無いことが分かり,大河沿で1泊することになった。

朝食をとり荷物を背負い,500mほど離れた汽車站に向かう。ミニバスは満席近くになって動き出した。バスから見るとトルファンはそれなりに広い町だ。じきにウルムチとの分岐点があり,そこから急に道が悪くなる。

高度はどんどん上がっていく。途中からは道が無くなる。洪水により道路が押し流されたようで,舗装道路の残骸が残っている。大河沿の汽車站の標高は約900m,トルファンは0mなので,900mを1時間で上ってきたことになる。トルファンは余りにも低地で急勾配になるため鉄道は通せなかったようだ。

大河沿駅

幹線道路沿いの汽車站から鉄道駅(火車站)までは約1km,時刻表をチェックすると,翌日の05:41発以外には適当なものが無いことが分かった。キップ(32元)を買うと「無座(指定無し)」と書かれていた。おまけに硬座である。

鴻源賓館

ということで大河沿で一泊することなった。駅前にはいくつかの賓館があり,その中で鴻源賓館を選択した。外観はとても立派であるが,内部は期待を見事に裏切るものであった。

部屋(32元)は8畳ほどの4人部屋を一人で使用した。ベッドは清潔だが部屋の掃除は決して行き届いていない。共同のトイレはひどい状態だし,シャワーは水が出ない。町の埃は駅の左側にある沐浴室(2元)で流すことになった。

石油タンク車両が連なる

大河沿駅(看板は吐魯番站になっている)は新しく立派だ。左側に少し行くと塀が切れ,貨物列車を見ることができる。さすがにすべてディーゼル化されており,煙を吐く機関車は見当たらない。

石油の町が近いので,石油タンク車が何十両も連なっている。貨物車は起動・停止の度に甲高い汽笛を鳴らす。この音は断続的に深夜まで続き,うるさかった。

駅と幹線道路を結ぶ道の両側には露店が並んでいる。ミシンを置いた直し屋があったので長すぎるサブザックのひもを調整してもらった。回りに人が集まり,女性のミシン操作を眺めている。この手直しは3元についた。

大河沿の街並み

町を出るとれき沙漠が広がる

幹線道路の向こうはれき砂漠になっており,そこにレンガ造りの家が並んでいる。日本語では「砂漠」であるが,必ずしも砂ではないので中国語の「沙漠(水の少ないところ)」のほうが適正な表現だ。周辺の石は強い日差しに焼かれ日に焼けているような錯覚を覚える。乾燥に強い植物がところどころに小さな群落を作っている。

西安発コルラ行きの長距離列車

前日に宿の主人にモーニングコールを頼んでおいたら,5時にドアをノックされた。急いで駅に行く。待合室には電光掲示板があり,列車の到着時刻と出発時刻を表示している。

また,改札の上にも列車番号,行き先,プラットホーム番号が記載されているので迷うことはない。地下道を通ってプラットホームに出る。ナトリウム灯のオレンジ色の光が照らしており,周囲はまだ暗い。

西安発コルラ行きはほぼ定刻に入線した。車両幅は広く,座席は一列3+2の5人掛けである。遠距離からの乗客はまだ座席で横になっている。そのため,乗車率は60%くらいなのに空席が少ない。なんとか座席を見つけ,固いパンで朝食をとる。

幻想的な荒涼とした大地

列車の窓ガラスはひどく汚れており,窓越しの写真というわけにはいかない。窓はすべて閉まっており,唯一,服務員が使用するスペースの窓だけが開いていたので,ここから写真を撮ることにする。日が出てきて暖かくなると他の乗客も風景の良いところでは窓を開けてくれたので,たくさんの写真が撮れた。

05:50 大河沿出発,しばらくは暗いため写真にならない。
06:30 外が明るくなり乗客も起き出す。

顔を洗う人のため洗面所が混雑する。服務員がカップめんとお湯のワゴンを押してくる。中国人はふたの閉まる携帯用の茶器を持参しているので,それに茶葉を入れお湯を注ぐとどこでもお茶が飲める。外の景色は緑が全く無く荒涼としている。ときおり小さなオアシスを通過する。

水のあるところには人の営みがある

標高が上がると牧草地が現れる

雪山が見える

08:20 標高850m(腕時計で計測)の魚児勾駅に到着。
09:40 標高1460m,両側に山が迫り,トンネルが多い。
10:20 標高2015m,列車は急速に高度を上げていく。
11:00 標高2500m,左右の風景が次々と入れ替わる。

ループ式の区間に入る

このころから雪山が大きく見え出しこのルートのハイライトとなる。乗客や車掌の好意で窓を開けて写真を撮ることができた。この区間はループ式で高度をかせぐため同じ風景が何回か表れる。気がつくと同じような写真を何枚か撮っていた。

天山の雪解け水が流れる斜面だけわずかな緑が育っている。それを追って遊牧民が羊を連れてくる。絵に描いたような放牧の風景が見られて幸せである。

11:30,標高2885mはこのルートの最高地点である。長いトンネルを抜けると山肌の緑は濃くなり,放牧の群れが点在する。小さな谷には水が流れ,周辺には緑が広がり,そこも放牧地となっている。このような天山の恵みは標高2000m以上に限られている。

列車は高度を下げ始めた。反対側もループ式になっていた。列車が大きく弧を描くと自分の乗っている車両が撮れる。標高が2000mを切ると山肌の薄い緑は少なくなり,わずかに谷あいだけに緑が見える。

コルラ火車站(鉄道駅)に到着する

13:50 標高1260m,荒地の中の駅に停車。
15:30 標高1010m,コルラ駅到着。
2000mを登り1900mを下る32元の列車の旅は終わった。

コルラの宿(写真は関係のない立派なホテル)

