亜細亜の街角
■祁連山脈を望むオアシスの町
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酒泉(チューチュアン) (地域地図を開く)

祁連山脈を望むオアシスの町,河西回廊の中ではもっとも早く漢民族の支配下に入った。河西回廊とは現在の甘粛省に含まれており蘭州から敦煌あたりまでの地域をいう。黄河の北側にあり北のゴビ砂漠と南の祁連山脈に挟まれた細長い地域という意味で河西回廊と呼ばれる。

ここはシルクロードの要衝であり,祁連山脈の雪解け水に恵まれたところにはいくつかのオアシス都市が点在する。前漢の時代にはそのようなオアシス都市に武威(涼州),張掖(甘州),酒泉(粛州),敦煌(瓜州)という支配拠点が置かれ河西四郡と呼ばれていた。

街の中心には高さ7.5mの城壁のような楼台の上に3層の木造楼閣が乗る形の鐘鼓楼があり,ここから東西南北の方向に大きな通りが伸びている。町中にはイスラム教徒が多くなる。街路樹も胡柳やポプラになり,だいぶ西に来たことが実感できる。

蘭州→酒泉移動

蘭州(08:30)→張掖(16:15/乗り換え)→酒泉(20:30)と748kmをバス(114元)を乗り継いで移動する。バスのキップは前日に汽車站の窓口で購入する。

中国の汽車站には運行表が掲示されており,それを見ると行き先,発車時刻,料金が分かる。それをメモして窓口に出すとちゃんと発券してくれる。

蘭州から張掖まではすばらしい高速道路が続いている。中国の道路事情は急ピッチで改善されているのが実感される。周辺の山には緑がなく,ひたすら茶色である。

一部の山では植林が行われている。山の等高線に沿って階段状のステップを作りそこに苗木を植えていく。まだ,茶色の背景につけた緑の点にすぎない。しかし,現在,1m弱の小さな若木が成長したら地域の風景は大きく変わることだろう。

蘭州から敦煌までの地域は河西回廊と呼ばれている。黄河の西にあり,山に囲まれた細長い土地という意味なのだろう。確かに平地の両側は山になっており,回廊とは適切なネーミングである。

祁連山脈と列車の風景

回廊の巾は数kmから数十kmと変化する。道路に並行して線路があり,スマートな列車が走っている。遠くに雪を頂いた山の連なりが見えてきた。酒泉の南に位置する祁連山脈であろう。

今日は武威,張掖,酒泉と移動してきた。いづれも水のあるところにできたオアシスの町だ。町の周囲には農地が広がっており,人々の生活を支えている。昔は食糧を移動する手段に乏しかったため,地域の人口は食糧の生産量,ひいては使用できる水の量で決まったことだろう。

龍騰賓館

バスの車掌は僕を町一番の高級ホテル「酒泉賓館」で降ろしてくれた。受付で宿泊料を聞くと380元(約5500円)だという。50%のディスカウントに応じてくれるというがそれでも十分に予算オーバーだ。酒泉の町では星の付いている賓館以外は外国人は宿泊できないようだ。

近くの50元程度の賓館は外国人宿泊禁止だと断られた。ようやく龍騰賓館にたどりついた。正規料金140元のところをなんとか100元にしてもらう。2-3星級のホテルで,ベッド,家具,洗面所すべてが清潔で立派だ。

龍騰賓館には立派なレストランがある。蘭州の経験からホテルのレストランはそれほど高くないことが分かったいたので,夕食はそこでいただくことにした。大きな中華料理の丸テーブルに一人で坐るのはちょっとわびしい。

麻棘豆腐とごはんでおなかが一杯になる。料理を運んできてくれたかわいいエプロン姿の小姐に写真をお願いしたら,上司がポーズを指示してくれた。中国の西の外れでも市場経済のスタイルはしっかり定着しているようだ。

酒泉の町並み

酒泉は大きな町で,表通りの商店街は現代化されている。街づくりは現在も進行中で,歩道の敷石を敷く作業が大規模に行われている。

古いレンガ造りの平屋の建物はどんどん取り壊されている。散水車が水をまき,埃がたつのを少し抑えている。新しい建物はほとんど中層階の四角いものだ。その中で,伝統的な中国建築の様式を取り入れた建物が街の一角を占めていた。