コルラ駅に到着すると,客引きが現れ,駅から出てすぐ左にある八一招待所に泊まることになった。部屋(40元)は6畳,2ベッド,T/S付き,ただしシャワーは出ないので洗面器を使用していた。十分に清潔な宿であったが,どうやら外国人は泊まれないところであったようだ。

そのため翌日は人民西路沿いで博斯騰賓館の少し東側にある金(金が森のように3個並ぶ)牛賓館に移ることになった。周辺の宿は150-300元ととても高いのでこの街の宿探しも苦労した。金牛賓館の部屋(40元)は8畳,4ベッド,T/Sは共同で清潔である。中国人用のドミのような部屋で,僕はここを一人で使用していた。

再開発が進められている

石油生産で著しい経済発展をとげたコルラは,広い道路と近代的な町並みが特徴である。庶民のためのアパートも立派なものだ。街は5km四方に広がり,東南の外れに列車駅(コルラ東駅)があり,汽車站(バスターミナル)は北に位置している。

その間を孔雀河が流れており,北側が漢人地区,南側がウイグル人地区と大まかに分かれている。街の北側(中心部)とコルラ駅を結ぶバスが分かれば市内移動は難しくない。

しかし,近代的な町並みにだまされてはいけない。ここは沙漠の入口の町なのだ。ひとたび風が吹き出すとひどいことになる。風速は10-15mくらい,風の方向は一定している。大陸の風は強弱がなくひたすら吹き付けてくる。

建物の解体工事現場の近くを通るとき,目をあけられないほどの砂埃に背を向けて,悪態をつく。砂漠でこのような風に出会ったら沙暴(砂嵐)になることだろう。絵葉書を出しに郵便局に行くと,砂埃のためよろい戸は半分閉まっている。

不思議なサボテンのモニュメント

大厦とはデパートを意味する

この遊びは日本にもあるね

夕食はラグマンにする

朝の出勤風景

コルラの街並み

コルラ汽車站(バスターミナル)

靴磨きとビリヤードの取り合わせ

孔雀河から分流された水路が街中に巡らされている

宿からのんびり歩いて行くと,汽車站の少し手前には孔雀河から分流された用水がある。天山の雪解け水なの夏場は水量が豊かだ。汽車站の建物は新しく立派だ。周辺にはたくさんの靴磨きの女性たちがおり,その向こうには青空ビリヤードが並んでいる。

翌日の且末行きの切符を購入する。コルラ→塔中(タクラマカン中心部の町)→民豊(西域南道の町)→且末と移動すると思っていたら,塔中から且末方面へのショートカットの道ができたので,料金は84元と従来の6割程度であった。

商店街の前で見かけた子どもたち

のんびりと町の様子を見ながら孔雀河の方に歩いていく。町の北側は漢人の多い地域で,写真を撮ることに何の問題も無い。商店街の前で子どもたちを見かける。写真慣れしているのか,ファインダーの向こうの彼女たちに緊張した様子は見えない。

毛沢東,ケ小平,江沢民の3人が大写しになり…

小さな公園があり,巨大な看板がある。天山を背景に毛沢東,ケ小平,江沢民の3人が大写しになり,その前に民族衣装の人民が歓喜して迎えるという構図だ。まあ,偉大なる領袖の指導で,新疆の各民族は豊かな暮らしをしているという構図が読み取れる。

完全施錠のできる商店街

町の生命線

孔雀河はコルラの生命線である。この川の豊かな水が地域の水源となっている。天山路にかかる橋は4車線の立派なもので,その東南側には近代的な高層アパート群が並んでいる。町全体が一気に近代化したような感じを受ける。

ここでは孔雀河は川というより幅の広い浅い水路になっている。川の風景だけを見ていると,ここが沙漠のすぐ隣に位置しているとは信じられない。

堰堤沿いに上流に向かって歩く。本流は小さな堰により2つに分けられている。水路は必要によりさらに細かく分流され,沙漠の町に小さな水路の風景を作り出している。そのような水路沿いを歩くのも楽しい。

前方に7-8mの高さに土が盛られ,鉄道が通っている。ときどき石油を積んだ貨物列車がその上を通過していくときは,なかなか絵になる。

鉄道橋の上流側には大きな堰があり,本流はここで2つに分けられる。分流された水路は汽車站の南側に向かっているものだろう。堰のさらに上流には高速道路の橋が架けられている。アーチ式のつり橋と水路の風景もなかなか絵になる。

ミルクは牛乃,ヨーグルトは酸乃と表現する

赤いリボンがとてもいいね

立派な建物の病院もある

子どもたちに写真をせがまれる

どうかしたのかな

学校帰りの女の子

ウイグル街の屋台

団結路を南に行くと孔雀河の手前からウイグル人地区になる。この地区に入ると町の様子も人も大きく変わる。道の両側にはウイグル人の商店が並び,歩道あるいは道路上には屋台が出ている。

羊の串焼きとナンを注文すると,ナンはここにはないので近くの店から持ってきてくれる。大きな串焼きの値段は1本3元,もっと食べたいのだが,このところ肉の食べ過ぎ状態なのでがまんする。

ウイグル人地区の人々

みんな髪型が違うね

ここでも子どもたちが集まってくる

肉屋の風景

笑顔の写真をありがとう

ほうきあれこれ

中古の靴屋さんであろうか

ねえねえ,私を撮って

中国版猿回し

ウイグル人地区の住宅地


吐魯番   亜細亜の街角   且末