鐘鼓楼

鐘鼓楼は酒泉の街の中心に位置しており,ここから四方に道が伸びている。楼台の四面の壁には次のような文字が書かれている。
東到長安:東に行くと長安に達する。
南望祁連:南には祁連山脈が望める。
西進伊吾:西に行くと伊吾の町(現在のハミ付近)に出る。
北通沙漠:北に行くとゴビ砂漠になる。

シルクロードのオアシス都市ならではの表現である。この鐘鼓楼もNHKシルクロードで紹介されたものだ。石坂浩二のナレーションが楼台の文字を読み上げ,シルクロードへの思いを強くさせたものだった。残念ながら,楼台の上には登れないし,下の通路からは小便の臭いがする。

酒泉汽車站

ヨシの束をトラックから降ろす

家の前で記念写真となる

町の北側を流れる北大河は干上がっている

嘉谷関

嘉谷関は酒泉から西へ21km,万里の長城の西端の砦として明代に築かれたものだ。酒泉汽車站の周辺からミニバスがたくさん出ている。嘉谷関市はけっこう大きな町で,そこから嘉谷関までは5kmほど離れているので三輪タクシー(6元)かタクシー(8元)を利用することになる。嘉谷関城は文化大革命の頃は荒れ放題であったものを,現在は大改修してテーマパークのようになっている。

入り口には「嘉谷関歓迎イ尓」の大きな看板がある。入場料は60元と中国の物価水準からすると異様に高い。この中には周辺の公園や長城博物館の料金も含まれている。

嘉谷関に林則徐

なぜか大きな「林則徐」の立像があり,彼の詠んだ「出嘉谷関感賦」の詩を刻んだ石碑もある。林則徐は清代の官僚として知られており,アヘンの販売と吸飲を厳禁するとともに,外国商人からアヘンを押収して焼却した。

これがもとでいわゆる「アヘン戦争」が起こり,戦争挑発者として新疆省イリに左遷された。ここの碑文はおそらく新疆におもむくときのものであろう。中国では珍しい清廉な官僚として後世の評価は高い。役人や警察の腐敗が常態化している中国では,彼の生き方を再学習してもらいたいものだ。

ラクダのぬいぐるみ

城門に至る道には土産物屋が出ており,ラクダのぬいぐるみがこの地域らしい。

嘉谷関城の周囲は公園になっている

城壁の周囲は公園になっており緑と水がふんだんにある。ポプラ,胡柳,胡楊などこの地域の木が林を形成している。

宿の部屋に甘い香のする花が飾ってあった。葉の根本から黄色の花が咲いている。何か特別のものかと思っていたら,嘉谷関の公園で同じものを見つけた。幹の感じと葉の形状から「柳の一種」であると判断した。長い間この情報を変えていなかったが,電子メールでヤナギバグミ(Elaeagnus angustifolium)なのではというご指摘を受けた。

ヤナギバグミの原産地は中央アジアでであり,英語圏ではロシアンオリーブという優雅な名前を付けられているが,侵略的植物として嫌われているいう。かわいい花かと思っていたら,隠された一面を知ることになった。

胡柳は花が終わり,白い綿毛を出していた。風が吹くと綿毛は空中に舞い上がり遠くに運ばれる。

嘉谷関城

嘉谷関は2重の城壁で守られている。内側は正方形であるが,外側は地形に合わせた形になっている。外の城壁はそれなりの趣がある。内部の城壁と入口の門,城壁の上の楼閣は大改修され新しくなり,歴史の重みを感じさせるものは一部の寺院しかない。

博物館には修復前の写真が飾ってあった。城壁も楼閣も半分崩れかけていたので,かなり徹底した修復が行われたことだろう。ついでに周辺も公園化して天下第一の観光地に仕立て上げた。

嘉谷関長城

内側の城壁の上は歩くことができる。そこから東西に長城が続いているが,北京郊外の長城とはずいぶん趣が異なる。厚さ1m,高さ4mほどの泥の壁である。このような壁で遊牧民族の侵入を防げたとは考え難い。何ケ所かを突き崩すのはそう難しいことではないだろう。

それでも古の為政者は莫大な費用をかけて長城を建設してきた。それほど遊牧民族との確執が大きかったということだろう。土漠のはるか向こうには幹線道路と鉄道があり,河西回廊の生命線となっている。

嘉谷関城の裏手

城壁の背後の門は開いており,そこには観光客用のラクダや馬がたくさん待機している。しかし,今日は風が強く,御者の方はとても寒そうだ。

荒れ地の植物

長城博物館

嘉谷関城には博物館が併設されている。

嘉谷関のバスターミナル周辺


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